2〜1

 肩を揺すられて、目を覚ます。

 寝ぼけ眼で見た先にいたのは、女性看護師だ。

 今日も付き添われるんでしょうと、その言葉に、可能ならそうしたいと、ぼんやりした頭で考えながらうなずいた。

 ここはそれなりに大きな病院ではあるけれども、個人経営だからなのかこういう融通をきかせてくれる。

 勿論、個室だからとか、そういう理由もあるだろう。


 外はすっかり暗くなっていた。

 もう面会時間も終わっているのだろう。

 相変わらず眠り続けるその横顔をじっと眺めて、そうしてから静かに頭を撫でた。


「明日、休みだから。付き添わせてくれよ」


 静かに声をかけて、布団のから見えていた左手を握る。

 細い手だ。

 白く、頼りない。

 それでももう、この手を二度と離したりはしないと強く誓う。


 ――ぜったいに。 


「そういえば、こんなもの見付けたんだ」


 淀んだ思考が溢れ出そうになって、俺は意識的に明るい声でそう声をかけた。

 脇に置いていたジャケットの、ポケットから取り出したのは指輪だ。

 宝石店で買うような、お高いものではない。

 駄菓子屋で売っているような、安い玩具の指輪だ。


のは、もうないから、新しいのを買ったんだ。相変わらずプラスチックで出来てるヤツだけど、俺が小さい頃のこういうおもちゃより、遥かにクオリティが上がってるような気がする。懐かしいだろ?」


 白く細い手に、左手の薬指に、その玩具の指輪をはめてやる。

 似合ってるなんて、勿論そんなことはない。

 クオリティが上がったと言っても、所詮、玩具は玩具なのだから。


「早く、目を覚ましてくれ。そうしたら……」


 ふ、と短く息を吐いて、言葉を切った。

 言霊というものがある。

 言葉には霊的な力が宿るというやつだ。

 良い言葉を言っていれば良いことが起きて、悪い言葉を言っていれば悪いことが起きる。

 簡単に言ってしまえば、そんな感じだろうか。

 まぁ詳しくは違うかもしれないけれども、とにかく、俺は、語部かたりべという名を持つ俺は、それを強く意識して生きてきた――つもりだ。

 だから、ちゃんとした答えを聞くまでは、何も言わないでおこう。


 大きすぎて邪魔になる玩具の指輪を外して、布団の中へ手を戻す。

 離れた温もりに不安になって、呼吸と同時に胸が静かに上下しているのかをじっと見つめて確かめた。

 そうそう悪くなることはないと、分かってはいるけれども、不安はいつも俺の中に燻っているのだ。


 この個室には、ソファセットが置いてある。

 広いこの個室の入院費のことを改めて考えると恐ろしくもなるけれども、やはりそこには目をつぶっておこうと思う。

 病院側から借りた布団を被って、そこへ横になった。

 さすがに、病院のベッドで二人で寝ようとは思わない。


「じゃあ、おやすみ」


 返事がないと分かっていても、はやりそう声をかけて、俺は目を閉じた。




 朝、目が覚めて、食事をしに行ったあと、洗濯をしたり用事を済ませている内に、時間はすぐに過ぎていく。

 もうすぐ昼だなと考えながら、すぐに済ませられるようなものを頭の中でピックアップする。

 食にはさして興味がないから、パンとかその程度しか思い浮かばなかったけれども。


「じゃあ、買ってくるから」


 当たり前だけれども、やはり返事はない。

 その代わり、俺が返事を求めている逆の側から音がした。

 扉が開いた音だ。

 看護師でも来たのだろう――そう考えて顔を上げた俺は、目をしばたたいた。

 まさか、こんなところにやって来るとは思わなかった。


「……繙多はんだ

語部かたりべ


 繙多はんだはカツカツと革靴を鳴らして近付いて来ると、ベッドを挟んで向こう側へと立った。

 そうして、眠っている姿ををややしばらくく眺め、そして細く息を吐き出す。


語部かたりべ、その子はだ」


 語尾の上がらない、断定の――いや、断罪のような言葉。

 肺に溜まった淀んだ空気を吐き出して、俺は小さく笑う。


読子とうこ


 名前だけを返して読子の黒い髪を撫でれば、繙多はんだは苛立ったように小さく舌打ちをして、珍しく持っていた鞄から一冊の本を取り出した。


 ――タイトルは、解読ディサイファ


「これは何だ――いや、やはり言うな。聞きたくない」


 吐き捨てるように言う繙多はんだに構わず読子とうこの頭を撫でながら、ただ、繙多はんだはどうやって俺のマンションへ入ったのかとぼんやり考える。

 その本は正真正銘、この世界に一冊しかない。

 何故ならそれは、俺が作ったものだからだ。

 読子とうこのために、読子とうこ読子よみことして読子とうこになるために――


「答えろ、語部かたりべ。その子は誰だ。お前はその子のために、何をした……いや、何をしている」


 そんな繙多はんだの言葉に、やはり真実をひもとくという名を持つだけあると素直に感心してしまう。

 もっとも、今の繙多はんだはそんな称賛を毛先ほども必要としていないだろうけれども。

 俺を射抜く眼差しに、思わず笑う。

 何故だからほっとしているような、そんな気分だ。


「五年もかかったんだ」


 気付けば、そう、つぶやいていた。

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