ギガヘルツの、ちょっと先

木本雅彦

第1話 フェッチ

 中学に入ったらお父さんの研究室に遊びに行ってもいいと言われていて、実際に行ってみたら、その人はいた。


 Tシャツの上に白衣を着たその女性は、他の学生が学会で出払っているという学生室の中で、ひとりで窓を見ていた。コンピュータの画面に太陽光が反射するの避けるために、常にブラインドが降りている学生室だったが、彼女はそのブラインドを50センチほどあげて、窓の外の景色を見ていた。


 学生室の入口に立つ僕に気づいた彼女は、唐突に言った。


「ねえ、少年。15センチは何秒か知ってる?」


 は? というのが最初の感想で、少年と呼ばれたのが少し悔しくもあり、だけど彼女から見たら確かに僕は少年で、大学院生はお姉さんなのだから、そこは反論しないことにする。それよりも、問いの本質のほうが大事だ。


「光速は、秒速30万キロメートル。15センチ進むのに必要なのは、たったの0.5ナノ秒。……ねえ、0.5ナノ秒って、どのくらいか分かる?」


「分からない……です」


「コンピュータのCPUのクロックが2GHzとして、そのクロックがひとつ進む時間が、0.5ナノ秒よ。今となってはたいして速くもない性能のコンピュータがひとつ処理をするだけの時間で、光は15センチしか進まないの」


「お姉さんは、そういう研究をしているの?」


「私はもう少し上のレイヤー。15センチにこだわるような研究は……そうね、ここの先生なんかがしているかしらね」


「ここの先生?」


「君のお父さんよ。少年」


「でも、長さと時間は違いますよね」


「ねえ、少年。特殊相対性理論は分かる?」


 僕は首を横に振った。彼女はふっと優しく笑い、


「時間と距離は同じようなものよ。勉強しとくといいわ」


 そう言って手を振って、再び窓の外に意識を移した。帰れと言われているように思ったので、僕は研究室を後にした。


 彼女の名前は、桐生静華といって、父さんの研究室の大学院生だった。


「優秀だし熱心な学生だよ」


 と父さんは言っていた。自分の学生を自慢しているかのような、言い方だった。


 だけど僕は、彼女が父さんのことを話した時の、優しいくせに寂しそうな表情が忘れられない。


 一週間ほどたった土曜日に、僕はまた父さんの研究室に言った。今日は何人かの学生さんがいて(土曜日だっていうのに! )、コンピュータに向かって色々やっていた。


 静華さんは僕に気づくと、手招きをした。彼女の机の上には、液晶モニタが二台あり、その隣には何やらむき出しの基板(それが基板と呼ぶことを、僕は父さんの仕事部屋で見て知っていた)が置いてあった。


「ねえ、少年。こういうの、見たことある?」


「父さんの部屋で見たことあります」


「ああ、なるほどね。先生、大学の部屋も機材まみれだけれど、家も機材まみれって噂だしね。これもコンピュータの仲間なのよ? 知ってる?」


「はい」


「と言いながら、実は普通のコンピュータとはちょっと違うんだけどね」


「違うんですか?」


「これはFPGAの評価ボードって言って、うーん……コンピュータを自由に作れるコンピュータって言えばいいのかなあ」


「中身を作り替えられるってことですか?」


「そんなところ。賢いね、少年」


「少年ってやめてください」


「いいじゃん、少年。それより、相対性理論は勉強した?」


 静華さんは、僕に椅子を勧めて、座れと言った。僕はこの一週間で入門書を読んだこと、そこで覚えたことを話した。


「すごい! ちゃんと勉強してるじゃん」


「ローレンツ短縮が面白かったです」


「ああ、そうね。あれはイメージしやすいし、歴史的にも最初のほうで出てくる理論よね」


「でも本の最後に数式が出てきて、それは分かりませんでした。高校生なら分かるって書いてあったけど……」


「確かに特殊相対性理論の範囲なら、高校の数学で記述できるけど……結構手強い本を読んだのね」


「入門書ですよ」


「それはいい入門書だわ。あと、いい入門書を見つけるセンスは大事」


「そんなものですか」


「そんなものよ」


 静華さんは楽しそうに笑った。明るい人だと思った。それでいて、気が強そうな印象もある。眉毛のあたりとか、とくに。


「静華さんは、どうして父さんの研究室に入ろうと思ったんですか?」


 彼女は少し考える素振りをして、この前のように窓の外に視線を投げた。そしてぽつりと言った。


「先に行きたかったのよ」


「先に?」


「そう、世界の先。ほんの少しでもいいから、今のこの世の中の、先にあることを見てみたかったから」


「それで父さんの研究室に?」


「そうよ、あなたのお父さんは、少しでも先に行こうとしている人だから」


「普通のお父さんだと思うけど」


 静華さんは、また笑った。本当に楽しそうだ。僕と話しているのが楽しいのか、父さんのことを話しているのが楽しいのかは分からないけれど、僕は悪い気はしない。


「そりゃそうよ。普通じゃなくなったら、それは先に逝っちゃっている人。君のお父さんは、まだ先に行こうと頑張っている人」


「でも先生ですよ」


「先生でもよ。大学の先生なんて、みんなずっと頑張っている人よ。頑張るのをやめたら、先生なんかやってられないわ、きっとね」


「でもやっぱり普通のお父さんだと思うんだけどなあ」


「うん、それでいいんじゃない? 少年にとっては、普通のお父さん。私にとっては、少しでも先に行こうと頑張っている先生。少しでもってのは、それこそ光の速さで15センチとかね」


「2GHzですね」


「そういうこと」


 静華さんはその後、自分の研究やこれまで作ったプログラムを見せてくれた。それはロボットを動かすプログラムだったり、分散ソーシャルサービスの実験システムだったり、ネットワークを速くする仕組みだったりした。


 そんな彼女が今取り組んでいるのが、コンピュータを速くする仕組みだということだった。


「また来てね、少年。色んなことを教えてあげるから」


「ありがとう。……静華さん、それは僕がお父さんの子供だから?」


「さあ?」


 まただ。また、あの顔だ。


 静華さんは、少し寂しそうに笑っって、バイバイと手を振った。この話はしたくないと言っているみたいだった。


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