伍 斗南
陸奥国、
この斗南で、会津から移住した一万七千人余りが最初の冬を迎えている。
食糧はなかった。他藩からの米の買い付けに奔走して、どうにか必要なぶんをそろえた。借金だらけだ。今のままでは返す当てもない。雪が解けたら出稼ぎをするしかない。
前も横も上も下も、どこを向いても真っ白だった中に、ぽつりと明かりが見えた。オレと時を同じくして、隣を歩く佐川さんも明かりに気付いたらしい。
「生きて戻れたな!」
無理を押しての雪中行軍だった。佐川さんを隊長とする二十人ほどの男手で、あるかなきかの道をたどって海へ出て、
片道、七里ほど。それだけの距離を歩き切るために毎度、死にそうな目に遭う。何者かに襲われるわけじゃない。ただただ寒い。雪に呑まれそうになる。
雪国の冬がこれほど恐ろしいとは、予想を超えていた。荷を
今よりさらに雪が深くなったら、きっと村から出ることも叶わない。米と
飢えと死と隣り合わせだ。雪の冷たさとはまた別の、体の芯から
「佐川さん」
「
佐川さんの言葉に、皆、手を挙げたり声を出したりして応えた。
オレが斗南の
斗南藩主となったのは、
家も畑も一から造らなければならなかった。雪が降る前に、冬に耐えられるだけの備えをしなければならないと、誰もが必死で働いた。
けれども結局、この有り様だ。
オレたちは
炉端で火の番をしていたのは、容保公だった。容保公の膝の上では、容大公が手に赤べこの張子人形を持ったまま眠っている。遊び疲れたんだろうか。
容保公は、そっと、いつもの笑みを浮かべた。
「存外に早い帰還だったな。安心したぞ」
斗南で暮らし始めてからますます、容保公はオレたちにとって特別な人になった。こうして藩内の飛び地を巡っては粗末な中で寝泊まりし、まるで藩士の一人のように振る舞う。藩士の輪に溶け入れば溶け入るほど、容保公は特別になる。
手短に挨拶を済ませて荷をほどいていると、容保公から直々に呼ばれた。
「斎藤、
「かしこまりました。光栄です」
幼い容大公に遊び相手として望まれて、馬の代わりに四つん這いになったことがある。オレは子どものあやし方などまったくわからないのに、背中の上の容大公はご機嫌だった。不思議なお人だ。
等しく分配された荷を背負ったり
村の家々を結ぶ道は、毎日の当番を定めて雪を踏み締めて、歩けるようにしてある。
雪の上を歩くための
倉沢さんの家の前では、時尾と盛之輔が、せっせと雪を片付けていた。盛之輔が飛んできて、オレが引きずる
「お帰りなんしょ。呼びに来てくれれば、おらも手伝いに行ったのに」
「雪の中を往復する苦労を考えたら、うんざりしたんだ」
「山口さまは相変わらず雪が苦手がよ?」
盛之輔はおかしそうに笑う。もう十七歳だ。ずいぶん背が伸びて大人びた。力も強くなった。雪を片付ける仕事では、こつのつかめないオレよりよほど役に立っている。
時尾は、体の雪を払って居住まいを正して、ぺこりと頭を下げた。
「お帰りなんしょ。お体、冷えっつまったべし。どうぞ早く中へ」
「いや、雪かたし、オレが代わろう」
「もう終わります。それに、仕事は慣れた者がやるのがよかんべし。雪かたしはわたしにお任せくなんしょ」
「力仕事は男がやるべきだ」
「斎藤さまは十分、働いておられます。夏には畑仕事や建物の
「江戸や京都ではそれなりに貧乏暮らしだったからな。一応、自力で遣り繰りできるくらいの知恵はある」
土方さんの故郷の多摩では、よく畑仕事を手伝っていた。近藤さんの道場、試衛館やその近所の長屋の雨漏りの普請だとか壁の修理だとか、大工の真似事をした試しもある。京都でも
とはいえ、江戸や京都の貧乏と斗南の暮らしぶりは、丸っきり違う。貧しいってのはどういうことなのかを思い知らされた。斗南は何もない。本当に何もない。刀を質屋に入れて
盛之輔の手を借りて、荷を土間に運び入れる。音を聞き付けて、奥で手仕事をしていた家人が出てきて、荷ほどきを始める。わいわいと声を掛け合って仕事をするのは嫌いじゃない。
ひときわ顔を輝かせて、腹の膨んできた
「お帰りなんしょ、旦那さま。弥曽はいい子にして待っていただよ」
かすれる癖のある声はひどく甲高く張り上げられて、舌っ足らずな言葉遣いだ。だらしないほどに開けっ広げな笑顔。両目には邪気がなく、色気も知性もない。
ただいま、と一言つぶやくだけのオレの代わりに、時尾が弥曽の肩を抱いた。
「ほら、弥曽さん、土間に
「だって、時尾
「んだなし。後でゆっくり、お話を聞いてもらえばよかんべ。今は、弥曽さんの旦那さまはお忙しいから、邪魔しらんにべ。わたしと一緒にあっつぁ行って、お茶の
「はぁい」
弥曽は時尾に促されるまま、素直に奥へ引っ込んでいった。去り際、時尾がちらりとオレに目配せをした。オレは唇を噛むだけだ。
秋、塩川に留まっていた時尾たち女衆が斗南に越してきた中に、弥曽もいた。そのときにはもう、弥曽はあんなふうだった。腹に赤子を宿して、年齢も生い立ちも忘れて、幼子に帰ったような言葉を使う。オレのことを夫だと思い込んで聞かない。
弥曽のままごとに付き合わされるたび、逃げ出したくなる。男と女が何をすれば赤子ができるのか、今の弥曽はわかっていない。女として扱ってはならない、立派な女の体をした、赤子を
これが一生続くのかと思うと、胃の腑が冷える。
「正気に戻ればいいのに」
そうこぼしたことがある。時尾は表情を失って、目に涙をためた。
「弥曽さんは正気では生きていられねぇのだと思います」
「塩川で何があったんだ?」
「わたしも詳しくは知りません。けんじょ、力仕事も畑仕事もできず、身寄りもなく、家財も失った
「体を売るしかなかったのか」
「売るのは体だけで魂は売らねぇと思い切っつまえば、暮らしは楽になる。わたしも声が掛かって、祖母も母も食べさせねばなんねぇから、売っつまおうかと悩んで……けんじょも、わたしには、できねかった」
「多いのか? 体を売った女」
「それなりに。んだげっちょ、そっだこと誰にも訊けねぇべし。弥曽さんが誰のせいであっだふうになっつまったのか、どっだ目に遭わされたのか、わたしにはわからねえ。弥曽さんが忘れることを選んだからには、記憶を掘り起こしてはなんねぇと思います」
だから夫婦を演じてやってほしいと、時尾はオレに頭を下げた。弥曽の赤子は年明けの二月ごろに生まれる見込みだという。弥曽はオレの子だと信じているから話を合わせてほしい、と。
どうして?
二年近くの謹慎の間、オレが会いたいと思い描いていたのは弥曽じゃなかった。それなのにどうして、時尾の口から、弥曽の夫になれと言い聞かされなければならない?
言葉を呑み込む。想いを呑み込む。
土間から続きの、
オレは、首から提げて
呼び掛けてみる。
「土方さん、ここは寒くて苦しい。土方さんのところは、もっと寒かったかな」
答える声などあるわけがない。
新撰組局長、土方歳三が箱館の地で討ち死にしたのは、一年前の夏だ。享年三十五。
生きて再び会うことはない気がしていた。どちらが先に死ぬかはわからなかった。オレはまた仲間に先立たれて、自分だけ生き延びてしまった。
「なあ、土方さん」
汚れた赤い段だら模様は答えない。
弥曽がオレを呼ぶ声がする。甘えた声で旦那さまと呼ばれるたびに、胸を掻きむしりたくなる。違う、と叫びたくても叫べない。
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