1〜5

 ダイニングチェアに腰掛けたまま眠りに落ちている男と、その前に立って目を閉じている繙多はんだ

 曰く、感覚的なものだから、がどう見えているのかは分からないけれども、繙多はんだは今まさに真実をひもといているところだ。

 いや、まず、そもそも見えるものなのか、聞こえるものなのか、俺は知らない。

 ただ、特殊能力ちからを使っていることは間違いなかった。


「いやぁ、どうだろうねぇ」


 やけに間延びした声で、渡会わたらい刑事がつぶやいた。

 渡会わたらい刑事の見立てでは――もしくは長年に渡る刑事の勘としては――繙多はんだ特殊能力ちからを使われているこの男は、容疑者ではない。

 ただ、何かしらの事情を知っているようではある、ということだ。


 その事情の一端でも掴めるのなら、格段に捜査期間が短縮出来る。

 殺人事件の時効が廃止になって、渡会わたらい刑事は繙多はんだの協力を求める機会も増えたように思う。

 猫の手も借りたい、などと言えば聞こえは悪いけれども、まだまだ解決に至らない事件が山ほどあるのだ。


「アイツなら……何かは掴みますよ、必ず」


 二人から視線を外さないまま、俺は、確信を持ってそう答えた。

 繙多はんだなら、その特殊能力ちからなら、その頭脳なら、必ず何か掴む。

 掴まないはずがない。

 これも、繙多はんだ真実さだざねという名への期待だろうか――ふとそんなことを考えたけれども、すぐに違うと首を振った。

 勿論、期待はある。

 というより、期待をしていないはずがない。

 けれどもそれ以上に、それまでの実績がある。

 そして、繙多はんだ真実さだざねという人間への絶対的とも言える信頼が、俺の中にはあるのだ。

 まぁ、こんなこと、本人に向かっては絶対に言わないけれども。

 そもそもこうして考えてしまっている時点で気恥ずかしいというか、妙に落ち着かない気分だというのに、口に出すのは何となく憚られるのだ。


 細く長く、息を吐いて、そうしてから自分よりほんのわずか、数センチ低いところにある横顔へ視線を向ける。

 俺はまだ、渡会わたらい刑事の口から、今回のことについて何も聞いていない。


「それで、今回は」

「うん、そうだなぁ。簡単に言うと、過去にとある事件が起きていたらしい……というか」

「と、いうか?」

「いや、あそこの彼にはね、その犯人だって疑いがかかってるわけじゃないんだけど……ああ、これは言ったんだっけ。それで、場合によってはもう時効が過ぎちゃってるっていうのもあるし、何とも説明しづらくて。あ、本当はそもそも説明しちゃだめなんだけど、ま、それはそれとして。語部かたりべ君にしろ繙多はんだ君にしろ今更なんだけどね」


 そう言うと、ワイシャツにスラックス姿のその人は、眉間に皺を寄せてくしゃりと笑った。

 渡会わたらい刑事は、巧い。

 いつの間にか、ひとの懐にするりと入り込む。

 こんな言い方は失礼だけれども、刑事よりよっぽど、営業職などの方が合っているのではないだろうかと思うことがよくあった。

 とはいえやはり、ふとした瞬間の顔付きは、経験豊かな刑事なのだろうな、という雰囲気がしているのだから、意図してやっているのかもしれないとも思う。

 そうならそうで、納得だ。

 素人には少しも気付かせないでやり遂げる――たぬき爺と人によっては思うだろうけれども、俺はただただ感嘆せずにはいられない。

 俺がそんなことを考えていることなど知らないだろう渡会わたらい刑事は、ううんと唸って顎をさすった。


「何とも妙な話なんだよねぇ」


 説明しづらくて、と言うものだから、それ以上の説明は得られないものなのだと思っていたけれども、そうではないらしい。

 続く言葉を待っていれば、渡会わたらい刑事はまた、唸った。


「ほら、さっきも言ったけど、繙多はんだ君をとっ捕まえて離さなかった女性だって、繙多はんだ君の特殊能力ちからのこと知ってるみたいだったし、今回ね、訴えがあって調べてるモンだから、ちょっとね」

「はぁ……まぁ確かに、繙多はんだも自分から言いふらすようなタイプではないし、俺だってわざわざ知らない人間に教えたりしないですし……どこから知ったのか、不思議ではありますね」

「そうそう。私らだってね、組織内で情報共有することはあるけど、さすがに誰彼構わず言いふらすことなんかないし、そもそも守秘義務ってモノがあるから、こっちから出ることはないはずなんだよね。あ、これ、こうやって協力して貰って色々話してるのに説得力ないかな」


 ひょい、とアメリカナイズされた動きで肩を竦める渡会わたらい刑事に、少しだけ苦笑してみせる。

 そうですねなどとはまさか言えるはずもないし、かといって、そんなことはないですよときっちり否定することも正直に言えば、出来なかった。

 まぁ渡会わたらい刑事だって、無防備に一から十まで話しているわけではないだろうから、うなずいてしまって良いのかもしれないけれども。


「出るとしたら、今までの事件関係者だと思うんだけど、わざわざ名乗らせたりしてないし……そんなこと言っても、まぁ、呼びかけるときは当たり前に苗字で呼ぶし、あとはほら、抜群に顔面の偏差値が高いとかね、特定しようと思えばいくらでもやりようはあるとは思うんだけど。とにかく、あそこの彼から何か少しでも知れれば良いって話で、語部かたりべ君達には頑張って貰いたいわけなんだよね」


 そのゆったりとした語り口に、なるほどとだけ返して、俺はまた二人の男を眺めた。

 今回は、過去に起きた事件の捜査をしているらしい。

 それがどんな事件なのか、渡会わたらい刑事からは語られなかったわけだけれども、自ずと見えてくることだろう。


 どのくらいがたったのか。

 俺達には見えない紐を持ったままの、その右手が微かに動いた。

 何を見つけたのか――何を見つけてくれたのか、期待と不安が、肚の底に渦巻いているような心地がした。


 細く細く、息が吐き出される。

 静かな部屋の中に、その音だけが妙に響いた。

 紐を持ったままの手が男の上に掲げられたかと思えば、ゆっくりと、繙多はんだは手を開いた。


 身じろぎ出来ないまま繙多はんだと男をじっと眺めて、時が過ぎるのを待つ。

 かちり、と、時計の針が動いた。

 鐘は鳴らなかったけれども、ああ、丁度の時刻を指したな、と頭の中にどうでも良いことが過る。


 少しだけウェーブがかった髪が微かに揺れて、そして、繙多はんだは振り返った。

 垣間見た真実を思い返すかのように視線を斜めに上げて、紐を持っていた方の人差し指で、つい、と自らの唇をなぞる。


「これを今になって立件することは、難しいでしょう」


 開口一番そう発した繙多はんだに、俺の隣に立つ渡会わたらい刑事は少し唸りはしたものの、大して間を開けずにうなずいた。

 先程も『時効が過ぎちゃってる』と言っていたし、そういうことなのかもしれない。


「彼、随分と学生時代とは性格が変わっているようだ。顔も名前も出て来ない。関わり合いにもならないようにしているから、見て見ぬふりを決め込んでいた」

「ううん、そうなの」


 参ったな、と渡会わたらい刑事が横でつぶやいている。

 その声が、どこか遠くで聞こえているような気がしていた。

 この感情は、なんだろう。

 落胆だろうか。

 それとも、繙多はんだなら何か掴んでくれるに違いないという、期待を裏切られた視聴者のような憤慨なのだろうか。

 長い付き合いで、コイツについてはよく知っているというのに、自分勝手なその複雑な感情が渦巻いてしまって仕方がない。

 下唇に強く歯を立てて、振り払った。


「ただ、全員が全員ではなかったらしい。やっていたのがクラスの中心にいるようなタイプだから、他は口出しし難かった、というような雰囲気でしょう」

「ははぁ、まぁ、そうか。なんだかいやになっちゃうねぇ、そういうモンなのかな。……現役の教師として、語部かたりべ君なんかはどう思う?」

「え?」


 繙多はんだ渡会わたらい刑事から会話の矛先を急に向けられて、戸惑う。

 そもそもどんな事件なのかも聞かされていない人間には、二人が何について話していたのか、何を聞かれたのか、さっぱり分からないだろう。

 ただ『クラス』やら『現役の教師として』という言葉で、学校で起きていた話なのだとは思った。

 そうなると、だろうか。


「あ、そうだ、語部かたりべ君にはちゃんと話していなかったね」


 黙り込む俺に、ごめんごめんと渡会わたらい刑事が手を合わせた。

 離れたところでは、繙多はんだのくっきりとした二重をした目が俺を眺めている。

 ダイニングチェアに腰掛けたままの男は、未だに眠っている。


「いやぁ、まぁ、簡単に言っちゃうと、イジメ問題でね。それが五年前のことなんだけど、当時はほら、あんまり問題にされないで、ニュースとかにもならなかったみたいなんだよね。でも話を聞く限り、っていうより、訴えの内容からするとちょっと……いや、大分酷かったみたいだから」

「事件化するほどにですか。暴行とか、そういうことがあったと?」

「まぁ、うん、そうだね」


 渡会わたらい刑事は、現役の高校教師である俺を慮ってか、少しだけ言葉を濁した。

 ただ、その目は鋭く、じっと射抜いてくる。

 口の中がカラカラに乾いてしまうような、そんな心地になりながら、俺は二人を順番に見た。


「俺は……教師としての俺は、そんなことは起きていないし、起こさせるつもりはない、と思っています。ただ……」

「うん」

「俺自身としては、あり得ると思う」


 つぶやいた俺の声は、思ったよりも弱々しかった。

 情けないと思うけれども、どうしようもない。 


 右の手で、胃の辺りを押さえて握り締める。

 手の中でシャツがぐしゃぐしゃになって、ああ皺になるな、と思った。

 それでも、やめられない。

 左手に、温もりが欲しかった。

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