第17話 定期試験、終わる

 教室内には重苦しい空気が立ちこめていた。

 三秒、二秒、一秒。定刻通りにチャイムが鳴り響いた。それは中間考査の終わりを告げる瞬間でもあった。

 部屋の重苦しい雰囲気が一掃され、次第に生徒たちの顔に安堵の表情が広がっていく。

 後ろから回ってきた答案用紙を受け取ると、沢渕は自分の力作を一番上に重ねた。そして祈るような気持ちで前席へと送り出した。

 おもむろに両肘を伸ばして天井を見上げる。自然と涙が出た。ここ数日まともに睡眠時間が取れていないせいである。

 次の日の教科を徹夜で仕上げるという、まさに突貫工事が続いた。こんなやり方が高校の試験に通用するとは到底思えないが、やむを得ない。生徒会長の言う通り、もっと早くから準備しておくべきだった。今となっては、後の祭りである。

 しかし実のところ、今は後悔よりも、抑圧から解放された喜びの方が遙かに大きかった。誰が何と言おうと、今日だけは惰眠をむさぼるつもりでいた。

 周りが一斉に机の上を片付け始めたところで、メールの着信があった。

 無題で「化学準備室」とあった。森崎叶美からの呼び出しである。

 すぐに教室の片隅に目を遣った。佐々峰多喜子は沢渕の視線に気づくことなく、顔をこわばらせ、身体を硬直させていた。その様子から彼女の試験結果は大方予想がついた。

 ホームルームが終わると、沢渕は誰よりも早く廊下に飛び出した。もちろん探偵部の活動を再開できるという嬉しさもある。しかしそれ以上に、試験を行った場所から即刻離れたいという気持ちが働いてのことかもしれなかった。

 振り返ると多喜子が後ろをついてきていた。

「ねえねえ、沢渕くん。テストどうだった?」

 追いつきざまにそんな声を掛けてきた。

「玉砕、とまではいかないけれど、かなり厳しい状況だね」

「私も。叶美先輩に何て言い訳すればいいかしら?」

 多喜子は不安を隠せない様子である。

「どうして、森崎先輩が出てくるんだい?」

「だって、テスト前に勉強を教えてもらったじゃない? これで赤点なんか取ったら、まったく教えた甲斐がない、ってことになるでしょ」

 変なところに気を遣うものだ、沢渕は可笑しくなった。

「私、先輩のお情けで探偵部にいられるのだから、成績が悪いと退部させられるかもしれないし」

 なるほど、多喜子には多喜子なりの悩みがあるのだ。沢渕は黙って聞いていた。

「沢渕くんはいいわよ。たとえ赤点を取ったって、推理が得意だから探偵部には置いてもらえるでしょ」

 いや、それはまるで慰めになっていない。

「あーあ、私も叶美先輩みたいに、頭がよくて、可愛くて、背が高くて、スポーツ万能だったらいいのになあ」

 多喜子の願望はとどまることを知らなかった。


 二人が化学準備室に着くと、鍵谷笹夫先生が一人丸椅子に腰掛けていた。そこへ探偵部のメンバーが一人、またひとりと集まってきた。最後に姿を現したのは森崎叶美であった。

「遅れてすみません」

 引き戸を丁寧に閉めながら言った。

「おいおい、森崎。みんなを呼び出した張本人が遅れてどうすんだ?」

 久万秋進士の声が狭い部屋に響いた。

 叶美はどうやら走ってきたようだった。額に汗が滲んでいる。沢渕の目の前で、二度三度ブラウスの袖を折り曲げると、白い手のひらで顔を扇ぐようにした。

「いや、呼び出しをお願いしたのは、この私なんだよ」

 そう言ったのは鍵谷だった。

「鍵谷先生、何か新たな発見がありましたか?」

 堀元直貴の眼鏡が光った。全員が突然招集されたのは、調査にそれなりの進展があったからに他ならない。沢渕の心も躍った。

「実はね、前回証拠として預かっていた雑誌の件なんだが」

 そう言うと、鍵谷は鞄から大判の茶封筒を取り出した。そして例の外車専門の中古車情報誌をテーブルの上に置いた。

「ここを見てくれたまえ」

 彼はあるページを開いた。

 そこには他のページにはない特徴があった。中央部から細長く厚手の紙が数ミリ飛び出している。

 それが何であるか、沢渕は一瞬で理解した。

 ハガキの跡である。読者がアンケートに答えると、抽選で景品が貰える仕組みである。どうやら誰かがこの雑誌のハガキを切り取って応募したらしい。

「あっ」

 次の瞬間、沢渕は思わず声を上げていた。

 続いて直貴もそのページに吸い寄せられるように顔を近づけた。

 応募ハガキには当然、読者の名前や住所を書く欄がある。もしハガキを切り取る前にボールペンで書き込めば、筆圧によっては下敷きになったページにも文字が凹凸として残ることがある。

 沢渕はページを凝視した。

 あった。白い広告ページには、確かに文字らしき窪みがついていた。

「先生!」

 沢渕と直貴が同時に叫んだ。

 残りのメンバーは一体何が起きたのか分からなかった。二人の行動を遠目に見守っていた。

「そうなんだよ。ここに懸賞応募ハガキがついていた。そこへ自分の名前と住所を、おそらく強く書き込んだんだろう。その際に下のページに筆圧が残ったと、こういう訳だね」

 鍵谷はみんなに解説した。

「何て書いてあるか、判読できましたか?」

 直貴が勢い込んで訊いた。

「まあ、待ちたまえ」

 鍵谷は鞄を探った。

「これが同じ雑誌の今月号だ」

 真新しい雑誌である。同じだけページをめくると、やはり応募ハガキが出現した。他のページとは異なる紙質のためか、そこだけがピンと突き出ている。

 ハガキの書式は、上段が名前欄、下段が住所欄になっている。

 沢渕と直貴は雑誌を奪い合うようにして、該当箇所に目を這わせた。

 漢字が読める。苗字は市川か、いや布川か。名前の方は複雑に線が交錯していて、文字として認識できない。一方、住所は隣町の町名までがはっきりと読めた。最後の細かい番地までは読み取れない。

「私が電子顕微鏡で解析した結果が、これだ」

 鍵谷はテーブルの上に一枚の紙片を置いた。

 そこには、「市川」という文字と住所の一部があった。

「それじゃあ、これが犯人の名前ということか?」

 クマが興奮した調子で訊いた。

「その可能性もある、ってことだね」

 直貴は慎重に言った。

「でも、この住所は本の置いてあった場所でしょ。だったら監禁場所じゃないのかしら?」

 そんな多喜子の疑問に、

「いや、断定をするのはまだ早いと思うよ」

 沢渕が口を挟んだ。

「この雑誌には女子高生のメッセージが残されているから、監禁場所から出てきたことは間違いない。けれどハガキがいつ切り取られたかは定かではないんだ。例えばこれがホテルのロビーや料理屋の本棚に置かれていた物なら、たまたまその店の利用客が自分の名前と住所を書いて投函したとも考えられる」

 メンバー全員は黙りこくった。窓の外から運動部の掛け声が聞こえてくる。

「つまりこの市川って人は、犯人ではないかもしれないけど、少なくとも監禁場所に何らかの形で出入りした人物ということね。それでいいかしら、お二人さん?」

 叶美が男子二人を等分に見て訊いた。

「はい」

 沢渕が短く答えた。直貴も頷いた。

「ちょっと待って。住所を確認するわ」

 叶美はスカートのポケットから地図を取り出した。

「随分と山の方になるわね。駅からはかなり離れてる」

「おい、晶也。監禁場所は駅付近のバス路線近くって言ってたよな。するとこりゃどうなるんだ?」

 クマが言った。

「まだ分かりません」

 沢渕は正直にそう言った。

「それじゃあ、捜索エリアを見直しましょう」

 叶美が全員を見回して言った。

「タキちゃんとクマは直貴とタキネエに合流して、この町に住む市川という人物を探して」

「お前と晶也は?」

 そんなクマの声に、

「私たちはこのまま駅前付近の捜索を続けてみるわ。それでいいでしょ、沢渕くん?」

「はい」

 そこで突然、校内放送のチャイムが鳴った。

 その音に一同が沈黙する。

「二年生の森崎叶美さん、同じく二年生の橘雅美さん。直ちに職員室まで来て下さい」

「ああ、もう時間ね。それじゃあ直貴、後はよろしく頼むわよ」

 叶美は鍵谷に一礼すると、慌てて部屋を出ていった。

「森崎くんも、忙しい人だねえ」

 先生はのんびりした調子で言った。

「生徒会選挙が始まるんですよ」

 直貴が説明した。

「なるほど。森崎くんと橘くんの一騎打ちという訳か」

「橘雅美、その名前を聞くだけで全身にじんましんが出るよ、まったく」

 クマが吐き捨てるように言った。

「久万秋くん、そんなことを言うものじゃないよ」

 鍵谷は教師らしく、そうたしなめた。

「じんましんが出るのは、化学のテストじゃないのかい?」

「えっ、もう採点したんですか?」

 クマが身を乗り出すように訊いた。

「先生、まさか、赤点だったとか?」

 鍵谷は一つ咳払いをして立ち上がると、あごに手を当てて目を閉じた。

 クマは固唾を呑んで次の言葉を待った。

「いや、実はまだ一枚も採点してないんだ」

「うぐっ」

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