二章【上司と部下】In 2001

上司と部下①

「だーかーらー、何回同じミスを繰り返せば気が済むんだよ」

 俺の目の前で椅子にふんぞり返る上司の田宮さんは広いオフィスの端まで届かんとばかりの大声を張り上げた。何人かの社員は顔を上げたが、俺と田宮さんの姿を視認すると、すぐに平常業務に戻っていった。それ以外は、こちらに見向きもしない。それもそのはずだ。これがこのオフィスでは当たり前の光景なのだから。

 怒鳴られた矛先の当人である俺は「すいません」という言葉を壊れた機械のように連呼する以外にこの嵐が過ぎ去る方法を知らない。

「いいか、俺もずっとお前の仕事を見ているわけにもいかないんだ。でもこういうミスを際限なく繰り返している以上、いつか本当に取り返しのつかないミスをすることになるぞ。今のうちに気を引き締めてもらわないと」

 とってつけたような綺麗事を並べやがって――。

 心の中で俺は舌打ちをする。時計を横目で確認するともうすぐ定時の時刻となるところだ。今日は何回舌打ちをしただろうか。最近ではそれを考えることも日課の一つとなっていった。後ろで組んだ手を指折り数え、後で手帳のメモ欄に書き足す。その合計を日付に記入する。簡単な作業だ。惜しむらくはこの行為になんのリターンもない、ということだろうか。

「ちゃんと考えて動けよ。いつまでも俺のフォローがあると思うな」

 俺はもう一度舌打ちをした。いつ俺がお前のフォローを期待して動いたんだよ。恩着せがましく告げるそれは、弱者を虐げる力を鼓舞した物言いの他なかった。そんな言葉に俺は一斎心が動かされることはない。

 俺だって一生懸命やってるんだ。もちろんミスは反省すべきかもしれないが、それをいつもいつもあげ足取りが仕事の一部かのように、俺の作った資料にダメ出しを入れ、細かいミスを祀り上げる。いつも残るのは悔恨だけだった。いつか見返してやる――。その一心で四年。俺はがむしゃらにやってきた。しかし、もう限界だった。

 こんな会社、いつだって辞めてやる。そんなマイナス思考が芽生えた瞬間、心が少しだけ軽くなった気がした。

 俺の所属する部署が請け負っている職務は、CADと呼ばれるコンピューター上で行う設計ソフトを用いたデータ管理がメインである。マニュアルに沿って、決められた数値を入力し、図面をひいていく。単調で面白味もない。そんな慢心からミスが生まれているのは自覚していた。しかし、俺がするようなミスは他のメンバーだって起こしている。なのに、俺だけがいつも槍玉にあげられる。こんな状態では、やる気が生まれるはずがなかった。それが田宮さんにはどうにも理解が追い付かないらしい。

 ようやく田宮さんから解放された俺は自席へと戻る。

「今日も相変わらずの怒られっぷりだったな」

 座った俺に声を掛けてきたのは、七期年上の小幡先輩だ。入社して四年、ずっと同じグループで仕事をしており、グループの中では一番気心が知れた仲となっている。

「まあ、そんな感じですね」

 俺はため息混じりに応える。

「今日も田宮さんは機嫌が悪そうだったなあ」

「だからって、俺にすべてぶつけるのはおかしいでしょう」

「まあな。それでも最近は不具合が多いからな。気が立つのも無理はないだろう。その中でもお前には結構期待しているんだぜ? だから少しくらいの嫌味は受け入れてやらないと、いつか見切りを付けられるぞ」

 小幡さんは脅しともつかないことを俺に言うが、はっきり言ってまるで効果はない。

「あの人は、一応気にかけている人にしか声を掛けないからな。だから今のうちに認めてもらえるようになるといいな」

「別にあの人に認めてもらうために仕事をするわけじゃあないでしょう」

「まあ、それもそうだ。でも口は悪くても、あの人の面倒見は誰よりも手厚いからな。それだけは忘れないでくれよ」

「はいはい。わかりましたよ」

 小幡さんは誰にでも平等に接してくれる優しさがあるが、田宮さんのことを尊敬している節があり、あまりあの人の悪口を言わない。さらに事あるごとに田宮さんへのフォローを入れるのが正直鬱陶しいところもある。

「じゃあ、仕事終わったら、飯でも行くか?」

 小幡さんは俺に気遣ってか、たまに食事に誘ってくれる。

「いや、今日は用事があるので大丈夫です。それよりも息子さんの下に早く帰ってやってください」

 半年ほど前に念願の第一子が生まれた小幡さんにそこまでの迷惑は掛けられない。俺は帰り支度を手早く行って職場を後にした。

 帰宅後、会社が設営している寮に帰った俺は、いつも通っているジムへ向かった。高校時代から日課となっている筋トレが功を奏し、ウェイトリフティングで県三位に入賞できるまでに成長した。

 ジムの室内にアスレチック遊具のように設置された様々な器具を使い、体に少しずつ負荷を掛ける。息を止めず、ゆっくりと呼吸をしながら、限界ぎりぎりの錘を持ち上げる。こうして流した汗が、仕事で与えられたストレスと一緒に身体から流れ出る。この瞬間が今の俺にとって唯一と言っていいほどの楽しみだった。

 気持ちの良い汗を流した俺は、併設されているサウナに入る。ここまでが俺の筋トレ日課のサイクルとなる。

 サウナには俺の他に三人入室していた。どれもジムで汗を流していた人たちで、それなりに通い続けている俺とは見知った顔ばかりだった。隅の席に座り、事前に水で濡らしたタオルを頭に被せ、じっと動かない。しばらくすると、汗が体の奥底から滲み出てくる。雨漏れの滴る小屋の屋根のようにじっとりと汗が床に垂れる。心の奥底に沈んだ不純物まで身体から排出されるような感覚があった。

「また事件かあ。ここも物騒になったもんだねえ」

 筋トレ仲間の一人が、誰に話しかけるでもなく独り言を呟いた。長時間の高温高湿の部屋に耐えうるように埋め込み式のテレビが設置されており、ニュースでは全国的にも大きなニュースへと発展したこの地方の通り魔殺人事件が報道されていた。

 もともとテレビを見る習慣の無い俺は、時事ネタに弱い。これも田宮さんに揶揄される所以の一つだ。それでもこの事件は職場内で話題に挙がることも少なくなかったため、俺でもある程度の情報は知っていた。

「もうこれで何件目だろうねえ」

 男は体を俺の方へ向けて、今度は明らかに俺に話しかけてきた。

「そうですね。近場で起きている事件もありますし、他人ごとではないかもしれませんね」

「ああ、そうなんだよ。自分の身近な人間がもし被害者となったとしたら、たまったもんじゃあないよね」

「そうですね」

 俺は話を合わせるため、頷いてみせた。

「まあ、でも嫌いな奴だったら、それはそれでいい気味だって思えるもんかね」

 男がそう告げた時、真っ先に思い浮かんだのは田宮さんの顔だった。

 確かにこの地方で起きている事件だ。年齢関係なく、誰でも被害者になりうる可能性がある。それは即ち、俺の可能性もあれば、田宮さんの可能性だってあるわけだ。

 そうなったとき、俺は悲しむのだろうか。それとも嬉しさがこみ上げるのだろうか。

「まあ、とは言っても、市内で数えても四十万人を超えるからなあ。それに当たるのも天文学的な数字なのかもしれないがね」

 汗でじっとりと濡れた白髪をタオルで吹きながら、男はサウナを後にした。その後も俺は男の告げた発言を胸の中で反芻し続けた。

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