参 霧中
すべてが霧の中だった。己の手がやっと見えるくらいの、つかんで掻き分けられそうなほどに濃い霧だ。
八月二十一日、朝。
勝岩の台場に就いた俺の耳に、谷を挟んだ対岸から音が聞こえてくる。大勢の足音。わあわあと交わされる声。銃声。大砲の発射音。
ひゅっと風を切る音がして、爆発音と震動が同時に起こった。これは近い。
「各班、無事か!」
声を張って問い掛ける。一班の砲門は無事です、二班も問題ありません、と班ごとに声が返ってくる。大砲は四門とも無事だ。
敵からの砲撃、第二波。濃霧に土埃が混じる。砲弾だけではない。土塁をぴしぴしと鳴らすのは銃弾だ。鉄砲の射程に敵がいるらしい。その距離、二町か三町か。こちらの旧式の鉄砲で撃ち返せる距離なのか。
「くそ、せめて十分な武器があれば」
戦の勝敗は、布陣した時点で九割方、決している。敵より多くの兵力を集められるか。必要なだけの武器はそろっているか。補給線は確保できているか。どれだけ有利な位置に就けるか。
俺たちはあまりにも不足している。敵は三千、こちらは八百。武器の性能は圧倒的に劣り、戦闘が長引いた場合の食糧や砲弾の備えもない。台場にしがみ付いて、霧の中を当てずっぽうに撃つばかりだ。
母成峠に築かれた台場は、急ごしらえにしてはかなりのものだ。木を切り倒して視界を開くと同時に、土塁を積んで石で固め、天然の地形を活かして要塞に造り変えている。
猪苗代から出張して母成峠を預かる守備隊は、峠の
「ならば石筵の農民は、要塞化した母成峠のすべてを知っている。道だけでなく、台場の位置も形も、無論、弱点までも」
昨日の朝にはもう、石筵は
こうも霧が深くては、何が起こっているのかまったくわからない。三つの台場で以て本道を守る伝習隊はどうしているだろう? 防ぎ切れているだろうか?
「土方さん!」
霧の中から斎藤の声がした。
「どうした? 何かあったか?」
問い返すと、声を頼りにしたんだろう、斎藤が駆けてきた。俺の目の前で、引き千切るように左手の
「本道がまずい」
「環の力の使い手が本道を攻めているということか? 土佐の板垣と薩摩の伊地知が環を持っていると言っていたな」
「赤い環の力が暴れてるのを感じる。伊地知の炎だ。下の台場は、たぶん落とされた」
ささやく斎藤の声を隊士たちに聞かれずに済んだだろうか。俺は斎藤に顔を寄せ、耳元でささやき返す。
「第一の台場、萩岡は初めから時間稼ぎ程度だと想定していた。丸太を
「二番目の中軍山の台場にしても、足りない。大砲が二門あるだけだ。あんなもの、伊地知ひとりにも太刀打ちできない」
「伊地知の力はそんなに強いのか? 一人の人間の身にそれほどの力を宿せるものなのか?」
「あの男は脚が悪くて機動力がない。そのぶん異能を鍛えたんだろう」
「道理だな。連中の火砲の数は五十と言っていたな? 本道と左右の脇道で均等に分けて装備したとしても、各部隊が両手に余る数の大砲やら山砲やらを抱えているわけだ。こっちはそれぞれの台場に、片手で足りる数の大砲を据えただけ」
「いっそのこと、軍を分かたず、母成峠の最後の台場に全兵力をぶつけたほうがましだった」
「今さらそれを言っても仕方がない。斎藤、どうするつもりだ? 本道の救援に向かいたいのか?」
吐息が掛かるほど近くで、斎藤の
「局長の指示を仰ぎたい。オレはどうすべきだろう?」
唐突に一つの事実が俺に突き刺さった。斎藤は俺よりも強い。
生まれつき持ったものが、俺では斎藤に及ぶべくもない。将才、将器、無敵の太刀筋、言葉を操る力、そして蒼い環と武家の血脈。
なぜこんな男に、俺が指図できるだろう?
「おまえが自分で判断しろ」
「それは命令じゃない」
「俺にわからないことが、おまえにはわかるんだろう? おまえが正しいと信じることをすればいい」
「それは、土方さん、オレを見放すのと同じだ。オレは間違う。間違いだらけだ」
「だが、おまえには力がある。おまえは強い」
「土方さん!」
突如。
斎藤の左手の環が強く脈打って輝いた。斎藤が、ぱっと首を巡らせる。勝岩の台場から見て背後、峠の方角だ。
異様な力が風を押し飛ばした。濃霧が急速に流れる。
光が見えた。炎の
「何だ、あれは……まさかあの炎、あんな火力を、伊地知正治が一人で?」
俺は
「あの方角は、中軍山の台場だ」
炎が再び飛来する。
直撃を受けたのは、猪苗代の出張部隊だ。思いも掛けない方角からの攻撃に、隊の戦意と秩序は一瞬で瓦解した。こぞって悲鳴を上げ、大砲を捨てて逃げ出す。
炎が揺れ、霧が薄れた。煙の匂いが
「
新撰組を
頭上で何かが弾ける軽い音がした。見上げる。赤地に誠の一文字の旗が、銃弾を一つ浴びたらしい。段だら模様に裂け目がある。
谷底から
がら空きの背後から火球が飛んできた。火球は地面を
勝機を逸した。
わずかの隙に、
「撤退だ! 峠の台場まで引いて、そこで陣容を整える!」
斎藤と目が合った。俺は目を
「先に行け、斎藤。俺が
「承知」
短い返事を残して、斎藤は駆け出す。声を張り上げて隊をまとめながら、先陣を切って走っていく。その背中を、隊士がわらわらと追い掛ける。
どっちが局長だよ? 皆、おまえの声に付いていくじゃねぇか。
胸の内でつぶやきながら、敵軍に向き直る。まだこんな場所で死ぬつもりはない。勝てない戦で足掻くことには慣れている。
「ただで負けてやるもんかよ」
歯噛みをして銃に弾を込める。濃霧の谷を渡り切って顔を出した敵兵めがけて、引き金を引く。
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