[4] オリョールの奪回

 クルスクの北翼では、オリョールを中心として東へと戦線が大きく湾曲する突出部を形成していた。中央軍集団はこの突出部に、第2装甲軍と第9軍を配置させていた。北部戦域で第9軍の「城塞」作戦を頓挫させたと判断したモスクワの「最高司令部」はオリョール奪回を主眼とした「クトゥーゾフ」作戦の開始を命じた。

 7月12日、西部正面軍(ソコロフスキー大将)が攻撃を開始し、オリョール突出部の切断に取りかかった。ブリャンスク正面軍(ポポフ大将)もノヴォリシからオリョールに向けて攻勢に出た。

 西部正面軍の第11親衛軍(バグラミヤン大将)は約6000門の火砲とカチューシャ・ロケット砲の支援を受けて翌13日の夕刻までに、ドイツ軍の陣地を突破して約27キロの地点にまで進出した。ブリャンスク正面軍の第3軍(ゴルバトフ中将)と第63軍(コルパクチ中将)は突出部の東翼で16キロの突破を果たした。

 7月13日、ヒトラーはオリョールに対するソ連軍の脅威を鑑み、第2装甲軍を第9軍司令官モーデル上級大将の指揮下に入れることを決定した。モーデルは精力的に前線を動き回って、オリョール突出部を防衛する組織作りに取りかかった。

 だが、第2装甲軍の麾下には歩兵を中心とした3個軍団(第35、第53、第55)のみしか配属されていなかった。ソ連軍が空けた突破口を塞ぐ機動力を有した装甲部隊は第5装甲師団(フェーケンシュテット少将)と第25装甲擲弾兵師団(グラッサー中将)しか持ち合わせていなかったのである。

 ソ連軍の進撃に対してモーデルは第9軍から第12装甲師団と第36歩兵師団、大量の砲兵部隊をオリョールに回した。この日の戦闘日誌に、モーデルは次のように記した。

「本日すでに、第2装甲軍に対する敵の攻勢の規模からして、敵の狙いはオリョール突出部の占領にあると結論できる。過去48時間に根本的な変化が起こった。全ての作戦の重心は第2装甲軍に移った。戦局の危機は、いまだかつてない速度で、増大しつつある」

 7月15日、クルスクの北部を守りきった中央正面軍が攻勢に転じた。2日間の戦闘で、侵入した第9軍を攻撃開始線まで押し返すと、オリョールへ向かって突進した。突出部における独ソ両軍の兵力差は決定的となった。

 7月18日、西部正面軍の第11親衛軍が攻撃発起点から60キロの地点にあるイリインスコエに到達する。第2装甲軍と第9軍はスターリングラードを上回る規模で包囲される危機に直面したが、モーデルの防御戦術にあって、ソ連軍は攻撃のテンポを次第に削らされた。モーデルはあらかじめ突出部からの段階的な撤退を想定して、突出部の内側に4本の陣地線を構築させていたのである。

 陣地線の突破に手間取った西部正面軍とブリャンスク正面軍は、第3親衛戦車軍(ルイバルコ大将)と第4戦車軍(バダノフ大将)を前線に送り込んで攻撃のテンポを速めようとした。ソ連軍がオリョールの前面に到達したのは8月の上旬に入ってからで、第2装甲軍と第9軍の包囲に失敗したことは明らかだった。

 8月3日の夜、ブリャンスク正面軍はようやくオリョールの郊外に達したが、市街地はまるで昼間のように明るかった。街を放火されたのである。ブリャンスク正面軍は直ちに、大規模な攻撃を実施した。だが、ドイツ軍守備隊の抵抗が予想以上に頑強で、この攻撃は食い止められてしまった。

 8月5日、第3親衛戦車軍は2年ぶりにオリョールを奪回したが、市街地はすでに廃墟と化していた。工場や鉄道施設は破壊され、住宅もわずかしか残されていなかった。

 8月17日から18日にかけての夜半、第2装甲軍と第9軍はキーロフからブリャンスクを経由してセフスク付近まで構築されていた「ハーゲン」防衛線への撤退を完了した。東に大きく湾曲していた戦線は短縮され、モーデルは約47万以上の兵員を「ハーゲン」防衛線に収容することに成功した。モーデルの防御戦が功を奏し、中央軍集団が受けた損害は軽微だった。

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