二十九/審判 - der goettliche Streich

『しつこいな、怪人』

 肩の数字は右が《2》、左が《26》。パルタイのレザージャケットが融けて靄になる。黒い広がりは内側から干戈の音声おんじょうを響かせ、白々しい無数の光を漏らしていた。怪人は一躍床を蹴り跳び上がる。肩の青い蛇の目模様が、左脚の贋金色のひび割れが光る。低く跳んだ体は正面に陣取るマリヤにとって体のいい的だった。硬化した羽根に擬した短剣が、うちひろがる靄の彼方から、瀑布もかくやと降り注ぐ。直進すればまかりまちがっても間や西門には当たらない、百本が百本カフカを狙った攻撃は狙い通りに装甲を突き破り怪人をハリネズミにする……しかし止まらない。勢いは衰えず、どころかマリヤに近付くにつれ向かってくるその速度は高まっているようにさえ思われた。

 ……横方向へ、ここまで堂々とした! 見覚えが、あったかな?

 カフカは床に対して体を起こしたまま、すなわちうつぶせに落下する姿勢を保っていた。跳躍してすぐに目算をつけ、剣の嵐は両腕で顔を覆って致命傷を防ぎ、攻撃の角度からおおよその微調整を施しつつ、右足を前に、左足はやや後ろに引く。

 つまりこれは捨身のドロップキックではない。全身の力を足先に込めて撃ち込む、サマーソルトにも匹敵するローキックの布石だった。

 それをみてとったマリヤも木偶の棒ではない。ひきつけてから後ろに倒れて蹴りの軌道から逃れる。渾身の蹴りをくりだしたカフカは天地を逆にして空回りしながら壁に向かって落ちる。背中をたたきつける。

 呻いているひまも与えまいとまたと、凹字状の靄の中で音声おんじょうが響く。しかし、第二波の射出を直前にして、マリヤの上半身向かって左半分、下半身向かって右半分が消えた。

 フリオロフのように、白い、目や髪と同じ色の液を流すのではない、黒い艶のない液、フェルミや和久田が纏う泥のような粘液が傷口からわずかに垂れている。それ以外は何もない、まるでかまいたちのようにすっぱりと切れていた。

 片足を失いマリヤは当然床に崩れ落ちる。間が小さく悲鳴をあげた。鎧に突き刺さっていた剣は硬化を解かれ、羽根となってはらはらと床に落ちた。和久田は起き上がって、床に足を下ろしてから、首をひねって宙を見るマリヤを見下ろした。心臓は、欠けていない。

『まずいな』マリヤは言った。『非常にまずい、マリヤの片割れ、女の方がいたろう、あいつがアリスに消された』

「アリス?」

『《黒兎》さ、パルタイを殺す《爪》を持っている……ニシカドコウセイ、お前は見覚えがあるだろう?』

 そう言って笑う。西門は青い顔のまま凝然とマリヤを見つめて、それだけだった。マリヤの傷口からは組織が盛り上がって、既に失った部分のほとんどを回復しつつあった。左肩の数字は半分以上減って《10》。

『いや! そんなことはどうでもいいんだ。ハザマ、パルタイの天敵がもうすぐここに来る。それまでにけりをつけないと本当におれは死にかねん。最後の願いをかなえるんだ、早く!』

 間は慌てた調子で懐から何やら取り出した。それは黒い、卵の形をして、尖りの先に円い押しボタンを具えていた。

『さあ!』

『……させない!』

 カフカは走る。贋金色の目を光らせて走る。何が喜劇だ、と内心毒づいた。これ以上の悲劇的結末は御免だ!

 マリヤが起き上がる。体を捻って起こし、手で体を支え、ブレイクダンス、意趣返しとブーツの蹴りを一撃二撃、それから後方宙返りを挟んで拳闘の構えで迫る。

 足止めを食ったカフカは今度は後退する番となった。後方に跳び落ちて距離を稼ぎ、着地すると、その時、左手の鎧に先程の短剣が今尚一二本突き刺さったままになっているのを発見した。

 刺さった面から《鎧》としている。継ぎ目は見えなかった。鎧から飛び出た短剣は、鉱床から飛び出した細い水晶のように尖り、外向きに鋭く刃を剥いている。和久田はその左手を右の肩口にまで近付け、構えを作る……使い方を、もう心得ている気がした。

 脚運びを回す、脚運びで回す。後退しながら反時計回りに一回転、内向きに構えていた左腕を正中線を露わに全開放。スナップと指の回転をあわせて投擲された短剣は、一直線にマリヤの顔目がけて飛び、彼の耳をかすめて壁に突き刺さった。

 マリヤは前進を止めた。それは一には突然の投擲に身構えたためでもあった。しかし第二に、そしてこちらがより強い理由なのだが、彼は、怪人の瞳に、塗り固められた白い輝きを見た。

 怖気の走ることだった。マリヤはほとんど反射的に(パルタイに無意識なるものがあるのか? まったく不明だった)、三倍大の靄を展開していた。光を食う闇が展開した。それに呼応してカフカももう一本突き刺さった短剣を撃ちだすべく、低く、構える――

「待て、………………カフカ!」

「待って、マリヤ!」

 それで両者は一度動きを止めた。ほとんど同時に声を発したもう二人は、それぞれ見やって、それから前触れなくなだれ込むように西門は膝を折った。

「カフカ、おれは、おれは間がひどい目にあっている間中、何一つ、何一つ対策をとってなかった。由佳のことはわかってるつもりだった、だから多少誰かにちょっかいを出しているといっても、せいぜい軽いいたずら止まりだろうって。おれは何もしなかったんだ。何かできる位置にいた、何かしようと思えばできた、相応の結果を出すことも出来ただろう、間がここまで傷つくよりも早くに、解決できていたのかもしれない。それでもおれは何もしていなかったんだ。わかるだろう、それが、おれの罪だ。それを間本人が裁くと言っているんだ、おれはなんにせよ、この罪を償わなければならない」

「違う、全然違う、西門」

 応答するのは怪人ではなかった。間は大窓の前で懺悔する西門に向き合って言った。

「西門を最後に選んだのは、別に恨みが一番あるわけじゃ全然ない。小澤やら八木やらと全然違うことくらいわかるよ。恨みがあるわけじゃない。ないけど、マリヤに恃んで為すことの最後におくべきことがあるとしたら、きっとこれだから……」

 拳を床につけぬかずくばかりだった西門は、紅潮した間の弁明を聞いて、微笑し、顔を上げた。

「おれは罪を犯したと思っているし、何であれ償いのためにことを為さなければならないと思う。……そこのパルタイ、マリヤの言ったとおりだ……だから、おれは間の願いをかなえようと思うよ。何であれ、それがおまえの願いだというのなら」

 西門は立ち上がった。マリヤは靄をすっかり畳んでいた。和久田も、もはや臨戦態勢は解いていた。彼はもはやこの儀式を静観するよりほかないことを感じながら、それでも、ぞっとするヒラメのような汗をかいていた。

 間は手の内の《卵》を見てほほえんだ。四つの針に狙いすまされた長駆の少年は、また、そっと目を閉じた。

「わたし、わたしは……」





《死》。


《それ》は何一つ予兆を見せず、中空にあらわれた《死》だった。

 空間転移の座標が微妙に狂ったのだ。それと同時に、扉となる面も一切持たずに、その影はタワーマンションの高層階に突如として姿をあらわした。

 黒い礼服の胸には懐中時計のワッペン、襟元から爪先まで黒一色の衣服、黒いカチューシャからとび出た兎の耳、貝殻のような靴、白銀に光る髪と肌、血液の赤色を呈した両目、手には殺害の《爪》。

 アリス、《黒兎》は、やぶにらみに四方の《超常》の気配を把握し、部屋の四隅に届く長さの《爪》を展開、空中で体ごと一回転させてひといきに八つ裂きに切り刻み、ぴたりとマリヤに正対して着地する。

 誰一人動けなかった。間も、西門も、和久田も、マリヤも。矮躯は神的な《死》の嵐だった。その影には《死》が詰まっていた。照明が作る影法師の幾重もの重なりは、《死》を与える憎悪の幾通りもの揺らぎでしかなかった。マリヤは対峙する黒い影の顔面を見て恐懼した。口! 口がない! 武藤はマスクを着けて《黒兎》を展開していたので、マリヤが見ることができたのは詔然と輝く玉顔の赤い両目と鼻筋のわずかな部分とに過ぎなかった。しかしそれは神的な形而上的力の展開にしか見えなかった。全身が発する




  風鳴り、黒、太陽、怒り、嵐、《死への意志タナトス》、

     震え、耳鳴り、憎悪、白、弦の振動、赤、泣き叫び、極大の害意。




 殺害者。指を開いて腕を持ち上げる。展開された爪はマリヤの頭上一メートルに位置している。指と同じ厚さしかないはずの爪は、高くにあって今や太い帯のように見えた。八方に害意を噴き散らす爪が部屋の壁やガラスを突き抜けて地平線の彼方まで伸びているように感じられた。それを見上げて、パルタイは、もはや避けることの出来ない死を感じ取り、和久田はその爪が噴き出す《死》に呆然とした。

 パルタイをはじめ、超常の者がその力を振るうとき、白熱電球が光とともに熱を放つように、必ず周囲にある種の波動を伴う。和久田のような、いわゆる野生の勘の鋭い人間などはパルタイごとに異なるこの波を感じ分けることもできるが、複数の波動を同時に受けるのは危険なことでもある。間はカフカとマリヤの立ち回りの間青い顔でふるえていたし、和久田も一度三人のパルタイに囲まれて昏倒した。

 この波動は《超常》がめいめい持つ力の表出に伴うものであり、和久田は時によって砂漠のような乾いた熱い空気(湿度が低いからそうなるのだ)を放つ。それらはすべて和久田の内部にあったものでもあった。存在Seinの裏表がひっくり返り、黒い泥の質料をもって展開され、英雄の鎧の形相をもって固定化された輝きを持たない熱だった。和久田の内部には今も尚、噛み潰した武藤の肉を燃やし尽くす火が蠢いている。

 それが、武藤の場合は《死》だった。

 全身から隙間なく突き刺すような害意が噴き出して、所狭しと荒れ狂っている。回転しながら部屋中を浚う、目に映ることのない、黒々とした、透明な、線形状の、とぐろを巻いて回る、円い笠を作って対流する、嵐が、全て元は武藤の、あの小さな細い体の中に収まっていたことを、彼は思った。彼はまた鋭角に外に向かう黒々とした棘の集合も幻視した。それも武藤の内にあったものだった。

 ああ、やはり武藤は、彼女が何よりも望むのは、《超常》の殲滅ではなく、ただ自らの……


 マリヤは振り下ろされた《爪》によって四枚におろされて、心臓を両断されて死んだ。

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