第23話 叶美のピンチ

 水曜日の朝は、普段とは大きく異なっていた。

 いつも乗っている列車が架線事故の影響で二十分遅れたのである。そのため駅のホームは行き場を失った人たちで溢れかえっていた。どの顔も不安とやり場のない怒りに満ちている。この先どの駅でも、同じような光景が見られることだろう。

 沢渕は駅を出ると、ホッと胸を撫で下ろした。もう一本遅い列車を選択していたら、完全に遅刻するところであった。

 いよいよ生徒会選挙が今週末に控えていた。

 森崎叶美も選挙活動終盤を迎え、多忙な日々を送っているようだ。部長がそんな状況では、当然探偵部の活動はなく、捜査は一向に進まない毎日が続いていた。

 ふと前を見ると、見覚えのある後ろ姿があった。堀元直貴である。彼とはこれまで一緒に登校したことはなかった。互いに利用している上りと下り列車の到着時刻が離れているからである。

「先輩、おはようございます」

「ああ、おはよう」

 直貴は少し驚いたようだった。

 しかしいつもの顔に戻って、

「なるほど。今日は列車が遅れたおかげで、ここで出会えたという訳だ」

 さすがに頭の回転が速い。

「土曜日の話は、森崎から聞いたよ。色々と大変だったね」

「ええ、まあ」

 学校に着くまでには十分時間がある。沢渕はその日の出来事をつぶさに語った。

 直貴は時に頷いて、聞き役に徹してくれた。

「不良連中に囲まれた時は、二人ともびっくりしただろう?」

「はい。何とか切り抜ける方法がないものかと考えましたよ。とっさに森崎先輩だけでも助かればいいと思いました」

「でも、森崎は一人では逃げなかった」

「はい」

「あいつらしいね」

 直貴はそう言うと口元を緩めた。

「どちらかと言えば、森崎は考えるより先に行動を起こすタイプの人間だからね。よく言えば、行動力があるのだが、悪く言えば、猪突猛進なんだ。時と場合によっては、見境なく動いて痛い目に遭う」

 沢渕はその言葉の意味をしばらく考えた。

「しかしその不良達がクマの仲間とは、まだまだ神も捨てたものじゃないね」

 直貴は声に出して笑った。

「彼らもマイクロバスを探してくれていたんです」

「それはまた、クマにしては段取りがいい」

「確かにそうなんですが」

 沢渕は言葉を濁した。

「何か、問題でも?」

「部長はこの件を問題視していませんが、一般人に下手に動かれると、犯人にこちらの動きが察知される恐れがあります」

「なるほど。確かにそういう側面はあるね。犯人たちに警戒されて証拠隠滅を図られたり、あるいは人質に危害が加えられたりする心配も生じる」

「そうなんです。迷子の犬猫探しとは訳が違います。相手は凶暴な犯罪集団です。ひょっとすると、犯人と出くわした時、危険な目に遭う可能性だってあります」

「森崎はその点をあまり気にしていない、か」

 沢渕は黙っていた。

「けれど、公園に集まる老人やクマの仲間を捜査に活用できるのは実に有り難いことだよ。我々だけではどうしても限界があるからね」

「確かにそうですが」

「最近、君は部長に反発するまでになったんだねえ」

 直貴はおどけて言った。

「先輩、これは真面目な話です。変に茶化さないでください」

「ああ、すまない」

 二人に沈黙が生まれた。

 目の前の横断歩道を、黄色い帽子が次々に渡っていく。

「だがね、広大な町を隅々まで調べるのは時間が掛かる。これは紛れもない事実だ。町に詳しいお年寄りや手伝ってくれる高校生がいるのは心強いじゃないか」

「それもそうですね。分かりました」

 沢渕は素直に従った。

 確かに早く事件を解決するためには、ある程度の人員が必要だ。探偵部の捜査だけでは一向に解決できない恐れがある。

「それから、武鼻自動車にあったマイクロバスについてだが」

 直貴は話題を変えた。

「車内で見つかった片比良七菜のメモはどうした?」

「それは昨日、鍵谷先生に鑑定を依頼しました」

「どうやら今回のメモは、これまでのメッセージとは何だか違うみたいだね」

 これについては直貴の意見が聞いてみたかった。

「はい。何というか、落ち着き払って書いた文字のようなのです」

「森崎によると、メモは紙の一部を破ったものだが、そのやり方も実に落ち着いているらしいね。緊急事態ならもっとこう、斜めになったり、歪んだりする筈なんだが」

「そうなんです。それが彼女の自筆だとすると、問題はいつ書いたかでしょうね。予め持っていたメモをとっさに思い出して、バスのシートの隙間に押し込んだのなら、それほど不自然ではないと思います。名前以外、何も情報がないのも説明がつきます」

「しかし犯人側が作為的に残したとも考えられる訳だ」

「はい。もしそうなら、あのマイクロバスはまったく関係がないことになります」

 直貴は小さくうなり声を上げて、

「しかし犯人たちは未だ警察の手が及んでないと、たかをくくっている筈なんだ。そんな連中がどうしてマイクロバスに小細工をして、捜査をかく乱させる必要があるのか、甚だ疑問なんだが」

「ということは、やはり片比良メモは本物で、あのバスが当夜犯行に使われたことになります」

「実際、鍵谷先生に車内に残された指紋を調べてもらいたいところだが」

「それは難しいですよ。なにしろ、あのメモを見つけたのも不法侵入によるものです。よって裁判では証拠能力はありません」

「だったら、武鼻自動車の社長と面会したいね。あのマイクロバスの入手経路をずばり訊くのさ」

「バスはやはり鏡見谷旅館のものだと思います。車体にも書いてありましたし、パンフレットの写真とそっくりでしたから」

「旅館が廃業したのが七年前。事件が起きたのがおよそ五年前。確かに時間的には無理なく符合するね」

「ぜひ鏡見谷旅館に行ってみたいですね。何か分かるかもしれません」

「ひょっとすると、人質がそこに監禁されているかもしれない、か」


 二人は学校の四方を囲むフェンスに沿って歩いていた。

 朝練でランニングをしている女子たちが掛け声とともに二人を追い抜いていった。

 突然、最後尾の女子が足を止めた。

「堀元くん、おはよう」

 爽やかな声だった。

 見覚えのある女子がこちらを向いていた。

 橘雅美である。

 手足が長く、すらりと背が高い。髪はポニーテールにして、やや尖ったあごが精悍さを演出している。ここ一番勝負に強そうな印象である。

 直貴は挨拶を返したが、雅美の視線が催促しているのに気がついて、

「ああ、こちらは一年生の沢渕君。僕の友人だよ」

と紹介した。

「沢渕くん、今度の生徒会選挙、一票よろしくお願いしまーす」

 笑顔でそう言うと、手を振って再び駆け出した。ポニーテールを左右に揺らしながら、曲がり角を折れていった。

「随分と明るい人ですね」

「そうだね、男子からも女子からも好かれる性格なんだよ」

 沢渕は急に心配になって、

「先輩はもちろん、森崎先輩を応援しているんですよね?」

「当たり前さ。同じクラスだから、表向きは橘を応援してはいるけどね」

 そこで携帯が鳴り出した。

「クマからだ」

 そう言うと、直貴は素早く電話に出た。

「何だって」

 そんな驚きの声を上げた。

「どうかしたのですか?」

「どうやら、森崎に大変なことが起きたらしい」

 直貴は渋い表情で答えた。


「とにかくクマのところへ急ごう」

 説明は後回しと言わんばかりに、直貴は走り出した。

 沢渕も後に続く。

 すぐ目の前に校門が迫っていた。二人は登校する生徒たちを縫うように校舎へ駆け込んだ。

 下駄箱付近が妙に混雑していた。職員室前に人だかりができているのだ。その人波が廊下に収まりきらず溢れ出していた。

「こっちだ、こっち」

 そんな混雑の中でも、いとも簡単にクマの姿を捉えることができた。他の生徒たちより頭一つ飛び出しているからである。

 廊下には定期テストの学内順位が貼り出されているのだった。あちこちから歓声やため息が聞こえてくる。

 二人はようやくクマの前に辿り着いた。

「森崎が校長室に呼び出されたってのは本当かい?」

 直貴が挨拶もせずに言った。

「本当ですか?」

 沢渕は驚いた。

 その声は喧騒に飲み込まれ、果たしてクマに届いているのかどうか分からなかった。

「噂によると、先週隣町で他校の不良どもと一緒に居るところを見られたらしい。それで事情を聞かれているって訳だ」

 クマは面倒臭そうに説明した。

「それってクマの友達なんだろう?」

「ああ、そうだ。ご丁寧に誰かが学校へ通報しやがった」

「実は僕も一緒に居ましたが、見かけほど悪い人たちではなかったですよ」

 沢渕が言うと、

「そんなの分かってる。みんな俺の柔道仲間だ。別に不良じゃない」

「森崎先輩は校長にうまく説明できますかね?」

 沢渕は二人を等分に見て言った。

 それには直貴が答えた。

「一緒に居たというだけでは大して怒られる理由もないが、問題は通報者が何て言ったかだよ」

「俺が事情を説明してやろうか?」

 クマが今にも校長室のドアを蹴破るような勢いで言った。

「いや、ここは森崎一人に任せた方がいい。まさか探偵部の話を持ち出す訳にもいかんだろう」

 確かにその通りだ。直貴はこんな時も冷静である。

「よりによって、選挙前の大事な時期だというのに。生徒会長が校長に呼び出されるなんて前代未聞だぜ、まったく」

 クマは頭を掻きむしった。

 彼が心配するのも無理はない。

 悪い噂ほど早く広がるものだ。数日後の投票日には、それこそ根も葉もない噂が学園中を駆け巡っているかもしれない。それによって選挙の結果が左右されては大変である。

 もうすぐ予鈴が鳴るからか、廊下の混雑は徐々に緩和してきた。

「森崎にとって、さらに不利なことがあるんだ」

 クマは大きく一つため息をついた。

「あれを見てくれ」

 指の先には学内順位表があった。達筆の文字が順番に並んでいる。

 沢渕はそれを上から辿ると、九位に堀元直貴の名前を発見した。そしてそのいくつか下に森崎叶美の名前があった。十三位である。

 今回、叶美は直貴に負けたことになる。

「堀元先輩も森崎先輩も上位に入ってますね」

 沢渕がのんびりした声で振り返ると、

 直貴の険しい表情がそこにあった。

「いや、これは問題だよ。森崎の順位がかなり下がっている」

「そうなんだよ。あいつはいつも学年で三本の指に入っていたんだ。それが今回大幅ダウンしちまった」

 やはりそれは探偵部の活動のせいだろうか、沢渕は考えた。

「それに、もう少し下の方を見てみろ」

 クマは後ろから沢渕の両肩を掴むと、掲示板に正対させた。

「おや?」

 先に直貴が何かを見つけたようである。

「橘雅美が二十五位にいるよ。これは大躍進だな」

「だろう?」

 クマは忌々しげに言った。

 雅美は確かに叶美には及ばないものの、それでも前回のテストから五十番も順位を上げている、そう直貴が説明した。

「これだけ成績に変動があると、選挙に影響するかもしれんぞ」

 これによって直ちに叶美の人気が下降するとは思えないが、雅美の評価が上がるのは間違いないだろう。

 選挙を前に、森崎叶美の立場が危うくなってきたのは明らかだった。

 三人はすっかり誰もいなくなった廊下で、叶美が現れるのをしばらく待っていた。

 しかし彼女は姿を見せることはなかった。

 予鈴が鳴ったため、男三人は仕方なくそれぞれの教室へ引き揚げた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る