第11話 2人の生活

 「議会の調整は済んでいるのか?」

 優斗が年次有給休暇届の決済を仰ぐために課長席までそれを提出しに行くと、課長はそう言って心配する表情を見せた。定例議会目前のこの時期、特に官房部局の一番の仕事は議会の議論を円滑に進め、政策を認めてもらうことである。そのためには何より事前の根回しと調整が重要であり、この時期の管理職は誰しもがその心配するものである。

 「大丈夫です。細かい調整は終わっていますので、詰めは三浦に指示を出しておきます」

 それを聞いた課長は、安心したような表情を浮かべて優斗が提出した休暇届に決済印を押した。優斗はすぐに自席に戻って、隣の席にいる美加に指示を出す。

 「悪いけど、今日と明日、休暇で不在にする。議会の調整はほぼ終わっているけど、その内容を教育長と部長にレクチャーするための資料作りには手をつけていないんだ。作れるか?」

 議会の根回しとは、議員だけを相手に行えば良いというものではなく、その内容を踏まえて、議場で答弁を行う管理職に対しても、レクチャーをしておく必要がある。優斗のその言葉を聞いて、美加は一瞬怪訝そうな表情を浮かべたが、すぐにその指示を手帳にメモしていた。

 「たぶん大丈夫です。今日中に作ってみますから、できたらメールで送ります。チェックしてもらえますか?」

 美加は手帳から視線を上げずにそう言った。彼女が部下として配属になってから、調整ごとには全て同席させていたから、その内容は美加も把握していたはずだったし、美加の能力をもってすればその資料作りなど造作のないことであると優斗は判断していた。

 「基本的には自宅にいるから、自宅のアドレスに送って。送ったら、一応携帯に連絡してくれ。すぐにチェックして返信するから」

 優斗はそう言うとすぐに席を立った。すでに、頭の中は佳奈子のことでいっぱいである。佳奈子を実家に帰す訳にはいかない。しかし1円ももっていない佳奈子が家を出て生活をするためには、何よりある程度の資金を準備する必要があった。

 地下鉄に乗って帰宅する最中、やはり佳奈子はしばらく家でかくまうしかない、という結論を出した。どうやってそのことを伝えようか、ということの考えがまとまらないまま家に着くと、以外にも佳奈子は寝室から出てリビングでテレビを見ていた。

 「今、少し話できる?」

 優斗のその言葉を聞いて、佳奈子はテレビの電源を切って優斗に向き直った。

 「うん」

 佳奈子は不安でいっぱいの表情を浮かべている。

 「今の状況で、佳奈子ちゃんを家に帰すことはできない。かと言って、1円もない状況であれば、どこかに部屋を借りるとか、ましてホテルで生活するなんてこともできない。さすがに、一介の公務員の収入じゃそれを援助してあげることもできない」

 佳奈子は目を丸くして、優斗の目を覗き込むようにして話を聞いている。

 「それで、色々考えたんだけど、しばらくばこの家にいるしかないと思うんだ。どう思う?」

 優斗は声を大きくして訪ねた。

 「それでもいいの?」

 佳奈子は、優斗から視線をそらして、俯いて訪ねた。

 「それしかないと思う。今日は、当面必要なものを買いに行こう。着替えとか洗面道具とか。それくらいのお金は心配しなくていいし、寝室はしばらくの間、佳奈子ちゃんが使っていいから」

 それから2人は、自宅近くのスーパーやアパレルチェーン店に行き、佳奈子が欲しがるものを全て買い揃えた。佳菜子の選ぶものは、この年頃の女性とは考えられないほど値段の安い質素なものだった。外出用の着飾ったものはひとつも選ばず、上下セットのスウェットや、無地のTシャッツ、下着も地味で安いものだった。さすがに下着を買う時には、お金を渡して買ってくるように促したのだが、その時間はものの数分だった。服などは、体重が30kgもない佳奈子の体型に会うサイズはほとんど無かったが、多少大きくても気にすることなく佳奈子は選んでいった。最後に寄った100円ショップでは、佳奈子用の食器を揃えた。優斗は今まで、100円ショップを利用したことがなかったのだが、初めてのその店の豊富な品揃えに驚いた。食器、調理用具、文房具、日曜雑貨など、基本的には何でも揃えることができた。佳奈子は、その中から自分が使う食器を次々に選んでいき、最後にランチョンマットを選んだ。

 (そうだ、彼女はランチョンマットで自分の食べる量を最初から決めないと食べられないんだっけ)

 入院していた時に佳奈子が何となくそんな話をしていたことを思い出した。


 全ての買い物を終えると、すでに正午を過ぎていた。優斗はこの日は朝食も摂っていなかったので、かなりの空腹を覚えていた。しかし、佳奈子の一番の問題は食事である。

 「お昼ご飯、どうする?」

 優斗は、食事面のことだけは、どうしていいかわからないままだった。

 「甘いものが食べたい」

 食べないと言われることを覚悟していたが、意外にも佳奈子は食べたいものをリクエストした。

 「じゃあ、一緒にホットケーキでも作ろうか?」

 「うん」

 スーパーで食材を買って帰り、2人で一緒にその準備をした。優斗は初めて、自分意外の人間をキッチンに入れて、一緒に食事の準備をした。佳奈子は常々、実家の食事は全て母が作るので、佳奈子はキッチンにも入れてもらえなかったと話をしていたが、優斗はその手際の良さに少し驚いた。

 「ねえ。少し甘くなりすぎない?」

 しかし佳奈子は、何かにつけて砂糖を多めに入れる。それを見て、優斗はそう声をかけたが、佳奈子は気にする様子はない。

 「今日はね、甘いのが食べたいの。ハチミツはある?」

 佳奈子は優斗の言うことはお構いなしと言った感じで、そう言った。

 「パン食べる時に使うやつがあるよ。ねえ。これだけ甘くしておいて、それにまたハチミツかけるわけ?」

 優斗は少し呆れ気味でそう訪ねた。

 「うん。今日は甘いのが食べたいからね」

 少し浮かれた様な感じで、佳奈子はまたそう言った。

 そうやって出来上がったホットケーキは、優斗が今まで食べたそれの中で、一番甘いものだった。決してこれを美味しいとは思えなかったが、それでも佳奈子はハチミツをかけながら優斗の3倍の量は食べたのだった。このか細い体のどこに入っていくのかと思いながら、優斗はまさに一心不乱に食べていく佳奈子を見つめていた。

 (家でも食べなかったらどうしようかと思ったけど、とりあえず食べられるようならそれでいいか)

 優斗は少し安心しながら、その甘すぎるホットケーキを頬張っていった。

 「なんか、楽しいね。私、楽しいご飯とか久しぶりだよ」

 そう言って笑顔を見せる佳奈子は、パニックを起こしていた昨日とは別人のようだった。

 「そっか。よかったよ」

 もう胸焼けが始まっていた優斗は、リビングのソファーに横になって、肘枕をしながらいまだ食べ続けている佳奈子の方を見ながら答えた。

 「食べ吐きは、やめられる?」

 優斗は、あまりにも食べる量が多い佳奈子を見て、この後にそれをするのではないかと心配していた。

 「今日はしないよ」

 佳奈子は優斗のほうを見ずに答える。

 「安心した」

 優斗がそう言うと、佳奈子は話を続ける。

 「食べ吐きって、結構辛いんだよ。できることならやりたくないっていう気持ちはあるんだけど、やらないとそれはそれで辛いんだよね」

 「やるのも辛いし、やらなくても辛いってこと?」

 「そう。食べ吐きすると体力使ってヘロヘロになるし、罪悪感に苛まれるし。だけど、食べ吐きしないと太っていくっていう意識で頭が埋め尽くされそうになって、そのことばっかり考えるようになるし、何ていうのかな、二重苦っていうの?そんな感じの繰り返しだよ」

 佳奈子はそう言うと、先ほどまでの笑顔はなくなり、また涙を浮かべている。その様子を見るだけでも、佳奈子が精神的に不安定であることが伺えた。優斗は、そんな彼女の様子を見ていられなくなり、話題を変えた。

 「佳奈子ちゃん、二重苦っていうのはね、苦しい状況が2つ重なることを言うのであって、佳奈子ちゃんの場合はどっちをとっても苦しいっていう意味だから、ちょっと違うんじゃない?」

 故意に笑顔を見せながら、優斗はそう言った。

 「じゃあ、何て言えばいいの?」

 佳奈子はキョトンとした表情で訊いてきた。

 「俺もうまい言葉が見つからないな。ま、『どっちもどっち』でいいんじゃない?」

 優斗がそう言うと、「何それ」と言って佳奈子も笑顔を見せた。

 「洗い物は後からやればいいから、このままにしておこう。午後から、どうやって過ごそうか?」

 優斗は、佳奈子が精神的に落ち着くためには、好きなことをさせてやるのが一番だと考えた。

 「少しゆっくりしたい。父も母もいない家でのんびりできるなんて夢みたい。寝室で横になってもいい?」

 「いいよ。寝室は自由に使っていいから」

 それを聞くと、佳奈子は「ありがと」と言ってから寝室に入っていった。

 (書斎をしばらく俺の寝室にするしかないか)

 寝室を佳奈子に使わせる以上、優斗は書斎に寝床を確保するしかないと思い立った。そこで携帯電話で寝具の通信販売サイトを開いて適当なものを検索し、手頃なそれを注文した。

 優斗の中では、すでに佳奈子と同居していくという覚悟が決まっていた。

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