リルライ~破魔の小雷~

瀬戸安人

0「The Sickness unto Death」

 月の輝く夜に──。

 少女は中学校の屋上へ上がった。自分の通う学校だが、屋上へ出たのは初めてだった。今までこの場所に足を向ける事も目を向ける事もなかった理由を考えて、ああ、そうか、自分はうつむいて下ばかりを見ていたから上とか空とかそういうものを見る事がなかったんだ、と思い当たった。

 明るい月の光に照らし出される少女の姿はひどい有様だった。

 髪はぐしゃぐしゃに絡まり、真っ赤に泣きはらした目から続く涙の跡で汚れた頬には殴られた痣、切れた唇には渇いた血がこびりつく。泥まみれの乱れた制服は縫い目が破れ、ボタンがいくつもちぎれてなくなっていた。

 屋上の端までふらふらと進んでいった少女は、ぐったりとフェンスに寄り掛かった。

 体中が痛い。

 頭も、目も、耳も、鼻も、頬も、唇も、顎も、首も、肩も、腕も、肘も、手首も、指も、胸も、背中も、腹も、腰も、股も、膝も、脛も、足首も、足の指も、何もかもが、痛い。痛い。痛い。痛い?

 痛いのだろうか。痛いような気もするが、痛いという実感がない。もしかしたら、痛いと思っているだけなのだろうか。本当に痛いのか、そうでないのか、わからない。どっちでもいい。どうでもいい。

 痛い、辛い、苦しい。でも、いい。どうでもいい。

 見上げる空に浮かぶ月。きらめく星。美しい光。しかし、その光がどんなに美しく輝こうとも、少女の濁った瞳に輝きは宿らない。

 夜空を見上げるのは何て虚しい行為なのだろう。そこには美しい輝きが満ちあふれているが、どんなに手を伸ばしても決して届かない。ただ、光に照らされて自分の醜く汚れた姿が浮き彫りになるばかり。

 ああ。やっぱり、上なんか見てもいい事なんか何もない。

 暗い所で下を向いている方がずっとましだ。少なくとも、手の届かないものを見なくて済む。

 何も見たくない。何も聞きたくない。何も感じたくない。

 深い深い闇の底へ沈んでいけば、何も見なくて済むだろうか。何も聞かなくて済むだろうか。何も感じなくて済むだろうか。

 少女はのろのろとフェンスを乗り越えた。

 そして、少女はもう一度空を見上げた。

 空には銀色の月。きらめく星。美しい光。

 それから、目を閉じる。

 見なくてもいい。綺麗なものなんて見なくてもいい。代わりに、汚いものを見なくて済むなら。

 したい事もしなくていい。代わりに、したくない事をしないで済むなら。

 欲しいものも何も要らない。代わりに、要らないものを押しつけられないのなら。

 嬉しい事も、楽しい事も、何も要らない。代わりに、苦しい思いや、辛い思いをしなくて済むなら。

 

 そして、少女は飛んで、落ちた。

 深い深い闇の底へ。

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