第8話 特命

 確定診断を受けた翌日、優斗はさらに簡単な診察を受けて医師と話し合い、2週間に一度のペースで受診すること、風俗の利用を断つこと、パートナーである女性とはなるべく接触をしないことなどの今後の方針を立てた。

 その翌日退院となり、佳奈子とは会えずじまいだった。交換した携帯電話に、「今日退院します。何か困ったことがあったら、すぐに連絡ください」と短くメールし、会計を済ませて久しぶりに自宅に帰った。

 退院の翌日、優斗はすぐに職場に復帰した。入院中に教育庁への異動が命じられる内示があり、その日は8月1日とされた。予定よりも少し遅くなったのは、入院が考慮されたためとも言われているが、本当の理由はわからなかった。

 それからの毎日は、課長の佐藤と挨拶回りがほとんどであった。関係する与野党の道議会議員や関係企業や団体など、仕事を引き継ぐにあたって外せない相手先の所にはくまなく回る必要があった。風俗の利用も控え、性的パートナーとも接触することなく、あっという間に7月は終わっていった。

 8月1日、教育庁総務政策部長室で辞令を受け取った後、優斗の新たな職場となる総務政策局教育政策課での勤務が始まった。入院中に人事課長の木下と地域政策課長の佐藤との “密談 ”で得たこの課の職員データは、優斗の頭の中に入っていた。

 課長の中西は、58歳であり、定年退職まで約2年半の課長である。しかし、北海道教育庁の幹部は59歳で勧奨退職し、関係団体へ天下ることが慣例であるため、1年と数ヶ月在職期間が残っているのみである。大過なく退職することが絶対条件だと考える保守的な課長であった。

 課長補佐の渡部は、50歳になったばかりの管理職であり、この課内で唯一と言ってよい官房系統部局らしい思考の持ち主であった。施設管理畑が長かったが、その途中、北海道立の美術館や道立高校の事務長の経験がある。

 筆頭係長職である統括係長は、課内の係長職を統括してその進行状況を管理する立場であったが、その職にある平泉は、総務部内の中でも事務畑のみの経験者で、効率的に事務を処理することを仕事の第一義とする典型的な公務員体質の持ち主であった。

 次席の企画担当係長の松下は、文部科学省の初等中等教育局への出向経験があるが、それのみをプライドとして持っており、自分はエリートだと考えていることを露骨に表す人間であった。しかし実際は、松下の企画立案は文部科学省に追従して事務体裁を整えているものばかりであり、学校現場からの反発も多かった。

 次の調整担当係長職は鈴木が勤めており、庁内調整や知事等との連絡調整を主任務としている。学校教育局の中で教職員の給与や福利厚生の担当を長く勤めた後、現在のポストに異動してきた事務方であった。

 優斗が就いた教育政策推進担当係長は、上席の3人の係長が担当しない新たな政策の企画立案とそれの推進を一手に担う新たな係長職であった。係長職の席次は末席である。当然、上席の全ての係長が担う仕事内容と重なる部分も多いが、役割分担は曖昧なままでのスタートであった。各係長の下には、係員が配属されているが、今年度は移行措置ということで、優斗の部下はいなかった。

 課長による課員に向けた優斗の簡単な紹介が終わり、自席で私物や書類をデスクに納めていると、事務補の臨時職員の女性が、「松野係長に道庁の人事課長からお電話です」と受話器を渡して来た。道庁の人事課長という声に、課員の何人かはパソコンから目線を上げ、一瞬優斗に視線を向けた。

 「松野です」と電話に出ると人事課長の木下はいつもそうであるように、一方的に要件を伝えて来た。

 「異動初日に申し訳ないが、今日の夜都合付けてくれ。知事が直接お前に会いたいと希望している。すすきのの “魚河岸 ”という割烹は知ってるな?19時だ。これは秘書課を通してないから内密に頼む。佐藤も一緒だ。」

 知事が直接というのは穏やかでななかった。指定してきた割烹は、すすきの中心部から少し外れた場所にあり、一際目立つ大きな温泉付きホテルの隣にひっそりと佇んでいる由緒正しい店だった。優斗は面倒だという気持ちを抑えて「わかりました」とだけ答えた。木下は「私服で来い。他に感づかれると厄介だし、感づかれた時にプライベートという言い訳ができる」と言って電話を切った。

 一度自宅に戻って私服に着替えた優斗は、予定の19時より15分ほど早く、指定された “魚河岸 ”に入った。通された個室にはまだ誰も来ておらず、優斗は下座に座って待機していた。まもなくして人事課長の木下と地域政策課長の佐藤が一緒に個室に入ってきて、木下が「すまないな」と優斗に声をかけた。

 「最近、知事はいつもここでな。今日の会計は心配しなくていいから、たまに一流の美味いものを食べたらいい」

 優斗が秘書として使えていた頃には、知事はいつもこの場所から2丁ほど西にある郷土料理店をよく使っていた。優斗も、何度も秘書係として随行したものだった。木下の言いようだと、知事はこの店に鞍替えをしたようだったが、そんなことよりも優斗は、あと席が2つあることが気になっていた。

 「秘書課は通してないんですよね?」

 優斗は木下を見て確認をした。

 「課は通してない。しかし一人、秘書係が随行してくる」

 優斗は、嫌な予感が当たったと確信した。知事に随行してくるのはおそらく、夫と3歳の娘がいながら、優斗が秘書課に在籍していた時から性的関係を続けている三浦美加だろう。秘書としての随行なので彼女が発言することは滅多にないが、性的パートナーとの接触を断っている今、会いたい相手ではなかった。

 19時ちょうどに、知事は優斗の予想通り美加の随行のもとに部屋に入って来た。

 「すまないね」

 と言いながら入って来た知事は、上座に座るとそう言って優斗を見た。知事には秘書課時代に側に仕えていたので、よく知った仲ではある。

 「今回の異動の目的やあらましは木下君や佐藤君から聞いて理解してくれていると思っているが、今回は私の思いを直接伝えておきたいと思って、一席作ってもらったんだ。異動初日になって申し訳ないと思っているが、日程が取れるのが今日しかなかったから、勘弁してくれ」

 知事は珍しく下手に出ている。優斗は知事から視線をそらさずに「とんでもありません」と答えた。美加は優斗に視線を向けず、終始俯いている。

 「私はこれからの政策は教育だと思っているんだ。しかし、あそこは数万人の教職員を抱えていて、行政自体も変わらなければならないという意識がまるでない。いまだに自分たちがいる“教育 ” というものが聖域だと思っている」

 苦々しそうな表情をしながら、吐き捨てるように知事が言った。

 「よく認識しております」

 優斗がそう言い終えたタイミングで、事前に細かく打ち合わせをしていたのだろう、料理と瓶ビール、オレンジジュースが運ばれて来た。簡単に乾杯をした後、知事は話を続けた。

 「北海道の学力が全国の中でも底辺にあることは毎年毎年ニュースで流れている。表向き危機感を抱えているように見せて学力向上を叫んでいるが、自浄能力がないあの組織は、本気で変わろうとしない。そんな組織を変えなければならない。そのために松野君を送り込むと決めたんだ」

 知事はそういうと、コップの中のビールを一気に飲み干した。美加が頃合いを見てビールを注いでいく。

 「具体的には、どのような政策をお考えですか?」

 優斗からしたらその理由や背景はどうでもよかった。欲しかったのは、いくつかの確約と具体的な方針だった。

 「地域それぞれに学校があることを生かして、もっと道民が学校に入っていける仕組みを作ってくれ。国からもそういう政策が降りて来ているようだが、教職員組合の反対も根強いようだ。うまくやれば良いものを、今の教育政策課は文部科学省の施策を垂れ流しにしているだけで、現場の反感をかって一向に進まないと聞いている」

 文部科学省は、最近になり住民が学校に参画する仕組みとして、「コミュニティ・スクール」制度の導入を進めている。この制度は、地域住民が学校の運営委員として協議会を設立し、学校運営に関して声をあげることができるようにするための正式な制度だ。その話は優斗も門外漢ながら知っていた。

 「学力だ、学力を上げるために教職員の研修の質も向上させる。ひとつの学級は35人以下にする。道民がもっと学校に対して発言権を持つ。そのために教育制度の改革を行う。松野君、よろしく頼む」

 知事は優斗から視線をそらさずにそう言ったが、優斗は一瞬俯いて見せて、再び知事と視線を合わせて言った。

 「全力でやらせて頂きますが、2点確約を頂きたいと思っています。ひとつは、この件については特命として認識させて頂き、必要な際に都度、直接知事にお会いしてご報告と、必要な指示を頂きたいと思います。つまり、秘書課を通さないアポ取りと知事室への出入りをお許し頂きたいのです」

 「松野、それはちょっと・・・」

 木下がたまりかねずと言った感じで割り込んできた。

 「構わんよ」

 知事はそれを制して、あっさりと許可した。しかし、知事の隣に座っている秘書係の三浦美加は、露骨に不快な表情を浮かべて優斗を睨みつけている。

 「それで、2つ目は?」

 知事はさらに続きの発言を促す。

 「来年度の人事については、この特命を進めるためのご配慮を頂きたいと思っています」

 係長職の身分で口にすることは憚らなければならないことを、優斗ははっきりと口にした。

 「適材適所を約束する」

 さすがに知事もはっきりと確約はしなかった。しかし気分を害したという雰囲気ではなく、聞き流したという感じだった。

 「さて、あとはゆっくり食べて飲もうか」

 知事はそう言うと、これまでの話は一切しなかった。

 おおよそ2時間ほどの会食が済んで、お開きとなった。

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