第五話〜2

 職員室らしいそこを出た、目の前にある階段をそのまま降りてしまえば近いだろうに、ドクはそれをしなかった。

 廊下を真っ直ぐ進み、生徒用玄関の側にある階段を目指しているらしい。

 どうしてわざわざと、開きかけた唇は結局、ぴたりと閉じられた。

 なにせこうして校舎を歩き回ることに関して初めから、俺の意思などどこにも介在する余地はないのだ。

 言ったところで、無駄になる。


 短く一度、息を吐く。

 足取りに合わせて揺れるお下げ髪を眺め、今度は静かに吸い込む。


「……なぁ、ドクは、ドクには、夢はあるのか」


 俺の不意な問い掛けに、ドクは動かし続けていた足を止めた。

 斜め後ろを歩く俺へ振り返ったその表情は、思っていたより至ってフラットだ。

 俺と合わせた黒い目をゆったりとしばたたかせながら、首を傾げる。


「なんだい一路くん、さっきから随分と、藪から棒な質問ばかりじゃあないか」


 そう言われてしまうと、さすがに言葉に詰まる。

 俺としては何の脈略もなく話し始めたわけではないのだけれども、そう聞こえてしまうのだろうか。

 俺のことをよく知っているという風のドクが、疑問に思う程に。

 いいや、と心の中で、俺というものを肯定する。


「ドクが、さっき俺が教師を志したキッカケを訊いただろう」


 だから訊いてみただけだ。

 その言葉に納得したのかどうかは分からないけれども、ドクはまたゆったりと目をしばたたいた。


「さぁ、夢、夢か。私はいっちゃんの為にここへ存在しているから、そう言われると困ってしまうのだけれどね」


 スカートを翻してまた前を向く。

 再び歩き出したかと思えば顔だけをこちらに向けて、にんまりと口角を上げた。


「けれどもね、寝ているときに見る夢は好きだよ。あれは全てが思い通りになる」


 ドクは大袈裟に左腕を広げ、そして天を仰ぐ。

 まるでその恩恵を、我が身全てに受け止めようとするかのように。


「悪夢は見ないのか」


 ふむん、とドクが笑う。


「悪夢ね。ただ無為に生きている、その方が私にとっては酷い悪夢だよ」


 そう言って、ドクは俺の手を引いた。

 俺の心のどこかが歪んだ軋む音を立てる。

 その言い方では、まるで俺の人生が悪夢であるかのようだ。

 いや、それはただの被害妄想なのかもしれないけれども。


 それっきり、ドクも俺も口をつぐんだ。

 校舎の廊下には、ただ二人分の音だけが響いている。

 中庭に面した窓が終わっても、教室の側からは変わらず赤が射している。

 いつまでも赤く仄暗い校舎は、時間の感覚を狂わせるようだ。


 果たして、目覚めてからどれくらいの時間が経ったろう。

 上がらない右手首の時計は今更見ても意味はないし、教室を覗いても、どうせ短針だけの時計しかないのだろう。

 少しも見当がつかない。

 そもそも、だ。

 時間を知ったところで何だというのか。


 拗ねた子供のような気分で白衣のポケットへと手を突っ込めば、かさかさと音がした。

 何枚かの紙切れ、それにボールペンか何かで書かれた、幾筋ものラインが存在を主張する。

 これは一体何なのか。


 ドクはどこかへ意識を向けながら、黙って歩いている。

 件の古くからの友人の真似をするようにして俺は、今更ながらつらつらと考察を始めた。

 一枚、二枚、まるで番町皿屋敷だと心の中で暗く笑いながら数えていく。


 ――全部で六枚、そして、あと一枚。


 この紙切れは、何かから破り取られたものなのだろう。

 それはきっと、本だ。

 あの教室にあった触れない本が恐らくそうで、散らばる紙切れは――あの紙切れが、俗っぽい言い方をするなら、時空を越えて俺の手の中に存在しているのだとそう思う。


 ――どれかが足で、どれかが腕で。


 そんなことを考えていると、身体のパーツ自体が今、俺の手の中にあるような気がして途端に吐き気が込み上げた。

 ポケットの中に、バラバラの肉体。

 どうにも笑えない冗談だ。

 乾いた唇を噛み締めて、吐き気を押さえる。

 その拍子に唇の薄い皮がぷつりと切れて、口内へと鉄くさい嫌な味が広がった。


 目眩がする。

 きつく目をつむれば余計に悪化していく目眩に、足がもつれる。


「いっちゃん」


 ドクの声と、爪が突き刺さる程に握られた手が、俺をそこへと縛り付けた。


「少しも怖いことなどないよ。私が一緒にいるのだからね」


 小さな子供を宥めすかすように囁き掛ける声は、俺の安堵と誤魔化しきれない不安を煽っていく。

 交錯し、乱されて行く頭の中、頼れる物は繋がれたままのドクの右手だけ。

 今度は俺が強く握り締めた。

 軋む程の力にドクの表情がわずかに歪み、しかし、少しもたたない内に彼女の唇は緩やかに弧を描く。


「そう、それで良いのだよ、いっちゃん」


 それは許容だろうか。

 それとも、ただの肯定だろうか。

 どうしてか分からないけれども、頭のどこかがすうっと冷えていくのだけは分かった。


 ――そうだ、これで良いのだ。


 俺ではない俺が、いやしかし、確かに俺である何かが、俺を肯定する。

 俺であって俺でない俺が、俺を飲み込んでいく――そんな心地がした。

 ほんの軽く目を閉じて、静かに呼吸する。

 ああ、俺は何も、間違っていない。


「――そうだろう?」


 ドクは俺の唐突な言葉を聞き返すでも、否定するでもなく、猫のように目を細めて微笑んだ。

 これで良い。

 俺達はいつの間にか、校舎の端までやって来ていた。




 小さな足音が、その場へ不意に響いた。

 音の軽さからして、生徒用玄関へ置き去りにした、幾つも身体のパーツが欠損したままのあの幼い子供のそれだろう。

 あれからどのくらい、身体は補われたのだろうか。


 最初に足があった。

 そして右腕があった。

 子供には関係のない一枚があって、それから三枚、俺の白衣のポケットの中には増えた。


 殊更ゆっくりと、自分を包み込む空間全てが水よりもっと粘度を持ったものであるかのように、それの中でもがくようにして右を向く。


 たんたんたん。


 足音は、階段を上っている。

 それに合わせて、金属を柔らかなもので叩くような音がした。

 これはきっと、手摺を支える細い金属製の支柱へ宛がわれた指が、移動している音なのだと考える。

 どちらの手でそれをしているのかは分からないけれども、左腕を取り戻したのだろうか。

 無意識に手を握り締めれば、握ったままのドクの細い手が、軋んだような気がした。


 歩いてきた側ではなく向こう側の、廊下に面した特別教室、開かれたままの防火戸。

 視界の端を小さな影が走り抜けて、すぐに階上へと消えていく。


「あ」


 乾いた唇から、その音だけが漏れた。

 ゆっくりと目をしばたたく。

 その間にも軽い足音は続いていて、やがて聞こえなくなった頃になってようやく、俺の脳みそが再起動を図る。


 男の子だ。

 厚手のジャケットに、トレーナーの袖が覗いていた。

 短パンに、白いソックス、黒い靴――不安げな横顔。

 何一つ欠けることなく存在していた、それ。


 ああ。

 何故だ。

 何故だ。

 何故だ。

 何故、あれは――。


 心臓が、あばらが陥没してしまうんじゃないかと思うほどに収縮して、そして肋を突き破ってしまいそうなほどに膨張する。

 めまぐるしく繰り返すその臓器の動きはしかし、ひたすら空転しているだけなのか、ただでさえ冷えていた手足から血の気が引いていく。

 背筋を生温い汗が滑り落ちた。

 短い呼吸では酸素が臓器へ、四肢へ、回らない。

 頭がぼうっとする。

 あの、どうしたって不釣り合いな、ここに存在するはずがないその姿。

 何故、という言葉ばかりが脳みそを埋め尽くして、塗り潰し、食い散らかす。

 仄暗い階段を見つめたまま立ち竦む俺は微かにも身動ぎしないまま、皮膚一枚を隔てたその中では、狂おしいほどの混乱が暴れ回っているようだ。

 けれども、止める術が、俺自身にはない。


「いっちゃん」


 手を繋いだまま左に立つドクが、細い指で俺の指をなぞった。

 限界まで膨らんだ風船が破裂したかのように、大袈裟に肩が跳ねて、地面がぐらり、と揺れた気がした。

 いや、実際に揺れたのは恐らく、俺だけなのだけれども。

 犬のように短く何度も息を吐き出しては、そちらを見下ろす。

 視界は霞み、そこに立っているはずのドクの姿が曖昧になって、崩れそうになるのを俺は頭の中で必死に再構成していく。


 ――大丈夫だ、焦らなくて良い。


 少しでも気持ちを落ち着かせようと、ゆっくりと二度、目をしばたたかせた。

 仄暗い校舎、黒いセーラー服とお下げ髪。

 再び形を成していく世界を眺めながら、俺は自分自身へ言い聞かせる。


 ――そう、そうだ、何も怖れることはない。


 そこには変わらず、俺を見上げる少女が存在しているのだから。


「あの子、見覚えがあったのかい」


 黒い瞳がゆったりとしばたたかれた。

 今までとは違い、むしろ口角などは下がっている。

 珍しく、どこか気遣うような声だと、そう思った。


 俺はまたゆっくりと目をしばたたいて、努めて呼吸を遅くする。

 急かすことなくただ見上げてくるドクのその視線を感じながら、俺は自らを律した。

 吸い込んだ空気は、冷たい。


「見覚え……か……どう、だろうな。よく、見えなかったから」


 言い訳をしているようだと、心の中で自嘲する。

 いや、それは正しく、言い訳であるのかも分からない。

 むしろ俺がどう見てどう感じたのか、そんなことを訊かなくともドクは重々承知だろう。

 それなのに何故改めて訊かなくてはならないのかと――だから俺は言い訳をせざるを得なかっただけなのだと、新たな言い訳を自分自身へ積み重ねた。


 浅く吸い込んだ空気を吐き出す。

 俺を見上げながら緩く首を傾げたドクは、追求することはなくただ、そう、とだけつぶやいて俺から視線を外した。

 分かっていると、そういうことなのだろうか。

 俺に推測する手段はない。


「さぁ、行こうか、いっちゃん。最後の一枚を拾いに」


 静かな声で、ドクが言う。

 ゆっくりと目をしばたたいて、俺はうなずく。


「ああ、そうだな」


 どちらともなく、繋いだ手に力を込めた。

 そうして俺達はまた歩き出す。

 階段を下りて、途中の踊り場で折れて、また下りる。

 最初に見た、あの中庭にぽつりと置き去りにされた紙切れを拾いに行く為に。


 何も怖れることはない。

 何も焦ることはない。


 ――たとえあの小さな子供が、子供の頃の俺に瓜二つだったとしても。

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