マーメイド・セレナーデ 暗黒童話

平坂 静音

第1話 幼なじみ

「おい、人魚姫、待てよ」

 振り向かずとも、自分のことをそう呼ぶ相手が誰なのかメリジュスにはわかっていた。

「待てよ、待てったら」

「うるさいわね」

 メリジュスは鼠色の被衣かつぎを深くかぶって素顔を庭木の木漏こもれ日と彼の目からかくそうとしたが、相手はそんなことはおかまいなしに陽気に話しかけてきた。

 残暑のやわらかな光が降ってきて、彼の栗色の巻き毛を照らし、少年らしいしなやかな身体を祝福するようにつつみこむ。  

「水汲みに行くんだろう? 桶をひとつ持ってやろうか?」

 鳶色とびいろがかった瞳がやんちゃそうにきらめく。

 上等な黒絹の胴衣どういをまとい、先月の十四の誕生日に領主の父より正式に佩刀はいとうをゆるされ、腰には碧玉へきぎょくの装飾も見事な高価な短刀を帯びている。けれど頬にちらばる雀斑そばかすが彼を、いつまでたっても遊び飽きない幼児のように印象づけてしまう。

 だが当人はそのことを気にするよりも、むしろ幼く見える風貌を利用しているのではないかとメリジュスは勘ぐっている。

 子どものころから散々いじめられたメリジュスは、一見無邪気に見える彼、アルディンがとんでもない悪戯っ子だったことを決して忘れていない。絶対に油断できない。優しい申し出を信じたら最後、汲んできた水を面白半分に顔にかけられるのが落ちだ。

「いいわよ、べつに」

 ややとりすまして、つんと顔をそむけてみせた。だが相手は一向にひるむ様子はない。

「遠慮するなよ、おまえひとりで二つも桶を持って帰るのは大変だろう、人魚姫」

 少年はふざけて彼女のことをそう呼ぶ。

 そう呼ばれるたびに、彼女は自分より頭ひとつ分背の高い彼を思いっきり碧の目で睨みつけてやるのだが、相手は大げさに怯えたふりをしながらも、いつも顔にずるそうな笑みをたやさない。本当に小憎らしい。

 それでも女中仲間のあいだでは、この少年貴公子は人気の的である。

 いつも明るく元気で、生真面目な跡取り息子の兄ジェルディンとはちがって気さくな性質で、使用人にも気安く声をかけてくるところが人気の一番の理由だろう。

 屋敷に勤める娘たちは、いずれも城下の貧しい漁師や、遠方の農家の出であるから、本来なら貴族の子弟とそう口を聞く機会などなく、たまに名を呼ばれて甘い笑みを向けられただけで、天にものぼる心持ちにされてしまうのだ。

 粗末な衣に身をつつんで一日中労働にあけくれながらも、お屋敷勤めの華やかさに憧れ、その栄華のおこぼれをもとめる彼女たちに、アルディンはほんのひととき美しい夢を見せてくれるのだ。 

(でも、わたしはそんな安っぽい、いっときだけの夢を欲しがる馬鹿な娘じゃないわ)

 メリジュスは顎にからまる赤毛の髪を被衣のなかにおしこんで唇を噛んだ。

 夢はしょせん夢である。

 昔から貴人のお屋敷や城館に勤める娘たちが、そこの主とおかしな関係になってしまって痛い目を見る話は、世間には腐るほどある。

 若い娘たちは主筋の男たちから、ひとときの恋の夢を吹きこまれたり、はかない未来への誓いをささやかれたりして、つい己を見失ってしまうのだ。

 年配の女中たちから散々聞かされたし、亡き母からも、厳しく戒められた。まちがってもそんな愚かな娘になるな……自分のように。

 そう。メリジュスの母自身が、そんな安っぽい夢にまどわされた愚かな娘のなれの果てだったのだ。

(いいかい、メリジュス、言い寄ってくる貴族の男にはくれぐれも気をつけるんだよ)

 三年前、メリジュスがやっと十歳になったばかりの頃に亡くなった母のその言葉を思い出すと、笑ってしまいそうになる。

(だいじょうぶよ、母さん。それだけは心配しなくていいわ)

 貴族の男はおろか、下町の貧乏漁師の末っ子だとて、自分には言い寄ってなぞこないだろう。メリジュスは亡母の遺戒を思い出すたびに、自嘲のため息を吐いた。

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