第8話 拝啓ご両親、上司との付き合い方って難しいですね

音の無い静かな空間。柔らかな照明と、照明の色合いに溶け込んでしまいそうに磨き上げられた飴色のカウンター。その上に載せられた丸い氷が沈む琥珀の液体は、時間によって研磨された長い年月だけが作り出せる一種の美術品。その蠱惑的ですらある琥珀の色合いは、淡い照明を反射して誘うように輝いていました。


 惜しかりしは、僕がこの味を全く理解できないという所ですが。


 「まぁ、その、なんですビギナー。今日は奢りなので遠慮せず色々頼みなさい」


 隣に座るのは新しい喪服に着替えてタイを外した先輩。シャワーの残り香と死臭消しのコロンの香りを漂わせるその姿は、何処か幼さすらある無面目の童顔のせいで酷くミスマッチに映ります。サスペンダーが似合いそう、などとほざいたら僕はどうなってしまうのか。


 とはいえ、その所作は実に慣れたもの。座ってマスターに黙礼しただけで今手にしているグラスが出て来たので、きっと常連なのでしょう。


 WPS大阪事務局からほど近い路地裏にあるバーに僕はいました。小さな店で席はカンター席が六つだけ。重々しい扉と小さな窓が一つきりの空間は、これぞ正しくバーという風情です。


 あの後、色々と微妙な雰囲気になって残りの事後処理を済ませ、死臭を洗い流した僕の慰労という形で先輩はここにつれて来てくれました。班長? どこか偉そうな肩書きが熟々と並んだ人のオフィスに連行されていきましたよ。勤務中に煙草三本ふかしてましたし、ここにはこれないのでは無いのでしょうか。


 「えっと……おすすめとか、ありますか?」


 何とも言えない空気が僕と先輩の間には流れています。あと数日で二ヶ月を超える付き合いになりますが、よもやずっと今まで性別を間違われ、間違えていたとお互い思っていなかったが故の空気でしょう。


 正直言いたいことはあるにはあります。確かに僕は背が高いし肩幅もあるし、このガタイのせいで喪服のデザインも殆ど男性向けといっていい状態ですが、気付く要素はいくらでもあったでしょう。


 例えばシャツやジャケットの袷が違うとか、座る時は膝を開いてなかったとか、もっとこう……!


 ええ、それくらいしか具体例が出せないあたり、自分の容姿がどう見えるかくらいは客観的に見られていますとも。中性的というよりも男性的な造りの顔、低く掠れがちの声は流行の恋歌よりも少し古めのバラードが似合いだと言われ、大学構内で女性からお誘いを受けたことがある程度には男性的ですよ。


 一人称が僕なのは、それが一番違和感を感じないと兄姉から言われたからですし、別にキャラ作ってる訳でもないのです。


 それでも、それでもよくして下さっている先輩には気付いていて欲しかった……!


 僕の葛藤が分かっているからか、先輩の無面目も微かに苦々しげに歪んでいました。自分から誘った手前、やっぱ無しと言うに言えず、非常に居心地の悪い思いをしていらっしゃるのでしょう。


 「……ビギナーはアルコールいける口ですか」


 「いえ、お恥ずかしい話、下戸ではないのですが……」


 「ないのですが?」


 味が苦手でして、と恥ずかしげに漏らせば、きょとんとした顔をされました。


 悪かったですね、基本子共舌なんですよ。この年になっても好きな食べ物はハンバーグと唐揚げで、薄めて作る乳酸菌飲料はこっそり少し大目に入れてつくりますよ。のど飴だって甘いやつしか舐めらず、未だに粉末の薬が嫌いでオブラートを手放せませんし。


 だからビールなんて数えるほど、乾杯の時にしか口にした事がありませんし、日本酒もおいしさが分かりません。かろうじて梅酒ソーダが美味しく呑めるくらいでしょうか。だから僕は数えるくらいしかお酒を呑んだことがありません。


 24になる女がする発言にしては流石に子共過ぎましたね。恥ずかしくてそっぽを向いた僕に先輩は、あろうことか、あろうことか殆ど始めて聞く笑い声を発したのです。くすりと小さく笑っただけですが、あの鉄面皮を崩したのがこんな事だなんて……。


 なんだか、酷く虚しい気分です。


 その上、せめて笑顔くらいは見ておこうかと思って振り返れば、もう手遅れでした。何時もの眠そうな無表情が戻ってきていて、ロックのウイスキーを小さくあおりながら何か考え事をしていらっしゃるだけ。


 ううむ、惜しいことをしたかもしれません。今後、この人が笑うとかどれだけあるのかも分かりませんし。


 僕が密かに惜しんでいるのを知らぬまま、先輩はグラスから口を離してこちらに目線を向けました。この柔らかな照明の中でも、暗渠を覗いているかのように暗い瞳がくすりとした笑みに歪んでいたという光景が少し想像できません。それでも、僕が呑めそうなお酒を考えてくれた辺り、やっぱり優しい先輩ではあるのですけども。


 「甘いのがいいですか?」


 「あ、はい、できたら甘めで」


 「じゃあマスター、モーツァルトミルクを」


 モーツァルト、というと音楽家の人でしょうか。クラシックに造詣がないので詳しくは無いのですが、有名人の名を冠したお酒は珍しくないそうですし、その類いの一品なのかもしれません。


 取り出されたのは、チョコレートを連想させる可愛らしい瓶でした。金色の銀紙に包まれた姿は、ちょっと上等なチョコレートそのもの。グラスに注がれた茶褐色の液体からは、酒精の匂いに混じってチョコレートの匂いが……って、そのまんまチョコレートだこれ。


 グラスに注がれたチョコレートみたいなお酒に牛乳が注がれて綺麗に混ぜ合わされる。チョコミルクと言われても納得する風合いのそれは、見ただけではカクテルなのか判断が難しいものでした。弱い酒精独特の匂いが無ければ、きっと分からなかったでしょう。


 「これならすっと呑めるでしょう。アルコールも弱いですし」


 おこちゃま舌だけあって甘い物は好きなので大変有り難いです。しかし、こういう場でお勧めのカクテルがぱっと出てくるのは格好良いですね。バーというだけで大人という印象もありますから。いえ、実際成人してないと入れないので大人の場所ではあるのですが、何かそういう感じがするのです。


 一口飲んでみれば、アルコール特有の焼けるような感覚は微かに残っていますが、それは優しいチョコレートミルクの味に紛れて殆ど気になりませんでした。これなら僕でもすいすいいけてしまいそうです。


 「……詳しいのですか?」


 「いえ、私は上戸でも下戸でもないのですが……」


 何ともなしに気になって話題を振ってみれば、言い淀んだ先輩は予定通りであれば人が居た筈の座席に目線をやりました。


 ああ、別に好きでもないのに付き合わされて覚えてしまった、ということですか。


 「あの人はウワバミでしてね。回りが潰れていく中でマイペースに酒を呑み、最後に一人笑って佇む怪物なんです」


 その光景はなんだか容易に想像できました。殺しても死にそうに無い人ですから、アルコール如きに潰される姿が見えないといいましょうか。何にせよ多方面で頼りに……頼りになるのでしょうか。頼って良いのでしょうか、ううむ。


 「マスター、お代わりを」


 下らない思考を巡らせていると先輩は二杯目をお代わりしました。こういった場でロックのウイスキーを淡々とやっていると、ものすごくツウって感じが……。


 「えっ、先輩!?」


 「……何か?」


 今少し信じられないことが起こった気がします。先輩の手に使い込まれたオイルライターが握られていました。それだけならいいのですが、何やら深い色合いをした木製のケースから取り出された物が問題なのです。


 茶色い巻紙に包まれた妙に細長いそれは、紛れもなく煙草でした。


 「す、吸われるんですか……?」


 「ん? ええ、何か?」


 ごく自然な動作で酷く細長い煙草を咥え、先輩は当然の様に火を付けました。浅く吸い込んだ煙は直ぐに吐き出される訳ではなく、まるで咀嚼するかのように暫く経ってから吐き出されました。


 正直、先輩と煙草というイメージが結びつきません。班長の煙草をもみ消したり取り上げたり、水をぶっかけたりしている印象しか無いので、てっきり嫌いなものだとばかり思っていました。何を好き好んで高い金を払って肺をヤニ付けしなければならないんですか、くらい言ってくれるものかと。


 「まぁ、学生の頃は何を好き好んで高額な納税をして、その上で肺をヤニ付けして肺活量を落としてるんだかと思っていましたが……」


 遠い目をした先輩は、もう一口煙を吸い込んだ後、アルコールで口を雪いでぽつりと続けました。


 「人間、ストレスには弱いものでしてね」


 そういえば聞いたことがあります。煙草には鎮静作用があり、吸うと精神が落ち着くと。効果は個人差があるそうですし、数を吸い過ぎると効果が落ちて常習性が出るので近年の風潮では大変嫌われていますが、それに頼らないとならない時があるということなのでしょう。


 何より、命が掛かった仕事です。下手をすれば一瞬で自分の人生が台無しになってしまう、そんな仕事であることは実習で嫌と言うほど思い知りましたし、あらゆる事故の案件を研修で見せ付けられました。


 ポイントマンが路地のクリアリングを適当にしたせいでかみ殺された後衛、段ボールの物陰に倒れていた再起死体を執行官が見逃して足を噛まれた検死官、不用意に扉をノックして扉ごと押し倒されて圧死した警察官。悲劇と悲惨な現場を列挙していくと暇がありません。


 この仕事に就いた以上、死は最早別ちがたい僚友のようなものなのです。斯様な状態に身を置いていれば、ストレスの一つ二つ溜まって当たり前。ベテランでも時に精神を病んでアルコールに溺れたり、違法な薬物に手を伸ばして免職されることが年に世界中で何件もあるのです。


 この鉄でできているような先輩でも、何だかんだ言って人間です。現場に慣れることはあっても、辛いのでしょう。今日だって、あんな光景を目にしているのですから。


 「……今日はお付き合いしますよ、ええ」


 なら、性別を間違えられていたことくらい大目に見ますとも。自分でも結構アレだなと思うことはあるのですし、きっと日々の激務に僕とは比較にならないくらい精神を削られて、回りを見る余裕も無かったはずです。それなら、黙ってお酒に付き合う後輩くらいいたっていいじゃないですか。


 「……? ああ、まぁ、呑むというのであれば止めはしませんが」


 「おすすめ、ありますか?」


 「……アレキサンダー、は流石に重いか。では、シンデレラを」


 先輩が教えてくれたカクテルからはお酒の味はせず、すっきり甘くて美味しかったです。驚いていると、囁くようにノンアルコールですと教えてくれました。


 少しの酒精しかないカクテルでも、違和感に口をもにょもにょさせていたことを察されてしまったようですね。


 ほんと、良い先輩ではあるんですが…………。












 日付が変わった頃、一人になった矮躯の男は特徴的に細長い煙草を燻らせながら、何杯目かになる蒸留酒をあおっていた。馴染んだ銘柄をトゥワイスアップで愉しむ姿は、着慣れた喪服のおかげで辛うじてバーに溶け込んでいる。


 彼は長くなった灰を落とし、明日もあるからと然程酒を呑ませずノンアルコールカクテルばかり呑ませた後輩を思った。好きでもないアルコールを飲まされるのが楽しくないのを分かっていた男は、それなら雰囲気だけ愉しんだ方が良かろうと早々に帰らせてやっていた。


 何より、自分のように酔っ払って“恐怖”を薄れさせることを癖にさせるのはよくないと思ったのだ。


 「……生きづらい世の中だ」


 些か酒精が回りすぎて惚けてきた頭で彼は呟いた。店主はそれを独り言だと分かっているので、グラスを磨きながら沈黙を以て答える。ここのバーは静かに酒を提供することを良しとして運営されているので、店主は話しかけられぬ限り口を開くことは無かった。お約束のBGMすら流れていない徹底っぷりを彼も、その先輩もいたく気に入っている。


 酒精で舌と脳髄を焼きながら、回想するのはこなした仕事の様相。爛れて腐れ落ちかかった皮膚、幽鬼の如く乱れた髪、鼻粘膜を蹂躙する死の臭い。


 最早それらは慣れたもの。拳銃で吹っ飛ばすにせよ、短機関銃で無造作になぎ払うにせよ、手斧で頭を砕くにせよ気にはならなくなった。彼をして気味が悪いと感じる手応えは、言い換えれば命を拾う感覚でもある。あれらが一つでも減れば、それだけ長く生きられるのだと。


 それであっても恐怖は消えない。何時も感じている、明日にも自分は死ぬかも知れないという恐怖。この恐怖の根源は仕事、WPSの執行官という身分に由来するものではない。


 この世界に由来するものだ。


 自分たちの血は汚染されている。


 この事実が発覚したのは、死体が復活し始めたソ連邦崩壊の年、1991年から八年後の1999年。奇しくも日本においては、単なる詩文を予言として持ち上げたノストラダムスブームの真っ直中である。


 世界中の研究者は八年間ずっと追い続けていた。何故死体が起き上がるのかを解明するのは言うまでも無く、噛まれてもいない死体が起き上がるのは、一体どういう理屈によるものなのかと。そして彼等は気付く。


 我々は全て、再起性症候群の潜在的なキャリアになっていたのだと。


 その時点でも現在でも根本的な原因は分かっていないが、彼等はやっと気付いたのだ。これは世界各地で同時多発的に起こったのでは無く、乾いた布に朝露が染み込むような静けさと緩やかさで進行していたという事態に。1991年よりもずっと昔に事は起こり、誰にも気付かれぬままに事態は進行していたのだ。


 全ての物事に都合の良い解決策が用意されている筈もなく、事態が解決可能な時点で発覚しないのが現実だ。映画の如く、すんでの所で事件を納められることなど、現実の歴史には殆ど無かったのと同じように。


 布に生じる染みが水分量によってムラが出るように、南米で事件が始まったのは偶然に過ぎない。世代交代が早かったからか、それとも衛生環境が劣悪であったからかは最早今更論じても意味の無い事だが、あの事件は先進国首都圏でも十分起こりえたのだ。初期対応に成功したのは、ある意味“何でもあり”な風土の国で発生したからといえる。その点に関しては、正しく人類は幸運だったと言えるだろう。


 結果として世界規模で再起性症候群が顕在化し、死体は起き上がるようになった。


 我々は噛まれて成り果てるのでは無い。死すれば成り果てるのだ。この身体の中へ知らぬ内に因子を取り込んで。


 殆ど結果論的な研究から導き出された因果は、今も尚解決されていない。今後解決される望みが絶えた訳では無いが、それも一体何時になるかは未知数だ。明日にも何処かから天才が現れて解決してくれるかもしれないし、百年経とうが、人類文明が終わりを迎えようが見つからないかもしれない。


 本当に生きづらい世の中になった。何処で何をしていたとしても、以前よりも“死”は濃密に着いて回るのだから。


 男はもう一杯やったら寝るかと思い、最後の一杯を注文した。昼間、腰に感じていた重みが酷く恋しい。せめてあの感覚を感じながらであれば、こんな酒精に頼らずとも少しは心地よく眠れたであろうに。


 あの鉄の感触が、ただただ恋しかった…………。












 「おはようクソ可愛がり甲斐の無い後輩と新人」


 出勤直後にデスクで僕と先輩を迎えたのは、それはそれはご機嫌斜めな班長でした。


 斜め、というか角度が急転直下過ぎて地面に埋没している所まであります。


 理由は明白でしょう。顔色だのなんだのを誤魔化そうとコンシーラーを厚く塗ったのか、普段のあっさりした薄化粧と比べると大分印象が違います。濃密な煙草の残り香も相まって、どう見ても徹夜――正確には、今日は夜勤なのですが――明けです。きっと呼びつけられた後、始末書やら反省文やらを仕立てさせられたのでしょう。


 「おはようございます、調子こいて仕事中にモクふかして叱られた班長」


 対して真顔で盛大に煽っていく先輩。この人も班長相手には大概遠慮ありませんよね。ついでに消臭剤を取り出して遠慮無く散布し始める辺り、大学での先輩後輩関係とは聞いていましたが一体どういうノリだったのかが非常に気になります。


 「お前なー、お前があそこで要らんこと言わなかったら引っかからなかったんだぞ」


 「知ったこっちゃありませんが」


 「これでボーナス査定に響いたら覚えてろよ」


 何の事です? と速攻で忘れたふりをした先輩と班長は、もう馴染みつつある軽口の応酬をしながら勤務準備を始めました。僕への矛先がそれたことに感謝すべきか、それとも朝から喧しいなと憤ればいいのか。


 とりあえずPCを起動してメーラーをチェック。西日本事務局全体での連絡MLには大した内容のことはなく、来週は班長会議があるので忘れないようにといったもの程度で僕には関係ありませんでした。ここで早めに処理しておきたいことがあれば処理したり、班長から今日の業務を予め聞いておく所ですが……。  


 「ざけんな、次給料出たら奢れよな」


 「上司が部下に集って恥ずかしくないんです?」


 「テメェ、こういう時ばっかり上司部下だのと持ち出しやがって」


 一部の人から“非常に高度ないちゃつき”とも揶揄される軽口合戦に忙しいようなので、まだ暫くかかりそうですね。まぁ、始業に大分余裕を持たせて出勤していますし、コーヒーでも飲みながら新聞を読むとしましょう。社会人なら新聞くらい読んでおかないと、話題振られたとき困りますからね。


 有名な経済新聞を捲ってみれば、一面には面白みも無い市場の流れや企業の不祥事が垂れ流され、二面三面にも大して面白い記事はありませんでした。何処かで誰かが不正をしたり、業績が上昇したりと世界はいつも通りです。


 ぺらぺらと捲っていくと、一面を使った大きな広告が目に入りました。写真付きで胡散臭いほど爽やかな笑顔の男性が映ったそれは、戸建て住宅の新築・リフォーム会社の宣伝です。不動産関係のチラシは珍しくもなんともない新聞なのですが、最近よく見るこの新聞は「対ゾンビ住宅」を売りにしていました。


 正直、職務上――公の場でないなら平然とゾンビと呼ぶ人も居ますが――ゾンビという単語は使って欲しくないのですが、やっぱり一般には此方の方が通りが良いので、メディアでは余程の専門家かニュースじゃないと再起性死体とか再起性症候群とは呼んでくれないのですよね。


 まぁ、執行官になる前は普通にゾンビゾンビ言ってた奴が、就職して二ヶ月で知った風な口を利くのも何かとは思いますけれど。


 とまれ、こういうのが流行っているのでしょうか。何となく目に付いたので、普段は読み飛ばしている広告ですが内容にざっと目を通してみます。


 対ゾンビ住宅、安心して眠れる我が家をご提供。そう銘打たれた家は、外見上は普通の家なれど、実際は要塞化されたセキュリティ住宅だそうです。扉も窓も本体のみならず枠から強化してあり、百人が寄りかかっても割れず歪まない頑強性を実現。塀も物理的に乗り越えられなく、それでいて威圧感のない格子デザインと高さで違和感なく周囲に溶け込めるよう工夫。更にインフラが死亡しても暫く使える独自の水循環システムと、屋内で管理できる燃料発電システム、急場に展開して使う小型太陽光発電システムが売りだそうです。


 見る限り悪くない話でした。備蓄食料を置いておくための地下室も増設できるそうですし、ニアパンデミックになれば一町程度の滅菌で済めば御の字という世の中、頑丈で侵入されにくい家は誰にとっても羨望の的でしょう。それこそ磨りガラスの嵌まった薄い格子戸では、ただの一体の再起性死体とて寸間も止められないでしょうから。


 今後こういった住宅がメジャーになっていくのかもしれません。再起性死体が初めて観測された直後は、如何にも仰々しい要塞染みた家を建てるのが流行ったそうですが、この狭い島国では維持も改装も難しくて結局流行らなかったのです。


 今ではセキュリティが硬く、階段に隔壁が降りるマンションの高層階が最も再起性死体に襲われにくい住居として人気を博していますが、更に用心深いと他に人の居ない郊外に建っていたりして利便性は高くないのですよね。親戚夫婦がそんな物件を持っていたのでお邪魔したことがあるのですが、へんぴな所に建ってる上、セキュリティや何やと不便ったらありゃしないんですよね。


 しかし、ただシンプルに籠城に特化していたとあれば話は違うでしょう。使い勝手は普通の家、安全性は要塞並みとなれば、近頃大きな再起性死体がらみの事件が無い日本でも人気が出そうです。再起性死体以外の物騒な事件にも強そうですしね。


 このコンセプトのまま、投資用マンションなんかにも転用されていくのでしょうか。


 本当に人間というヤツは、何処までも貪欲な生き物です。生き残ろうとする本能さえも、こうやって商機に変えてしまうのですから。


 ただ、ふと思えば僕は悪くない位置に居るのかもしれません。


 人は死ねば起き上がってしまう今、人口密集地は何処も安全とは言い難いです。されど、今からバラバラに住むには都市機能は発達しすぎ、それを支えてくれるほどネットも万能ではありません。となると、何かあっても直ぐに反応できる我々は、普通の人と比べればパンデミックでも死にづらいのではないでしょうか。


 ほら、考えてみればWPSの事務局は徒歩五分ですし、宿舎の警備室には非常展開に備えて警備室にガンロッカーが据えてあるんですよ。防犯のために建物はガチガチだし、警備員も施設を護るおじさんではなく、屈強に鍛えた保安部の人達ですから信頼性は抜群です。


 それにAPWというほどではなくとも、重装甲の車両もあるので“いよいよ”となってしまった時の足もありますね。それに、将来的にワクチンなんかが出来たら、いの一番に回ってくるのは正面から対処する僕たちでしょう。


 ともすれば、ここは普通にしているより生き残る確率が高いのでしょうか?


 考えれば考えるほど、現実味が増してきました。もしかしたら、これをメリットに感じて就職するような人がいるかもしれませんね。僕みたいに不本意に放り込まれる人も居れば、利点だと何かを見出してやってくる人も、居ないとは言い切れないのですから。


 「おいビギナー、ミーティング始まるぞ」


 「あっ、はい!」


 おっと、もうそんな時間ですか。簡単な業務開始後の打ち合わせがあるのを忘れていました。慌てて新聞を放り投げて立ち上がり、いつの間にやら喧嘩を終えた上司二人の背中を追いかけます。


 忙しさのせいで、先ほどの思考はあっと言う間に記憶の中に埋没してしまいました。対ゾンビ住宅のことも、WPSに所属するメリットのことも。そのどちらもが、僕にとって大きな事態に関わってくることなど知るよしもないのですから、当たり前ですよね…………。

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