Ⅹ「Womb」

 これは大切なものを失った彼女が、己が何者であるかを知り、歪んだ希望を見出した話。

 

 悲しみの棘は深々と彼女の胸に突き刺さったまま、息も絶えそうなほどの苦痛で苛み続ける。

萌美めぐみ……」

 失った娘の名をそっと呟く。

 喉が裂けるほど、涙が涸れるほど、心が潰れるほど、泣いて、泣いて、なおも、泣いた。

 それでも、彼女は立ち上がった。

 失った娘を愛する想いだけは、今も変わらず失わないまま。

 彼女は人を愛したいのだ。

 彼女は人に愛されたいのだ。

 だから、先へ進む事を諦めない。

 しかし、それでも、足は止まってしまう。

 悲しみが足をつかんで地に縫いつけ、絶望が肩をつかんで背を振り返らせる。

 それも、仕方ないと思う。

 彼女は自分の心を「弱い」と思っている。

 前だけを向いて、上だけを見上げて、そんな風に生きていく事などできはしない。

 時々は足下を見よう。知らずに踏みつけてしまうものがないように。

 時々は後ろを振り返ろう。忘れ物や落とし物がないか確かめるために。

 それは、自らの手に栄光をつかみ取るような強くたくましい生き方ではないけれど、弱く臆病な生き方かも知れないけれど、──きっと、優しい生き方だと思うから。

 だから、そんな風に歩いていきたい、そう思う。

 ただ、今はまだ、足は止まったまま。

 また、歩き出そうと心に決めはしたけれど、悲しくて、辛くて、怖くて、一歩を踏み出す勇気がない。

「萌美……」

 再び娘の名を呟く。

「どうか、お母さんに勇気を頂戴」

 そっと握る掌には小さな小さな白い欠片。墓に納める前に一欠片だけ抜き取っておいた娘の遺骨。他人の目には異常な行動と映るかも知れない。しかし、どうしても愛娘の一部だけでも、肌身離さず持っていられるように手元に残しておきたかったのだ。

「あなたが帰ってきてくれたらいいのに……」

 弱音を吐いて、一筋の涙を──何度も涸れてしまったと思った涙がまだあふれる事に少し呆れながら──零し、ぼやけた視界に映る掌に──異変。

「えっ……?」

 我が目を疑い、涙を拭って見直すが、掌の上で起こる異変は続く。

 娘の遺骨は、彼女の肌と溶け合って、するすると呑み込まれていくのだ。見る間に骨片は手の中へ消えていき、その内側に何かが潜り込んでいく感触も確かにある。

「何、なの……?」

 とうとう悲しみで頭がおかしくなってしまって、幻覚を見ているのだろうか。

 困惑する彼女の体の中を、幻覚か現実かの区別もつかないまま、それでも、あまりに確かな感触が動いていき、──やがて、止まった。

「あ……」

 感触が止まった箇所に両手を添え、彼女の頬をまた涙が伝った。

「……萌美?」

 力が抜けて、ぺたんと膝を突いた。

「帰って……、きてくれたの……?」

 手を添えた腹部の奥に、小さくとも温かな感触。確かに感じる。そこには彼女の愛する娘の存在がある。

「あ、ああ、あああ……」

 声にならない声が洩れる。

 体中に広がっていく温かさは、彼女が失った幸せの感触。娘の笑顔、娘の抱擁、娘の息吹、娘の体温、そのすべてが彼女の中によみがえる。

 しかし、それも一瞬の事。

 ただひととき、彼女の中によみがえった温かい幸せは、波が引くように消えていく。

「めぐ、み……?」

 行ってしまった。彼女が腹部の奥に感じたものは、欠片ほども残っていない。

 しかし、すべてが消えてしまった訳ではない。体中に感じるぬくもりはまだ残っている。彼女はそのぬくもりを確かめるように、我が身をぎゅっと抱き締めた。

「萌美……、あなた……」

 頬を濡らす涙は止めどなくあふれるが、それは悲しみのためばかりに流れるものではない。

「お母さんに、勇気をくれたのね……」

 今、わかった。

 死んだ者は生き返らない。それでも、想いは残る。娘を愛した幸せは、今も胸の中に確かにある。

 今、悟った。

 自分に何ができるか、を。死んだ者は生き返らない。だから、娘を取り戻す事はできなかった。我が身に宿ったのは、たった一瞬で弾けた泡沫の夢。

 しかし、生きていればやり直せる。

 愛する子を失ってもなお、愛そう、そう決めた。愛されない子を、愛されたい子を、愛するのだ、と。

 ただ、決意だけはあっても、自信がなかった。自分に何ができるのか、迷いがあった。

 しかし、今はわかる。彼女は『母』になるのだ。

 愛されずに苦しむ子がいるのなら、『母』になって、産み直してあげよう。

「萌美、あなたをもう一度産み直してあげる事はできないけれど、愛されずに苦しんでいる子がいたら、私がお母さんになってやり直させてあげるわ。そうして、あなたを想うのと同じように愛してあげる。そうするわ、きっと、そうできるもの」

 愛おしそうに、幸せそうに、彼女はもういない娘に語りかけるようにささやいた。

 こうして、彼女は狂おしいほどに強すぎる想いゆえに、深すぎる愛ゆえに、心の形も、生き物としての形も、どうしようもないくらいに歪めてしまった。

 ──もう、取り返しがつかないほどに。

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