第30話 音楽室に亡霊現る

 叶美は突然目を覚ました。

 無機質なコンクリートの天井がすぐ目の前にあった。今夜は女子更衣室で眠ることになった経緯をすぐに思い出した。

 時計を見ると、四時半を少し回った所である。眠りについてからまだ三十分しか経っていない。

 遠くで誰かが呼び掛けているような気がしたのだ。耳を澄ますと、その声はかすかに耳に残留している。

 叶美は勢いよく起き上がると、女子更衣室のドアをゆっくりと開けた。

 この時間、辺り一面は闇に包まれている。それでも叶美は何かに吸い寄せられるように歩き始めた。

 砂利を踏みしめる音が妙にはっきりと聞こえる。それに混じるようにかすかな声が聞こえてくる。これは一体何だろう。

 不思議な気分だった。その声は甲高く、まるで女性の悲鳴を連想させた。

 叶美は夢遊病者の足取りでその声のする方向へと向かった。

 中庭まで来ると、音はますますはっきりと聞こえるようになった。

 女性の声ではなかった。ピアノの旋律である。

 叶美は校舎を見上げた。そこには音楽室がある。しかし部屋に明かりはついていなかった。

 外の叶美に気づくことなく、ピアノの音は続いている。どこか辿々しい、稚拙なメロディーが途切れ途切れに流れてくる。

 そうか、これが音楽室の亡霊か、叶美は今全てを悟った。

 山神高校に古くから伝わる怪談である。今は使われていない、鍵の掛かったグランドピアノが夜中に音を奏でるというものだ。

 まさに今、その調べが叶美の耳に届いているのだ。

 噂では幼くして亡くなった用務員の娘が弾いているのだと言う。

 叶美の気持ちはすでに固まった。

 この怪談の真実を暴いてやる。探偵部の代表として、今晩決着をつけてやろうではないか。私にだって、きっと何かできることがある筈だ。それをみんなの前で証明してみせる。

 叶美は音楽室の真下に立っていた。

 音はそれほど大きくはない。問題のピアノは少々奥まった準備室に置かれている。そのため屋外までは響かないのかもしれない。もっと大きな音量ならば、深夜のこの時間、必ずや近隣住人が気づいて騒ぎ出している筈である。

 今、この得体の知れないメロディーを耳にしているのは、この世で叶美ただ一人なのだった。

 もちろんここからは弾いている人物を確認することはできない。何としても校舎内に潜入する必要が出てきた。

 しかし唯一の入口と思われた生徒会室の窓は、なぜか今日は固く閉ざされていた。

 叶美は一瞬躊躇したものの、すぐに決心した。素早く行動を起こさないと演奏が終わってしまう。

 校舎をぐるりと一周して、グランド側に出た。

 朝礼台の下に置いてある電源コードが巻かれたドラムを持ち出すと、そのまま一階の窓目がけて振り下ろした。

 深夜の静寂を切り裂くようにガラスの割れる音が轟いた。

 もしやこの騒音に気づいて演奏を止めてしまうのではないか、そんな心配もあった。だが音楽室は三階にあるので、気づかれないだろうと、たかをくくっての行動だった。

 砕け散った窓に手を入れて鍵を外した。反対側の戸を滑らせると、校舎の中へと身を投げた。

 冷たい廊下に転げ落ちて、床に頭を打ちつけた。だが今は痛みを感じている暇はない。

 外から中に入ると、ピアノの旋律は驚くほど鮮明に聞こえてきた。まるで校内放送を通して全館に流しているようだ。

 叶美はなるべく音を立てずに階段を上がっていった。

 どんどん音が増幅してくる。相変わらず旋律はふらふらと安定しない。気まぐれな音が鳴り響いている。

 長年埃を被ったグランドピアノは調律がなされていない。そのため奏者がどれだけ頑張っても、調子の狂った音しか出せないのだろう。

 叶美はいよいよ三階まで辿り着いた。

 準備室のドアを開けた時、一体何が待ち受けているのだろうか。用心のため、廊下に置かれた消火器一つを小脇に抱えた。

 とうとう音楽室の前までやって来た。

 ここではピアノの音は頭に直接響くほど大きく聞こえてくる。

 扉に手を掛けた。ゆっくりと開いて、広い音楽室全体を見回した。

 黒板のすぐ横にピアノが置いてある。しかしこれはもちろん蓋が閉まっている。やはり亡霊とやらは奥の部屋で弾いているのだ。

 叶美は忍び足でもう一つの扉まで近寄った。

 ピアノの音が生々しく響いている。

 やはりこれはCDや録音の音ではない。扉を一つ隔てた向こうで、誰かが壊れたグランドピアノに命を吹き込んでいるのだ。

 叶美は準備室のノブに手を掛けた。

 その時だった。

 背後から近づいてくる人の気配を感じ取った。敢えて気づかぬ振りで相手を引きつけておいてから、突然身を屈めた。

 人影は突如現れた予期せぬ空間の中でよろめき、体勢を崩したようだった。

「誰なの?」

 叶美の声が真っ暗な教室に響いた。

 人影は何も答えずに、もう一度叶美に襲いかかった。

 叶美はふと思い出したように、消火器に力を籠めた。そして人影に向かって力強く投げつけた。

 男のうめき声。円筒形をした鉄の塊はどうやらまともにぶつかったらしい。

 体勢を立て直そうとする男の影に、叶美は猛然とタックルした。

 さらに男は遠くへとはじき飛ばされた。

 叶美は男に馬乗りになって顔を見た。そこには白い無表情があった。いつか見た能面である。

 そんな、まさか。

 ボーリング場から私を着けてきたのだ。そして殺す機会を窺っていたのか。

 叶美は次の瞬間、血の気が引いた。もう一人凶暴な男がいることを思い出したからだ。

 すっと立ち上がって、次に起こるであろう事態に備えた。二度と同じ手は食わない、それだけが頭にあった。

 思った通り、別の男がすぐ傍でナイフのようなものを振り下ろした。

 間一髪、叶美の身体はナイフの刃先をすり抜けた。

 やはりこの二人とは、今夜どうしても決着をつけなければならないらしい。そう自分に言い聞かせる。

 叶美は次の動作で床の消火器を拾い上げた。

 そしてナイフを左右に振りかざす男に向けて、バスケットのダンクシュートのように叩きつけた。

 それは男の頭に見事にヒットした。

 鈍い音の後、男は身体を揺らしてスローモーションで倒れていった。

 やった。今度は勝ったのだ、心の奥で小躍りした。

 さあ、邪魔者はいなくなった。次は隣の準備室だ。謎解きが待っている。

 叶美は男達を背に、先へと進んだ。

 幸いにもピアノの演奏はまだ続いている。亡霊の正体をこの目で確かめてやる。

 叶美は準備室の扉に手を掛けた。

 腕に力を入れた瞬間、背中に激痛が走った。心臓がえぐられるような感覚。身体全体の筋肉がこわばって息ができなくなった。

 後ろから刃物男が身体を覆い被せるようにナイフを突き立てていた。

 無理矢理身体を捻って後ろを向いた。

 それはナイフを抜くためではない。犯人の顔をこの目に焼き付けておこうと思ったのだ。

 右に能面男、左に刃物男の姿があった。

 しかし刃物男の顔は闇に包まれていて確認できなかった。ただ口元に笑みを浮かべているようだった。

 次の瞬間、バランスを失って身体が冷たい床へとめり込んだ。

 やはり自分には力がなかった。誘拐事件の犯人たちに勝つことができなかった。もうあと一歩で事件の解明ができるところだったのだ。しかし真実には辿り着けなかった。

 悔しい気持ちで一杯になった。

 しかしこれでもう探偵部という危ない仕事はしなくても済むのだ。そんな安心感が叶美の身体を包んでいた。

 事切れる前に最後に思い出したのは沢渕晶也のことだった。彼には何か言っておくことがあったような気がする。

 朦朧と意識が遠ざかる中で、叶美はそんなことを考えた。

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