「人生終了②」

「ボクちゃん~ 今のは誰でちゅか~? 大丈夫でちゅか~ 元気ないでちゅよ~」


 電話の内容を知る由もないママンは先ほどと変わらないテンションで俺にそう言った。

 ああ、やめて下さい。本当にもう、これも聞かれていますから。

 完全に素に戻った俺は無言のまま手の平を彼女の方へ向けてストップをかけた。怪訝そうな表情で首を傾げた彼女に俺は絞り出すように掠れた声で言った。


「お隣さんに丸聞こえだった…… らしい」

「えっ。お兄ちゃん、それ本当?」


 ノリノリで俺のママンをしていた妹も素の口調に戻っていた。やらかした…… と表情が物語っている。あんぐりと口を開けた顔が埴輪っぽい。次第に茹で上がっていく頬は羞恥色に染まり妹の身体は蝋人形みたいに硬直した。


 引っ越したばかりの1DKアパートの洋室で石化する二人。ガードレールを突き破り海岸へと落下した事故車のように既に風化が始まっていた。秋の西日が窓から射して部屋が赤く染まっている。俺は頭を妹の膝枕に乗せたまま薄目で夕日を見ていた。涙で光が滲んで街の景色が歪んでみえた。


 何も知らない第三者からなら今の俺たちの姿は、仲睦まじい恋人同士、に見えたかもしれない。だが実際は違った。それは先ほどまで赤ちゃんプレイに没頭していた兄妹の姿だった。兄妹で赤ちゃんプレイ…… はっきり言って変態に思われても仕方がないと思う。

 だが、誤解しないで欲しい。違うのだ。少なくとも俺は変態ではないのだ。この赤ちゃんプレイは妹にとあるネタで脅されて仕方がなく付き合っただけだし、そもそも妹とはいっても血の繋がりはない義兄妹なのだ。義妹だからセーフというつもりはないが、少なくとも実妹よりはセーフだ。間違いない。そうだろう?


 まず声を大にして言いたいが、俺はマザコンでもシスコンでもない。もしかしたら多少はその傾向があるのかもしれないが決して病的なものではない。当然、日常生活に支障をきたすレベルでもない。俺は赤ちゃんプレイなどしなくとも生活できるごく普通の男子大学生だ。特殊性癖などは決して持ち合わせてはいない健全な成人男子だ。変態ではない。重ねていうが、俺は変態ではない。赤ちゃんプレイなどこの世から消えてなくなっても、俺は何一つ困ることはない。困るとすれば一部のマニアの方々とチャッキー人形くらいだ。


 だが、果たしてどれだけの人が俺の言葉を信じてくれるだろう?

 当然のことながら隣の部屋に住む後輩を説得できる自信など全くなかった。


「おぎゃあ~ ママー、ママー。頭ナデナデしてぇぇぇぇ~」

「ママのお膝きもちいでしゅ~。ママ大しゅき~」

「ママのおっぱいおいちぃでしゅ~。バブバブ~、おいちぃでちゅ~」


 そんな言葉を聞かれた以上、今更どんな言い訳ができるというのか?

 今から後輩に俺が真人間だと説得できる能力がもしあれば、俺はこのまま社会に出て就職するより詐欺師になった方が良いかもしれない。オレオレまとも詐欺師になれる。いや詐欺じゃない。俺は本当にまともなのだから。


 一応、断っておくが服越しとはいえ義妹の胸に顔を埋めていたのは事実だが俺から埋めたわけではない。義妹ママンが一方的に押し付けてきただけだ。それでもぼくはやってない。冤罪だ。俺は無実である。


「ご、ごめんね、お兄ちゃん…… わ、私そんなつもりじゃ……」


 五分ほど経ってようやく硬直が解けた妹は躊躇いがちに謝罪の言葉を口にした。

 じゃあどういうつもりだったのだろう? と思わなくもないが、三歳年下の可愛い義妹を一方的に責める気にはなれなかった。とあるネタを使って脅迫してきたのは妹だが、本気で抵抗せずに妹の悪戯心に付き合ってしまった責任は俺にもあった。拒もうと思えば、本当は拒むこともできたのにバブバブした責任があった。それに贔屓目抜きにしても義妹の雛姫は可愛いのだ。ひなき、というのが妹の名前なわけだが、そんな雛姫ママンのおっぱいを顔に押し付けられて嬉しくなかったか? と問われればやはり少しは嬉しかった。俺の下半身もなかなか喜んでいた。ならばやはり勃起責任が発生するわけで雛姫だけを悪者にするわけにはいかない。


「ん、大丈夫。たぶん、うん。お隣さんには上手く誤魔化しておく」


 そう言いつつも誤魔化せる見込みなど殆どなかった。雛姫を安心させるための方便だ。もちろん雛姫もそれは分かっているのだろう。黙って俺の頬を撫でてくれる。慰めているつもりなのだ。雛姫の手の平はどこまでも優しい。プレイではなく本当の愛情が伝わってくる。雛姫は俺を愛している。俺も雛姫のことは好きだ。ただ、恋人同士ではない。なんというか色々と複雑な関係性なのだ。


 生きていれば上手くいかないことの方が多い。それに現代社会は世知辛くて生きにくい。コンビニの弁当に異物が少しでも混入していればクレームになるし。ゴミの仕分けは細かすぎる。幼稚園児が運動場でお遊戯をしていると騒がしいと苦情が入るし、悪ガキを厳しく叱れば体罰だと訴えられる。赤ちゃんが公共の場で泣くだけでうるさいと怒る大人もいるし、自室で赤ちゃんプレイをすればうるさいと怒る後輩もいるのだ。現代社会はどうかしている。あまりにも寛容の心が欠けている。


 ああ、明日大学行きたくねぇ。

 俺は切実にそう思った。


 女の情報伝達スピードは異常だ。しかも伝達の速さとひきかえに情報の精度がとてもいい加減だ。伝言ゲームと同じだ。次へ次へと伝わるうちに話の内容が変化するのだ。噂ばなしの俺はきっと更なる変態へと進化を遂げることだろう。その噂が100人目に伝わる頃には赤ちゃんプレイをしていた変態どころか赤ちゃんレイプをしていた変態にメタモルフォーゼしている可能性すらある。


 いやだっ、大学行きたくねぇ……


「うわ~ん、ママ~ 大学行きたくないぃぃぃぃ」 


 俺はお隣に聞こえないように冗談めかして小声で呟きながら雛姫の腰にしがみついた。

 雛姫は責任を感じているらしく、優しく背中を抱いてくれた。雛姫ママの母性に癒されてしまっている自分に自己嫌悪を覚える。俺はもう、駄目かもしれない。さっきまでの妹への接待プレイの時と違って今は雛姫ママの癒し効果がとても機能している。俺はしばらく気持ちが落ち着くまで雛姫ママの膝の上でどうすれば社会的に死ななくて済むか考えていた。義妹ママンの柔らかな肉体の癒し効果は抜群で、気が動転して我を失っていた俺の思考も徐々に冷静さを取り戻しつつあった。


 今ならなんとかなるかもしれない、と俺は思った。

 とんでもない会話を聞かれたとはいえ後輩さえ黙ってくれればなんとかなる。そうすれば、俺の社会的ダメージは最小限で済むかもしれない。最小限で済まさなくてはならない。


 サン・テグジュペリの『星の王子さま』には三本のバオバブの芽を抜くことを怠ったために滅びた星の話がある。悪い芽は早いうちに摘まなくてはいけない。俺はバブバブの芽をこのまま放置するわけにはいかないのだ。


 まず明石涼子への口止めが必要だ。もちろん手段は選ぶ必要がある。

 今すぐ金属バットを握りしめてお隣さんへと乗り込んでいき後輩の後頭部をホームランすれば目的は達成できるかもしれないが、次は別の意味で社会的に死ぬ。後輩も死ぬ。

 よって平和的解決が必要だ。それも対話による解決だ。地道でタフなネゴシエーションになるだろう。核兵器開発を諦めさせるため北朝鮮へと交渉に挑む外交官のような覚悟が必要だ。膝枕の上でハードボイルド映画の主人公のような表情をした俺は現状を打開するべく行動を開始した。

まず携帯電話を手に取って明石涼子にLINEでメッセージを送る。


『おそらく盛大に勘違いしているかと。何でも一つだけ言うことを聞くので、とりあえず話だけでも聞いて欲しい。誤解されたままだとマジで困るから』


 まぁ、実際にバブバブしていたので勘違いも何もないわけですが。

 とりあえず交渉のテーブルに後輩を座らせないことには始まらない。今までは後輩とそれなりに良好な関係を築き上げてきたから話くらいは聞いてくれるだろう。そうでないと困る。

 送信したメッセージはすぐに既読になり、しばらく待つと返事が送られてきた。


『エスポワールのガトーショコラ』


 そのたった14文字に込められたメッセージから俺は明石涼子の不機嫌さと優しさを読み取った。それは『大学近くの洋菓子店にあるガトーショコラを買ってきなさい、そうしたら話くらいは聞いてあげる』という明石涼子からの譲歩だ。

『何でも一つだけ言うことを聞く』という条件を提示したわりに、ずいぶんと控え目な要求内容だった。明石涼子の性格の良さがこのメッセージだけで伺い知ることができる。少しだけ我儘だけど無理な要求はしない。年頃の女の子っぽい可愛らしい要求内容だ。


 俺はすぐに『一時間以内に買ってくる』と返信すると、雛姫の膝枕から身体を起こして彼女に言った。


「今日は色々と手伝ってくれてありがとう。悪いけど今日はこのまま実家に帰ってくれ。さっきの事は今から何とかするよ。気にしなくていい」


 午前中、雛姫には引っ越したばかりの部屋の整理や家具の設置を手伝ってもらっていた。荷物を整理している途中で雛姫に『見られたくないアレ』を発見されてしまい、こんなことになってしまったのは大誤算だったが部屋が綺麗になって助かったことは本当に感謝していた。


「今日のお礼は後日するから許してくれ。臨時収入も入ったから、本当は雛姫に夕食をご馳走したかったんだけどな」


「ううん。ごめんね、こんなことになって。でもバブバブするお兄ちゃん可愛かったし、私は楽しかったよ」


 雛姫は声のボリュームを落としてそう言うと悪戯っぽく笑った。チャーミングで小悪魔的な笑みだった。この笑顔が見られただけで俺は今日の出来事を許せてしまえる気がした。俺は雛姫を玄関から送り出し、また後で携帯に連絡すると伝えた。


 エスポワールの閉店時間は午後7時。今から出かけても十分に間に合うだろう。さっくさくのシュークリームが有名なお店だがガトーショコラもきっと美味しい。もしかしたら義妹との甘い時間と同じくらいに。俺は自転車に乗るとエスポワールへ向けてペダルをこいだ。


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