第2話 拝啓ご両親、退職届の書き方を教えてください。

 20世紀末、ソビエトが崩壊した混乱冷めやらぬ中、世界は大きく揺れた。死者が黙して横たわるままの存在ではなくなったのだ。


 世界は混乱し、少なからぬ血が流れた。さりとて未だ世界が秩序を保っているのは、一重に間が良かったのであろう。もしもその変化が世界中で同時に起こったのであれば、今日の人類文明は無かったのかも知れないのだから。


 故にこそ、間の良さと各国の尽力もあり、辛うじて世界は平穏を失わずに済んでいた。


 さりとてり数十年が経過し、世紀が変わって尚、死者が死者らしく無くなった理由は分からぬままであった。依然として死者は黙せず起き上がり、まるで生者を恨んでいるかの如く世界を彷徨っている。


 数多の研究者や研究機関が、その理不尽な謎に挑んだ。しかし、人の生き死にが未だ遠大な謎であるのと同じように、結局死者が動くという20世紀最大の謎にして理不尽は、最早新世紀と呼ぶには些か時間が経ちすぎたとしても、分厚いベールを脱ぐことは無かった。


 長年の研究の末、血中成分やタンパク質構造の変異に脳幹の奇形化が引き起こされている事実が発見されるなど研究は進めど、その根幹は遙か遠くに霞んでいる。


 オカルティズム溢れる現実味の薄い現象なれど、実際に起こっているなら対処せねばならぬは必定。あり得んあり得んと指さして喚こうが、物理的に存在している以上、どうにかこうにか除かねば殺されてしまうのだから仕方のない話である。


 国連の動きは平素と比べて随分と素早かった。むしろ加盟国達が互いの牽制や独走を防がんとしたのやもしれぬが、結果的に良い方に転んだのであれば往々にして本意は無視される物。誰だって綺麗な建前に騙されている方が気楽なのだから。


 死体が動き始める混乱、俗に Half done Apocalypse“中途半端な黙示録”とも呼ばれる事態より僅か数ヶ月には、WHO、国際保健機関隷下の付属組織としてWorld Public health Support service “国際公衆衛生維持局”が設立される。動き始めた死体への国際的な対処と法整備を主導・補助することを目的に設立された組織であり、彼等は急進的に動く亡骸、再起性死体への対策を推し進めた。後に些か性急すぎた、と評価されるほどの果断さで。


 しかし、死体の扱いが厳格な先進国であれ、家族の手によって葬られるのが一般的な第三世界であれ、脅威を黙って拡散させる訳にはいかなかったのだ。動く死体が持つ脅威に世界が呑まれぬよう対抗するには、その性急さはやむない物でもあった。


 結果として、都市や国家規模でのパンデミックは未然に防がれ、世界は曖昧な安寧を享受し続けている。死者を安易にゾンビとは呼ばず、彼の現象をComeback Syndrome“再起性症候群”と名付けて、現実から目を背けながら。


 各国が血相を変えて対応策を練り始め、はや30年以上。


 東京五輪を目前に控えながら、世界屈指の人口密度を誇る島国においては、その対応を迫られつつも、危うい均衡の夢に浸り続けていた…………。






 世の中には家業と呼ばれる、一族郎党が共にする生業というものが御座います。銀行家の一族だとか、政治家の一族だとか、財閥が解体されても無駄に歴史を持つ家々が多い我が祖国においては、そういった柵が大変多いもの。


 それが戦国の世より割としっかりした家系図が残り、他家の記録にも名前が散見されるような家であれば尚更。


 一度弓矢の家に生まれてしまえば、何かしらの荒事が寄り添うのは避け難い現実と言えましょう。それが特に戦前戦中は軍人一家として名を馳せ、戦後もどうにか彼の裁判を逃れて警察の債権や警察予備隊の設立に関わり、その後も高官を輩出し続けたともなればもう……。


 ええ、まぁ親の面子というのも理解できます。子に強く育って貰いたくて、あわよくば家名の誉れを強め、更にお家の中で本家の覚え目出度くなってくれればという欲が決して消せないことも。


 とはいえ、今まで一族で誰も居なかったからって理由で、人をゾンビ退治屋にしようとするのは如何なものでしょうか。


 「えー、諸君らはこれから警察官とも医者とも軍人とも異なる意味での、えー重要な国防を担うことになります。ひいては国際平和のため、先人が作り上げてきた社会秩序のため……」


 どうして僕はパリッとした新調の喪服を着て、こんな所に居るのでしょう。どうして演壇の上に立っている男性は、句読点代わりか何かと思う頻度で「えー」と挟むのでしょう。


 まぁ理由は決まってますよね。両親から受けてくれ、と頼まれて国際公衆衛生維持局の採用試験を受けて、通ったからですよね。


 だからこそ、僕はこの国際公衆衛生維持局は日本支局の関西事務局にて入社式? いや入局式に参加しているのですが。何と国際公務員ですよ。肩書きだけ見れば、なんだか凄まじくエリートのように思えますよね。


 僕は一族の中では、武断的な兄姉と比べて随分毛色が違う人間であったとは思います。どちらかと言えば地味で、本を読んでいる方が好きで、修士課程まで済ませた上、語学系に強い人が少なかった中で珍しく三カ国語をきちんと使えるレベルで習熟できました。


 なればこそ今まで送り込めなかった所に! とばかりに放り込まれるのは、一族の思考として理解が及ばないとは言いません。されど……ホラー嫌いな人間に、これ以上酷な職場があるでしょうか。


 昔っから嫌いなんです。心霊とか怪物とか……ゾンビとか。そういった類いの存在が暴れ回る映画は。


 幼少期の曖昧なトラウマが精神の底にこびり付いていて、成人した今でも苦手。だのに彼の如き存在の中でも大人気のゾンビに関わる仕事に就くのは、一体どんな因果なのでしょう。僕は前世で、それ程悪い事をやらかしてしまったのでしょうか。


 そのまた昔、両親が学生として青春を謳歌していた頃は、死体は起き上がらなかったそうで、葬儀といえばご遺体を皆で囲んで泣きながら送り出すのが相場だったそうな。ただ、今となっては物心ついた頃から、出来の悪いホラー映画のような世界に生まれてしまった僕の何と不幸なことか。せめて僕が、そう言った物に耐性があれば、少しはマシな職場に思えたのかもしれませんが。


 半時間ほど続いた入局式から解放されたと思えば、それからは延々とガイダンスや研修の日々が始まりました。国際公衆衛生維持局の官舎と関西事務局を往復するだけの日々。


 叩き込まれるのは、国際法や活動地となる日本の公衆衛生関連法規。他にも色々と教わることは多いものの、何とも国際公務員というのがしっくりこない環境でした。


 なんと言っても、殆ど周囲には祖国を同じくする者達しか居なかったのですから。


 というのも、この公衆衛生維持局の役割が、各国において動く死体、再起現象を効率的に予防、鎮圧することにあるので仕方がないのですが。


 内容が内容なので、警察にも救急にも、ましてや自衛隊に任せきれない業務。勿論、死体の再起現象――甦る、と間違っても公の場で言ってはいけない――が起こり始めた当初は、分担して対応していたのですが、専門性と国際的な扱いから、結局は各国に事務局や連絡室を置いて対応することになりました。


 結果的に、死体の扱いという非常にデリケートで国毎に法規も違う事象に対応するため、職員はその国の人間を採用するが多くなり、国際組織の割に人数も膨大に膨れあがってしまったそうです。基本は外国勤めで場合によれば日本配属もあるかもという、一般的な国際公務員からはかけ離れた現場事情と言えましょう。


 そのせいで配属方法から局内昇進試験の基準まで、エリア毎に違って特色があったりする有様だそうですが、そこは日本人に馴染みのある方法でよかったと新入局員としては歓迎すべきでしょうか。


 いえ、勿論外国人の職員も日本に三つ設置された事務局には大勢居ますし、スイスはジュネーブのHWO本局に併設されたWPSの本局に配属されて、きちんと国際公務員らしい働きをする人もいるのでしょう。


 ただ、僕はそうではなかっただけの話です。


 一週間の座学研修は中々に大変でした。今は広く職員を募集しているので、専門知識の採用ボーダーはそこまで深くなかったので、普通の企業のように入局後に研修してもらえたのですが、如何せん公衆衛生法に造詣が深いとは言えなかったので苦労しました。


 WPSの内規や国際法、改正された検疫法や死体解剖法、墓地・埋葬法と覚えることは幾らでもあるし、何よりも1993年条約とも呼ばれる、国際的な死体の取り扱いに関する条約の再確認もありましたから。


 どたばたと研修漬けの日々ながら、そこそこ充実していたように思えます。両親の思惑で放り込まれた、あまり気に入らなかった職場であれ、いざ働くと中々悪くない物。気が合いそうな知人もできて、これならやっていけそうだと思いました。


 しかし、社会人になって記念すべき二回目の月曜日に事は起きました。


 「メンター?」


 「ああ、今週からつくんだって」


 出勤してデスクに就いた時、同期入社の外川氏が教えてくれました。ああ、そういえばガイダンスで指導責任者、つまりメンターがついて実働業務の研修をしてくれるという話があったなと思い出します。僕は一般職員ではなく専門職、つまりは実働希望なので、その分野の人が就いてくれるのでしょう。


 企業の営業などと違い、何処で何があるか分からない仕事。熟達した先達の指導員が就くのは、まぁ当然と言えば当然なのでしょう。私としても、じゃあ明日から行ってこいと同期と二人で放り出されても困りますし。


 「それで、現役の執行官が就いてくれるんですね」


 「暫くは三人一組か……死体見る事になるのかな」


 外川氏は朝の準備を終えたデスクで、大きく伸びをしながら何とも間の抜けたことを言いました。そんな外科医が血を見ることになるのか、と嫌がるようなことを言われても。ええ、確かに僕も心底嫌ではありますが。


 平和な日本で暮らしていて、亡骸なんて成人するまで生きても見る機会は早々ないでしょう。あったとしても、葬儀のために整えられた綺麗な遺体だけで、余程運が悪くなければ凄絶な死体を見る機会はありますまい。それこそ怖い物見たさで自殺の名所にでも行ってみるか、インターネットのよからぬサイト巡りでもしない限りは。


 だから結構覚悟が要るのです。これからの業務に。


 執行官とも呼ばれる専門職の実働職員は二人一組で活動し、内勤の一般職員とは別に外での仕事をします。つまり、実際に死体に関わる仕事を。まだ配属が決まってないにせよ、そういったメンターが付けられると言うことは、最低限何度か執行官としての仕事も経験しろということなのでしょう。コンビニの正社員が、最初の何年かは店員や店長として研修させられるようなものなのかもしれません。


 「緊張しますね……いい人ならいいんですが」


 「ま、仮にも国際機関だ。あんま変な人は居ないだろ、普通に」


 ですよね、と隣のデスクの同期と笑い合う。朗らかな朝の光景。


 この時の事を時折思い出し、世の中そんなに生ぬるくないぞと当時の自分に言ってやりたくなる嵌めに遭うのを僕は知りませんでした。


 「お前か、私達の担当は」


 簡単な朝礼の後、我々新入局員はメンターに引き合わされました。幾つもある面談室の一つで僕が対面したのは、何ともちぐはぐな印象を受ける二人でした。


 「私達がお前のメンターとしてアサインされた執行官だ。ま、気楽に行こうじゃないか」


 二本の缶コーヒー片手に面談室へとやってきたのは、とても背の高い女性でした。ヒールを履いている訳でも無いのに175cmはある僕より少し背の高い、服飾規定で定められた喪服が異様に似合う人で、どういう訳かこんな仕事なのに腰まで届くほど髪を伸ばしていました。


 鋭い瞳は何が楽しいのか分からないけど愉快そうに歪められ、不快で無い程度に纏った香水の匂いに混じるのは煙草の臭いでしょうか。何というか、綺麗なのに近寄りがたい人という印象を受けます。


 「あっ、はい! よろしくお願いいたします!!」


 腰を深く折って挨拶した私に、彼女はお堅いねぇと笑いかけて来ました。何というか、あんまり公務員という肩書きが似合わない人です。


 「せん……班長、あんまり軽いのも如何な物かと」


 ついで入ってきた人の印象は……なんというか、本人にはとても言えないのですが、死人のような人でした。


 空調の行き渡った事務局内なのでジャケットは着ず、ズボンとベストで飾った背が低い男性。並び立つ女性の長身も相まって、本当に小さく、そして儚い印象を受けます。何処か眠そうな、それでいてつまらなそうに緩んだ瞳。今にもそっと閉じられそうな目を見ていると、納棺された遺体を想起してしまいました。一族が多いため、年に一度か二度は見る機会のある、黄泉路へと見送られる遺体を。


 実際には見送る側なのですが、本当にそういった印象があるのです。ええ、本当に失礼な話ですけれど。


 「堅苦しくてもやりづらいだろ、なぁ? ああ、座って良いぞ」


 班長と呼ばれた女性が乱暴に椅子を引いて腰を下ろし、矮躯の男性はその背後に秘書の如く控えました。緊張しながら座ると、彼女は持っていたコーヒーを纏めて差し出してきます。


 「まぁ飲め。カフェオレと微糖、どっちでもいいぞ」


 「はい?」


 「後輩には奢ってやることにしててな」


 「はぁ……」


 言われるが儘にカフェオレを手に取ると、彼女は甘党仲間ができて良かったなと男性へと笑いかけました。書類の束を持った彼は、特に興味も無さそうに頷き、残った微糖コーヒーを女性の方へ寄せると、机の上についた水滴をハンカチで拭って書類を一部置きました。


 研修資料と書かれたA4の冊子。ホチキスで丁寧に留められたそれは、部外秘の朱い判子が捺されていました。


 「今週から非再起処理の座学研修も始まりますので、目を通しておいてください。一応、ショッキングな添付資料もあるので、覚悟だけはお願いします」


 「なんだ後輩お前、態々こんなもん作ったんか。中央資料室まで出かけて」


 僕と同様に受け取った資料をめくり、班長はため息を吐きながら男性、立場的に先輩に当たるであろう人へ、変な物を見るような視線を送りました。


 「分かりやすい方が良いかと思って」


 「どうせ後で大講堂に集めて講義するだろうに。物好きめ。まぁいいや、折角用意されたんだ、此奴を使って説明してやろうじゃないか」


 班長は勢いよく冊子を捲り、ページを物色した後で、お目当てを見つけたのか大変愉快そうに微笑みます。そして、そのページを大きく開いて見せ付けて言うのです。


 「コイツが私達が相手取らにゃならぬ存在だ。脳に焼き付けとけよ新入り」


 そこに映し出されていたのは、カラープリンターで印刷された解像度の荒い写真資料でした。撮影地、南アフリカと記された……立って歩き回る亡骸。僕たちが狩るべき存在が。


 映っていたのは、背の高い黒人男性でした。ラフな格好をした彼の目は白濁し、どこを見ているかも定かではありません。誰かの抵抗の証なのか、右顎から左頬にかけては大きく肉が剥離していて、抵抗に使われたと思しき万年筆が惰性で突き刺さっていました。


 極めつけは、明らかに死んでいることを匂わせる大きく裂けた首筋の肉と、暗渠の如き穴を見せ付ける腹腔。だらりと垂れた腸は半ばから噛み千切られ、背景では彼の物と思しき腸を囓っている別の死体が蹲っています。


 「正式には再起性症候群罹患者。非公式にはゾンビやらアンデッドとか色々だな。ま、職員でも公の場じゃなきゃ平然とゾンビと呼ぶ奴は少なくないが」


 荒く乱れた写真は、落ち着いて被写体を写せた訳では無い環境を思わせます。何かの役に立つだろうと必死に写真を撮ったカメラの持ち主は、今も生きているのでしょうか? この写真からは、撮った物の安否すら気に掛けさせられるほどに迫る何かがありました。


 今の発達した映像技術なら、同じような写真や動画を幾らでも作れるのでしょう。ですが、この写真には僕が嫌いだった映画には無い、凄みや逼迫感とでも呼ぶべき何かがありました。誰が見ても、これは映画からのキャプチャーではなく、本物の動く死体だと分かってしまう何かが。


 総毛立つ、という言葉では足りません。背骨が全て氷に入れ替わったような寒気と、根源的な、或いは本能的な拒否感が足下から這い上がってきます。一瞬で身体を駆け抜けた怖気は、写真からでも命の危機を感じ取ったが故のものなのでしょうか。


 頭の何処かが叫ぶのです。見るな、逃げろ、関わるなと。これと関わって碌な事にはならず、最後にはこうなるのだと本能が警鐘を乱打していました。


 しかし身体は動きません。社会人として逃げるべきでは無いとか、弓矢の家に生まれた物として何を情けのない事をというのではありません。たかがプリントされただけの、今此処に存在している訳でも無い死体に気圧されて動けなかったのです。


 逃げろと叫ぶ頭と、言うことを聞かない身体。二つのプレッシャーに挟まれて、視界が急速に狭まっていき、心臓の鼓動ばかりが世界で大きく木霊します。その視界の中、写真の向こうで此方の反応を期待して薄笑いを浮かべた女性……ああ、多分きっと、この人の親類には悪魔か何かでも居るに違いないのでしょう。


 さもなくば、人間にここまで他人が困窮しているのを見て楽しむことなどできないでしょうから。


 「うぷっ」


 「あっ?」


 動けぬままにプレッシャーに晒され続けた身体と精神に限界が来るのに、そこまでの時間は必要ではありませんでした。最早狂気染みているすら感じる女性の笑顔。


 この時、きっと僕と彼女の運は最高に悪かったのでしょう。ええ、本当に。


 色々と限界に達した瞬間、からかうように身体を寄せられたのですから…………。






 「畜生、アイツのあだ名はスピューに確定だな」


 心底忌々しそうに表情を歪めた女性が、屋外に設けられた洗い場で服を洗っていた。普段は中庭で訓練の後に汗を流す執行官達の憩いの場でもあるのだが、今そこに近づこうとする者の姿は無い。


 そんな彼女が先ほどまで隙無く着こなした喪服は、今は黒いシンプルなジャージに取って代わられている。


 何があったかは、敢えて語る必要は無かろう。


 「気持ちは分からんでもないですが、いじめですよそれは」


 「あそこまでグロ耐性無いとは思わなかったんだよ」


 吐き捨てるように言い、洗ったシャツから水を絞る。何とも無防備なことに、その近くには下着まで無造作に打ち棄ててある。随分と気合いの入った代物だが、反吐を洗った後と言われれば、誰も良からぬことは考えまい。


 「というか、お前もお前で結構直截な資料を選んだよな」


 「広報向けの大人しいのなんて、普通にしてても目にするでしょうから。仕事にするなら慣れておくべきかと」


 しゃがんで反吐のシミと石鹸で格闘する女の後ろで、矮躯の男はしれっと言ってみせた。語調から考えるに他意は無いのだろうが、現状を鑑みると何か裏があるのでは、と女は感じてしまった。


 上司部下の関係になる前から付き合いのある男だ。何かの機会に自分が忘れている復讐を企てているとも限らない。むしろ、以前そんなことがあったのだ。


 「お前、本当にわざとじゃないだろうな……」


 「流石に新人出汁にして遊ぶほど暇でも外道でもないですよ」


 ならいいんだがね、と言いつつも、その渋面から納得しかねていることは明白であった。不機嫌さは手つきにも洗われており、インナーを洗う手つきは実に手荒である。


 「ああ、ジャケットとズボンはしみ抜きして、仮眠室に吊しておきましたから」


 「はー……帰ったらクリーニングだな……」


 石鹸で洗ったはずなのに、何処か酸っぱい臭いが消えきらないように思える着替えを何処からか調達してきたタライに突っ込み、女は大きく吐息した。


 「……しかし、アイツ大丈夫かね、あの調子で。これからもっとショッキングな光景見ることになるのに」


 「綺麗な死体ばかりならいいんですけどね」


 「そりゃ生きるってのは汚いもんだ。それなら死ぬのが綺麗な訳あるまいよ」


 ジャージ姿で下着を握っていなければ、何とも格好の良いことを言って女は立ち上がる。結局の所、人間は肉の袋だ。その悉く腹の中にクソと血を蓄えて、他の有機物と無機物を蕩尽しながら這い回る。それが死した後も這い回るようになった程度で、一体何が変わるというのか。


 「綺麗に死ぬのが簡単な世の中だからこそ、汚く死んだ時の為に私達がいるのさ。ま、汚く死んだ奴が可哀想だからってのが動機でない分、私達は不純なのかもしれないがねぇ」


 「むしろ邪な気分のみなので純粋なのでは?」


 「トンチかよ」


 下らないと笑い、女は懐へと手を伸ばした。そして、白いパッケージの煙草を取り出して一本咥え、青い空を見上げる。死体が起き上がって大童な人間を馬鹿にするように、空は何処までも変わらない。


 「さて、あの新人は世界がクソ溜だと知って、何処まで頑張れるかね。煙草や酒が人類に深く寄り添った理由を知ることになるか……」


 貼り付けた曖昧な笑みを皮肉気に歪め、オイルライターの蓋が弾かれた。純正品のみが奏でる澄み渡った金属音に満足し、フリントが回されて炎が……産まれなかった。


 弾けるような水の音。一塊の水がぶちまけられ、茶色い巻紙が目立つ煙草とライターがずぶ濡れになる。咥えていた女の顔諸共に。


 「……おい」


 水も滴るいい女と言えば聞こえは良いが、ただの濡れ鼠になった女が首をぎこちなく動かせば、そこには服を洗う為に使ったタライを構えた男の姿があった。タライを振り上げた残心の姿勢からして、下手人であることは明らかだ。


 そして彼は、悪びれも無く洗い場の一角を指さした。敷地内全面禁煙の標識を。


 「せんぱ……班長が厳注くらうと連座して私までお小言が来るんですから、規則は守ってください」


 「てめぇなぁ」


 「綺麗に死ねなくても表面上綺麗に生きる事はできるんですから、努力してください」


 「抜かせ」


 暫し中庭に下らない罵声の応酬が響いたが、青い空は何事も変わらず流れ続けていた…………。






 消毒液の臭いというのは、あまり好きになれません。自分や親族に何かある度に訪れる病棟を思い出すので。


 あれは本当に陰鬱な所です。治る希望がある者と無い者がごたまぜにされ、無理矢理に保った清潔さの中で纏められている場所ともなれば、明るいはずなどないでしょう。そうして、そういった所へ訪れると、決まって枯れるように死んでいく血族を見舞うことになるのですから。


 僕にとって、あれは死の臭いなのです。死に行く人間が包まれる、生きながらに発し始めた微かな死臭を塗りつぶす最悪の香水。


 それに包まれながら横になるのは、本当に最悪の気分です。自分が見送られる側になったかのように錯覚してしまうので。


 ここは医務室。気がついたら常駐していた医務官から、ストレスと再起性死体を見たショックで倒れたと聞かされました。備え付けらしいジャージに着替えさせられていたのは、色々と溢れた結果なのでしょう、色々。


 幸いな事に下の肌着は、朝履いたものだったので最後の尊厳は守れていたようです。


 まぁ、最悪と最悪の一歩手前の何が違うのかと言われれば、何にも言えないのですが。


 きちんと洗濯されているのでしょうが、医務室の臭いが移って消毒液臭くなってしまったマクラに顔を埋めながら、思わず愚痴がこぼれ出ました。


 「退職届ってどうやって書くんでしたっけ」


 拝啓ご両親。頑張って出世してくるようにと送り出されましたが、僕はここで仕事をやっていける気がしません…………。

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