第二十七話 テオレ

 一時的な冷え込みは落ち着き、初冬の北杜市は平年並みの気温に戻った。

 小熊はカブに乗る時に着るライディングジャケットにウールのライナーを付けたことで、とりあえず上半身の寒さという問題を解決した。

 普段はライナー無しのライディングジャケットをブレザーの上に着て、気温の低い日や夜間に走る時はライナーを付ける。使い分けで寒さに対処出来るようになった。

 椎から貰ったカーディガンを手芸部の顧問教師が仕立て直してくれた。脱脂していないウールのジャケットライナーは予想以上の優れもので、冬でも昼間の陽気ならTシャツやブラウスの上に着るだけで充分な保温性を発揮してくれた。

 手の寒さを訴えていた礼子も、ハンドルカバーとウールの手袋のおかげで冷気から開放され、今は軍手と同じくらい気に入ったらしきウールの手袋を、必要に応じて使っている。

 余り布でポットカバーを作った椎も、コーヒーが今までより温かくなったと言っている。保温ポットのコーヒーがカバーで変わるわけないが、手触りや見た目も含めた心理的効果だろうけど、合成素材が進化した今もなお厳寒の場で活動する人間が選ぶというウールの実力を小熊は再確認させられた。


 冬の寒さという大きな敵との戦いが一段落したことで、小熊と礼子のカブ生活は平穏を取り戻した。

 変わったことがあるとすれば、学校帰りや休日に、椎の家が営んでいるベーカリーのカフェスペースに行くようになった事。

 毎日使っても当分の間、使い切れないほどのコーヒー無料クーポンを貰ったこともあるが、タダ飲みに係わらず数日行かないと椎に催促されるようになり、行くたびに椎の父や母から新メニューの試食という名目でサンドイッチやパイを振舞われる。

 椎もドイツ風のパンを出すイギリス風のベーカリーに作られたアメリカン・ダイナー風のカフェスペースを、イタリアン・バールにするという目論見を進めている様子で、以前はエスプレッソマシン一つだった領土も、今は店内に四つあるギンガムチェックのクロスが掛かったテーブルのうちの窓際の卓のクロスを、赤いリネンクロスに換えることに成功し、その席は小熊と礼子の専用のような感じになっている。

 白いエスプレッソマシンと赤いテーブル、椎が店に居る時に着ける緑のウエストエプロンでイタリアンストライプが揃い、椎によるカフェ乗っ取り計画は概ね順調に進んでいる様子。


 今が冬のほんの入り口であることを忘れたような、意図的に見ないふりをしているかのような慢心の日常は、非情な天気予報によって終わりを迎えた。

 最低気温が零下五度を下回る真冬の冷え込み。前回のお試しのような一時的な冷気と違い、これから数日続くらしい。

 ラジオで天気予報を聞いてた小熊は、特に危機感を覚えることは無かった。実際のところ自宅から学校までの道では、いつもより寒いとは思ったが、ハンドルカバーとウールライナーのおかげで、辛くなるほどの冷たさは感じなかった。

 駐輪場で会った礼子も、フライトジャケットとウールグローブのおかげで余裕のある表情。もうこの南アルプスの冬を制したような気持ちになっている。

 午後の授業が早く終わったので、小熊と礼子は帰りに買い物に行くことにした。

 二人がどこかに出かけたいけど、特にどこに行くか決めてない時にとりあえず行くのは、中央市にある中古バイク用品店。古書店系リサイクル店と大型のホームセンターが隣接しているので、とりあえずそこに行けば見たい物を見ることが出来る。

 モールトンの自転車しか持っていない椎は羨ましそうにしている。中古バイク屋の裏手に倉庫を改装した大型の輸入雑貨屋があるが、椎にとっては宝の山だという店は父か母の車でしか行けないらしい。

 店で温かいコーヒーを淹れて待っているという椎を学校に残し、小熊と礼子はカブで走り出した。


 鉛色の曇天。気温が上がる様子の無い昼下がり。南アルプスから冷たい木枯らしが吹く中、小熊と礼子は甲州街道に出る。小熊は今日、家から学校までの県道をゆっくり走るだけで、幹線道路の巡航速度で走ったことが無いことを思い出した。

 走行中のバイクが晒される、台風やブリザードの時と同等の風を上半身に受けた小熊は、寒さに身震いした。

 防寒ウェアというものは、その性能の限界を超えると、いともあっさりと降参する。氷より冷たいジェルが体に染み込み、まとわりついてくるような寒さの前に、ウールライナーは仕立ててほんの数日で役立たずになった。

 とりあえずうまく噛み合わぬ歯をくしばって寒さに耐えた小熊は、中央市に買い物に来た時によく停めるバイク用品店の駐輪場にカブを突っ込ませた。

 カブが止まったことで、走行中の強い風からはようやく開放されたが、体の震えは止まらない。礼子もフライトジャケットの限界を超えた寒さに生気を失った顔をしている。

 何とかカブから降りた小熊は、礼子の腕を掴んで歩き始める。急な寒さに襲われ、何も備えの無い時の対処で小熊が思いつくものといえば、とりあえず体を動かすしか無い。

 

 二人で駐輪場に隣接した広い駐車場を一周し、ようやく体が温まってきた。小熊は礼子に言う。

「あれを付けるしかないのかな」

 小熊の言う物が何なのか礼子にはすぐわかった様子。しかし首を横に振る。

「イヤだ、私のカブにあんな物付けるくらいなら、冬の間カブを封印する」

「私も付けたくない、あれは中古でも高価いし、新品なんて買えない」

 二人でバイク用品店に入った小熊と礼子は何も言わず、ある物の売り場に直行する。

 ちょうど近くに居た店員に、先を争うように聞いた。

「すみません。スーパーカブ用のウインドシールドは入荷していますか?」

 カウリングやバイザー等、バイクの外装部品を取り扱うコーナー。小熊と礼子の記憶では数日前に中古美品のウインドシールドが取り扱われていた。

 

 ウインドシールドと呼ばれる、カブの前面に付ける透明な樹脂製風防。小熊と礼子がスーパーカブの寒冷対策について調べ始めて以来、最も多く名の挙げられたツール。

 冬にカブに乗る人間の多くが口を揃えて最良の防寒装備だと言い、小熊が値段の高さを、礼子がカッコ悪さを理由に付けることを拒んでいたもの。

 部品流通の潤沢なカブとはいえ、必ずしも欲しいパーツが手に入るとは限らない中古バイク用品店。店員は申し訳なさそうに今は置いていないこと、数日前まであったけど売れてしまったことを告げる。

「ホっとしたわ、もし置いてたら気の迷いで買っちゃってたかもしれない」

「私も後先考えず散財していたかもしれない。買えなくて良かった」

 強がる二人に店員は、別店舗の在庫を取り寄せるかどうか聞いた。

 小熊と礼子は顔を見合わせ、それから二人で首を横に振った。

 他に大した収穫も無く、バイク用品店を出た小熊と礼子は、相変わらず寒そうな空の色を見て、骨まで冷えるような木枯らしの風に吹かれた時、これからこの寒さの中を帰らなくてはいけないということを思い出し、断らなきゃ良かったと後悔した。

   

 風が強くなり、往路より更に寒い帰り道を走った小熊と礼子は、魔物から逃げこむように椎のベーカリーカフェに飛びこんだ。

 制服にギャリソンスタイルのウエストエプロンを巻いた椎は、全身が冷凍庫でくまなく冷やされたような小熊と礼子に、エスプレッソマシンのスチームで淹れるテオレというイタリア風のミルクティを出してくれた。

 甘く濃くグラッパ・ブランデーの香るテオレを飲んで人心地ついた小熊は、礼子に聞く。

「あれ、付けるの?」

 熱いテオレをグイっと飲み、口を少し火傷させつつ椎におかわりを頼んだ礼子は、熱さも寒さも喉元を過ぎたらあっさり忘れた様子で言う。

「いやだ、やっぱり付けない」

 椎が小熊のカップにもテオレのおかわりを注いでくれたので、小熊は礼替わりに椎の首筋に自分の冷え切った手を突っ込み、飛び上がらせてやりながら言った。

「私もあれを買うと、今月はかなり厳しくなる」」

 ステンレスの盆を胸の前に抱えた椎が小熊たちのところにやってきて、話に入ってきた。

「あの、もし迷ってるんなら、試してみればいいんじゃないですか?」

 つい最近エスプレッソマシンを買った椎も、文化祭で学校からの借り物のエスプレッソマシンを使い、今までアメリカン用のコーヒーメーカーで何とかエスプレッソっぽく淹れてたニセモノとの違いを知ったことがきっかけで、中古再生品の業務用エスプレッソマシンに貯金をはたいた。


 小熊はテオレを一口飲みながら言った。

「ウインドシールド付きのカブに乗せてくださーいって、そんな都合のいいお願いを聞いてくれる知り合いは居ない」

 小熊と椎のやりとりを聞きながら、テオレを口に運んでいた礼子が、突然立ち上がる。

「ある!」

 小熊は半信半疑の表情で礼子を見なから聞いた。

「いつ?」

 礼子は隣の席に置いたヘルメットを掴みながら言う。

「たぶん今からでも大丈夫」

 小熊も残ったテオレを飲み干し、席を立った。

 ついさっきまで暖房の利いた店内から外に出たくない様子だった二人が、今すぐにでも飛び出したいといった表情をしているのを、椎は唖然とした顔で見ている。

 小熊が温かいお茶を飲ませてくれた椎に、無料クーポンを一枚渡すと、椎はまたプリンターで作ったらしきクーポンの束を押し付けながら言った。

「明日も来てくれますよね」

 小熊は窓の外を見ながら答える。

「今日くらい寒くなったら」

 小熊と礼子はカウンター裏のバックスペースに居た椎の父への挨拶もそこそこに、店を出る。

 椎が小熊と礼子の背を見ながら「雪が降ればいいのに」と、バイクに乗る人間にとってはシャレにならないことを言ったのが聞こえた。

 ヘルメットを被った小熊はカブのエンジンをかけ、先行する礼子についていった。

 外がとても寒いことには、しばらく気づかなかった。

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