第三十話 雪

 カレンダーが十二月になる頃、小熊のカブはウインドシールドを付けたことで、寒さという問題が大幅に改善された。

 カブに元からついている、下半身を風から守るレッグガードという白い樹脂性のカバーとの組み合わせで走行風を封じたことで、防寒のため身に付ける物は、現在持っている服で充分になった。

 レッグガードの付いていないハンターカブに乗る礼子は、最初のうちはウインドシールドの時と同じようにカッコ悪いと言っていたが、結局のところ寒さに負け、以前乗っていた郵政カブの部品を引っかき回して見つけたレッグガードを、あれこれ加工して取り付けた。

 例年より冷え込みが遅く、まだ雪が降るほど気温の下がりきっていない気候、降雨のそれほど多くない山梨に秋雨の残りのような雨が降ったこともあったが、雨の日にもウインドシールドは効果を発揮してくれた。

 出先で小降りでも豪雨でもない、普通くらいの雨に降られた小熊は、後部のボックスに入れたレインウェアを着ようか迷いながら走った後、目視と鏡で自分の姿を見て驚いた。一時間くらい走ったのに、ヘルメットと腕の外側がちょっと濡れただけで、ジャケット本体は乾いたまま。

 小熊はウインドシールドの効果に感嘆しながら、雨粒が付いて視界を妨げるのだけは注意しなくてはいけないと思った。昼間ならさほど気にならないが、日没後には人工の光を反射して、よく前が見えなくなる。


 ウインドシールドで寒冷対策が一段落ついたことで、小熊も礼子も寒さという負担が無くなり、夏や秋と変わらぬ頻度と距離をカブで走るようになった。

 小熊はこの装備を買うために口座の金をほぼ使いきり、来月の奨学金が振り込まれるまでは最低限の物しかしか食べられないことを覚悟したが、今までレトルトに依存し週に一~二回だった自炊の回数を増やすことで、なんとかみすぼらしい食卓にならない程度の暮らしをしている。

 走ることが負担ではなくなったカブに乗って、レトルトフードを買うには足りぬ金を手に、少しでも安い食材を探し回った小熊は、自分の暮らしている山梨が、意外と食材が豊富であることを知らされる。

 県の名産になっている果実や高地野菜だけでなく、歴史的に日本海と太平洋の海産物が集約する物流拠点だった甲府では、魚も種類豊富で安い。

 スーパーだけでなく個人商店や八百屋、あるいは道端の即売所では、秋に実った野菜や果実が売られ、小熊がカブに乗って買いに行くと、外見から慎ましい暮らしをしていることがわかるのか、オマケしてくれることも多い。

 小熊はカブに感謝し、最初は冬の冷たい風が辛かった山梨の地に感謝していた。関東甲信越と言われる通り気候的には東北、北陸より関東に近いため豪雪には縁遠く、関東に比して空気が乾燥しているため、平野部では夜の路面凍結もあまり起きない。

 ついこないだまで憎むべき敵だった南アルプスからの風は、原付に乗る人間にとって暮らしやすい街と道を作ってくれていた。この地でカブに乗って良かったと思った。親から捨てられた身だということも、不便ではあるが不幸ともいえないのではないかと思い始めていた。


 その日も小熊は、学校帰りにカブであちこち走り回っていた。娯楽に回す金を全部使い切ってしまった以上、ただ走るくらいしかすることが無いし、カブはいくら走っても走り足りない。

 礼子は隣県の相模原に掘り出し物のパーツがあると行って、学校が終わるなりハンターカブで飛び出して行った。

 空を見ると一面の曇天。急な雨を降らせるような雨雲じゃない、それより白みの強い、低く均一な雲が広がっている。ガソリンの残量が心細くなり、最近は走りに行った帰りによく寄る椎の店がもうすぐ閉まるので、小熊は北杜市までの帰路についた。

 小熊がスタンドでガソリンを満タンにした後、椎の家に着くと、出かけていて不在の椎の替わりに椎の父がハワイアン・コナのアメリカンコーヒーを出してくれた。

 濃厚ながら苦味がすっきりしたコーヒーを飲んでいる小熊に、椎の父が言った。

「今日はドイツ北部みたいな空だ」

 ドイツには特に詳しくも無いし興味も無いので、小熊は適当な相槌を打ってから、話題を椎の話に切り替える。父によると椎は店のカフェスペースをバール風にするため、韮崎までイタリアンローストのコーヒー豆を買いに行ったらしい。


 小熊と礼子に影響を受けたのか、最近の椎は自転車であちこちに出かけている。とはいっても椎の小さな体では、最寄りの大きな街である韮崎くらいが限界。

 最初は押し付けられ、タダで貰ったからといって乗っていたアレックス・モールトンの自転車を、やっと好きになってくれたみたいで嬉しいという椎の父に、小熊は言った。

「見ていて少し危ないと思った事が何度かあります。気をつけるように伝えたほうがいいのかもしれません」

 椎の父は渋い顔をした。娘に口うるさく何かを言うのが苦手な父親らしい。

 コーヒーの礼を言って店を出た小熊は、夕暮れの道を家まで帰った。

 息を吸うと鼻の奥にツンとする感触がある。曇り空が今までとは違う冷気を運んできていた。

 翌朝、小熊がアパートで目を覚ますと、雪が降っていた。

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