モルディの剃刀 3

「んだと?」


 しかし、ヴェッキーにはミリアーナの忠告に反応している暇などなかった。マークが、転倒して立てずにいた彼のもとへと迫っていたからだ。


「次は確実に当てる」


 身動きの取れないヴェッキーに向かって、二つの切っ先が虎視眈々と狙いを定めていた。


「ヴェッキー、来るわ!」


 まだ立ち上がれずにいたヴェッキーが、ぴくりと身構える。

 マークは双太刀を持った腕を大きく後方に引き伸ばした。そして足元に倒れこんでいるヴェッキー目がけて、彼の全体重を乗せた斬撃を振り下ろした。


「逃げて! まともに受け止めては駄目っ!」


 ミリアーナの忠告も虚しく、ヴェッキーはそれを勇ましく二本の腕で受け止めようと構える。危険だ、あのAVWに素手で触れれば物の見事にヴェッキーの指が刮ぎ取られるに違いない。命中するほんの直前に荒々しい雄叫びをあげたヴェッキーは両腕を交差した。そこに上から叩きつけられるような一撃。


「ヴェッキー!」


 思わず叫び声をあげながら運転席から身を乗り出す。


 彼女の視線の先にはAVWを振り下ろしたマークとそれを素手で受け止めたヴェッキーが、その体勢のまま静止している姿があった。


 ヴェッキーの指は……一本たりともかけて居なかった。


 十本の指が確かに双太刀をしっかりと包み込んでいた。素手でAVWの斬撃を止めたのだ。そしてそれだけではなかった。


「侵食しているんだわ……AVWの刃を」


 彼は両腕をクロスする形で双太刀を受け止めていたが、その手の中では奇妙な現象が起きていた。ヴェッキーの手のひらに包まれた刃はちりちりと溢れ、粒子状になって消えて居たのだ。


「間違いじゃなかった、父さんが言っていたことは正しかった!」


 ミリアーナは目の前の光景に打ち震えた。今この目で捉えた。確かにヴェッキーは自身の手でAVWのエッジを『侵食』した。

 父が残した言葉通り、確かにヴェッキーは世界遺産の特性を受け継いでいた。十年という長い年月を世界遺産の中で過ごすことで、彼は世界遺産の|形相(けいそう)エネルギーを自らの内に宿した。

 物体を侵食する力は現実態(エネルゲイア)化された現象。それはまるで大河川コロラド川が、大地塊を刮(こそ)ぎとり続けることで、目の前に広がる大峡谷(グランド・キャニオン)を創り出したように!

 言うなれば彼は『グランド・キャニオン国立公園』の魂を持った吸血鬼だ。



「何だと……」


 マークにとっては不可解だった。「モルディの剃刀」は攻撃した箇所の凹凸を、つるつるになるまで削り取るはずなのに。

 今頃目の前の男の手首から先は、なくなっていてもおかしくないはずなのに。どうして手が残っているのか、どうしてその手で剃刀を受け止めている⁉

 いや——これは。僕の攻撃が効いていないのではない。むしろ削られているのは……|AVW(ぼく)の方だ……!


「剃刀がっ!剃刀の刃がっ!」


 目前の大男の手に握り込まれた剃刀の刃が、ちりちりと削られて溢れゆくのに気付いたマーク。彼は思わず双太刀を男手から引き抜こうようとして上体を逸らした。


「あぁっ!」


 重心が後ろに移動し体勢を維持できなくなったマークはバランスを崩した。倒れゆく体を無理くりに支えようとしたせいで手元の支配がおろそかになり、剃刀の刃は足元の砂地に接触した。


「しまった、剃刀が!」


 効力を発揮した剃刀によってたちまちに地面の凹凸が掠め取られ、足元半径2メートルほどの範囲がつるつるとした床へと変わる。

 そこへ踏み入れた次なる左足の一歩が、摩擦の消えた地面を軽快に滑り出した。上半身が後ろにのけぞったまま、下半身は鋭い初速で前方へ引っ張られる。駄目だ、転倒する。

 マークは空中で最後の最後まで精一杯もがきながらも、つるつるとした半径2メートルほどの円の中へと落ちていった。

 地面に激しく後頭部を打ちつけ、その衝撃で右手から剃刀の片方が滑り落ちる。手元を離れたそれは少しの音も立てず円の外へとはじき出された。

 勝負あった。


「負けただと……?」


 男は靴底が禿げて使い物にならない右のバスケットシューズを脱ぎ捨てた。そして砂の中に転がる小さな小石を右手で拾い上げる。男は右手をブラウンのチノパンのポケットに突っ込んで、仰向けで大の字になったマークを見下ろしていた。


「形勢逆転だな」


 男がふぅっと顔の前に持ってきた小石に息を吹きかけると、それは音もなく砂塵となって谷風の中に消えた。マークはその間も摩擦のない床をなんとか抜け出そうともがいていたが、それが無駄だとわかるとすぐに足掻くのをやめた。


「ありえない、僕のAVWが、力負けするなんて!」


 男はマークの独り言など少しも聞いていないように、彼の手元から離れた双太刀の一片を拾い上げると乾いた地面を引き摺りながら彼の周りを歩き始める。

 地面に刻まれた太刀筋はマークが脱出できない今の円より、さらにひときわ大きな円を描いた。線の始まりと終わりを繋げて男は仕上げに地面を太刀で突く。


「これでよしっと」


 手品のように描かれた円の内部がざらざらとした砂礫の表面から、光沢を持ったつるつるの床へと一瞬にして変わった。その大きさは半径4メートルほどにも見え、もはや脱出することは不可能だった。おそらくカーリングのように外からの物体にはじき出されるまでは、この円から自力で脱出することはできまい。


「まぁせいぜい助けが来るまでその上で泣きベソでも掻いてな」


 大男は別れ台詞を吐き捨てると、落ち着いた足取りで女の待つ小型車へと向かった。


「おい待てっ!お前は一体何者だ!」


 マークは床の上で小刻みに震えながらを男を精一杯睨みつけた。体勢を動かせない今、これが精一杯だった。


「ん?オレか?」


 男は振り向いて、白い歯を見せながら笑った


「オレはヴェッキー……また会おうぜ」



 後部座席にヴェッキーが乗り込むと、クーパーの小ぶりな車体は砂の上から国立道路US-89の熱せられたアスファルトに乗り上げ、南の方へと走り始めた。


「そういやぁ、オレはまだおめえが誰かを聞いてなかったな」


「あっそういえばそうね」


 ミリアーナはヴェッキーを知っていたので、普通に名前を呼んでいたが。

 よく考えると彼は自分のことを知らなかった。


「じゃあ……改めてアタシはミリアーナ。アンタと同じく吸血鬼、21歳よ。この近くの町フラッグスタッフで喫茶店をやってる」


 ミリアーナはヴェッキーと軽く握手を交わした。初めて握る彼の手はゴツゴツとしていて爬虫類の鱗を触っているかのような感覚だった。

 ミリアーナはダッシュボードに曝していた食べかけのビーフジャーキーを咥える。

 そしてしっかりと前方を睨み据えた。

 思わぬ邪魔が入ったが、足早にフラッグスタッフへと向かうとしよう。


 次の目的地フラッグスタッフまで……約40マイル!

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