肆 夜陰

 山川さんと彼岸獅子の大手柄に、鶴ヶ城は士気が高い。


 前藩主のかたもり公と今の藩主ののぶのり公が直々に、山川さんと小松村の獅子団を誉めたたえ、城に集う者たちをねぎらった。酒も振る舞われて、今夜は宴だ。暗い顔をしていたという皆が、楽しそうに笑っている。


 オレは宴に加わらなかった。会津の武家は結束が固い。そこへ割り込むのは気が引ける。オレは当てもなく城内をぶらぶらした。


 鶴ヶ城ほどの大きな城郭に足を踏み入れたのは、会津に来てからが初めてだった。四月の終わりだ。前回は、くろがね門を入ってすぐの大広間で容保公にえっけんした。


 堀と城壁と土塁、くるわとそこに植えられた木々の内側には、上品な造りの建物が複雑な形で連なっている。藩主とその家族が暮らす屋敷だ。今は多くの場所が、ろうじょうする者たちのために開放されている。


 城内の人数、今日でおよそ三千人。藩境の戦から戻った藩士が毎日続々と、どうにかして入城を果たしている。これからさらに増えるだろう。


 新撰組は、最も大きくなったときでも三百人に届かなかった。その十倍を超す人数が今、鶴ヶ城に籠っている。一体、一日に何斗の米が必要なんだろう? いや、何こくかに上るんだろうか?


 数の勘定は土方さんの十八番だった。オレも少しくらいは算盤そろばんの弾き方を教わっておけばよかったかもしれない。


 秋の夜風を受けながら、土塁に登ってみる。土塁の上は要所に見張りが立って、堀の向こうの敵陣をうかがっている。


 城を包囲する明かりの数は、やはり多い。敵に乗っ取られた屋敷や寺がある。焼け跡の上にも宿営が造られている。耳を澄ませば、かすかに聞こえる唄、野犬の遠吠え、秋の虫の音、堀で魚が跳ねる水音。


 不意に、女の足音が夜の気配に交じる。オレは土塁の下を見やった。白河で会った女、がいた。


「山口さま、お探ししました。やっと見付けたなし」

「何か用か?」

「はい。山口さまが今夜のうちにもお城を離れてしまわれるとうかがったので、何としてもお話ししてぇと思ったのです。山口さまが出陣なさっている間、ずっと、お会いしとうごぜぇました」


「あんたは無事だったんだな」

「わたくしはこのとおり、怪我ひとつごぜぇません。ご心配いただき、嬉しゅう存じます。そっつぁ行ってもよろしいかし?」


 土塁にしつらえられた石段は、女が登るには急だろう。すそが割れて脚がのぞくさまを思い描いて、オレは舌打ちした。今こんな場所で見たいものでもない。


 オレは石段を跳び下りた。


「話なら、手短に済ませろ」


 かがりが弥曽に光と影を投げ掛けている。夜陰の似合う女だ。深い色の襟元からのぞく肌が、ぞっとするほど白い。


「山口さまは男の中の男だと、お城のあちこちで耳にいたします。会津のために戻ってきてくださって、ありがとうごぜぇます。山口さまがお殿さまの前で、会津を思うお心を説いておられるのを聞いたときは、わたくし、胸がいっぱいになっつまいました」

「人に誉められる義のある男かどうか、わかったもんじゃない。新撰組のはっを犯しちまった。オレは、情を取って仲間を捨てた」


「そだにご自分を責めねぇでくなんしょ。悩んでしまわれるお気持ちもわかるけんじょ、時は巻き戻らねぇべし。どうぞ後悔などなさらぬよう」

「わかっている」


「差し出がましくて申し訳ありません。山口さま、少し、わたくしの身の上話を聞いていただけねぇかし?」

「身の上話?」


 弥曽の濡れたような目が、じっとオレを見つめている。


「わたくしの父が先日、死にました。かねてから病み付いておりましたけんじょ、城下に敵が侵入するに至って、足手まといにはなりたくねぇと申しまして、わたくしに脇差を手渡しました。わたくしは、この手で、父の胸を突きました」


 オレは息を呑んだ。弥曽は静かに微笑んでいる。いや、微笑んだように見えるだけで、本当はひどくうつろだ。


「それは、気の毒だった。自ら死を選んだ者が多かったようだな。その……申し訳ない」

「なぜ山口さまが謝られるのです? 敵を防げねかったからかし? おやめくなんしょ。山口さまたちが奮戦なさったことも、じょしようもねかったことも、わたくしはよくわかっております」


 ののしられるほうが気楽だった。負けは負けだ。


 オレは戦うことしか能がないのに、務めを果たせなかった。伏見の戦に始まって、勝沼、宇都宮、白河、棚倉、母成峠、十六橋、戸の口原。全部負けた。次こそ勝たねばと焦りながら勝てず、会津は戦火に呑まれた。


「戦に出る武士が死ぬなら仕方ない。覚悟の上だ。でも、若松では、戦う力のない者がたくさん死んだ。戦えないからと、死んでいった。それが苦しい」

「お優しいのですね」


「オレが?」

「ご自分ではおわかりになんねぇかし? 素っ気ねぇようで本当はお優しくて、お強くて見目も優れておられる。山口さまはきっとおなにお持てになんべし。罪なお人」


「は?」

「奥方さまはおられねぇとうかがいましたけんじょ、ちぎった仲の女子もいらっしゃらねぇのかし? ご自分の血を引くややを作らねばとお思いにはなりません?」


 弥曽の話は唐突に過ぎた。オレが答えられずにいると、弥曽はひっそりとした声で笑った。湿った吐息が、耳を甘く引っ掻く。


やんだ、たまげたお顔などなさって。二十五にもおなりの立派な武士ですのに、可愛めげごどなあ。なんてずるい。山口さまのもっといろんなお顔を知りとうなります。笑ったお顔を見てみとうごぜぇます。この弥曽に笑い掛けてはいただけねぇかし?」


 ずけずけと踏み入るな、と言いたかった。武家の女はもっと堅苦しい礼儀を叩き込まれているものじゃないのか? それがまるで岡場所の女のように、軽々しく男を誉めてふところに入り込もうとする。


 いっそのこと品性がまるでないのなら、見下してしまえる。でも、オレの前に立つ女は楚々として、それがかえって色っぽい。怖いほどに。


 息苦しさを覚えた。心臓の音が高く速い。オレは弥曽から顔を背けた。


「無駄話をしたいなら、よそを当たれ」


 立ち去ろうと足を踏み出すと、思い掛けない素早さで袖をつかまれた。とっさに振りほどいて跳びのく。背中が古木の幹に触れた。


「よそには参れません。山口さまでねくては何の意味もねぇのです。お願ぇがごぜぇます。わたくしを山口さまと一緒にお連れくなんしょ。どこなりともお供いたします」

「馬鹿なことを。城を出れば戦場だ」

「お城に籠っていても、戦場であることに違いはねぇべし」

「城の外は桁違いに危険だと言っている」


「構いません。山口さまのおそばで死ねるのなら、弥曽は本望でごぜぇます」

「あんたを連れていって何の役に立つってんだ?」

「武芸も所詮はおなの腕、鉄砲も環の力も持たねぇ身には違ぇありません。けんじょも、山口さま、女子の体は山口さまにとって本当に何のお役にも立てねぇかし?」


 ぞくりとした。体の奥で騒ぎ立てるものがある。


 弥曽がオレに近付く。剣の間合いよりずっと近く、さらに一歩迫られて、柔術の間合いよりも近くなる。


 古木の枝が垂れ込めて暗い。夜に慣れた目は、濡れてきらめく弥曽のまなざしに縫い止められた。酔い痴れそうだった。

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