第42話 狙われた森崎叶美

 午後になって雨は一段と激しさを増していた。車のワイパーはせわしなく動いてはいるものの、視界が開けることはない。鉛色の空は時折、雷鳴を轟かせていた。

 タクシーが信号で止まる度、沢渕は心臓が掻きむしられるようだった。時間がない。連中は佐々峰姉妹、久万秋進士だけでは飽き足らず、次は森崎叶美を毒牙にかけようとしている。

 先日、佐伯と対峙した時、どうして彼を窮地に追い込むことができなかったのだろうか。連中が一斉に逃げ出すほどの決定的な証拠を突きつけられなかったことに、後悔の念が湧いた。

 叶美は今、祖父の喫茶店で店番をしている。一人無防備な彼女は、犯人にとって絶好の標的に違いなかった。

 悪天候で遅々として進まないタクシーのドアを開けて、すぐにでも走っていきたい衝動に駆られる。そうしたところで、彼女の元へ早く到着できる道理はないと分かっていながら、気持ちだけが空回りを続けた。

 叶美には電話を掛け続けているのだが、あれ以来一向に繋がらない。彼女の身に何か起きたというのだろうか。知らず身体が震えた。

 商店街のアーケード手前でタクシーを降りた。この先は道が狭いため、車で入るには時間が掛かる。それに道案内を的確にする自信もなかった。料金を払うのももどかしく外へ飛び出した。

 昼間のアーケード街は人の往来も少なく、ひっそりとしていた。アスファルトの路面に沢渕の靴音だけが響く。途中若者の集団とぶつかりそうになった。謝っている暇などない。遠くに罵声を聞きながら、ひたすら叶美の喫茶店へと急いだ。

 アーケードを脇に逸れ、強い雨に打たれながら路地を分け入った。いよいよ古びた喫茶店が見えてきた。普段なら迷ってしまう筈の複雑な裏通りも、今は最短距離で駆け抜けた。

 喫茶店の正面に立ち、木製扉に手を掛けた。あれから実に二十分、心臓が飛び出すのではないかと思うほど、鼓動は激しかった。

 身体を少しでも休ませるように、沢渕は身を屈めて扉に耳をつけてみた。店内で何か事態が進行しているのであれば、策もなく飛び込むのは危険である。一刻も早く叶美の顔を見たいのは山々だが、まずは落ち着かなければならない。

 しかし何も考えてはいられなかった。本能のまま扉を開けた。

 濡れた床に足を取られて、身体のバランスを失った。転げるように店内に突入した。

 辺りは静まりかえっていた。外の雨が激しくガラス窓を叩いている。人の気配はなかった。

「森崎先輩!」

 狭い店内である。何度か呼び掛けてみたものの返事はなかった。まさか手遅れだったというのだろうか。

 ひょっとして、変わり果てた叶美の姿を目の当たりにするのではないか、そんな恐怖に怯えながらも厨房やトイレを探した。しかし誰の姿もなかった。この店はまるで時間が停まっているかのようだった。

 念のため、もう一度叶美の電話に掛けてみる。やはり応答はない。

 叶美はどこへ消えたのだろうか。

 彼女はどこかにヒントを残していないだろうか。沢渕はすっかり呼吸を整えて立ち上がった。

 先の電話で、叶美は確かに店に居ると言った。そう考えるとやはり誰かがここへ来たと考えるべきだろう。問題はその後である。

 店番をしていた彼女は、厨房内からカウンターを望む格好だった筈である。

 そこで厨房に廻ってみた。

 ここに立っていたなら、誰かが来た時、カウンター越しに話をすることになる。何かメモを残していないだろうか。しかし火を扱う場所ということもあって、紙の類いは置いていない。シンクの底に水滴を広げて文字を残すことも可能だが、急いでいてはそれも思うようには書けないだろう。実際に覗き込むと確かに水滴は散らばっていたが、その配置に特に意味があるとは思えなかった。

 いや、叶美は探偵部の部長として、きっと何かを残している筈だ。今はどんな手掛かりでも欲しい。

 沢渕は彼女が立っていたと思われる場所に直立してみた。そこをコンパスの中心にしてゆっくり身体を回転させてみた。後ろを向くまでもなかった。答えはすぐそこにあったのだ。

 シンクの垂直面が水垢で汚れていた。たわしで擦らないと取れない頑固な汚れである。そこには指に力を入れて、垢をこそぎ落とした部分があった。

「イチカワ×2」

 そう読めた。

 叶美はうまい場所にメッセージを残したものである。この垂直に切り立った部分は、特定の位置からしか見ることができない。犯人がたとえ厨房に入ってきたとしても、叶美の身体が邪魔をして発見できなかったであろう。

 沢渕は悲壮感にさいなまれる中、一筋の光が差し込んできたように思われた。叶美は危険を承知で何かを伝えようとした。彼女はきっと無事であるような気がした。

 さて、問題はその文面である。

 市川というのは、容疑者と思われる人物を指していると思われるのだが、「×2」とはどういう意味であろう。

 一般的に考えて、市川という人物が二人いたことになろう。つまりこの店に現れて、叶美を連れ去った実動部隊は二人の市川ということになる。

 これはどういうことなのか。まさか彼らが名札をつけている筈もなく、おそらくは自らそう名乗ったのだろう。名前が重なったのは偶然ではあるまい。つまり二人には血縁関係があるということにならないか。

 以前、叶美が推理したことがあった。犯人グループの中には、親子関係の者がいるのではないかというのである。なるほど、ここからはすらすらと思考を進められた。

 叶美が廃ボーリング場で襲われた際、後頭部を殴った男が父親で、能面を被ってどこか落ち着かない様子をしていたのがその息子ということではないか。

 佐伯病院に潜入した際、見掛けた大男というのは、調理場にいた責任者しかいない。叶美の後頭部の傷は上から叩きつけられてできていた。彼女の身長を考えると、かなりの上背を持つ人物と考えられる。市川は自分の息子を巻き込んで、佐伯の犯罪に加担しているに違いない。

 厨房を出て入口の方を向いてみた。レジの後ろにはカレンダー、その隣にコルクボードが貼り付けてある。そのボードには横長の短冊が真ん中で破れて、左右からだらりと垂れ下がっていた。それは何とも不自然な光景であった。裏返しになっている紙を両手で元に戻すと、「ランチ」という文字が復元された。

 沢渕はそれらの文字をしばらく眺めていた。それからふと笑みをもらした。

 短冊は真ん中付近で破られているのだが、その場所はちょうど「ン」の辺りである。叶美は「ン」の文字を取り去って、「ラチ」すなわち拉致されたと伝えたかったのではないか。

 人間そんなことを咄嗟に思いつける筈がない。叶美は日頃店番で暇を持て余してる時に、そんな言葉遊びを考えていたのだろう。あるいは、沢渕がいつかカレンダーの印で叶美の店番の日を当てたことがあったので、お返しにクイズでも出そうと練っていたのかもしれない。

(先輩らしいな)

 心に立ち籠めた暗雲が少しは晴れた気がした。

(先輩無事でいてください。きっと助けてみせます)

 沢渕は誓った。


 携帯が鳴った。慌てて画面を見ると、それは堀元直貴からであった。

「沢渕君、森崎は無事かい?」

 開口一番そう言った。

「いえ、残念ながらまだ確認できていません」

「そうか」

 直貴は喉の奥から捻り出すようような声を上げた。

「そうだ、佐々峰姉妹のことなんだが」

 沢渕は自然と身構えた。

「安心してくれ。二人とも無事だ。確かに踏切事故には遭ったが、大怪我で済んだ。命に別状はない」

「本当ですか?」

 沢渕は天を仰いで、大きく深呼吸をした。今は神の存在を素直に信じられた。

「橘先輩が死んだなんて言うから」

 そう不満を漏らした。

「ああ、僕もあの時は驚いたよ。でも許してやってくれ。橘もパニックに陥っていたんだ。今僕は二人が収容された病院に着いたところだ」

「クマ先輩の方は?」

「ああ、こちらも心配はない。手術するまでもなく意識を取り戻しらしい。一時的な脳しんとうだったようだ。クマの身体は思ったより頑丈にできているよ。そちらは橘が付き添ってる」

 身体から緊張が解けていくのを感じた。残るは叶美の安否である。

「森崎先輩は佐々峰姉妹を心配していたようですから、もしかするとそちらに行くかもしれません」

 その可能性は極めて低かったが、直貴を安心させるためにそう言った。

「分かった。しかし佐伯たちに連れ去られたかもしれないんだろ?」

「はい」

 二人はしばらく押し黙った。

 沢渕はその沈黙を破るように、

「堀元先輩、たとえ部長からメールが来ても、無視してください」

「どういうことだい?」

「犯人に捕まっているとしたら、おそらく残りの探偵部全員に招集を掛けてくると思います。その際に不用意な返事をするのは得策ではありません」

「僕たちを招集してどうするんだ?」

 そう言ってから愚問だったことに気がついた。犯人は探偵部員一人ひとりに危害を加えようとしているのだ。

 直貴は素直に、

「分かったよ。橘にも言っておくよ」

と言ってから、

「それで、この後どうする?」

「呼び出しがあれば、僕一人で行きます」

「しかし…」

「騙された振りをして、奴らの懐に飛び込んでみます。そうすれば、森崎先輩の所へ連れていってくれるでしょう」

 今はどうしても叶美の無事な姿を確認したかった。

「だが森崎がやられていたらどうする?」

「その点は大丈夫だと思います。部長を利用して、必ず部員を集合させようとする筈です」

 もし叶美に危害を加えるのが目的ならば、この喫茶店内に彼女が倒れていてもおかしくないからである。それは敢えて口にはしなかった。

「だが君が奴らにやられてしまうぞ。警察を呼んだ方がよくないか?」

 直貴は厳しい口調で言った。

「残念ながら、確たる証拠を揃えている時間はありません。奴らにシラを切られれば、それでおしまいです。事態が急変した以上、もうこれ以上待てません」

「そうかもしれない。人質の命もいよいよ危なくなってきたと見るべきだろうね」

 もちろんそれもあるが、叶美の命は奴らに握られている。状況も分からぬまま、警察に大袈裟に動かれるてはどうなるか分からない。

「ですから、犯人と駆け引きをしようと思います。そのためにも堀元先輩と橘先輩には別行動を取ってもらいたいのです」

「なるほど。具体的にはどうすればいい?」

「佐伯病院を見張ってください」

「見張ってどうする?」

「何か動きがあったら、必要な支援をしてくれれば結構です」

「動きというのは?」

「それはまだ分かりません。ですが僕に一つ考えがあるんです」

 沢渕はある計画を伝えた。直貴はさすがに驚いていたが、

「本当にそれでいいんだな?」

と最後に念を押した。

「はい。きっと成功させてみせます」

 沢渕は自信を持って言った。


 雨はいつしか止んで、窓の外はどっぷりと暮れていた。室内の明かりもつけず、沢渕は叶美からの連絡を待っていた。

 もし彼女からの呼び出しがなければ、こちらから佐伯病院まで出向くつもりでいたが、それでは奇襲攻撃を掛けたようで、相手の気を緩ませたことにならない。犯人側も探偵部がどこまで事件のことを調べ上げているか関心がある筈だ。必ずや連絡は来る。その点には自信があった。

 気掛かりがあるとすれば、それは直貴と雅美の安全である。しかし二人が一緒に行動する限り、その心配も少ないだろう。

 暗闇の中、椅子に腰掛けて、沢渕は一人思い出に身を委ねていた。春、入学早々探偵部に入ることになり、様々な人との出会いを果たした。中学時代は経験することのなかった、チームワークを学んだ。時に人の優しさや悩みに触れ、その度に大きく成長することができた。素直に探偵部、そしてメンバーたちに感謝したいと思った。

 そして今、メンバーのために命を懸けようとしている。どんな結果が待っていようとも、沢渕に悔いはなかった。

 闇の中、突然ディスプレイが光を放ち、メールの着信を告げた。

 件名には、「事件解決に向けて」とある。

 沢渕は苦笑した。このメールは部長が一斉送信したものであるが、真っ赤な偽物である。まるでルールを守っていない。探偵部のしきたりでは、部員への連絡は件名を空欄にし、集合場所と時間だけを書くことになっている。これはまさに犯人が叶美に無理矢理打たせたメールであった。

 本文は次のようになっている。

「探偵部は全員、午後九時に廃ボーリング場に集合のこと。そこで合流後、直ちに人質の救出作戦を実行します」

 直ぐさま直貴からの電話が鳴った。

「沢渕君、メールが来たね」

「はい」

「しかしこのメールには笑っちゃうね。犯人に命令されて、森崎が嬉々として書いたって感じだ」

「同感です。探偵部のメールは送受信後すぐに削除することになっていますから、犯人たちも普段どうやってやり取りしているか確認のしようがなかったのでしょう」

「ああ。でも、そのおかげで森崎は無事だということが確認できた」

「そうですね」

 自然と弾んだ声になった。

「沢渕君、森崎はわざとこんなメールを送りつけて、逆に探偵部に集合するなとメッセージを発している訳だ。それでも君は単独で行くというのかい?」

「はい」

「最後にもう一度だけ訊くが、本当にやるんだね?」

「はい」

「誰かが犠牲になるかもしれないよ」

「覚悟はできています。万一、僕たちに何かあった時は、先輩二人で事件を解決してください」

「おいおい、物騒なことを言うなよ」

 直貴はたしなめるように言った。

「いえ、それだけ自信があるということです」

 沢渕はわざと自信ありげに言った。

「僕と橘はあくまで保険という訳だな?」

「そうです」

「分かった。もう止めない。思う存分やってくれ。君ならきっと成功するよ」

「ありがとうございます」

 沢渕は喫茶店を出た。すっかり夜のとばりが下りた商店街を駅へ向かって走り出した。

(先輩、待っていてください)

 漆黒の空に黄色く輝く月が、彼のひたむきな姿を見守っていた。


 指定された廃ボーリング場に着いたのは午後九時少し前だった。以前、叶美が犯人と偶然出くわし、怪我をさせられた場所である。沢渕は写真では見ていたが、実際に来るのは初めてだった。

 廃墟というのに駐車場だけは広大で、建物に近づこうものなら、こちらの動きは完全に見通されてしまう。犯人にとって絶好のロケーションに違いなかった。

 沢渕は今、その駐車場の真ん中付近に立った。廃墟の方へ歩もうとしたところで、まるで予期していなかった方角から車のライトが点灯した。それはちょうど沢渕の右の頬を照らす格好となった。

 沢渕に向かってその存在を主張したということは、こちらに来いという合図だろう。

 叶美もそこに居るのだろうか。明かりの方に向きを変えた。その動きに満足したのか、車のライトは消灯された。

 急な光の点滅が沢渕の目は眩ませていた。白い光源が残像となってちらつく。そのため勘を頼りに進まなければならなかった。しかし徐々に目が慣れてくると、乗用車が一台停まっているのが分かった。

 やはりここへ一人で来て正解だったと言えよう。もし探偵部全員で来ていたら、あやうく車に轢かれていたところだ。姿を現したのが沢渕一人だったため、向こうも探偵部の出方を窺うことにしたのだろう。

 車まであと十メートルというところで、再びヘッドライトが照射された。急な輝度の変化に思わず顔をしかめた。闇夜を利用して、他にこっそり近づく者がいないかどうかを確認したように思われた。

「そこで止まれ」

 男の低い声がした。

 沢渕はその言葉に従った。

「他の仲間は?」

「僕だけです。他のメンバーは恐れをなして逃げました」

 沢渕は闇に向かって言った。

 どうやら人影は二人のようだった。

「ふん、本当かどうか怪しいものだ」

 そう言って一つの大きな影が近づくと、沢渕の身体を検査した。背の高い男だった。ポケットにあった携帯電話が取り上げられた。地面に叩きつけられて粉々になった。

「森崎叶美さんは無事ですか?」

「ああ、今のところはな」

 男が言った。

「彼女を解放してもらえませんか。僕が身代わりになります」

 男は笑った。

「まあ、そう慌てるな。これから彼女の所へ連れて行ってやるよ」

 隣にいた女がふふふと笑い声を立てた。

「おや、進藤真矢さんも来てたのですか?」

 沢渕の言葉に女はぴたりと黙った。

「うるさい!」

 そうヒステリックに叫んだ。

 今度は男の方が、

「お前は自分の立場が分かってないようだな。今ここで痛い目に遭わせてやろうか」

と凄んだ。

「おお、怖い怖い。以前女子高生を背後から襲って気絶させ、さらに進藤さんと共謀して柔道着の高校生を襲った市川さん。今晩は息子さんはいらしてないのですか?」

「黙れ!」

 突如、市川の拳が沢渕を襲った。頬がえぐられて彼は地面に倒れ込んだ。だがそれは相手を油断させるための作戦だった。

「車に乗せろ」

「分かったわ」

 意識が朦朧となった沢渕を二人で引きずると、車の後部座席に押し込んだ。男がエンジンを掛ける。女はそのまま沢渕の横に腰を下ろした。アイマスクを着けられ、さらに両腕はプラスチック製の結束バンドで固定された。

「どうする気だ?」

 沢渕はかすれた声で訊いた。振動で身体が座席からずり落ちる。

「お前たちがどこまで掴んでいるか、交互に拷問に掛けるのさ」

 ハンドルを握りながら市川が答えた。

「拷問?」

「ああ、言っておくが普通の拷問じゃないぞ。一人を拷問に掛けて、もう一人に吐いてもらうという方法だ」

 それは嬉々とした声だった。

「お前たちは仲が良さそうだからな。そういう相手にはこのやり方が一番効果があるんだよ」

 沢渕は朦朧とする頭で、叶美を救うにはどうしたらよいか、そればかりを考えていた。


 しばらくすると車が停車した。沢渕は乱暴に後部座席から引きずり出された。アイマスクで視界を奪われて、その上両手の自由が利かないため、無様に地面に転げ落ちた。

 両脇を市川と進藤に抱えられて、部屋の中へと押し込まれた。つまずいた時にテーブルの脚で顔面を殴打した。

「おいおい、お客様に乱暴はよくないぞ」

 聞き覚えのある声が近づいてきた。アイマスクが外されて、視界が開けた。

 目の前には、白衣を着込んだ男、佐伯佳克が立っていた。

「確か、沢渕君とか言ったね?」

 声を出そうにも、頭の中が混沌としてうまく言葉が出せない。どうやら車にも酔ったらしい。

「君の仲間はどうしたんだい?」

 沢渕が口も利けずにいると、

「こいつしか来ませんでした」

と市川が報告した。

「まさか、あの小娘。何か細工をしてこいつだけ呼んだのかもしれないわ」

 進藤が忌々しげに言った。

「いや、それは違います」

 ようやく声になった。

「他のメンバーはそれほど深く捜査に関わってはいません。ですから彼らは何も知りません。最初からその程度の熱意しかなかったのです。でも僕は違います。この事件にはどっぷりと首を突っ込んでますから、最後を見届けたくて指示に従ったのです」

 所々で声がかすれた。叶美に危害が及ばないよう、沢渕は必死の思いだった。

「それなら、それでいい、少なくとも二人揃ったのだから、それぞれから話を聞こう」

 佐伯は手近な椅子に腰掛けた。

「君たちはどこまで掴んでいるんだ。正直に教えてくれたまえ」

 市川に殴られてからすっかり調子が狂ってしまった。さっきから頭の痛みが消えない。それでもここは全てを話すのが得策のような気がした。包み隠さず情報を渡せば、叶美だって拷問に掛けられることはないだろう。

「五年前の夏、この街で発生した大量誘拐事件の主犯は佐伯さん、貴方だ」

 うまく呂律が回らない。それでも何とか言葉を繋いだ。

「正確には、拉致の実行犯は貴方ではない。ここにいる市川、進藤、そして植野老人だ」

 周りに居た連中に緊張が走ったのが分かった。

「続けたまえ」

「佐伯医院には、昔から一般病棟とは別に秘密の病室があった。おそらく戦後まもなく、結核患者を隔離する場所として使われていたのでしょう。結核が不治の病でなくなった現在、それは無用の長物となってしまっていた。

 医科大学で薬学の研究をする貴方は新薬の開発を迅速に行いたかった。そこで直接人体実験を試みようとした。つまり昔の隔離病室が再び日の目を見ることになったのです。貴方は元々真面目な研究医だったが、おそらく病院の専属調理師である市川にそそのかされて、街の人を一人、二人と拉致して実験を開始したのでしょう。

 薬学の研究成果が認められるようになると、大規模な人体実験がしたくなってきた。そこで貴方は大胆な行動に出る。市川と共謀して大量誘拐を計画したのです。

 実際、計画を考えた中心人物は市川だったのかもしれません。なぜ単なる調理師である彼がそこまでして悪行に手を染めるのか分かりませんが、障害を持った息子のことで、貴方に何らかの恩義を感じていたからと思います」

「それはお前には関係ないことだ」

 市川は我慢ならないという調子で言い放った。

 沢渕はなおも続ける。

「貴方の父上と友人関係にあった植野老人は、その昔タクシーの運転手をやっていて運転技術には確かなものがあった。おそらく病院の送迎バスの運転も手伝っていたのでしょう。そこであの夜、進藤が車椅子の乗客に成りすまし、本物のバスを十分以上遅延させ、植野が運転手となって路線バスの前にマイクロバスを走らせた。

 しかし本来正規のバスを待っている乗客がそのまま小型のマイクロバスに乗る訳がない。そこで市川の息子の出番となる。おそらく彼は乗用車で先回りして、交通事故のため路線バスが来られなくなったため、臨時のマイクロバスに乗るように指示をしたのです。

 乗客は彼の言うことを信じてバスに乗り込む。そこで今度は市川の出番となる。車内で乗客に化けていた父親は客を武器で脅して黙らせた。

 マイクロバスが満員になると、佐伯医院に一旦戻って人質を降ろし、隔離病室へ連れて行った。その役目を行ったのが佐伯さん、貴方だ。マイクロバスは空になると、もう一度正規の路線に戻って、同じ手口で人質を回収して戻って来た」

 全員は黙って聞いている。

「さて次は人質の監視だ。十七人の人質をたった数人で見守ることは難しい。当然通常業務を行っている看護師らに世話をさせる訳にもいかない。だが食事については調理の責任者である市川が水増しして作ったところでバレることはない。

 問題となるのは日常の世話です。そこで貴方は人質十七人を半々に分け、片方には強い薬を、もう片方には弱い薬を投与する実験を行った。比較的薬物の影響が少ないグループには、もう一方の人質の世話を手伝わせた。従わない者には、生死に関わる一番過酷な実験の被験者にすると脅したのではないでしょうか。また友人関係があった女子高生は、自ら望んで相手に献身的な世話をしたケースもあった」

「どうしてそこまで分かるんだね?」

 佐伯は不思議そうな顔をして訊いた。

「僕を甘く見ない方がいいですよ。貴方のやったことは全てお見通しなのですから」

 沢渕はわざと大胆不敵に答えた。

「それから一年が経ち、資金も底をついてきた。それもその筈、ただでさえ病院の経営が上手くいってなかったことに加え、十七人もの入院患者を無償で受け入れることになったのですからね。そこで人質のことを詳しく調べ上げ、その中に地元の名士である新野工業社長の娘、悠季子がいることを突き止めた。

 貴方は警察抜きの取引を持ちかけ、社長もそれに応じた。しかし身代金だけ手に入れておきながら、悠季子を返さず、進藤真矢という人物を送り返した。考えてみれば、それは当然そうなるでしょう。人質を返そうにも、誰もがあまりにも多くのことを知り過ぎている。病室に入れられて、妙な薬を打たれたなどと証言されれば、すぐさま病院が捜査線上に浮上する。だから最初から誰も返す気などなかったのです。

 そこで進藤に被害者を演じさせることで、警察の捜査状況の確認と、さらには偽の証言をさせた」

 沢渕は一息ついて、

「どうですか、ここまで何か訂正するべき所はありますか?」

と訊いた。

「いや、実に素晴らしい。まったく君の言う通りだ」

 佐伯はわざとらしく大袈裟に言った。

「しかし沢渕君。私や市川はともかく、どうして彼の息子が事件に関与していると分かったのだ?」

「市川親子については僕の勘です。廃ボーリング場で森崎さんを襲ったのは、その背の高さからすぐに調理師の市川だと分かりました。しかし能面の若者が誰なのか分からなかった。ただ二人は息が合っているようだったので、もしかして家族関係ではないかと疑ってかかったのです」

「市川が私に協力する理由も知っているのか、君は?」

「院長、もうその位でいいでしょう」

 横から市川が苛ついた声を出した。

「こう言っては何ですが、息子さんはある病いを患っていたのではないですか。難病と言ってもよい。その治療を快く引き受けたのは佐伯さん、貴方だ。彼にはどうしても心の病気を治す強い新薬が必要となった。それで市川は研究にひどく協力的だったのです」

「どうして心の病気だと?」

「院長!」

 再び市川が声を荒げた。

 沢渕はそれに構わず、

「能面ですよ」

と言った。

「森崎さんは植野老人に騙されて、廃ボーリング場に向かうことになりました。それを待ち伏せしていたのは市川親子だった。しかし彼の息子はどうして能面なんて物をつけていたのか。それは彼にとって、人に顔を見られたくない、恐怖から人を寄せ付けないため、日頃から必要な道具だったのです。つまり彼は人前に出ることを躊躇うほどの病気を抱えていたことになります。

 僕たちは市川という若者を探し求めました。暮らしているアパートも、通っている学校も掴めなかった。それもその筈です。彼は外界とは隔離された場所、佐伯医院の入院患者だったからです。それだけではない、人質と同じ隠し病室にいて、彼らの監視役をしていたからなのです」

 市川は今にも飛びかかってきそうな勢いで沢渕を睨んでいた。

 佐伯はそれを目で牽制しつつも、

「君の推理は立派だが、警察が動くに足る証拠はあるのかね?」

と言った。

「この病院のマイクロバスです。車内から人質十七人全ての指紋が検出される筈です」

「しかし犯行から実に五年の歳月が流れているんだ。すでに当時のバスは処分した可能性だって考えられるんじゃないか?」

「常識的には確かにそうでしょうね。しかし駐車場のバスは当時のままでしょう。なぜなら貴方たちは完全犯罪に酔いしれて、警察の手が及ぶことはないと高をくくっていたからです。ところが我々が嗅ぎ回るようになって身の危険を感じ始めた。つまりバスは手つかずのまま残っている可能性が高い。それに当面病院の業務に必要な物ですから、そうそう簡単には手放せないでしょう」

「なるほど。ご忠告ありがとう。あのバスは早速廃車にしよう。どのみち車と衝突事故を起こしてね。ボディに大きな損傷を負ったのでね」

 沢渕は思い至った。

「まさか、あのバスを使って佐々峰姉妹を?」

 それには市川がにやにやしながら、

「踏切で停まろうとしたが、うっかりブレーキを踏むのが遅れてねえ。そうそう、前に停車していた軽自動車に追突したら、そのまま踏切内に入ってしまったよ」

 沢渕は拳を固く握りしめた。我慢ならなかった。市川に身体ごとぶつかっていた。

 両手が固定されている高校生の身体など、市川は事も無げに避けてしまった。そして軽々と押し戻した。

「他に証拠はあるのかい?」

 沢渕は口をつぐんだ。人質が救助を求めて書いたメッセージの件は伏せておいた方がいいだろう。事実を知った連中が人質を痛めつけるという心配がある。

「踏切で事故を起こした二人は、人質が外部と連絡を取っていたとか言ってたわ。そんなのハッタリでしょう?」

 進藤が鼻息も荒く訊いた。

「それは初耳です。自由に携帯電話を使えたのですか?」

 沢渕はとぼけた。

「やっぱりね」

 進藤がニヤリと笑みを浮かべた。

「しかし、君は頭がいい。どうだい、これは提案なのだが、我々の仲間になる気はないか? そうすれば君の命だけは助けてやる。そして私の助手を務めてはどうかね?」

「人質十七人と森崎さんはどうなるんです?」

「彼らには君ほどの価値はない。だが君が捜査を止めて、我々に従うというのであれば、殺さずに今まで通り研究に利用させてもらう」

「森崎さんは?」

「彼女にも新しい被験者となってもらう」

「仲間に入れるというのはどうですか?」

 沢渕はすかさず提案した。

「我々の側に引き入れるのは難しいだろうね。何と言っても、山神高校の生徒会長で君たちのリーダーだからね。正義感は人一倍強いだろう。それとも君に説得ができるかね?」

「そうですね、僕も命は惜しいですから、助かるためには何だってしますよ。一応、彼女を説得してみましょうか」

「院長!」

 市川が沢渕を睨みつけて言った。

「こいつの言うことを信じるのですか?」

「いや、まだ信じた訳じゃないさ。もし裏切るようなことをすれば、人質らと一緒に殺してしまえばいいだけのことだ」

 佐伯は冷静に言った。

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