漆 欲死
明け方ごろだろう。オレは刀を抱いて壁に背を預けて、うとうとしていた。夢と現の狭間、どこか遠くで鶏が鳴くのを聞いた。
平穏は突如、破られた。
どんと大きな音がした。不寝番の隊士三人が如来堂に転がり込んできた。
「起きてくれ! 敵襲だ、薩摩の炎の化け物だ!」
埃くさい講堂で寝ていた全員が跳ね起きた。次の瞬間、また、どんと大きな音がして建物が揺れた。
「伊地知か! どっちの方角だ?」
「南です、斎藤さん。霧で何も見えない向こうから、いきなり炎が飛んできたんです。土塁ごとぶち抜くつもりなんでしょう」
「伊地知のほかには?」
「わかりません。霧が濃くて、視界がまったく」
左手の甲の環が
「少ないな。二十かそこらだ」
とはいえ、こちらは十三人。しかも、そのうち三人は、北の見張りに出たまま戻っていない。
どん、と音がした。先の二回よりはるかに大きい。煙の匂いが
如来堂を捨てよう。霧にまぎれて逃げる。行き先は、城西の佐川さんと軍を合すればいい。
隠れ処を捨てる心づもりは初めからできていた。この城跡は、刀や鉄砲はともかく、大砲で攻撃されたら防衛のしようもない。土塁は低いし、そもそも川沿いの低地に建っている。ちょっとした高台に登って見下ろせば、丸裸だ。
外へ、とオレは
炎が噴き込んだ。隊士が炎に呑まれる。絶叫。またたく間に火だるまになった隊士がのたうち回る。火を消してやる術はない。
オレは刀を抜いて、燃え盛る人影の首を
「北へ向かえ! 先に行け!」
「さ、斎藤さんは」
「オレは
葉を落とした古木が枝から枝へ炎を伝わせる。油でも
環が騒ぐ。赤い環を狩れと、オレを急き立てる。
立ち込めていたはずの霧は炎に
火の粉を浴びて飛び出してきた最後の一人に、北への退避を命じる。オレは如来堂から離れながらも、
銃声が聞こえた。
オレは、はっとして振り返った。再び銃声。悲鳴と怒号。銃声、銃声、銃声。失策を知る。敵は濃霧の危険を押して、城跡の敷地に入り込んでいたらしい。
どうする? 一瞬迷った。そして北へ、銃声の方角へ駆け出した。
木立が途切れるところで隊士が五人、倒れている。一人、手前の木陰に腕を押さえてうずくまっている。無傷は二人と、オレだけだ。
「斎藤さん、この先は無理です。顔がわかるほど近くに土佐の連中がいます。十五か二十か、その程度の人数ですが」
「土佐? 見知った顔があったか?」
「指揮を執っているのは板垣退助だと思います」
伊地知だけじゃなく、板垣もいるのか。オレは舌打ちした。
「完全に抜かったな。オレが馬鹿だった」
毎夜、宿営を奇襲するオレたちの正体を、敵が勘付いたんだろう。追手は必ず撒いてから隠れ処に戻っているつもりだったが、甘かったらしい。あるいは、この付近の農民が敵に告げた見込みもある。
部下に前進を命じる声が聞こえた。間違いない、板垣の声だ。蒼い環がちりちりと痛む。オレは体を低くした。
木立の向こうに、鉄砲を構えた敵が並んだ。こちらの位置に気付いてはいないようだが、いきなり。
「撃て!」
鉄砲が一斉に火を噴いた。目と鼻の先の木の枝が吹き飛んだ。板垣の号令で、敵は弾を込め直す。そしてまた斉射。オレたちが威嚇に耐え兼ねて飛び出すのを誘っているんだろう。
隊士の一人がささやいた。
「斎藤さん、手前が
「囮?」
「手前はどうも逃げ切れそうになくて」
脂汗を浮かべて苦笑して、隊士は自分の脚を指差した。
「今、撃たれたのか?」
「痛いもんですね。叫んじまいそうですよ。やるなら一思いにやってくれってんだ」
「馬鹿、何を言ってる」
「斎藤さん、脱出してください。手前は覚悟ができてるんで。いや、手前だけじゃなくて、斎藤さんに付いて会津に戻った隊士は全員ですよ。辞世を
愕然とした。腹の底が冷えていく。
「死ぬためにオレに付いてきたってのか?」
「逃げたくはなかった。近々死ぬってわかってる。でも、怖いのが長く続くのは嫌だ。ねえ、斎藤さん、手前は今、生きてきた中でいちばん怖い思いをしています。怖いんです、死ぬのが怖い。だから早く死にたい。死んだらもう、死ぬことは怖くないでしょう?」
「やめろ。あんたも連れて逃げる」
隊士は笑った。えくぼのできる、幼いと言えるほどに若い顔だった。不意を突かれたオレは、だから、止めることができなかった。
叫びながら木の陰から飛び出した隊士を、銃口が一斉に狙った。十数の鉄砲が鳴った。それを背に聞く。オレは反射的に駆け出していた。敵の気配のないほうへ、ただ逃げる。
悲鳴が立て続けに上がった。振り返って、立ち尽くした。
囮を言い出した者だけじゃなかった。あの場にいて命のあった隊士全員が、刀を抜いて決死の反撃を仕掛けていた。
「馬鹿野郎……」
殺し合いの場に身を投じれば、いつ死んでもおかしくない。新撰組は人を殺しすぎた。いつ滅ぼされても文句は言えない。
でも、死んでもいい覚悟で戦うことと自ら死に急ぐことは、まったく違うはずだ。
会津で戦って生き延びるのは望みが薄いと、オレだってわかっている。だからこそ、一日でも一刻でも長く生きられるように、オレに付いてきた隊士を生かしてやれるように、必死で戦う覚悟だった。
無駄だったのか? あんたたちは死に場所としてオレを選んだんだろう? オレがそんなに死にたがりに見えたのか?
風が渦巻いた。熱波が流れてきた。木立は燃え始めている。
気配がゆっくりと近付いてきた。何者かと問うまでもない。逆立つ赤い髪の男が炎を背にしてそこにいる。
「見付けたど、斎藤一! 新撰組は会津ば離れたどん、おはんの姿ば見たち言う藩士のおってな、探ってみたらどげんじゃ、ほんなこつ斎藤のおった」
伊地知は高らかに笑った。
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