参 烈女

「俺は毎朝この刻限に湯治場を訪れる。滅多に人が来ないからな。一度、家老の西さいごうたのさまがお忍びで見えたことがあったが、その程度だ」

「ええ、わたくしも、誰もおらぬと思っておりました。それゆえ、見ず知らずの男に裸をさらしてしまうなんて! この上ない失態ですわ!」


 さっきよりも乱暴な水音がした。俺は苦笑する。この竹子という女、気位が高いのだろうが、いくらか子どもじみていやしないか。


 まあ、跳ねっ返りは嫌いではない。きびきびとした受け答えはいかにも利発で、遠慮のない言葉を投げ付けられるのはいっそ爽快だ。


「俺でよかったじゃねぇか。俺は、女の裸を見たからといって即座にどうこうしようともくむような浅はかな男じゃあねえ」

「男なんて、皆、浅はかでございましょう!」


「かりかりしなさんな。会津の若い連中がどうだか知らねぇが、俺を一緒くたにするな。三十路も半ばに差し掛かりゃ、手練れにもなる。腕力に物を言わせて女を襲うなんて野暮な真似はしねぇよ」

「万が一にもおかしな振る舞いをなさらぬよう、ご注意なされませ。身の危険を感じれば、シジマをけし掛けます」


「シジマ? 黒い狐のことか?」

「はい。江戸からの道中、わたくしに懐いたのです。人間の男より、よほど頼りになる用心棒ですわ」


「ずいぶんな言い草だな。人間の男に恨みでもあるのか?」

「男など、うっとうしいばかりですもの。まだ十六の妹は、姉のわたくしから見ても大変な美人です。危うい目に遭いかけたことが一度や二度ではございませぬ。わたくしが武芸を磨くのも、妹の身を不届きな輩から守るため」


 ざわついて落ち着かないご時世だ。たがの外れた人間や妖がごろごろしている。江戸も京都も、どこに行っても、ひとけの少ない路地は血の匂いがした。


「しかし、会津武家の女は本当に勇ましいものだな。京都でも何かと世話になった」

たかときさんのことでしょうか?」


「知り合いか? 年のころは近いだろうが」

「時尾さんはわたくしより一つ年上とうかがっています。お話ししたことはございませぬ。時尾さんはずっと京都にいらして、土方さまや山口さまとご一緒に会津に入っても、すぐにまた前線へ出ていかれました」


 言葉に口惜しさがにじんでいる。同じ女の身でありながら戦うことを許される時尾がうらやましい、といったところか。


 俺は竹子の他愛ない負けず嫌いを笑った。いや、そのつもりだったが、歪めた口からこぼれたのは醜い嫉妬だ。


「時尾どのには蒼い環がある。うちの斎藤……山口二郎と同じだ。環を持つ者が常人をはるかにしのぐ力を使うことは、竹子どのも知っているだろう? 時尾どのも山口も、俺などよりよほど有能だ」

「お気持ち、お察しします。自ら望んであやかしの力を得る赤き環と違い、生まれながらの蒼き環は人の道を外れぬもの。その力は神々しくすらあると聞き及んでおります」


「赤い環を成せる者も特別だ。さほど多くない。大抵の者は妖気に精神を食われて、呪詛をき散らしながら化け物にちる。しかしまあ、環を持たない常人はその呪詛にとらわれて身動きひとつできなくなっちまうから、なり損ないの化け物でさえ厄介なんだが」


「倒幕派にも、環の持ち主はいるのでしょうか?」

「連中が劣勢だったころは、化け物が異様に多かった。今はどうだろうな。減っているんじゃないかな」


「減っている? なぜです?」

「いかに常人離れした力を得ても、新式の鉄砲や大砲の前には無力だ。環の力に手を出して制御の利かない化け物を造っちまうより、西洋式の軍制改革をするほうが効率がいい。危ういのは、むしろ会津だ。会津には旧式の武器しかない」


 はっと息を呑む竹子の気配が、滝の音にまぎれることなくありありと、湯の上を滑って俺に届いた。


「土方さまは会津が劣勢だとおっしゃいますか?」

「圧倒的に劣勢だろうよ。兵の数も引っ繰り返された。よりを続けていた諸藩は続々と、薩摩、長州、土佐を中心とする倒幕派に加わっている。会津の味方は奥羽諸藩だというが、それも一枚岩ではない。徳川そうからの援軍も来ない」


「孤立無援だと?」

「おそらくは」


 前線の斎藤だけではなく、仙台や米沢や越後にも遣いを出し、戦況を報告させている。いい話は聞かない。


 竹子が腹立たしげに言った。


「幕府の命を受け、会津は京都で天皇をお守りしていました。徳川宗家への忠誠はもちろん、天皇家への精勤も諸藩の追随を許さぬ姿勢であったのに、なぜこのような目に遭わねばならぬのです?」

「会津公を厚く信頼しておられた先の天皇が崩御したとき、完全に流れが狂った。いや、その前年には倒幕派の内部で布石が打たれていたことを、俺たちは把握していなかった」


「布石とは?」

「薩摩と長州がひそかに手を組んでいやがったんだ。薩長はきんじょう天皇をかついでと手を結び、急速に事を成した。その結果、会津は京都から追い出され、ぞくぐん呼ばわりされている」


「徳川宗家は会津の名誉をかばってくださらないのですか?」

「倒幕派の前にいけにえとして会津を差し出したのは、徳川宗家の判断だ。倒幕派は江戸を火の海にする心づもりでいた。百五十万を超える民を被災させるわけにはいかねぇだろう? その代わりが会津さ」


「そんな殺生な」

「当世随一の忠義者、会津公なら、このとんでもない尻拭い役も引き受けざるを得ないと、幕府の連中は考えたらしい。そして、それは正解だった」


 俺たち新撰組は、会津藩預かりの武士集団だ。容保公は頭ごなしの命令をする主君ではなく、俺たちを手先として操ろうともしなかった。だからこそ荒くれ育ちの俺たちは、容保公を上司として慕った。新撰組が志す義は会津のそれと同じだと信じられた。


 人を殺す罪は為してきた。ただし、世を乱す悪を為したつもりは一切ない。


 正道を歩んでいるはずだった。何度思い返しても、悪逆非道の賊軍とおとしめられる意味がわからない。薩摩の軍中に天皇家の家紋があるのを見出した瞬間の衝撃は、いまだに胸をえぐっている。


 いけない。過去を思い悩むばかりでは、生き延びられない。今の俺に為し得ることを、あやまたずに為さねば。


 俺は立ち上がり、湯船を出た。途端に、傷めた脚が重くうずく。温まった肌から汗が噴き出した。


「もう行かれるのですか?」

「竹子どのは、そのほうが安心だろう?」

「さようでございますね。また改めてお話しできればと思います。京都のこと、戦のこと、お聞かせくださいませ」


 黒い毛を重たげに濡らしたシジマが駆けてきて、値踏みするように俺を見上げた。猫と同じ縦長の瞳を持つ金色の目は、野育ちの獣のくせにずいぶんと賢そうだ。


「忠義者だな、おまえさんは」


 誉めてやればそれがわかるらしく、シジマは満足げに笑うような顔をした。

 立ち去ろうとする俺の背中に、竹子の声が触れた。


「お背中が美しゅうございますね。お背中に傷がないのは、敵に背を向けぬ勇敢な武士の証と申します」

「俺には見るなと言っておいて、竹子どのは俺の裸を見るのか?」

「……お黙りくださいませ」


「背中に惚れ惚れすると言ってくれる者も多いが、尻がまたいいとも言われるぞ。竹子どのからは、こちらを誉めてはもらえないのか?」

「お、お黙りくださいませ!」


 ばしゃんと湯を打つ音がして、シジマが鼻にしわを寄せた。俺は笑いながら振り返らず、肩越しに手をひらひらさせて、湯殿を出た。

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