第2話 2人のウンディーネ

 未来には先にフィニッシュラインで待っていてもらい、俺と先輩でレーンの左端2つを陣取った。


「準備の方はいいかな?」

「いつでもどうぞ」

「それじゃあ……レディ、ゴー」


 同時にしがみついていたプールサイドから手を離し、壁を蹴りつつスタートダッシュを決め、潜水を始める。

 先行しているのはやっぱり先輩の方だった。

(もっと早く……)

 水面に浮くと、間髪入れずに力を入れつつ、細かく素早く両脚を動かす。

 そして体を運ぶように大きく水をかく。




 水底に引かれた紺色の横線で、レースが残り半分になったことを知る。

 視線だけを右隣のレーンに向けると、先輩の体半分まで追いついていた。

(まだだ……まだいける!)

 残っていた体力を全て使い切る勢いで加速し、ようやく追い抜く。

 残り10m。

 追い抜かれた先輩が迫ってくる。

 1mが50cmになり、30、15cmとその距離は縮められていく一方。

 負けじと限界レベルまで速度を上げた。


 残り5m。

 先輩がほぼ横づけする形になる。

 そして。

(並ばれた……!)

 必死にキックを続け、1cmでも先行しようと泳ぎ続けた。

 4m……3m……2m……1m……フィニッシュ。

 顔を上げたのは同時だったと思う。


「どうだった?」


 頭上の未来を見上げた。


「同時、だったかな」

「そうか、残念だ」


 隣のレーンで先輩が息を切らしながら言った。

 しばらくして呼吸を整えると、ロープをくぐってくる。


「引き分け、か……もし夢原君が負けたら、何かおごってもらおうと思っていたんだけどね……」

「そんなの聞いてませんよ」

「そりゃあ、今言ったからねぇ」


 あっけらかんとしている先輩とは対照的に、未来はどこか不機嫌そうに見えた。




 先輩と揃ってプールサイドに上がる。


「そうだ、わざわざ付き合ってくれてありがとう。それから、勝手に彼を借りてしまってごめんなさい」


 未来に頭を下げる先輩。


「い、いえ、別に……」


 そっぽを向く未来。


「先輩、今日は楽しかったですよ。ありがとうございました」

「そっか。この後も予定があるから、私はこれで」


 そう言って、先輩は更衣室へ向かった。


「……さてと」

「み、未来?」


 静かに、それでいてはっきりと未来の身から放たれるオーラ。クレッシェンドで不機嫌のボルテージが上がっている気がする。


「別に、なんでもない」


 絶対にウソだ、と本能が確信した。


「こ、このあとは、何でも付き合うからさ……」

「なんでも付き合う、って言った?」

「は、はい……」

「じゃあそうしてもらうから、覚悟してね」


 ニッコリと笑う未来を見て、俺はなんてバカなことを言ったのだろうと遅まきながら後悔した。




 元いたプールへ、今度はこちらが腕を引っ張られながら引き返す。


「え、ここ?」

「そうですけど?」


 連れてこられたのはスライダーだった。

 ただし、ここにあるのは一般的な滑り台のように滑る形のものではない。


「次の方、どうぞー」


 スライダーのスタート地点に置かれているのは、2人乗りの大きな浮き輪。

 ご丁寧にそれぞれの穴の両隣には取っ手がついている。

 前に座ったのは未来、後ろに俺。

 入り口のすぐ上に取り付けられた信号が青に変わると、下のベルトコンベアが始動。

 水流の勢いも合わさり、かなりの初速になる。


「いやっほう!」


 水しぶきを上げながら、高低差のある揺れの激しいコースを駆け抜けるごとに、未来が俺の足元で歓声を上げる。

 一方俺はというと、あまりに未来がはしゃぐので、浮き輪がひっくり返ったりしないかを心配していた。


 曲がりくねったコースを抜けると、ついには屋外へ飛び出す。

 いくらチューブ型で天井部に塗装がされていても、夏の陽射しはかなり強い。屋内にいた直後ならなおさらだ。


 終わりに近づくにつれて、徐々に水の量が増え速度は下がっていく。

 ゆるいカーブを曲がり、ゴール地点に到着した。


「いやー、楽しかったぁ」

「あれだけはしゃいでいたもんな」

「ねぇ、もう1回行こうよ」

「それもいいけどさ、ほら」


 指差した時計はもうすぐ正午になろうとしている。


「昼飯にしようぜ」

「それも私が決めていいよね?」

「……いいよ」


 プールのレストランでいいだろう、という気持ちは心の中にしまっておいた。




 バスで来た道を、10分ほどかけて折り返す。

 行きと同じく手は繋いだまま。

 さっきまで冷たい水につかっていたので、強い日差しがかえって心地よかった。


「何にしようか」

「お前が決めるんじゃなかったのか」

「いいのいいの、私の勝手だし、何より心が広いですから」


 かつて、こいつの心が広かったことが果たしてあっただろうか。


「ああそうそう、お昼はおごらないから、そこのところよろしく」

「さっきの心が広いっていうのはウソかよ」

「それとこれとは別の話なの。つまりウソじゃございませーん」

「何だよドケチ」

「ドケチで結構……っ!」


 繋いでいた右腕が背中へねじり上げられる。

 強力な電撃が走り、肘と肩が同時に脱臼しそうだった。


「悪かった、悪かったから離してくれ!! 死ぬ!! 死ぬから!!」

「大丈夫よ、腕1本なくなったところで人は死なないようにできてるもん。安心して痛みを味わいなさい」


 そんなおどろおどろしい台詞を素面で吐くな、この悪魔。いや魔女と呼んだ方がいいかもしれない。

 30秒ほどで解放されたものの、しばらく感覚がなくなっていた。


「ったく、話がそれたじゃねえか……で、結局、どうするんだよ?」

「そこでいいじゃん」


 ちょうど道路の反対側に、小さなカフェがあった。


「あそこならランチメニューもあるし、いいんじゃない?」

「じゃあ、そこにするか」




 食後のコーヒーを片手に、ソファー席で未来と向き合う。未来はソーダフロートを注文していた。


「はぁ~、美味しかった」

「お前、パンケーキだけでよかったのか……?」

「うん」


 考えられない。

 部活のOBが以前来たとき、大学の食堂のメニューにパンケーキがあると話していたが、アレを昼食と呼んでいいのだろうか。糖分くらいしか摂取できる栄養素は見当たらないし、何より量が少なすぎると思う。

 そんな俺はハンバーグをライス大盛りで注文した。


「1つ、聞いてなかったことがあるんだけど、いい?」

「別にいいけど?」


 唐突にどうしたのだろう。

 すると未来は、俺をにらみつけるような目つきをした。


「プールで会った、あの藤村先輩とはどんな関係なの?」

「……は?」


 どんなも何も、ただの先輩と後輩だぞ。


「もしかしてだけど、付き合ってたりとかしてるの?」

「いや、全く。むしろ部活でもあまり話さないな」


 何しろあの人は部のエースで、泳ぐ姿についた異名が「水妖精ウンディーネ」だ。大会記録を1年の時に更新してしまうなんて、一体十何年ぶりだと顧問の先生が話していた。


「ふーん、そうなんだ」


 それ以上の興味は失ったようだが、まだ疑いの目を向けられている気がしてならなかった。


「全く、いつも未来の話は唐突だよな。今日のことだってメールしか寄越さなかったし」


 プールに一緒に行こうというメールをもらったのがほんの3日前だ。支度をする時間があったのは奇跡に近いと言っても過言ではない。


「どうせ暇なんだろうと思って誘っただけじゃん」

「暇じゃなかったらどうするつもりだったんだよ」

「その時はその時よ」

「またそれか」


 こういう突飛な性格がある程度改善してくれれば十分可愛げがあると前々から思っていたのに、本当にもったいない。というより、ただただ残念だ。


「あの先輩と付き合ってないということは、未だに彼女いないってことになるのね?」

「だから何だよ、悪いか」

「いや別に。もったいないなぁ、と思っただけ」


 俺たちの関係がただの幼馴染から変化したのは、それから数日後のことだった。 

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