陸 断情
冬の海風は高波の上に荒れ狂い、船はしぶきを蹴散らして進む。大揺れに揺れるぞと
甲板に立ち、見るともなしに灰色の空を見る。吹き付ける潮風はかすかに甘く、どこか血の味に似ている。
影のようにひっそりと、シジマが俺に寄り添った。
「
「鉄之助のことか?」
「ああ、そのような名であった。仙台に先行したはよいものの、
「鉄之助はまだ十五だ。戦場を連れ歩く気がしなかった。シジマ、おまえさんこそ、この船の上でやることもねぇだろう。鉄之助の暇潰しに付き合ってやってくれ」
「嫌じゃ。汝が構うてやればよい。髪を
「気が向いたらな」
俺は首筋に触れた。赤い環はシャツの襟からのぞく位置にくっきりと刻まれ、わずかに熱を帯びている。まるで激しく吸われた痕のように見えると、島田さんは苦笑し、鉄之助は頬を染めた。
環の下で脈が打っている。俺はまだ生きている。それが時折、不思議になる。
多くの人の死を見送ってきた。この手で創り出した死もまた、数え切れない。
「
「予言か。何を根拠に」
「戦はいずれ終わる。終わっちまった後の手前の姿が一つも思い描けねえ。だから、俺は死ぬんだろう。死ぬしかねぇんだろう」
「汝は商いも得意だと、鉄之助が言うておったが」
「ずいぶん昔、江戸に住んでいたころの話だ。京都で鬼の副長なんぞと呼ばれている間に、愛想笑いもお世辞も口上も忘れちまったよ」
「また覚えればよい。人は、忘れることも覚えることも、捨てることも拾うことも、己の意志ひとつで決せるはず。山の獣にはそれができぬ。山から離れた獣には、捨てた山の暮らしを再び拾うことが叶わぬ」
シジマは金色の目を閉ざし、残影をまとう四本の尾をゆらゆらと振った。
寒空に舞う海鳥が濁った声で鳴き、風に乗って飛び去った。海鳥の行方を仰ぐ俺の目に、結ばず流した黒髪が掛かる。
唐突に、近藤さんの声が脳裏によみがえった。
トシの髪は女よりも綺麗だな。胸も背中もそんなに白いんじゃ、女のほうが恥じ入っちまっただろう。
近藤さんが呆れたような口調でそう言ったのは、いつだったか。正確には覚えていないが、十年近く昔、試衛館の近くの湯屋でのことだ。
まだ幼い顔をした斎藤一や沖田総司はきょとんとした後、もじもじと俺から目を
俺は髪に指を
「なあ、シジマよ。武士の髪は長いもんだと、俺はずっと思ってきた」
「何じゃ、
「髪だけじゃねぇな。武士は刀で戦うべきで鉄砲なんか持ち出さねえ、武士は朱子学を
「我に人の種類だの身分だのはわからぬ」
「俺が思い込んでいた武士の絵姿は、きっと正しくなかった。俺が手に入れてぇと憧れてきたのは、格好や知識や思想なんていう外付けのもんじゃあねえ。ほしかったのは、武士の魂だ。そして武士の魂を抱いて生きるには、さほど多くのものは必要ねぇんだ」
脇差を抜き、髪を左手で
ざくり。手応えは意外に強かった。
頭を振ると、軽い。手の中の髪の束を少しだけ名残惜しく感じた。俺は手を開く。荒い潮風が髪をさらう。髪は、またたく間に吹き飛ばされていく。
「消え失せちまえ。未練も弱さも泣き言も全部、今ここで消え失せちまえばいい」
捨てて捨てて捨てて、いらないものは何もかも捨てて、削ぎ落とす。研ぎ澄ます。磨き上げる。ご立派な上っ面など不毛。体裁ばかりの綺麗事に
武士として戦い、武士として死ぬ。
髪を切って洋装をしても、刀を抜かずに鉄砲や大砲を使っても、禁忌の力の印章を身に刻んでも、体内に武家の血が一滴も流れていなくても、俺は武士の魂の何たるかを知っている。武士の魂をこの身に宿して生きている。
奥羽の
今まで出会った人々の顔が、いちどきに脳裏に立ち現れる。一人ひとりの顔を、今は見つめてなどいられない。込み上げかけた情を断ち、熱っぽい息とともに吐き出して、俺は微笑んだ。
「さよなら」
俺は北に向き直った。黒々とした乱雲が行く手の空にある。ひときわ高い波が立て続けに船を襲う。まもなく氷混じりの嵐になるだろう。
船はしかし、まっすぐに進んでいく。
北へ。俺が命を
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