第39話 沢渕晶也の反撃

「二人とも気をつけて帰りなさい」

 佐伯はあくまで紳士的な口調で言った。沢渕が相手に逆らうことなく従順な態度を見せたため、二人はあっさりと解放された。

 佐伯にはそれだけ心理的な余裕が残っていたのだろう。決定的な証拠を持たない高校生を見て、身の危険はないと判断したのだ。しかし実は沢渕にとって、これは一つの作戦なのであった。

 佐伯はわざわざ玄関まで見送ってくれた。

 沢渕は歩きながら雅美の耳元で、

「先に外に出て下さい」

と囁いた。

 雅美は緊張した相方の様子を察し、何も反応することなく玄関を出ていった。一度も振り返ることはしなかった。

 沢渕は玄関のドアが閉まるのを確認すると、足を止めて院長と向き合った。

「まだ何か用があるのかね?」

 佐伯は不思議そうな表情を浮かべた。声は落ち着いていた。

 沢渕は待合室の壁に並べられた賞状を一つひとつ眺めていった。博士学位の証明書、医療機関からの感謝状、医薬品の特許証明書などが掲げてある。どうやらこの街の医科大学の教授も務めているようだ。

「先生のご専門は薬学なんですね?」

と尋ねた。

「ああ、そうだ」

 佐伯は堂々と答える。

「大学では、新薬の開発もされているのですか?」

と訊いた。

 佐伯は質問の意図が分からずに、一瞬無言になった。

 それでも、平静を装うようにして、

「まあ、そうだ。君も薬学に興味があるのかい?」

と訊き返した。

「はい、大いに興味がありますね。新薬というのは開発に相当な時間が掛かるらしいですね。特に臨床実験は長い年月を必要とします。通常、実験はラットを使うのが一般的ですが、研究者というのはすぐにでも人間を使った実験がしたいものでしょうね?」

 佐伯は顔色を変えた。

「君は一体何が言いたいのかね?」

「臨床実験には何人が必要ですか? 十七人も居れば十分ですか?」

「それは何の話だ?」

 佐伯は怒りを露わにした。

「さっき先生がおっしゃったお宝ですよ」

「何を言っているんだ。君は先程病院内に何も見つけられなかったと言ってたじゃないか。それなのに、まだ変な言い掛かりをつけるのか?」

「この病院は随分と歴史があるようですね」

 沢渕は一見、見当違いなことを言い始めた。

「それがどうかしたか?」

「その昔、病院では細菌患者を隔離するための特別な場所があったそうですね。もちろん限られた人間しか立ち入ることは許されない」

 佐伯は黙ったままだった。

 沢渕は構わず、

「この古い病院にもそういった場所があるのではないかと思いましてね」

「そんな物はない。それに君らは病院を隈無く調べたのだろう。そんな病室はあったかね?」

「いいえ」

「それじゃあ、それは君の憶測に過ぎん」

「しかし元々外界と隔離するための部屋ならば、人目につかない所にあっても不思議じゃありません」

 沢渕は背を向けると靴を履いた。

「名誉毀損は止めたまえ。警察を呼ぶぞ」

「それではまた来ます」

 佐伯のいらつく声に押し出されるように病院を出た。

 外は夕日があらゆる物を赤く染め抜いていた。随分と時間が経ったことを知った。

 すぐに靴音が近づいてきた。

「沢渕クン、ごめんね」

 雅美は腕にすがって言った。

「とにかくこの場を離れましょう」

 彼女の手を引くようにして先を急いだ。途中、後ろを振り返ることも忘れなかった。

「調理場の大男に見つかっちゃったの」

 雅美はいつもの調子を取り戻していた。

「先輩、怪我はありませんでしたよね?」

「それは大丈夫。でも、本当にごめんなさい」

「いいえ、先輩が謝る必要はありません。おかげで佐伯院長と有意義な話ができましたから」

「でも、あの男が黒幕なのかしら?」

 まさに問題はそこである。

 沢渕は雅美の安全を確保した後、揺さぶりを掛けてみた。彼は多少動揺していたように見えたが、最後までボロは出さなかった。こちらに証拠がない以上、シラを切ればそれで終わりと考えたのであろう。

「一応、佐伯の声は携帯に録っておきました」

「さっすが」

 雅美は感心した声を上げた。

「鍵谷先生に回して、新野社長の家に掛かってきた脅迫電話の声と同じかどうか声紋を分析してもらいます」

「でも動機は何かしら?」

 沢渕は自分の推理を聞かせた。

「なるほどね」

 雅美は声を弾ませて、腕を組んできた。

「人質は病院内に監禁されているのかしら?」

「ちょっと調べてみたところ、そんな場所は見当たりませんでしたね」

「そうよね。それじゃあ、この病院のスタッフはみんなで隠しているのかしら?」

「いや、それはないと思いますよ。佐伯院長と彼が教えている医大の学生らしか知らないことでしょう」

 共犯については、佐々峰姉妹が市川という怪しい医大生の存在を確認している。今はその調査待ちである。

 沢渕は直貴に連絡を取った。

 佐伯病院にはマイクロバスが停めてあったこと、厨房施設では入院患者数を大幅に超える食事を用意していること、そして人質は新薬の開発で臨床実験に利用されている可能性があることを伝えた。

 直貴はこれから佐伯病院に関する情報を集めると言った。できれば建物の見取図が欲しいところだが、それは難しい相談かもしれない。それでもネットを駆使して病院の創立や沿革、そして評判などできる限り多くの情報を探ってみると約束してくれた。

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