第36話 新野慎一の証言

 沢渕はタクシーに揺られながら、一人思索にふけっていた。

 停滞していたかに見えた捜査もここへ来てまた動き始めた。探偵部に新しく加入した橘雅美みやびの兄、雅希を介して新野工業の社長と面会できる機会を得た。彼は事件の被害者の一人、新野悠季子の父親である。

 沢渕は十七人の人質のうち、最も財力のある彼に目を付けていた。犯人は必ず二度目の取引を持ちかけているに違いなかった。よって彼は報道されていない犯人に関する何らかの情報を持っている可能性があるのだ。

 タクシーが停車した。ドアが同時に三枚開くと、沢渕をはじめ、叶美とクマが降り立った。

 三人を出迎えてくれたのは「新野工業株式会社」の大きな看板であった。

 この会社は主に大手電機メーカーの下請けではあるが、金属加工の技術には定評があり、ここ数年業績も上向きで、この地域においてその名を知らぬ者はいないほどである。

 沢渕は守衛に身分を伝えて、玄関に案内された。敷地内では小型リフトが忙しく駆け回っている。

 沢渕はクマを玄関先に待機させた。

 本来、叶美は捜査に参加してはならない身分である。犯人に顔を知られた以上、屋外活動は安全とは言えないからである。

 しかし叶美は沢渕に同行すると言って聞かなかった。そこでクマの護衛を条件に直貴から許可が下りたのだった。

 予め電話で面会の予約を済ませておいたので、受付で声を掛けるとすぐに事務員が応対してくれた。

 すぐ隣には工場が併設されているため、プレス機の動作音や金属を加工する音が絶えず響いている。

 二人は二階の社長室へと案内された。

 出迎えてくれた新野氏は恰幅のよい男性だった。しかしただの中年太りではなく、筋肉が身体全体を覆っている様子で、その昔何かのスポーツ選手だったことを容易に推測させた。

 すぐ隣には、か細い女性が立っていた。

 沢渕と叶美は深々と頭を下げて、それぞれ名を名乗った。

「まあ、座ってくれ給え」

 新野は深々とソファーに掛け直した。

「こちらはうちの家内だ」

「初めまして、弥恵子と申します」

 彼女の物腰は丁寧だった。

「山神高校探偵部、と伺っているが」

 新野は険しい表情を崩さない。

「早速だが、用件を聞こうか」

 威圧的な声だった。妻の弥恵子は神経質な視線を夫に向けている。

「僕らはおよそ五年前に起きた誘拐事件を捜査しています。警察とは違うアプローチで犯人像を絞り込んでいます。そこで新野社長にもぜひ協力して頂きたいと思いまして」

 新野は何も喋らなかった。どうやら彼は目の前の高校生二人が果たして信用に足る連中かどうかを見極めようとしているのだった。

 叶美が口を開いた。

「念のために申し上げますが、私たちは興味本位で探偵ごっこをしているのではありません。捜査は順調で、実際に私は犯人一味と接触までしました」

 弥恵子はいつしか身を乗り出して聞いていた。新野も明らかに興味を持ち始めているようだった。それを悟られまいとして、しきりに顎の辺りを撫でた。

「君たちが事件の捜査をするのは構わないが、私にどうしろと?」

「単刀直入に言いましょう。犯人と接触した新野さんにお話を伺いたいのです」

「いや、残念ながら私は犯人の顔を見ていない。それは当時の新聞記事にも出ている筈だ」

「確かに最初の取引はそうです。しかしその後、犯人から再び身代金の要求があった筈です。違いますか?」

 沢渕は自信を持って言った。

「いや、取引は一度だけだ。それも警察の失敗で、犯人とは接触できなかったがね」

 弥恵子は再び夫に強い視線を投げかけた。彼女は真実を知っている、沢渕は直感した。

「犯人グループは十七人の誘拐をして、家族それぞれに身代金の要求を行った。しかし実際に取引現場には現れなかった。つまり彼らの本当の狙いは金ではなかったのです。

 ところが彼らは人質について一人ひとり詳しく調べていくうちに、この街の名士である貴方の娘の存在を知った。そこで犯人たちは監禁のための資金や自分たちの報酬を得ようと、考えを軌道修正したのです。

 彼らはグループを装っていますが、実は数人ではないかと僕は見ています。彼らは手間や効率を考えて、身代金を一人の金持ちから取ることを思いついたのです。それで再度貴方に接触してきた筈なのです」

 新野の顔色が変わった。沢渕の推理に驚いたようだった。と同時にそれは探偵部を信用し始めた瞬間でもあった。

 無言の夫に、弥恵子は業を煮やしたのか、

「貴方、悠季子が帰ってくるのなら、今はどんなことにも協力しましょう」

と悲鳴に近い声を上げた。

「しかし」

 新野は言葉を詰まらせた。

「奥様の言う通りです。警察には警察の、僕たち探偵部には探偵部のやり方があります。人質奪回のためには可能性は広げておいた方がよいと思うのです。

 悠季子さんはきっと生きています。僕らはきっと彼女を解放できると自負しています。そのためにはもっと情報が欲しいのです。ここで聞いたことは決して口外しません。その点についてはお約束します」

 沢渕は熱っぽく語った。

「分かった、君たちを信じよう」

 新野は覚悟を決めたようだった。

「君の言う通り、犯人側から二度目の連絡があった」

「それはいつのことですか?」

「事件発生後、ひと月後ぐらいだった」

「その時は警察には話さなかった?」

「そうだ、犯人にもそう念を押されたからな」

「犯人は何と?」

「電話の内容は全て録音してある」

 新野は弥恵子に目で合図をした。彼女はさっと立ち上がると、ボイスレコーダーを持ってきた。

「お聞きになりますか?」

「ええ、ぜひ」

 これには叶美が答えた。彼女は犯人の声を聞いた唯一の証人である。それは自分の仕事だと考えたのだろう。

 テーブルの上に置かれた機器から会話が流れ始める。

「新野さんだね?」

 不敵な笑みを浮かべるような男の声。

「そうだが、君は?」

「お宅の娘さんを預かっている者だよ」

「何? 悠季子は無事なのか?」

「ああ、今のところはな」

 男は笑った。

「我々は貴方と直接取引をしたい。前回は警察に邪魔されて、取引は成立しなかった。そこでもう一度、チャンスを与えようという訳さ」

「要求は金か?」

「そうだ、今度は警察抜きだ」

「分かった、前回のことは謝る。今度は警察に内緒で取引をしようじゃないか。もちろん君たちが満足するだけの金も用意する。その代わり悠季子は無事に返してほしい。それだけは約束してくれ」

「さすがに交渉が上手だな。俺たちも大量殺人をしたい訳じゃない。素直に要求を飲んだ家族から、順次返していくつもりだ」

 叶美はずっと目を閉じたまま、犯人の声に耳を傾けていた。流れてくるのは中年男性の声である。廃ボーリング場で聞いた学生風の男の声ではない。しかし犯人が家族ぐるみなら、何らかの共通点があるかもしれない。叶美は精神を集中させた。

「分かった。それで私はどうすればいい?」

 新野の懇願とも取れる声が響いた。

「いいか、よく聞け。これから指示を出す」

 会話はさらに続いた。


 黒塗りの大型車が一台、駅前のロータリーに停車した。

 後部座席から身を躍らせるように出てきたのは新野社長だった。運転手の山宮が後に続く。

 トランクを開けると、真っ白なスポーツバッグが二つ顔を出した。それをバーベルを持ち上げる格好で取り出した。

「社長、私もお供しましょうか?」

 山宮が新野の背中に声を掛けた。それは幾度となく繰り返された質問だった。

「心配するな。今回は犯人の要求に従わねばならん」

 ずっしりと重みを感じる。両方のバッグには合わせて一億円が詰められている。娘の悠季子が無事に帰ってくるのなら、この金は犯人にくれてやるつもりだった。

「社長、この後私はどうしましょうか?」

「自宅で待機してくれ。何か動きがあれば、こちらから連絡する」

「分かりました」

 山宮は観念したらしく、もう何も言わなかった。

 犯人は取引場所に、とある駅を指定してきた。それはこの街からは百キロも離れた、片田舎の駅であった。

 新野は事前に地図を確認し、鉄路、道路のルートを頭に叩き込んでおいた。よって山宮に車で先回りさせることは可能なのである。しかし不穏な動きが犯人に察知されれば、警察が介入しているのではないかと痛くない腹を探られかねない。

 やはり娘の命が最優先だ。今回は何があろうと、犯人の指示通りに動くことを決めていた。

 新野は山宮と別れると、切符を買って改札を通り抜けた。


 途中の駅で支線に乗り換え、農村地帯を進む。

 夏休みとはいえ、平日の列車内は空いていた。新野は指示通り、先頭車両の前寄りに腰を下ろし、周囲に目を配ることを忘れなかった。犯人がいつどのように接触してくるのか、まるで見当もつかないからである。

 二両編成の気動車は田畑をかき分けて走っていく。

 所詮、田舎のローカル線である。何度か駅に停車したが客層に変化はない。乗客が入れ替わる度に車内を見回してはいるが、ここまで怪しい人物は認められなかった。

 途中大きな街が出現した。列車が駅へ侵入すると、反対側にも同じ形式の列車が停車していた。単線のため、駅での譲り合いが不可欠なのだ。

 ここは停車時間も長く、乗客の出入りも激しかった。

 新野は犯人が接触してくるなら、この駅ではないかと直感した。網棚と足元に分けて置いてあるスポーツバッグをもう一度確認した。それから感覚を研ぎ澄まし、左右に目を配った。

 今、サングラスの若者が一人乗り込んできた。シャツとジーンズという軽装で、誰か探しているといった雰囲気である。すぐに新野と目が合った。それから大股で近づいてきた。

「あんたが新野さん?」

 頭上から無遠慮な声が降ってきた。黙って頷いた。

「これを渡すように言われてさ」

 男は小さく折り畳んだ紙を手渡した。そしてそのまま前方の扉からホームへと消えていった。

 新野は慌てて紙を開いた。

「鞄はそこに置いたまま、最後尾の車両へ移動せよ。娘は反対側に停車中の列車に乗っている」

 新野はすぐに立ち上がった。

 犯人からの指示である。さっきの若者が犯人グループの一員だろうか。いや、そんなことよりも、今は悠季子の無事をこの目で確かめなければならない。

 新野は気が狂いそうになりながら、隣の車両へ駆けつけた。もう身代金など気にしている余裕はなかった。

 反対側の列車は同色同型で車両編成も同じである。唯一違うのは、進行方向が逆になっていることである。

 新野は一番後ろの車両に移動すると、四角い窓伝いに反対側の車両を覗き込んでいった。娘の姿はない。しかし最後の窓まで辿り着いたところで足が止まった。

 悠季子が居た!

 間違いない。見覚えのあるジーンズのジャケットで、こちらに背を向けている。すぐ隣には新聞で巧みに顔を隠している男が立っていた。こちらの視線に気づいたのか、男は姿勢を変えず、手でこちらへ来いと合図した。

 新野は急いで車外へ飛び出した。ホーム同士は跨線橋で繋がっている。階段を上りながら何度も足を踏み外しそうになった。

 突然、ホームのベルが鳴り始めた。

 それは悠季子の断末魔の叫びのようだった。時間がない。ようやく階段を下り始めるとベルが鳴り止んだ。列車はすでに動き始めていた。

 待ってくれ!

 新野は転げ落ちるようにホームに降り立った。その頃には、すでに列車は加速度をつけて遠ざかっていた。

 悠季子はどこだ?

 列車に追いつけないことを承知で、ホームの端まで走った。しかし娘の姿はどこにもない。まさか犯人たちにまんまと出し抜かれたのだろうか。不安で胸が押し潰されそうだった。

 両膝に手を当てて息を切らしていると、もう一つベルが鳴り出した。そうか、今まで乗ってきた列車が発車するのだ。

 新野には向こうへ戻れるだけの体力が残されていなかった。

 いや、その必要はないのだ。これで身代金は払ったことになる。それなら悠季子は解放されなければならない。だが現実はあの遠ざかった列車に乗せられたままである。何か間違いを犯しただろうか。頭が激しく混乱した。

 今回も取引に失敗したというのか。父親失格という言葉が頭を渦巻いていた。

 新野は誰もいないホームを引き返し、改札口に倒れ込んだ。

 悠季子は帰ってこない。そこには絶望感だけがあった。声にはならない叫びを上げた。突然身体がぐにゃりと曲がって、地面へと吸い寄せられた。次の瞬間、目の前は真っ暗になった。驚くほど近くで誰かの悲鳴が聞こえたようだった。


「犯人は間違いなく金を受け取った訳ですね?」

 沢渕の前には、妻の弥恵子が出したジュースが置いてあった。しかしそれには一切口をつけず、新野の話に耳を傾けていた。一語一句聞き逃さないつもりだった。

「犯人は最初から私と同じ車両に乗っていたんだろう。もしかしたら何食わぬ顔をして隣に座っていたのかもしれない。そして私がいなくなると、そのまま次の駅で悠々と身代金を持って下車したんだろう。いずれにせよ、犯人たちは一億円を手に入れたのだ」

 新野は握りこぶしを作って言った。

「それからどうなりました?」

 この取引は警察から公式に発表されていない。よって事の顛末は新野本人から聞くしかない。

「気付けば、私は病院のベッドに寝かされていた。傍には見ず知らずの女性が付き添っていた。不思議なことに、彼女は悠季子と同じジーンズのジャケットを手に持っていた」

「なるほど、娘さんと思った女性は、実は別人だったのですね?」

「そうなんだ。聞けば彼女は監禁されていた人質の一人だと言う」

「つまり犯人は悠季子さんではなく、別の人質を解放した」

「その通りだ。彼女は監禁されている部屋で、悠季子からジャケットを着せてもらったのだと言った。恐らく顔をよく知らない犯人は、服装でその女性のことを悠季子と勘違いしてしまったらしい」

「その女性の名前は?」

 すかさず叶美が口を挟んだ。

「進藤真矢とか言ったな。年格好は悠季子とよく似ていたから、それで間違えられたのかもしれん」

「そんな名前、被害者リストにあったかしら?」

 叶美は被害者の名前は全て記憶している。その中に進藤という名はなかった。

「そちらのお嬢さんの言う通りだ。どうやら警察が把握していない被害者がもう一人居たらしいのだ。彼女は身寄りがないらしく、捜索願が出されていなかった」

「では、この誘拐事件の被害者は十七名ではなく、正確には十八名だったということですか?」

 沢渕は鋭い眼光で訊いた。

「そういうことだ」

 新野は憮然と答えた。

「それについて、警察は訂正しませんでしたね?」

「ああ、そうだ。私は犯人と直接取引をしようとした。これはいわば裏取引だ。社会的にも許されるものではない。そこで私は警察にこの件を公表しないよう、お願いしたのだよ。警察もメンツがあるからか、了承してくれた」

「つまり進藤真矢という女性は、この事件とは何ら関係がないことになっている訳ですね」

「確かにそうなるが、彼女は犯人グループと接触して生還した唯一の人物だ。警察は当然彼女から事情聴取を行った」

「そうでしょうね」

「藁にもすがる思いで、私も悠季子のことを問い質した。しかし彼女は娘のことを知らないと言った。夜道を歩いていたらいきなり後ろから羽交い締めにされ、自家用車に乗せられた。その後どこか山奥の別荘に連れて行かれて、そこにはすでに大勢の人質が居た。たまたま風邪を引いていた彼女は隣にいた悠季子からジャケットを着せたもらったと語ってくれた」

「犯人の目的については何か言ってましたか?」

「若い娘は東南アジアルートを通して人身売買されるという話を耳にしたらしい」

「何ですって?」

 叶美が思わず声を出していた。

 新野の隣に座っていた弥恵子は、嗚咽を漏らすと両手で顔を覆った。

「その進藤真矢という女性に会うことはできませんか?」

 沢渕は落ち着いて訊いた。

「会ってどうするんだ?」

「犯人に関する証言をできるだけ多く聞きたいのです」

「しかしそれはとっくに警察がやっているだろう。何も新しいことは出てこんよ」

「そうかもしれませんが、一度お会いしたいのです。社長から警察に働きかけることはできませんか?」

「それはさすがに無理だな。捜査の詳しい中身については私にも知らされていないのだ。その進藤真矢という女性が今どこに居るかも分からん」

「そうですね。また何か思い出したら連絡をください」

 沢渕はあっさり引き下がった。それから叶美に目配せをした。

「今日はお忙しいところ、ありがとうございました」

 二人は深々と頭を下げると、新野工業を後にした。

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