1〜7

 消毒液の臭いが鼻を突く。

 不快感に顔をわずかにしかめてみるものの、だからといって改善されるわけでもなく、ただ自分がそうしたという落ち着かなさだけが、そこへ事実として残った。


 ――だから病院は嫌いだ。


 自分が病気でなくとも、病人になった気分にさせられる。

 溜め息を飲み込んで足を踏み出せば、全身に病院内の空気がまとわりついてくるような気がして、結局は飲み込んだその空気を、肺の中から深々と吐き出していた。

 無意識の内に、卑屈に丸めてしまいそうな背筋をなるべく伸ばして、目的の場所へと脇目も振らずに歩く。

 階段を上りきり、ナースステーションをぐるりと回り込んで、目指すのは一番奥まったところに位置する病室だ。


「あらっ、先生」


 ちょうど談話室を通り過ぎようとしたところで、そんな声と同時に手が肩に乗った。

 ここは病院ではあるけれども、自分に限って言えば、その先生という呼称は勿論、医師を示すものではなく教師を示すものだ。

 生徒にすらいっちゃん呼ばわりされるというのに、校外でそう呼ばれるのもどうなのだろう。

 それに、病院という場所で知らないひとが聞けば、勘違いしそうで怖いのだけれども。


 振り向けば、そこにいるのは予想通りのひとだ。

 薄いピンク色がかったナース服を着た、看護師の女性。

 目の前で微笑む看護師の女性は、俺が初めてこの病院を訪ねたときからここへ勤めている。

 信用出来るひとだ。

 ただ、何回申し入れても、先生呼びをやめてくれないのはどうかと思うのだけれども。


「どうも、こんばんは」

「こんばんは、お仕事だったんでしょう、お疲れ様です、先生」

「ありがとうございます……先生っていうのは、ちょっと」

「あらごめんなさい、ついつい言っちゃうのよねぇ」


 悪気はないのよとからから笑うそのひとに、怒る気も失せてしまう。

 こんなやり取りを、何度続けてきただろうか。

 そして、これからも続くのだろうか。

 いや、と心の中でつぶやいた。

 もうすぐ、この年月が、実を結ぶはずだ。


「今日も……様子は変わりませんか」

「ええ、ぐっすり眠ってますよ」


 微笑みと共に言われると、喜んでいいのか悲しんでいいのか分からなくなる。

 とりあえず曖昧な微笑みを返して、俺は再び歩き出した。

 面会時間には限りがあるのだから、出来る限り長く、そばにいてやりたい。




 病室は、個室だ。

 俺の稼ぎだけではずっとその部屋に入れていてやることは出来ないけれども、罪滅ぼしのつもりなのか入院費は基本的にが出してくれているから問題はない。

 何故こんなことになる前に、そういう気持ちの一端でも出してやってくれなかったのか――肚の底で炎を燻らせてみても、現状は変わってくれない。


「なかなか来れなくてごめんな」


 そう声をかけながら、椅子を引っ張り出してきて、ベッドの横に腰掛ける。

 ぐっすり眠ってます――先程の看護師の言葉通り目を覚ます気配はなく、返事もない。

 それでも俺は、声をかけずにはいられなかった。

 もしかすると不意に目を覚ますかもしれないと、心のどこかで期待しているからなのだろう。


 すっかり伸びてしまった黒髪を、慎重な手付きで撫でる。

 はにかむように笑ってみせるその表情は、あまりにも遠い昔のことのようで、よく思い出せなかった。


 どうして、と、ここへ来る度に思う。

 どうして、この子の手を離してしまったのだろうか、と。


 考えたところで、悩んだところで、意味のないことだと分かっている。

 分かっていてもどうしようもないのが、ひとの心なのだろう。


「昨日また、呼ばれたんだ。渡会わたらい刑事に。相変わらずあの人は、憎めないなって思わせられる。なんだろうな、喋り方か、雰囲気か……分からないけど、きっと巧いんだ。当たり前だけど、行った先には繙多はんだもいて、それで……」


 つらつらと重ねていた言葉は、溜め息と同時に途切れた。

 俺のこの肚に燻るのは、罪悪感だろうか、それとも、愛情だろうか。

 恐らく、どちらもだ――そう、つぶやく。

 どちらも、否定してはいけないものなのだ。


 また、髪を撫でる。

 くせ毛なのだと思っていたこの髪が実はストレートで、いつもくくっていたせいでクセがついていただけなのだと気付いたのは、この病院で再会してからのことだ。

 それでもやはり、俺の中ではくせ毛のイメージが強い。

 目を覚ましたら――覚ましてくれたら、頼んでみようと思った。

 髪をくくるように。


 隣の家に住む夫婦の間に赤ん坊が生まれたのは、俺が小学校に上がってから何年かたったあとのことだ。

 周囲には赤ん坊がおらず、俺は物珍しさから見掛ける度に顔を覗き込んでいたように思う。

 その赤ん坊がすくすくと成長して、幼稚園に入った頃――将来お嫁さんにして欲しいと言われたときには面食らったものだ。


 思い返しながら、頭を撫でてやる。

 寝顔はいっそのこと憎たらしくなるほどに穏やかで、目覚めさせようという俺のこの努力は、罪であるようにも思えた。


 ――それでも、俺は。


 心の中でつぶやいて、自分に発破をかける。

 今更、立ち止まることなど出来やしない。

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