奴隷邂逅【8-1】


【17】


 自身が寝そべるマットレスに染み付いたカビの臭いで、彼は目覚めた。周囲は闇に包まれており、小さな手の届く範囲すらも目視が叶わない。視界の端に、弱々しい白光が筋を投げ込んでいる。どういった訳だか、少年は自分の出身はおろか、名前すらも憶えがなかった。縋る為のよるべを求める様に彼はその光に歩み寄り、蹴躓く。転倒した額を、ささくれ立った木板が襲った。子供らしい喚きさえなく手探りすると、どうやら階段があるらしい。指先に棘が刺さる感触を歯牙にも掛けず、少年は軋む板に足を掛けた。

 階段を上がった先に、ぼろぼろのテーブルを中央に備える空間があった。その奥は油汚れが壁にこびり付くキッチンで、洗い物の山が放置されている。割れ目の走るたった一つの窓から、分厚い雲間を抜けた陽光が差し込む。決して広くはない部屋の片隅で、ロッキングチェアが悲鳴を上げて揺れていた。そこで息をひそめる人間の存在に気付くのに、少年はかなりの時間を要した。射抜く様な男の視線に捉えられると、道の恐怖への警戒心に、少年はたじろいだ。中年の男は至極かったるそうに席を立ち、罠にかかった兎同然の子供へにじり迫る。ドラム缶の如き胴体から延びる野太い脚が薄い床板を踏み締める度、不気味な呻きが室内を満たした。

 男が目と鼻の先に迫ると、幼少の身でも直感的に、男が信用に足る人物ではないと悟った。顔に黒く脂ぎった髭が不潔に生い茂り、頭は頂と額が禿げ上がっている。皮膚のそこら中に吹き出物と茶色の染みが巣くっており、落ち窪んだ黒い瞳には欠片も情が宿っていない。背丈は高い方ではなく、蓄えられた脂肪がパンツから大きくせり出している。その危険人物がやにわに少年の顎――さほど時間の経っていない、赤黒く生々しい傷が歪に走っている――を粗暴に掴み、ぐいと上を向かせた。まだ癒えぬ、いつ出来たかも知れぬ切創の痛みに、少年は顔をしかめた。男の皮脂の付着する毛の生えた指に、小さな身体は抵抗の片鱗さえ示せなかった。

 男はしばらく少年の顔を舐め回す様に検分すると、相対的な弱者に言い放った。

「俺がお前を買った」

 仏頂面を崩す気配を全く覗かせず、男は口からタマネギの腐臭を発する。少年は子供の枠組みから外れ、庇護のない奴隷の枷をはめられた。



一九八〇年代前半 アイルランド北部六県 南アーマー州


 国家独立を掲げるIRAの陰惨な反政府運動が渦巻く土地、かくして奴隷の生を強制された記憶喪失の少年は、ロビーと名乗る中年男性の小間使いとなった。後に便宜を図られて、IRAの指導者に倣いマーティンと名付けられる少年であるが、幼くして生き延びる術を心得ていたらしい。雇用主に刃向かったのは、ただの一度きりであった。

 ロビーはマーティン少年に、家事の全てを担わせた。さして広い家ではなかったものの、至る場所から腐敗臭の漂うスラム街同然の空間に統治をもたらすのは、当時の彼の矮躯からしてなまなかな行為ではなかった。

 日々酷使される事でマーティンは痩せ衰え、紛争下の現地民と変わらぬ風体であった。日に三度は残虐な雇用主に殴られ、常に目の下に青あざをこさえており、学校にも行けずにいた。日がな一日をロビーの監視下で働き、それ以外は地下室の不衛生なマットレスで眠って過ごした。ろくに外出は許されず、皮膚は次第に紫掛かった斑紋が浮かぶ様になって、三白眼気味の瞳からは歳相応の輝きが失われていた。過労で心身共に憔悴し、黒い頭髪からは色素がどっと抜け落ちた。

 マーティンが炊事をする――今でこそベーコンもまともに焼けなくなってしまった彼だが、過去にはその任を一身に背負っていた――そのすぐ傍で、ロビーは常に飲んだくれていた。昼時に酒瓶の転がる寝床から這い出すと、奴隷が片付けたリビングでひねもすビールをあおる。そうして椅子で寝入ったと思えば、明け方に悪霊もかくやという咆哮でテーブルに吐瀉物を撒き散らし、何食わぬ面で寝床に帰ってゆく。吐瀉物の処理をするのは当然の如くマーティン少年の責務であり、怠れば雇用主の靴底を舐める羽目になるので、彼は茶ばんだ汚物を片付ける。主人のゲロに反して涙は既に枯れ果て、感情はそれ以上に渇き切っていた。

 放埓かつ堕落した生活を続けるロビーであったが、何処かに金脈でも持っているのか、生活費に貧窮するためしはなかった。ただ、時たま郵便受けに宛名はおろか送り主さえ記入のない封筒が投函され、その度にロビーは人が変わった様に寝室に籠もって何やら作業を始めるのであった。その数日後には何者か――時として腰の曲がった老人であったり、薄幸そうな女性であったりした――が家を訪れ、彼のこしらえた青果の段ボール箱と引き換えに皺だらけの札束を受け渡して帰る姿を、マーティンは幾度となく覗き見ていた。想像するに、あの箱には希望とか呼ばれる何かが詰まっているのではなかろうか。中身を知らなかった少年は、寝床に潜る都度パンドラの箱へと想いを馳せた。知った後で、冷酷な現実に打ちのめされるとも知らず。

 苦役と暴力の二年が過ぎると、少年奴隷の凄惨な日々に転機が訪れた。この一件により、彼は地獄のるつぼを垣間見るのである。

 家事も板に付いてロビーからの暴力も少なくなった頃。快適ならぬ地下で束の間の休息を摂るマーティンに、上階の雇用主から呼び声が掛かった。本音を言うと億劫で仕方なかったが、また不快感を催す腕に殴り付けられるのも癪だと、腐食した階段に足を掛けた。

 階段の先、変わらずほの暗いリビングで、普段よりも険悪に表情を強張らせたロビーがテーブルに着いていた。どうも茶を要求する風ではない。テーブルの中央に、かなり使い込まれた形跡のある、見慣れない本があった。通称『グリーンブック』と呼ばれるこの書籍こそ、北アイルランドに駐留する英軍兵士への攻撃法や爆弾テロの手順を指南する、IRA暫定派の訓練教本であった。これを視界に入れたその時より、マーティン少年はIRA暫定派の兵士として、謀略の汚泥にまみれた活動を余儀なくされる。

 この一件より、使用人はろくでなしの影に隠れた、雇用主の裏の姿を拝む羽目を食う。とある日、彼は雑務を終えた深夜にロビーの寝室へ呼ばれ、そこで鋼鉄の作業台に載せられた工具群と対面する。ペンチ、ニッパー、皮手袋、膨大な長さの配線、焼け付いた半田ごて、鋭利なナイフ、そしてオフホワイト色の粘土の塊――。これらは全て、IRA暫定派たる『プロヴォ』がテロ活動を実行するのに不可欠な道具である。粘土の名称はPE4――イギリス軍制式の、高性能プラスティック爆薬である。可塑性が高く科学的に非常に安定していて、雷管を挿さなければ決して起爆しない。炸裂の際にはTNT換算で一・三倍以上の破壊力を発揮し、正確な分量計算と設置場所を適用すれば、巨大な鉄橋をも崩落させる。日常生活において一般人が目にする機会のない軍用爆薬を、ロビーが何故に保有しているのか。当時の北アイルランドを知る者であれば、答えは歴然としている。この中年はIRA過激派の実行犯であり、その爆弾製造を担っていた。

 年端もいかないマーティンであったが、この光景を目の当たりにして瞬時に事態を把握した。殆ど自由を許されなかった彼だが、自身の幽閉されている地域がどういった場所であり、如何に緊張に満ちた場であるかを悟っていた。そんな場所で、自分は殺人の一端を担ぐ事になる。逃れ得ぬ運命を呪う気力さえ、その身には残されていなかった。生きる為にやる。余計な思考は死に直結していた。

 それからというもの、マーティンは一日の雑用を終えると、埃臭い地下室へ移設された作業台と向き合い、ロビーの指導下で爆弾作りを仕込まれた。標的に適した爆薬量の計算、解除不可能な構造の配線、時限装置の自作……。当時でトップレベルの発破技術を叩き込まれたマーティンは、文字通り災厄の火種となった。

 奴隷として迎えられたマーティンへの扱いは凄惨を極めるたものであったが、北での仕事を憶えるにつれて、改善の兆しが見えてきた。ロビーの毛むくじゃらの腕に嬲られる憂き目はなくなり、量の少なかった食事も自由に摂れる様になった。彼にとって最も大きかった変化は、定期的に本が与えられる制度の適用であった。彼は多岐に渡る書籍を読み漁り――とはいえ、思想書だけは許されなかった――義務教育で学ぶ以上の知識を吸収していった。所持する情報が増幅する愉しみを味わった少年は寝る間を惜しんでページをめくり、鉛筆をノートに走らせた。そうした日々が一年ほど続き、この暮らしも捨てたものではないのでは、そんな風に楽観的に構えていた時分であった。

 壊れかけの食器を磨く昼下がり。ロビー宅の郵便受けに、爆弾の注文書が投函された。路肩の排水溝に設置可能な、遠隔操作で起爆する型の爆弾を一つ。それを三日後の正午までにとの指示であった。宛先の人物は酒瓶をあおりながら書簡に目を通し、腐臭のするおくびを吐いてから、注文書を小さな使用人へ放った。「こいつはお前がやれ」それまで訓練漬けであった奴隷にとって、IRAの破壊工作に携わる最初の試練である。

 その晩、マーティンは汗の染みた作業着と前掛けを身に着け、使い古された皮手袋をはめて作業台に向き合った。プラスティック爆薬のブロックから必要な量をナイフで切り分け、配線と繋ぎ合わせる。額の汗が止まらなかった。装置の作動への恐れ、或いは戦争に身を投じる緊張からか。奴隷は手の甲で汗を拭い、作業を続けた。起爆装置には、遠隔式のガレージオープナーを使用する策定を下した。IRAでは頻繁に用いられる手法だ。電波の有効範囲内であれば、ボタン一つで起爆可能な点が評価されている。

 最後に通電を確認した電気信管を爆薬へ挿入すると、完成した爆弾をリンゴの木箱に収め、余剰空間に曲がった鉄釘や芋虫みたいに太いボルトを詰める。万一に備えて対解体の工作を施し、時限式の第二の起爆装置を取り付ける。三時間に及ぶ作業に息をつくと、奴隷は雇用主へと終了の報告に階段を駆け上がる。リビングで酒を浴びるロビーの手を引いて地下室へ飛び戻ると、興奮した様子で自分の最高傑作を見せ付ける。ロビーはいつもの仏頂面を張り付けたまま配線を目で辿り、鼻息を一つ漏らす。やにわに、その黒ずんだ手を被雇用者へがばと振り上げた。使用人は反射的に両目を強かに瞑り、何を間違ったか思案した。配線か?それとも解除対策か?何れにせよ、俺はやらかしたのだ。自責が最高潮に達したところで、腕が彼の白髪頭に下ろされた。非常に乱暴なまさぐり方ではあったが、それは確かに慰撫と呼ばれる行為であった。数秒のそれが為されて呆気に取られるマーティンをその場に残し、ロビーは完成品の爆弾を抱えて、さっさと上階へと戻っていった。この時、少年は久しく充足を覚えていた。父親のみがもたらせる温もりだ。父性の存在なぞ、知りもしないのに。

 マーティンの製造した爆弾は、老いた男へと期日通りに引き渡された。それがいつ何処で使われる事になるのか、ひょっとすると使われずに秘密の武器隠匿場所に保管されるかもしれないが、どういった働きをするのかと、幼心地な関心を抱いていた。彼がその答えを知るのは、それから一週間後であった。

 アイルランドでは平常運航の曇天が空を覆うその日、色が正常に映らないブラウン管で、マーティンは衝撃的な光景を目にした。南アーマーのプロテスタント居住区で、IRAが仕掛けたとされる路肩爆弾が白昼に炸裂したとの報せがあった。五人の死者と十三人の負傷者が生じたという解説の最中、事件現場の遠景が映し出される。

 黒く焼け焦げた道路が爆心地を中心に抉れ、原型の失われた自家用車が縁石に横たわっている。排水溝に仕掛けられていたらしい、回収された爆弾の残骸に画面が移る。役目を終えた装置の写真を見るや、奴隷は戦慄した。――リンゴの木箱の切れ端。褒賞の喜びの一心で失念していたが、彼は嬉々として人殺しに携わったのだ。自らの功績が人間を千々に吹き飛ばした現実に、遅ればせながらおののいた。磨かれたキッチンで嘔吐し、身体の震えを抑えようと毛布にくるまって歯を噛み締めたが、全て無意味だった。一度でもその働きを誇った我が身を呪い、枯れた筈の涙を零した。引き返せない場所にまで来てしまった。自らが望んだ生業でなくとも、無辜の人々を脅かす結果に違いはない。良心の呵責に息が詰まり、彼はそれからしばらく眠れない夜を過ごす。これ以降、この地においてマーティンの生活が上り坂を迎える日はない。


 齢が二桁に到達する時分になると、マーティンは白髪を染めて現場の偵察任務を担うまでになった。この時代、北アイルランドでは工作員や連絡係として、子供の奴隷の利用が横行していた。身寄りのない奴隷は調教が容易であったし、軍は子供への攻撃が許されないのだから、これを使わない手はない。政府は幾つか政策を実施してはいたものの、くそ餓鬼に鼻をほじるなと叱咤するのと同様、抑止力としての機能は皆無であった。

 マーティン少年の瞳は生気が完全に抜け落ち、失望に身をやつして頬がこけ落ちていた。それでも、年齢以上の利口さと頑健な肉体を持ち合わせ、この地獄で生き抜く機知を有していた。

 薄い霧の下りるボグサイド地区の夕暮れ時、マーティンはメッセンジャーバッグを肩に吊り、落書きされた壁にもたれていた。両手は、上着のポケットに突っ込まれている。一九七二年の『血の日曜日事件』の記念碑が遠方に見える。視線の先には、市街地を巡回する陸軍のハンバー・ピッグ装甲車があった。彼はそこから百メーターも離れていない地点で待機していた。――哀れなやつら。その視線が、装甲車から少し離れた位置に停車するトヨタへ向く。白い車体は傷だらけで諸所の塗装が剥げ、ウィンドウにはスモークが貼られている。装甲車はじりじりと、トヨタの方へタイヤを転がす。マーティンは人目を引く傷跡をファンデーションで隠し、野球帽を目深に被っていた。履いているジーンズは膝が破け、如何にも不潔そうな雰囲気が漂っている。その場の誰が見ても、学校をフケている餓鬼んちょの一人くらいにしか思わなかった。

 あとどれくらいだ?プロヴォの手先たる奴隷は目を細め、装甲車とトヨタの距離を見定めた。約十五メーター。下唇を噛み、片手をバッグへ潜らせる。指がまさぐる先に、硬い感触があった。装甲車は尚も重々しく進み続ける。あの中に何人いるだろう。八人か、それとももう少し多いか。何れにせよ、支障にはならない。BBCのニュースの字幕表記が、ちょっと変わるだけだ。唇を濡らして呼吸を整え、彼は装甲車へ向き直った。トヨタとの距離、十メーター。十分に有効範囲内であるが、まだその時ではない。七年を掛けて培った辛抱強さは、こうした場面で役に立つ。八メーター。内頬を噛み、逸る身を律する。今すぐにこの場から逃げ出したい焦燥を押し殺し、じいと待つ。もしも上手くいかなかったら?その時は、事前に決めた段取りに従うまでだ。陰気な面構えの下で、彼は必死に自身との葛藤を繰り広げていた。五メーター。近い。だが、仕損じる可能性がある。四メーター。悪くない、でももう少し引き付けられる。三メーター。微妙な頃合いだ。他人の指示があれば、迷わずにやっている。二メーター。二の足を踏む最後の機会だ。だが、彼にはそもそも退路がなかった。一メーター。その時、マーティンが動いた。

 奴隷がバッグの中で指を押し込んだと同時、地面がめくれる程の衝撃と轟音が周囲を駆け巡り、何もかもが宙を舞った。駐まっていたトヨタが大量のPE4プラスティック爆薬で装甲車を巻き添えに弾け、空まで届かんとする炎の渦を巻き起こす。正しく一瞬の出来事であった。改造を受けたガレージオープナーより発せられた電波が、電気信管を起爆。PE4爆薬がトヨタが積む満タンの燃料と、英軍からくすねた迫撃砲弾もろとも炸裂したのだ。。

 爆心地付近の人々がパニックを起こしてうずくまったり、狂気に駆られて喚いている。少数は呆気に取られて、噴煙の行く先を虚ろに眺めている。IRAを支持する層が、ゴミバケツの蓋で地面を叩く。二十世紀の地獄絵図が展開されていた。マーティンはバッグから小型の双眼鏡を取り出し、装甲車へと構えた。目標は原型も留めずに巨大な火柱と化しており、左側のドアが爆風で彼方へともぎ取られていた。車内でもがく影が窺えない事から、乗っていた兵士らは即死したものと見られる。燃え盛る二つの鉄塊は炎上の際に実行犯の許にまで爆轟の熱と圧力をもたらし、野球帽を飛ばしていた。それを、あの装甲車は間近で喰らったのだ。人間が生きていられる道理がない。

 爆発から間もなく、遠方よりパトカーのサイレンが大挙をなしてやって来る。自らの成果を見届けたマーティンは帽子を拾い、現場の退散へ移行する。それからすぐに、はたと足を止めた。彼の眼前をパトカーよりも早く、スモークの貼られた黒のベンツが疾走し、爆発現場の手前で急ブレーキを掛ける。そのサスペンションに異常なまでの負荷が掛かっているのを見て、マーティンは確信した。――SASだ。

 北アイルランドにてデタッチメント、通称『デト』なる諜報活動を展開するSASは、防弾装甲と大掛かりな通信装置を積み、ハイパワーのエンジンを搭載した特別仕様の車を使うとロビーが言っていた。ベンツから二人の男が飛び降りるのを固唾を飲んで観察し、マーティンは次の自身の行動を思索した。

 当事者が現場に長く留まるのは好ましくない。だがSASは――特殊部隊はその性質上、非常に重大かつ貴重な情報を有している可能性が高い。それはIRA側にとっても同様である。敵がどの様な計画を立て、如何にIRA暫定派を拿捕せんとしているかを知り、その裏をかく事も可能になる。情報こそが、軍事作戦の要である。今この場で彼らを捕らえられなくとも、その容貌を押さえておけば幾らでもやり様はある。マーティンは逃げ惑う人波を前屈みに掻い潜り、事件現場へ野次馬に紛れて接近した。

 SASと見られる男らは、片方が百九十センチ近い身の丈を持つ大男で、ブロンドの髪を生やしている。対するもう一人は百七十センチほどの背丈に、恰幅の良い鈍重そうな身体をしている。ブラウンの頭髪を生やしたそいつは装甲車の遺骸に駆け寄り、生存者を探している風であった。馬鹿野郎、全部消し炭だよ。内心で己の仕事振りにほくそ笑み、マーティンはバッグの内のカメラに手を掛けた。この頃になると、彼の心から人殺しの罪悪感はなりを潜めていた。

 炎の熱が感じられる程の距離まで近付き、ファインダーが男らを捉える。くそ野郎どもめ、今に見ていろ。さっさとこっちを向きやがれ。黒いジャンパーを羽織る二つの背中に、マーティンは毒づいた。やがて、生存者がいない惨状を悟った茶髪はがっくりとうなだれ、マーティンの方へ向いた。カメラのシャッターに指が掛けられるが早いか、そいつはレンズと目を合わせた。

 プロヴォの少年はしばし硬直し、シャッターを切れないままでいた。見られたか?いや、野次馬が現場を撮影するなど、何の不思議もない光景だ。彼は自身に言い聞かせ、カメラを構え直した。三十台と思しき男は、年端もいかぬ奴隷を見据えていた。――まさか。男の表情に、核心に迫るものがあった。鈍牛に似つかわしからぬ猛禽の眼光に射抜かれたマーティンは久しく、身の縮む思いを覚えた。その正体は現在を以てしても知れないが、気付けば炎が空を舐める現場を背に駆け出していた。後ろから男の呼び止める声が聞こえた気がしたが、従うつもりなどなかった。捕まったら、何をされるか分かったものではない。息も絶え絶えにマーティンは走り続け、一度も振り返らずに路線バスへ駆け込んだ。

 停車駅を四つ経たところでバスを降りて尾行がいない事を確認すると、マーティンは額の脂汗を拭って肺の嫌な空気を吐き出した。危なかった。下手な浅慮で馬鹿をやるものではない。危ない橋を渡りかけた彼は、そこから一時間掛けて、徒歩でロビーの家へと戻った。

 空っぽの郵便受けを確認してから玄関のドアを抜けると、やはりロビーは飲んだくれていた。彼はただ一言「仕損じはないな?」と問い掛け、マーティンは首肯を返す。――成功なものか。帽子を被っていたとはいえ、顔を見られた。だが、酷い点数の答案を隠蔽する子供と同じく、奴隷は失態を父親代わりに明かせなかった。脳裏にはただ、ファインダー越しに正対したSAS隊員の、驚愕とやるせなさにまみれた顔が焼き付いていた。


 それからも、マーティンは闇討ちや放火を始めとする殺人技術を習得し、プロヴォの優秀な兵士として完成しつつあった。ある時は工作班のサポートとして、陽動に小爆発を起こす。またある時は、警察や軍の重役の誘拐に障害となる護衛を狙撃するなど、プロヴォの作戦に欠かせない程の資産となっていたのだ。数多の訓練で、身体には無数の傷跡が作られた。小回りと欺瞞が利く身を活かして敵の懐へ潜り込み、要人に拳銃弾の雨を喰らわせる彼は、純然たる戦争の歯車として機能していた。

 学校に通う同年代の子供より多くの学識を備えたマーティンは、その狡猾な頭脳から組織に反旗を翻しかねないとの懸念も少なくなかったが、上層部の指示には文句ひとつなく従っていた為に『懲罰班』から膝を撃ち抜かれる事もなかった。品行も大人しく警察の厄介になるヘマも全くなかったから、彼自身の情報がIRAの外部に漏れたためしもなかった。だからこそ、使い易い手駒であった。

 そうして表面上は穏やかな生活を続けるマーティンが、十四歳を迎えた冬であった。彼が湯を沸かしている最中に、例の如く書簡の形で仕事が舞い込んできた。

 この頃は体調を崩して床に臥せている時間が多くなったロビー――アルコールの摂り過ぎで、肝臓を壊していた――は指令の書簡を見るなり「お前が読んでおけと」不機嫌そうに腕を振って、寝室から使用人を追い出した。慣れたもので何の感情も抱かず、彼はリビングで封筒を破いて指示に目を通した。どうやら先日に仲間を拘束したアルスター警察のニック・バートンの家を、可及的速やかに全焼させるというものらしい。その際、バートンの生死は考慮しないとの但し書き付だ。何故家を燃やす必要があるかは記載がなかったが、大方こちらの不利に繋がる文書でもあるのだろうと見当を付け、奴隷は仕事に取り掛かった。

 爆弾を製作するにあたって用意した爆薬はPE4ではなく、ガソリンと固形石鹸であった。粉末状に削った石鹸をペットボトルに入れ、ガソリンを流し込んで蓋をする。これを複数作るだけだ。あとは遠隔操作式の発火装置を取り付け、時が来たら作動させるだけでいい。起爆した途端に中のガソリンが燃焼して弾け、方々に飛び散る。石鹸が混じった粘性の焼夷剤は壁や天井に貼り付いて、周囲の全てを燃やし尽くす。非常に単純ながら、絶大な効果を発揮する爆弾だ。マーティンはこれを八つ用意し、ナイロンのボストンバッグに詰めた。外は陽が落ち始め、薄暗い様相を示していた。彼は完成したばかりの爆弾を抱え、緊急時に備えて〈FN〉ブローニング・ハイパワーをベルトに差して家を出た。

 標的の住宅は木造の二階建てで、黒い屋根に砂埃が積もっていた。五分ほど周囲を偵察したところ、車は出払っており、内部にも人気は感じられなかった。両隣の家にも人気がなく、どうやら未だ仕事から帰っていないらしい。人通りも少なく、陽も既に沈んで滲んだ群青色が彼方に見える。マーティンは何食わぬ風を装って家に歩み寄り、縁石を跨いでドアの前に立った。デニムの上着のからピッキングの道具を取り出し、誰にも見られていないのを確認してから、そっと鍵穴に金属棒を挿し込んでこじり始める。鼻の頭に浮かんだ汗が冬の外気で冷える中、三分ほど鍵穴を弄り回すと解錠の感覚があった。内心で胸を撫で下ろし、ドアの内側へ足を滑り込ませる。何という事はない、一般的な調度品が並ぶ家だ。特徴らしいものが見当たらない。室内に漂う埃臭さも、ロビーの家と変わりない。

 奴隷兵は家屋の軸となっている柱に、手製の焼夷剤を満たした爆弾を粘着テープで張り付けていった。キッチンのガス管も含めて一階に四つを設置すると、階段を上がって二階へと乗り込む。寝室に爆弾を仕掛けると、ベッド脇に家族写真があるのに目が留まった。中肉中背の三十台と見える男性と、大して美人でもない女が、産まれて間もない子供を抱いている構図だ。背景にはこの家が写り込んでおり、双方が口角を上げている。馬鹿馬鹿しい。マーティンは鼻を鳴らし、そこにも意味なく爆弾を置いた。

 更に書斎に爆弾を仕掛け、残り一つという時分であった。不意に、下階から物音が響く。兵士は反射的に書斎のドア脇に張り付き、耳を澄ませた。アドレナリンが体内で爆発的に増加し、流れた汗でファンデーションが崩れる。右手が自然とベルトのブローニングへ伸び、音もなく抜く。侵入を見られたか?それなら、もっと早い段階で踏み込んでくる筈だ。磨き抜かれたスライドを引き、初弾を薬室へ送り込む。金属の擦れ合う音で、首筋に鳥肌が立つ。この銃で仕事をした事例は幾らかあったが、それは事前に誰をどういった状況で殺害するか取り決めておいた上での話だ。目下の様に、予定外の敵襲を想定したものではない。

 どうする?マーティンは爆弾のバッグを床に置いて銃を握り締め、ドアの隙間から廊下を覗き見た。恐らく、ニック・バートンが仕事から帰宅したのだ。この事が幸と不幸のどちらへ転ぶかは後で決めるとして、マーティンは上昇した心拍数を落ち着けようと服の胸元を握り締めた。何も難しくない。やつがこのドアの前を通る瞬間に、部屋の中から飛び出して奇襲を仕掛ける。それで終わりだ。虚を衝かれてまともに反撃の出来る人間はいない。ねっとりした唾液が光る舌で唇を舐め、奴隷は左手をドアノブに掛けた。

 重々しい足取りが、階段を一段ずつ踏み叩く。その間隔が、心臓の拍動と同調する。段数は十五、さして苦になる数ではない。それなのに、やけに遅々としている。マーティンは逸る気を抑え込み、眉間を落ちる汗を拭った。気付かれたか?ややもすると、一階に仕掛けた爆弾を見られたのかもしれない。ともすれば、まだ家にいるやもしれない侵入者を捜しているのか。緊張は急速に高まり、掌にも汗が滴った。

 ようやくで対象が階段を上がり切ると、じりじりと書斎に近付いてくる。どういう訳だ。やつはこちらの気配を汲み取り、過たずにに書斎に向かってくる。マーティンは予定外の事態に当惑し、目元をひくつかせた。眼球に、塩の水が流れ込んで沁みる。どうやらバートンは優秀な警察官らしい。女の勘よろしく、素晴らしい策敵能力を有している。音もなく舌打ちをやりつつ、ドアノブを僅かに捻った。

 爆破の時と何も変わらない。肝心なのはタイミングだ。ドアを跳ね開け、バートンの胸に全身でぶつかり、倒れ込んだところに鉛弾を見舞う。それで障害は退けられる。これまでやってきた殺しと、何も違わない。冷酷な意思を固めたその時、書斎のドアの前で、足音が止まった。

 突としてドアを跳ね開けると、前もろくに見ずに肩から敵に激突した。全身を投げ出しての特攻で敵と一緒に床を転がり、即座に体勢を立て直してブローニングを構える。虚を衝かれたのは、実際にはマーティンの側であった。揺れる照準と眼球のピントが安定し、引き鉄に掛けた指を引き絞ろうとしたその瞬間、マーティンは度肝を抜かれた。――誰だ、こいつは。

 思考から、真っ白に色が抜け落ちた。すぐ目の前に、今しがた奇襲を掛けた対象が仰臥している。濃いブラウンのボブカット。冷めた碧眼に、雀斑の浮いた青白い肌。黒のセーターに、ぴっちりしたジーンズを身に着ける女。バートンではない。呆然と忘我する兵士を、一つの声が現実に引き戻す。――ママ。五歳ほどの児童が、階段から女に駆け寄ってくる。

「来ては駄目!」

 寝室の写真で見た母親が、血相を変えて叫んだ。切実な言葉に反して幼子は一心不乱に母親に駆け寄って座り込み、その顔に触れた。突き飛ばされた際に何処かへぶつけたのか、目の下が赤く腫れていた。子供は首をマーティンへ向。けると、その澄んだ蒼い眼を曇らせた。本能が呼んだ恐怖の色が、そこにあった。自分の手には重々しい殺人の道具が握られ、銃口は彼らに向けられている。母親は上体を起こし、息子の腕を掴んで逃亡を図ったが、下半身が脱力して立ち上がれないでいた。その顔は息子より顕著に感情を露呈し、目尻に涙を溜めていた。口を歪めて助けを乞い、歯を打ち鳴らした。

 奴隷の中で、凍り付いていた感情が揺さ振られた。どうしてこんな事になってしまったのか。定めた照準が震え、動揺が表に出た。何故、ニック・バートンではなかったのか。まばたき一つなく、マーティンは感情の奔流に呑み込まれていた。バートンであれば、既に九ミリの弾丸を頭部と胸部に叩き込んで絶命させられていたのに。どうしてお前達は、こんな場面に居合わせてしまったのだ。何だってこんな時に――。

 その兵士はこれまで、下された命には全て従ってきた。殺せと拝命すれば、その通りにこなした。だが、その枠を越えた行いはしなかった。目的の達成に必要な以上の殺人はせず、窃盗や破壊工作でも自己主張の激しいスタンドプレーは演じなかった。自己を余計な危険から守る為でもあるが、それ以上に余計な良心の呵責を無意識に遠ざけていたのだ。事前に用意しておいた容量以上のダメージを負えば、心身に負荷が掛かる。それを見越しての自己防衛措置であった。

 それが今、音を立てて崩壊を迎えた。こんな事があってなるものか。マーティンは己が運命を呪った。握り締めた銃が悲鳴を上げる。俺が殺す覚悟を決めていたのは、IRAの敵対組織たるアルスター警察に所属する、ニック・バートンただ一人だ。それ以外の人間は殺さない。そう決めていた。

 眼前の女と子供は、地べたに座り込んですくんでいる。だが、いつまでその状態が続くだろうか。既に家宅侵入の事実を知られ、顔と銃を見られている。このまま二人を残して家を去れば、じきに事が夫や警察に知れ渡るだろう。そうなば俺はお終いだ。俺だけではない。養育者であるロビーも、警察に捕らわれるだろう。それだけは、個人的に何としてでも避けたかった。兵士の思考は無数の想定を弾き出し、すぐに解決へ直結する一手を導き出した。

 ――だが。マーティンは最悪の結末を回避する選択を躊躇った。やらなければならない。彼は無力な二人に向き直った。女の顔は、化粧が涙と汗で流れて黒い筋を引いていた。息子は状況を理解していない風だが、恐怖の臭いを発していた。子供というやつは、大人さえ計り知れない勘を有しているものだ。

 マーティンの指は、引き鉄に掛けられたまま動かなかった。女はいつ喚き出してもおかしくない状態にある。二発だ。たった二発の鉛玉で、全てが元通りの軌道を辿れる。いつもの様に家事をやって、口数少ないロビーの世話をして、仕事が来たら爆弾を作る。そんな日常が憎くも、たまらなく手放し難かった。あれ程に疎ましかった雇用主から離されるのが、ロビーとの繋がりを失うのが怖かった。

 憐憫を誘う視線が、マーティンの一身に降り注ぐ。こいつらを殺すのに必要な覚悟が、自分にあるのか。十四年という短い人生の上でさえ幾度となく続け、そして長らく顔を合わせていなかった葛藤と再会した。そいつなら別の選択肢を――今までの生活を維持しながらも、不運な彼らの命を奪わずに済む方法を編み出してくれるのではないか。そう淡い期待を抱いて。

 でも、表面上だけ大人に取り繕った餓鬼に過ぎない奴隷には、全てを救える光明を見出せなかった。なまじ賢かったが故に、自分を騙すのにも限界があったのだ。仕方がなかった、たった一言で終わらせられればよかった。それだけの肝が、厚かましさが、悪が、彼には備わっていなかった。双眸に長い時を経て融け出した感情を溢れさせ、軌道を外れて地に堕ちた哀れな人の子は、心を壊した。


 延々たる逡巡の末に乾いた銃声が二つ、湿気臭い空気を満たした。


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