第16話 柚木莉緒

 ある夜のことだった。伏見さんのボランティアを終えて家に帰った後、伏見さんの家に携帯を忘れて帰っていることに気が付いた。いっそそのままにして次の朝にとりに行こうと思っていたが、現代人の習性と言おうかなんというか、どうしても手元に携帯がないと落ち着いて寝るにも寝られなかった。夜中にもかかわらずわたしは伏見さんの家に携帯を取に行くことにした。普通なら迷惑な行為かもしれないが24時間体制でケアを行う伏見邸はいわゆる不夜城だ。

 伏見さんの家についてドアノブに手を触れた瞬間、違和感を憶えた。伏見さんの家の玄関にかぎがかかっていたのである。幸い自分も鍵を持っているのでそれを使って中に入ろうとしたところでハッと思い立った。たしか初めてこの場所訪れた時、そのことが原因で見てはいけないものを見てしまった記憶があった。そのことに警戒して鍵をかけていたのかもしれないと思って躊躇し、一度中の崇さんに連絡を取ろうとしたが、よくよく考えてみれば肝心な携帯が家の中だ。どうしようかとまごついているところで、

「あ、明歩ちゃん。こんなとこで何してるの!」

 うしろから声を掛けてきたのは崇さんだった。崇さんはわたしがいることにとても驚いた様子だった。

「え、何で崇さんこそ外にいるの? ふ、伏見さんは今家の中に一人なの?」

「い、いや…… そ。そういうわけでもないんだ。い、今はちょっと人が来ていて……」

「こんな夜中にですか? そんなことより、中に入りましょう。」

「あっ! ちょ、ちょっとまってて。今連絡を取るから。」

 そう言って崇さんは携帯で連絡を入れた。おそらく相手は今、伏見さんの家の中にいる〝来客〟で間違いないのだろう。

「だいじょうぶ。もう入っていいって。」

 二人で玄関を開け、中に入った。出迎えてくれたのは若くてきれいな女性。少々ケバイ気もしたが、崇さんは彼女のことを伏見さんの遠い親戚と紹介してくれた。

 今から考えてみれば怪しいところだらけだった。遠い親戚がわざわざこんな深夜に伏見さんの家を訪ねてきて、泊まるでもなしに深夜に帰っていくなんてどう考えてもおかしかったのだがその時は不思議と気にもしなかった。むしろあの時なにも気にせずに中に入っていたらと考えるとぞっとする。


 しばらくして彼女が新しくボランティアとして参加してくれると聞いてうれしくてたまらなかった。最近伏見さんの性格も改善してきたし、ここで新しくボランティアが増えればきっといろいろ楽になるだろうと安心した。しかも聞けば彼女はケアの経験がある。ようやくいろいろなことがうまく回り始めたような気がした。

夜間の仕事をしているので比較的人手の足りていない昼間の時間を、しかもかなりの長時間で受け持ってくれると聞いた時、ようやく大きな荷が下りたと感じた。これで時間の融通がきき、ベテランの向井さんがいろいろな時間に動けるようになれば色々な問題が解決できる。柚木莉緒(ゆずきりお)と名乗るその女性にすぐさま好意を感じることができ、つまらないことで辞められてしまわないようにと、大切に接していかなければと感じた。

 柚木さんはケアがとてもうまかった。今、彼女の別の顔を知ってようやく納得ができたけれど、普通はあれほどまでにものおじせずに(特にシモのほう)の処理はなかなかできない。すぐに一人で伏見さんのケアにあたっても大丈夫だということになった。

 

 四月になり、わたしは二回生になり、授業も少し楽になった。そのころにはケアも上達して伏見さんをひとりで付き添うようにもなり、おかげで一人あたりが受け持つ時間も減り、私生活にも大分ゆとりが生まれるようになった。しかし奈緒は時間の余裕もできて崇さんと一緒にいられる時間も増えたにもかかわらず、時々浮かない様子をうかべることがあった。


「……タカシ、浮気しているみたい。」

 まるで人形のようなうつろな目で奈緒は言った。初めにその言葉を聞いた時、心が凍りつきそうになったのはわたしだ。少し以前に深夜に崇さんと二人でケアをしていた時も奈緒はわたしと崇さんが浮気をしているんじゃないかと疑っていたし、事実わたしの心の中で崇さんに対する淡い想いを抱きはじめていたのは事実だった。

 ―――火のないところに煙は立たない。

 火こそ立っていないにもかかわらず、心の片隅にわずかばかりの小火があるのは否定できない。だからこそ奈緒のその言葉が怖かった。

「……あの女、あたし、なんか好きになれないかも。」

「あのおんな?」

 その言葉で少しだけ胸をなでおろす。攻撃の矛先は自分に向いているのではないと理解した。

「そう、あの莉緒って子。どう考えてもおかしいよ。伏見さんに親戚があるなんて聞いたことないし、だったらなんで今まで顔を出さなかったの?」

「た、たしかにそういわれれば……」

「あの子たぶん、タカシの浮気相手よ! なかなか会う時間がないからってきっとここまで押しかけてきたに違いないわ。」

「まあ、たしかにそういわれれば変なところはあるけれど、崇さんと柚木さんは同じ時間帯にケアにあたっているわけじゃないし……」

「それだけじゃないのよ。深夜の時間帯、タカシがケアに伏見さんのところに行っている時、あたしが顔を出すとタカシすごく嫌がるの! なのにあの女は時々深夜、タカシがいる時間帯に伏見さんのところに行っているみたいなのよ。」

 なぜ、深夜に奈緒が伏見さんのところへ行くことを崇さんが嫌がったのか、それについては心当たりがあった。崇さんはひそかに伏見さんの〝性の処理〟を担当していたからだ。おそらくそのことを奈緒に伝えていないのはやはり崇さんが奈緒のことを〝女の子〟として見ていたからなのだろう。しかしながら、なぜ深夜の時間帯に柚木さんがいるのかを不審に思ったこともある。今、崇さんの書いた手記を見れば、その時彼女がそこで何をしていたのかということは明瞭なのだが、当時のわたしはやはり二人の関係に疑いの目を向けた。それはおそらく自分の心の片隅にくすぶり始めていた小火に奈緒がきづかないようにするためにも必要なことなのだと思う。わたしたち二人は協力して崇さんと柚木さんが浮気をしている証拠をつかもうと必死になったこともあった。結果からすればそれは全くの取り越し苦労だったわけだが、そのことが原因で彼女には余計な心労をかけてしまったのではないかと反省している。

 よく、そのころ。医療機器メーカーに営業として就職した向井さんは伏見さんの家に訪ねてきた。特に仕事の休みの日曜日はほとんど毎週のように来ている。

その週の日曜日もわたしが午前中を担当していて、お昼過ぎの時間帯、もうすぐ交代の柚木さんが到着するころだった。手土産を持った向井さんが挙動不審な目でやってきた。

「よう、相変わらず童貞か? はよ、経験はすました方がええで。」

 といつものように伏見さんに上から目線な言葉を投げかけられるのを苦笑いでやり過ごしていた。いつもなにがしかの手土産を持って来ては伏見さんやボランティアのみんなを喜ばせてくれていたが、日増しにその頻度が増えていくのを感じた。

「なんやお前? 仕事でなんか悩んどるんか? ボクでよかったら聞いてやるで、ま、こんな体やから聞くぐらいしかできひんけどな。」

 心配する伏見さんの言葉をよそに向井さんは答えた。

「ああ、そんなに心配してくれなくていいですよ。そりゃあたしかにいざ、始めて見ると本当にこれがやりたかった仕事なのかって考えることはありますよ。でも、誰だってやりたいことができるってわけじゃあありませんから。むしろ与えられた環境で自分に何ができるのかを考えて生きていくことの方が幸せだってことぐらい、十分に見てきたつもりです。」

「まあ、そうだな。ボクだって別にみんながヤリたい娘とヤレるなんて思ってないけど、せめてヤレる娘とくらいはヤッておけと言うのがボクからのアドバイスだ。」

 向井さんは相変わらず苦い笑い方をしていた。わたしはその日、向井さんが持って来てくれた和菓子をお盆に開き、お茶を入れた。〝むらすずめ〟というこの地方では割と有名な和菓子は伏見さんの好物だ。餡はこしあんで、それを包み込む周りの生地はぽつぽつと穴だらけの生地。ふんわりとやわらかくて口どけがいい。要するにあごも食道も健康的とは言えない伏見さんにとってとても食べやすい和菓子だ。

「ええしゅみしとるやないか。」

 と褒める伏見さんに対して、

「いや、仕事柄いろんな菓子折りを買いにいくことがあるんで…… そんな時、ついくせで『ああ、これだったら伏見さん食べやすいんじゃないかな』とか、つい考えちゃうんですよ。そしたらしばらくして思い出して、どうしても食べさせてみたいって思うようになるんですよ。」

 そんな言葉に機嫌をよくしている伏見さんには申し訳ないが、わたしには違う理由にも気付きはじめていた。人間づきあいがあまり上手とは言い難い向井さんはやはり嘘をつくのもあまり上手ではない。下心なんて女のカンをもってすればバレバレだ。むらすずめをほおばりながら向井さんがながめているのはボランティアのシフト表。個人個人のスケジュールに合わせて一、二週間単位で書きだしているシフトはやはりこうしてこまめにチェックしていないとなかなか〝偶然〟は装えない。

 そして今日もまた、マメな向井さんの〝偶然〟は見事に装われることになった。

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