十四/会敵-二

 板の間から反対側の和室の壁まで、落差七メートル。

 不意の一撃に初動の遅れたマリヤは、しかしながら、テーブルのふちを掴むと(羽毛の隙間から理解の及ばない角度で人間の手が生い立ち、木の板をがっしりと握り込んだ)ぐるりと前方に回転し羽毛をぼろぼろと落としながら巨体を萎ませ、体をねじってくの字に折り曲げると、天板の陰に身を隠していた和久田の頭目がけて床に対して垂直の角度で蹴りを見舞う。突然の挙動にバランスを崩したことがかえって和久田には幸いした。直撃は避けながらも地面に転がる、運動ベクトルの操作から自由になったテーブルも落ちて畳の上をすべる。パンク・ファッションの青年姿に変じたパルタイの追撃を避けるべく、怪人は床を転がりながら再び重力ベクトルを弄って天井近くの壁に陣取った。

「フェルミの後葉か、まるで油虫だな」

 マリヤは艶のない白い瞳でねめつけてきた。見開かれた目がわずかに前に飛び出るように見えた。間髪入れずに腕を振るうと、三枚硬化した羽根の刃が飛んできて壁に刺さる。もう一度飛ばされた三枚の最後の一枚を和久田が鎧越しの手で摑まえると、男はかすかな乾いた笑い声を上げた。声は質の悪いスピーカーを通したように濁り、反響していた。

『鎧型のザインだろう? たしか条件がそろわないと起動さえできないとか。で、たしかキーになるはずのお嬢さんはここにいるでもなし、だ。なんだってこんなところに来る?』

『マリヤか? パルタイの――』

『質問に質問で返すんじゃない! いや、それは然りだとも』

 和久田はマリヤの羽織ったジャンパーの両肩を見た。浮かぶ数字は右が「3」、左が「25」。いずれもブラックレターで書かれた数字は、先ほど病室で見たのと変わらず彼の所と最低限の首級の数とを雄弁に示していた。彼は節をつけんばかりに軽快に自らの所属をうたい上げた(偶然だろうが、その音の並びには非常に気味の良いものがあった)。

パルタイParteidreiWeiss虚実Sein und Schein》、マリヤ。おまえは?』

 問われて、和久田は返答に困った。だが、あくまで《超常》として……つまるところ、パルタイ・フェルミの力を宿す者として……応えようと、次のように言った。

青と金blau und geld流転Wandlung》《HitzeカフカKafkaフェルミの息子filius Fermi illae

    で、どうしてここに。

 パルタイが聞いた。声は和久田の頭の中で澄み乾いて響いた。パルタイらが用いる、一種のテレパスであった。

    復讐のためと言ったけれど、何に対しての復讐なのか皆わかっていない。これでは単なる暴力で向こうも血気盛んになるだけだ、何に対するであるのか明かした方が、向こうも事情がよくわかるはずじゃないか、……そう思うんですがね。

    こうしろというのが彼女の意志イァ・ヴィレだ。パルタイは願いを叶える、雇用主がかくあれかしと望むなら、その通りにするさ。

 空気の震えを伴わない声で会話しながら、それと同時に二人はまた近接していた。今度は互いに人間の姿をとっての組み合いだったが、和久田が鎧に覆われた拳で殴りかかるのに対してマリヤは拳を割りかねない暗黒物質のクチクラとの正面衝突を避けて関節を極めにかかる。そして三四の打ち合いを経て、果たしてマリヤは蛇のようにするりと腕に巻き付き、伸ばした肘を基点に腕を正反対に折り曲げんと、腕にかける力をいっそう強めた。

 ……だが、動かない。

 完璧に極めたはずの肘関節は、パルタイが加える力に対してまるでびくともせずに、和久田の左腕は一本巨木の枝のように平静を保っている。

 和久田も和久田で急に自分の腕が動かなくなったので驚いたが、マリヤよりも早くに合点がいった。鎧のスライム状の部分が固形化し、肘を守ったのだ。

 そしてマリヤは今この瞬間にも、和久田の鎧にしっかりと触れている……その限りにおいて、彼のベクトル変換……《流転》の力を行使するには十分だった。

 まっすぐマリヤを頭上へ持ち上げ、円弧を描いて反対側まで、彼を頭から突き落とす形で振り回す!


 背中から落ち受け身をとった和久田の脇に、マリヤの姿はなかった。彼はあの白いパルタイが消える直前、橙色の文字が中空に浮き上がりパルタイの突き立つ白い髪から下を飲み込むのを見た。【4】橙《本》ドミトリが操る諸文字の力だった。あの巨大な写本を繰るパルタイは自らの力をよく同胞に貸し与えているのだ。

 和久田は鎧を解き立ち上がる。掌から甲まで貫通していた傷は跡さえなく治っていた。和久田の質料たる《生命への意志》がDNAという形相によって形を与えられ、傷を埋めたかのようだった。……いや、あるいは。

 そこで和久田の懐で着信音が鳴った。携帯電話の大画面の液晶が割れていないかと青ざめたが、取り出してみれば画面に問題はない。電話をかけてきたのは別行動をとってきた武藤で、和久田は彼女の声を耳元で聞くことに、また彼女に自らの声をすぐ近くで聞かせることに多少の罪悪感を覚えたが、電話がコール音を二度繰り返させたところで電話に出た。

「はい和久田」

『そっちにパルタイは出ましたか』

「ああ、今さっき消えてった。そっちは」

『こっちもちょうどついさっき、ええ、見失ったところです。白く光る剣を持った女が倉庫にたまっていた連中を袈裟斬りにして、突然現れて一気にのことだったので止める間もありませんでした。私が飛び出すのと同時に逃げたから追いかけていたんですが、人ごみに紛れてしまって』

「袈裟斬り?」

『ああ、いえ』

 背後から無数の足音や車のエンジン音が聞こえた。

『大丈夫です、誰も怪我はしていませんでした。ただ誰一人斬られたわけでもないのにやたらと痛がっているようで……まるで斬られたと錯覚しているように……和久田さんが見ていた直さんと朱音さんでしたっけ、その人たちも、何か幻覚のような症状が出た、のでしょう?』

「武藤が追ってたのはどういう奴だった。髪型とか、服装とか」

『髪は長い、長いですね。白くて、まっすぐで肩甲骨あたりまではあります。パンクファッションなんでしょうか、わかりませんが、胸元が開いたぎらぎら光沢のある上着で、開いた胸元の襟にやたらとファーが付いてるんです』

「目の色は?」

『サングラスをかけていて見えずじまいでした』

「じゃあそいつが」

 間美羽?

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