scene:04 崩れゆく時間(その1)
――もう五年も前のことになる。
わたしがまだ、ただのエリザベートだった頃の話だ。
母の、3回目の命日だった。
その日のワルキュリア城には、珍しく一族が一堂に会していた。
己が受け持つ城塞に張りついていた兄二人も、この日ばかりはワルキュリアの
――無論、家臣団との貴重な会合の機会という実務的な側面もある。だが、父ブラディーミア十三世から言わせれば「ついで」らしい。
葬送祭をつつがなく葬了し、重臣たちとの対帝国防衛線に関する会合も終えてしまえば、あとは家族の時間。父の提案もあり、直系の家族だけで夕食をとることになった。
父はいつものように貴族の心構えを説き、長兄グラファールはニコニコと子羊のステーキへ蜂蜜を垂らし、次兄ヴィクトルは“
つまり父の話を真剣に聞いていたのは、わたしだけだった。
いや、今になって思えば兄二人は今さら聞く間でもなかったのだろう。既に自分の信念を心に携えていたのだ。
……でなければ民草を逃すためにその身を
そう考えると当時のわたしはまだ――もしかしたら今も――父の言葉を
「父上」
だから「民草を守るために戦えるからこそ貴い、とはそういう事なのだ」と話を終えようとした父に、常から思っていた疑問をぶつけたのだった。
「ん? なんだい、エリザベート」
「貴族は民草以外のために戦ってはいけないのですか?」
父は少し面食らったように、
「そうだな……。家を守るため、権利や財産を守るために戦うというのはあまり貴い行いとは言えん。無論、それが民草を守ることに
「いえ、そうではなくて」
意図しない方向へ流れそうになった会話を引き戻すべく、わたしは言葉を
「他の貴族や、土地を守ってはいけないのですか?」
「ならぬ、ということはないが……」父、ブラディーミア十三世は眉根を寄せ「彼らは充分、自身で身を守れる。まずは弱き者を守るべきであろう」
「では力の無い貴族や、魔導式しか扱えない士族であれば、民草と変わらぬ扱いをしても良いのでしょうか?」
「……貴族や士族からも税を取れるかという話かね?」
「あ、いえ、そんなのはどうでも良くて」
思わずまろび出た強い言葉に、父の片眉があがる。
幾度もブリタリカ王国の敵を討ち滅ぼしてきた現バラスタイン辺境伯の威厳に、わたしは少したじろぎながら言葉を絞り出した。
「――お、お父様のお話では、民草は弱く傷つきやすいからこそ、わたくしたち貴族が守る必要があるということです。ならばっ、生まれつきからだの弱い貴族や、貴族には力及ばぬ士族のために戦っても良いのではないでしょうか?」
相手が敬愛する父とはいえ、怒られるのは
恐怖をごまかすように一気に話し終える。
パタリ、と本が閉じられる音がした。
「くはは」
わたしを
それまで我関せずを決め込んでいた次兄のヴィクトルだった。
「戦っても良い――戦っても良い、か」
「ヴィクトル兄様?」
「おい
次兄ヴィクトルはいつものように、眼鏡の下からわたしを
「お前は戦うのが好きなのか? そこの
わたしは少しムッとして「違います」と否定した。
グラファール兄様が少し変わっている点は否定しないけれど、わたし自身は戦いが好きというわけではない。剣技の修練だって真面目にはやっているけれどそれ以上のものではないし、ミーシャからも「おひい様の手は剣を握るには向いておりませなんだ……」と少し悲しげに言われる始末。
でも、
「ただ、わたしは――その、誰かが苦しんでいるのなら……」
「――ハッ、」
そう
そして父へと視線を向け、
「
「――え、」
ヴィクトルが振り向きもせず指した親指の先には、わたしの顔があった。
「ヴィクトル兄様、どうして」
「うん、びっくりだね」
蜂蜜でベタベタの口から、長兄グラファールの無邪気な声が流れ出る。
そろそろ
「でも、僕もエリザが良いと思うな」
「グラファール兄様、」
「僕は論外だけどさ、ヴィクトルだって継承者としてふさわしいかは微妙だろ?
自分でそれが分かってるから、万槍を受け取らないわけだし」
「おい味音痴、俺の考えを勝手に決めつけるな」
ヴィクトルは
「あんな契約、俺には無理だと思っただけだ。あれが義務感だの正義感だけで何とかなるものかよ」
「結局どんな契約だったの?」
「それを
天命の暴露なんぞしたら俺もお前も世界から弾かれる」
そこに距離や時間の概念は存在せず、故に過去も未来も見通すことが可能。
――だが、
〝千里眼〟で
有り体に言えば、最初から居なかったことにされるのだ。
「ふむ、私も聞いておきたかったが……千里眼で見たのでは致し方あるまいな」
「お父様もご
思わず口を挟む。
現在の『ドラクリア』はヴィクトルだが、その前は父が『ドラクリア』だったのだ。当然、『ドラクリア』の意味を知っているものと考えていた。〝継承儀〟と呼ばれる儀式がある以上、何らかの伝承がなされているものと。
そんなわたしの問いに答えたのは父ではなく、ヴィクトルだった。
「誰も知らねえのさ、エリザベート」
常にわたしを『愚妹』と呼ぶヴィクトルから名を呼ばれたのは、その時が初めてだった。
わたしを
「いつかの誰かが伝える前に死んじまったんだよ。継承儀の方法だけは残っていたからとりあえず続けてきただけなのさ。
だが、この土地は〝バラスタイン〟だ。
そして俺たちは契約を果たし続ける限り〝ドラクリア〟でいられる。
――それを忘れずにいれば、忘却された千年を取り戻せるだろうさ」
小さく舌打ちをして、ヴィクトルはそれきり歴史書を読む作業に没頭してしまった。
嫌な沈黙を振り払うかのように、父が
「エリザベート。
深く考えることはない。最初から全てを成せるわけではないのだから」
ブラディーミア十三世は我が子の運命を憂うように
「まずは民草の幸せのために戦えるようになりなさい。
それが、バラスタインを治める貴族としての条件だよ」
◆ ◆ ◆ ◆
――そんな、白昼夢を見た。
エリザは現実へと帰還する。
魔獣の巣窟、アイホルト回廊。
そこで皇帝と共に
延々と続くアイホルト回廊。行けども行けども終わらぬ漂白された景色。一辺が5メルトほどの正方形に切り取られた純白の通路は意識まで漂白していく。硬い床が波打つ錯覚が始めれば、心までもが
そのたびに体内の
エリザは改めて
回廊へ侵入してから5刻ほど
休憩を挟みつつも一行は着実に歩みを進めている。
魔獣さえ現れなければ足音だけが反響する世界。
そんな静寂を嫌ったかのように、皇帝――ヒロト・ラキシア・ヤマシタ・ルシャワールは、とめどなく〔
何となく、この皇帝の行動の裏が読めるのはマリナという少女のお陰かもしれない。
「いやはや、皇帝陛下は博識でいらっしゃる」
ヒロトが「今の〔星読み〕はご健勝かな?」と振った時だった。
『中佐』と呼ばれていた
鴉の顔を模した〔
「浅学なこの身では問いに答えるにも一苦労です」
「ん? そうかい?」
「はい。
――ですが、このままやられてばかりというのも、この隊の長として面目が立ちません。
ここは
「あぁ、構わないよ」
「陛下は何故、前線に立ち続けるのですか?」
「――――…………」
ヒロトの顔が、愛想笑いのまま固まった。
「……昔の話だよ、それは。僕が国を作ろうとしていた時の話だ」
「いやいや、何を
今度はエリザが衝撃を受ける番だった。
あの時、父が戦い、そして散った場にこの男もいたのか。
ヒロトもエリザの反応を察したのだろう。やりづらそうに口角をあげてみせる。
「詳しいね、君。まさかあの場に居たのかい?」
「あの場――というのは、
陛下手ずから辺境伯を討ち果たした時のことでしょうか?」
……え、
思考が止まる。
「声でもかけてくれれば、酒の一杯でも出したものを」
「残念ながら
「
「……
「今回のことも、友人からの助言かい?」
中佐は答えなかった。
「して陛下。――
「……僕にしかできないことがあった。
それで一人でも多くの兵士が助かるなら、僕が出向かない理由なんてない」
「陛下は随分と民草
それに対しても皇帝は、さも当然のように答えを返した。
「民草の幸せのために戦えることが、
皇帝であることの条件だからね」
思わず皇帝を見た。
――それは、ダメだ。
エリザが心の奥底に押し込めていた感情が、胃の
それは父の言葉だ。
父だけの言葉なのだ。
バラスタインの願いなのだ。
父の
父は民草のために戦っていなかったとでも言うのか。
「どうかされましたか?」
エリザの様子を不審に思ったのか、中佐と呼ばれていた烏面に
迫る黒
その奥には、こちらを見透かす
「い、いえ……」
殺せ。
自分を殺しなさい、エリザベート・ドラクリア・バラスタイン。
今の
最も大切なものの為に――
――二番目に大切なものを切り捨てなさい。
「陛下の
絞り出した言葉は、自分でも嫌になるほど皇帝への敬愛が
中佐が「ほう……」と感心したような声を漏らしたのが唯一の救いだ。
「皇帝陛下は民と相思相愛というわけですな」
「どうかな。
「中佐」
〔
エリザは内心ホッとする。正直、あのまま皇帝と中佐の会話が続いていたら、どこかの段階で自分を抑えきれなくなっていただろう。
いまだ腹の底でのたうつ怒気を紛らわそうと、エリザは周囲を見回す。
気づけば一行は足を止め、エリザの周りにいる〔
――恐らく、また現れたのだ。
そのエリザの直感を〔
「この先に動体反応があります。推定
「またか……魔力伝達妨害と動体探査式を打て。後に焼却だ」
「了解」
途端、〔
放たれる魔導式。波紋のように白灰石を伝う魔導干渉光。一定範囲外へ魔導式の影響を遮断する式だろう。これまで何度かあった魔獣による襲撃の際も、他の魔獣に騒ぎを聞きつけられないよう区画ごと
〔
行く先にある
――正体がバレれば、エリザ自身もあの炎に焼かれることになる。
「完了」
「よし、進むぞ。魔力の匂いを消し忘れるな」
だが、一行の歩みはすぐに止まる。焼き払った魔獣の死体が、通路を塞いでしまっていたのだ。
しかし、烏たちが息を
「……何の、魔獣だ」
〔
魔獣とは、傷つけられた
つまり、言うまでも無く魔獣には元になった生物が居るはずなのだ。回廊へ突入した際に襲ってきた魔獣ですら、元は
だが、
目の前で息も絶え絶えに焼け焦げている魔獣は一体どんな生物だったと言うのか。
「冥界の生き物だね、これは」
皇帝が漏らした言葉に、エリザは声もなく同意する。
〝ソレ〟を誰かに説明するならば、人の顔面が折り重なって出来た球体と言う他ない。
5メルト四方の通路を塞ぐほど巨大な、無数の人の頭で出来た団子だ。赤子にコネくり回された粘土細工のように、潰れて
「
「別の式を使いますか? 規模の大きな魔導式であれば不可能ではないかと」
「いや、それで教会の〝猟犬〟に探知されても面倒だ。
――陛下、申し訳ありませんが」
「うん、別にいいよ。仕方ないさ」
その会話を、エリザは
回廊内は外の十倍の速さで時が進む。このままでは外の誰かが状況に気づく前に連れ去られてしまうかと思ったが、遠回りするなら少しだけ希望が見える。もしかしたら出口を特定して誰かが助けに来てくれるかもしれない。
そう、問題は時間だ。
エリザは外に置き去りにされたマリナを思う。
既に回廊内では五刻が過ぎた。
外ではようやく半刻を過ぎたところだろうか。
早く気づいてくれれば良いけれど。
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