其之十一 導きの先

 許劭きょしょうが亡くなり、叔父が笮融さくゆうに捕らわれて、音信不通になってから九ヶ月余り。

 年が改まり、建安元(一九六)年の九月を迎えて、ついに事態が動いた。

 改めて笮融の動向を探るために派遣された薛礼せつれいが殺された。孔明はその情報を西城で聞いた。あるいは、笮融側に付いたともいう。同時に朱皓しゅこうまで殺されたとか、南昌から逃げてきた人々からの情報は錯綜さくそうしていた。さいわい叔父が害されたという情報は耳にしなかった。

 実力で予章太守となるか、正式に予章太守となるか。袁術えんじゅつ劉繇りゅうようはかりにかけていた笮融はいつまでっても太守就任の沙汰がないことに苛立いらだちを募らせ、実力行使で予章を奪うことにした。その上で袁術に付くつもりだ。

 ちょうど皇帝が長安を脱して、足取りが転々としていたこともあって、使者が到達していないことを理由に笮融を説得することができていたが、七月になって皇帝は洛陽に帰還し、そんな言い訳が通用しなくなった。

 孔明は事態が動くだろうことを見越して、西城から南昌の様子を窺うことにした。

 その矢先のことである。とにかく、これで笮融の叛意はんいが明らかになったわけだ。

 続々と南昌から人が押し寄せて来るのを見れば、城内で騒動が巻き起こったのは間違いない。ある程度の兵力と兵糧を集めるには十分な時間があった。恐らく叔父の内応もある。劉繇はこれを知り次第、南昌へ攻撃を仕掛けるだろう。

 だが、孔明は自分の胸から不安をぬぐい去ることができなかった。何が真実で何が嘘か分からないこの状況ではなおさらだ。

 孔明はじっとしていられず、南昌から逃げてきた人を見る度に様子を尋ねた。

「郡兵はまるで駄目じゃ。いつもは大口をたたいとるくせに、まともに戦わんで降伏してしまいよる」

「朱太守が殺されてしまってな。こりゃ、どうもいかんっちゅうことで逃げてきたわけよ」

 不安が的中していた。孔明の心から消えなかった不安要素――――それは南昌の郡兵の錬度と士気の低さだった。戦い慣れしたごろつき集団といくさ経験少ない郡兵。

 叔父が戦いに勝利すれば、ここに現れることはない。だが、戦いに敗れて逃げてくるとしたら、ここ西城は最も有力な候補地であった。さらに、どうしても孔明を惑わせる情報があった。

「城の外に軍隊はいねぇよ。だけん、こうやって逃げて来られたんだわ」

「城外に劉揚州の軍が来ていないのですか?」

「劉揚州の軍? ……何のことを言いよるんか分からんが?」

 信じたくはない。しかし、誰に聞いても城外に軍はないと言う。

『いったい、どうなっているんだ?』

 孔明の頭の中に完成したはずの勝利の計画が、混乱という土煙つちけむりを巻き上げながら、あっけなく瓦解がかいしていく。今はとにかく叔父の無事を願うほかない。

「それで、叔父……諸葛玄しょかつげんはどうなったかご存じですか?」

「いや、知らねぇなや……」

 それから孔明は西城の半壊した門前から動かず、逃げてくる人々に片っ端から叔父のことを聞いて回った。そして、不吉な予感が現実になった。いや、願いが天に通じたとも言える。夜中になって、民衆に抱えられるようにして諸葛玄が西城に逃れてきた。

「叔父上!」

 諸葛玄はわき腹を押さえながら、苦痛に顔をゆがめていた。戦傷だろう。服に血がにじんでいた。それでも、こうして生きて逃げて来られたのだから、不幸中の幸いだった。

「無念だが、南昌は……笮融に押さえられた」

「お体は?」

「心配ない。……だが、ここもすぐに……離れなければならん」

 諸葛玄は呼吸をする度に顔を歪めた。

「劉揚州のもとへ参りましょう。話はつけてあります」

「……いや、この傷ゆえ……そう遠くへは行けまい。……笮融も、私が劉揚州のもとへ逃げると考えるだろう。……すぐに街道は……封鎖される。……どこか他のところに隠れて、しばらく様子を窺う必要があるな……」

「それでは、烏有うゆう先生のおられる閣皂山かくぞうさんへ参りましょう。姉と阿参を預けてありますし、烏有先生は薬の知識もお持ちですから」

 孔明は一緒に避難したいという民衆の助けを借り、傷付いた叔父の身を閣皂山の山奥へ運ぶことにした。


 叔父の負傷は孔明にとって痛恨だった。現実が頭で描いた通りには運ばないということを痛感させられながら、動きを見せなかった劉繇にかすかないきどおりを覚えた。

 その時劉繇が病に伏していたことは後で知ったが、それでも大きなチャンスをふいにし、叔父が深手を負ったことには変わりない。

『劉揚州が負け続けた理由が何となく分かる……。天が味方していないんだ……』

 そんな人物に関わったことがこの結果を招いた。孔明は悔やむしかなかった。

 傷の応急手当をして諸葛玄が安静にしている間、孔明は笮融の追跡を逃れるため、西城近くで諸葛玄が死んだという虚報デマを流した。それが本当に効果を発揮したかどうかは分からなかったが、諸葛玄を捜して追手の兵士がやってくるような事態には至らなかった。

 傷が完治しないまでも、諸葛玄が何とか歩けるようになったのはそれからおよそ一月ひとつき後のことだった。諸葛玄はすぐにでも荊州に向かうと言って、無理をした。

「これしきの傷でいつまでも寝ていられない。なに、問題ない」

 まだ痛みは強いはずだが、諸葛玄は甥子たちを心配させぬように気丈に振る舞った。もう笮融の追跡がないとは断言できなかったし、劉繇を助け、南昌を奸賊の手から解放しなければならないという責務が諸葛玄をそうさせた。叔父の体調が気がかりだったが、すみやかに劉繇の下を離れることには孔明も賛成だった。

 こうして、諸葛一家の流転るてんが再び始まった。葛玄かつげんはこのまま閣皂山かくぞうさんに留まることになり、徐州瑯琊ろうやを出て以来、約三年半にわたり共にしてきた命運を分かつことになった。葛玄は別れ際、孔明に餞別せんべつとして黒い羽扇うせんを授けた。

「私のからすの羽を編んだものだ。持って行け」

 孔明がその羽扇を受け取ると、それをしばし見つめ、新鮮な山の空気を掻き分ける感触を確かめた。その軌跡は孔明と葛玄が生きる世界を静かに分断した。

 しかし、この羽扇には師の思いと知恵が込められている。見つめる度に師の教えを思い出すだろう。

「先生にご教示いただいたことは忘れません。またいずれ仙境にてお会い致しましょう」

 感謝と別れを告げる孔明に、葛玄はただ黙して頷いた。


 南昌が笮融に押さえられ、荊州に向かうルートは必然的に贛水かんすい支流の牽水けんすい沿岸を西へさかのぼって九岭山きゅうれいさんを越えるものとなった。長沙郡に出るには最短ルートでもあったし、いたずらに時をかけてもいられない。諸葛玄は迷わずそのルートを選択した。

 新淦しんかん宜春ぎしゅんといった城邑じょうゆうを通過し、九岭山を越えて荊州の醴陵れいりょうへ入り、長沙郡都の臨湘りんしょうへ向かう。ほとんどの財産を南昌に残してきてしまい、ほとんど難民と変わらなくなってしまったので、手負いの諸葛玄もかちで移動しなければならなかった。

 そのため、く気持ちに反し、移動と休息療養を繰り返す遅々ちちとした行程になったが、幸い一行は何事もなく宜春の城邑に辿たどり着いた。

『笮融は先を考えて行動しているようには思えない。兵を連れていない叔父のことなど、どうでもいいのだろう。反旗をひるがえしてしまった以上、それどころでもあるまいし……』

 孔明はいつものように人々の様子を観察して、状況を分析した。

 宜春の街は普段と何ら変わらない平穏ぶりで、危機感は感じられなかった。

 笮融と協調中の廬陵ろりょう僮芝とうしが進出してくることが懸念けねんされたが、そんな様子も見られない。それより、このような片田舎かたいなかで袁氏の話題が聞けたのは意外だった。

 宜春は袁京えんけいという人物が隠居したところで、城北の五里山ごりさんふもとに住んでいたという。五十年ほど前の話で、彼の死後、五里山は〝袁山〟と呼ばれるようになった。

 袁京、あざな仲誉ちゅうよ。四世三公・汝南じょなん袁氏の一族で、袁秘えんひの高祖父にあたる人物である。

『あのお方のように何か重い使命を背負っていたんだろうか?』

「ちょっと亮、何してるの。ほら、亮も手伝って!」

 思案中の孔明の耳にそれを中断させる姉の言葉が飛び込んできて、孔明は別の憂慮に対さなければならなくなった。長途移動したことが原因で、叔父の傷は再び出血していた。孔明とれいは手分けして叔父の傷口を覆う止血剤を取り換えた。

 葛玄から教えられた薬草をすり潰して軟膏なんこうにしたもので、出発前にあらかじめ作り置きして小箱に詰めておいたのだ。

「一家を率いるべき私が足手まといになってしまったな……。子瑜しゆと再会できるのも、もう少し先のことになりそうだ」

 諸葛玄が自責の念と傷口に塗り込まれる薬の刺激に軽くうなりながら、自嘲した。

 自らが招いたこととはいえ、不甲斐ない。一行は継母はは諸葛瑾しょかつきんが待つ江東ではなく、その正反対の方角へと進路をとっている。それは運命のいたずらでもある。

襄陽じょうようにはえい姉さんが嫁いでいるから、どっちにしても一家再会でしょう? 久しぶりに瑛姉さんに会えると思うと、嬉しいわ」

 玲がそう言って、叔父をなぐさめた。一番上の姉の瑛は襄陽のかい氏に嫁いでいる。

「瑛姉さんが嫁いだのは阿参が生まれる前のことだったわよね。阿参も嬉しいでしょう。初めて瑛姉さんに会うのよ」

 玲は暇を持て余して土いじりをする弟を見て笑顔で言った。孔明はとても笑顔は作れない。叔父の傷を見る度に自己嫌悪におちいる。

 孔明は己の失策を責め、叔父に謝罪した。

「……叔父上、誠に申し訳ございません。叔父上のこの傷は私の愚策が付けたようなもの。自分の浅はかさを恨むばかりです……」

「どうしてお前が謝る必要がある? ……これは太守の座に固執した私自身が招いたものだ。お前が知恵を働かせてくれたからこそ、こうしてここにいられる。そうでなければ、今頃私も笮融に殺されていたかもしれん」

「そうよ。亮、しっかりしなさい。そんな辛気しんき臭い顔で瑛姉さんに会うつもりなの?」

 叔父は消沈した甥を慰め、姉は陰気な弟を叱咤した。

 玲が明るい話題を探して聞いた。

「襄陽は悪くないところなのでしょう、叔父上?」

「ああ。あそこは平穏だ。お前たちさえ良ければ、襄陽に住み着いたっていい……」

 諸葛玄は兄の諸葛珪しょかつけいが病に倒れる前まで、蒯越かいえつという既知きちの後援で、ほんの数カ月だが、劉表のもとで働いていた。その伝手つてで再び仕官して、一家を養うこともできるだろう。

『この体がもてば、の話だが……』

 子供たちに配慮して言葉にはしなかったが、諸葛玄はそう遠くない死期を感じていた。


 予感通り、諸葛玄の体調は日に日に悪化していった。まだ完治していないのに長距離を歩くのは自ら死期を早めているに等しい行為だったが、それでも歩みは止めなかった。孔明も叔父の体調の変化には気付いていたが、長沙に入るまでは急いだほうがいいという叔父の言葉に反対はできなかった。

 太守が不在となって、予章の治安は急激に悪化している。笮融の追跡がなくとも、山賊やおいはぎのようなやからがいつ現れるやもしれない。子供たちの安全を考えると、諸葛玄は自らの体調のことなど気にしてはいられなかった。

「この峠を越えれば、もう長沙です。叔父上、お体は大丈夫ですか?」

「……ああ、長沙に入ったら、少し休む」

「長沙の張府君は高名な医者だそうです。着いたら、すぐにてもらいましょう」

 重い足取りの諸葛玄は荒い息を吐きながら、甥の言葉に頷くだけだった。

 夕闇が迫る中、一行がようやく九岭山の峠に差し掛かった。峠には道を塞ぐように小さなていがあった。

 亭とは十里ごとに設置された警備施設のことで、州境や郡境の亭は簡易的な宿泊施設も備えている。小さな関所のようなものだ。それでも、冬の寒さに震える孔明たちにとって、心安らげるいこいの場であることには変わりない。

 叔父を支える孔明が目をこらすと、四、五百ほどの軍勢が待機しているのが見えた。小さな亭には不相応な物々しさだ。奇妙に思っていたところ、その軍勢を率いているらしいよろいかぶと姿の武官が数人の兵士と共に歩み寄ってきて聞いた。

「予章の諸葛玄殿とお見受け致すが、間違いござらんか?」

「いかにも」

「それがし、長沙太守・張機ちょうきの命でお迎えに上がった黄漢升こうかんしょうと申す。どうぞ、こちらへ」

 初老の武官が拱手し、諸葛玄たちを出迎えた。宿舎にはすでに食事が手配されており、荊州に入っていきなりの厚遇だった。

今宵こよいはこちらで休まれよ。諸葛玄殿はお怪我けがをされておると聞く。馬車を用意してありますゆえ、明日はそれをお使いくだされ」

「……有り難い。……お心遣い、感謝致す」

「何の」

 そのしろひげの武官はいかにも硬骨漢といった態度ながらも、太守の指示もあるのだろうが、懇意に図ってくれた。諸葛玄は食事も取らず、そのまま倒れるように眠りに付いた。

『あのお方の言葉は重い。万人を動かす影響力がある……』

 孔明はこの待遇の全てが今は亡き許劭の言葉が持つ力だと分かって、許劭の人相見以上の力を静かに感じながら、「光明こうみょうの龍」という自分に託された言葉を噛みしめた。

 このところ、許劭が遺した言葉が耳朶じだから離れない。依然、戸惑いは解消されていない。どう受け止めればよいのだろう。偉大な人物鑑定家の評価が全くまと外れだとは思えない。とはいえ、まだ何の力も持たない自分に対し、余りにも過大な評価ではないか……。

「――――それと、襄陽に着いたら、亮に家長になってもらう」

「――――え、私がですか?」

「――――そうだ。玲が言うように、お前にはもっとしっかりしてもらわなければならん。道中、あざなを考えておくようにな……」

 数日前に叔父から告げられた一言も大きなプレッシャーとなっていた。この二人の言葉が孔明を悩ませ、このところ満足に寝付かせることをさせなかった。

 その夜も体は疲れているにもかかわらず、孔明は簡単に寝付けずにいた。

『光明……。字意が名にも合っているし、あざなにするのも悪くない……』

 中国では成人した折に自分で字を付け、社会に出てからはその字で呼び合うのが風習であった。大概それは親からもらった名に通じるものが選ばれた。

 孔明の名は〝亮〟であるので、〝光〟も〝明〟もそれに通じて良いというわけだ。『礼記』に「二十をじゃくひてかんす」とあり、〝弱冠じゃっかん〟という言葉はこれに由来する。つまり、男子の場合、二十歳で戴冠たいかんし、成人と認められる。

 しかし、二十を向かえる前に自らあざなを名乗って大人ぶる青少年たちも普通にいたし、若くして父を失い、家長とならざるを得なくなった若者たちは字を名乗って仮成人した。

『若者が持つ可能性の光は……はなはだ美しく輝いて、見える……』

 また、許劭の言葉が鮮明に脳裏をよぎった。

はなはだ美しい光……。孔だ明るい光……。孔明……』

『良い響きだ』

 孔明は思わず体を起こした。今のは誰の声? 

 周りを見渡してみるが、起きている者はいない。孔明の耳にはただ暗い部屋のベッドに眠る家族の寝息が聞こえていた。姉と阿参は夢境の世界に入っているようだった。叔父も苦痛から解放されて安眠についている。

『気のせいか……』

 孔明はこの平静な夜に安堵して、烏有先生からもらった黒い羽扇を片手に宿舎の外に出た。外の空気は刺すように冷たく、空は孔明の心象を映し出しているかのようだった。月の明かりも星のまたたきもなく、重苦しい懊悩おうのうの雲に閉ざされている。

『とうとう荊州に入った……』

 何を見るでもなく、ただ寂しい夜空を見上げながら感慨にふけった。

 故郷の瑯琊を出、徐州を縦断し、広大な揚州を横断した。疎開という名の流浪の旅はまだ続いている。これまでの変遷をおさらいするかのように暗く苦い回想が頭を駆け巡って、孔明から完全に眠気を追い払ってしまった。記憶の奔流が一段落すると、孔明は思い出したかのように身ぶるいした。

 こよみはいつの間にか建安二(一九七)年を迎えている。

「長沙の冬は長く厳しい。ずっとこのような陰天が続く……」

 その声はあの白鬚の武官のものであった。孔明が声がした方を振り返ると、松明の明かりの中にその武官、黄忠こうちゅうが視線を夜空に向けて現れた。彼のあざなは漢升である。

「このところ荊州ではしょうかんが流行っている。邪気にあてられると良くない。それにこの辺りは昔から物騒な地域だ。特に夜間は外には出ん方がよい」

 傷寒とは、現在でいうところのチフスやコレラのような伝染病を指す。

 ちょうどこの時期、中国だけでなく、インドやヨーロッパでも同じ様な伝染病が大流行して、多くの人を死に至らしめた。

「そうでしたか。こうして荊州に無事入ることができて、安心したものですから……」

「お父上のご容体はどうかな?」

「叔父です」

「それは失礼した」

「いえ、もう父のような存在ですから。今はぐっすり眠っています」

「そうか。ここまで随分と無理をされてきたご様子だが、張府君は世に聞こえる名医ゆえ、きっと治していただけよう」

 黄忠が孔明を安心させるように言った。眠気がすっかり消え失せてしまっていた孔明は黄忠に聞いてみた。許劭は長沙太守に諸葛家の保護と援軍派兵の書簡を送っていた。

「はい……。あの、僭越せんえつですが、長沙から兵は出せなかったのでしょうか?」

「兵が十分ではない上に疫病の蔓延まんえんでそれどころではない。十年前なら、それでも兵を出したであろうが」

 十年前の長沙太守はそんけんであった。当時、長沙を含む荊州南部では冦賊こうぞくたちが衆を集めて大規模な反乱を起こしており、荊州刺史・王叡おうえいの指揮下にあった黄忠は孫堅に協力して鎮圧に従事した。ちょうどその頃、同じ様な事態があった。

 予章郡の宜春県が賊に攻められ、孫堅に援軍を請うた。無許可で軍を越境させることは禁忌きんきであったが、

「――――この緊急事態にそんなしきたりを気にしていてどうするのか」

 孫堅は軍を発して州境を越え、見事賊軍を打ち破って宜春の窮地を救った。

 この時の宜春長は孔明が廬江で会った陸議りくぎ少年の父で、陸康の甥である陸駿りくしゅんであった。その後、孫堅は長沙を離れて王叡の後任として赴任した劉表を攻め、その戦いの最中、劉表配下の黄祖こうその兵によって命を落とした。

 黄祖は黄忠の遠縁で、ルーツは〝枕を扇ぎふすまあたたむ〟の故事で、後の〝二十四孝〟の一人に数えられる黄香こうこうである。この黄香の少年時の孝行ぶりが黄氏一族に今の栄達をもたらしたといって過言ではない。

 黄香はあざな文疆ぶんきょう、江夏郡安陸の人である。家は貧しく、九歳の時に母に死なれた。そのため、父のために孝行を尽くし、夏の暑い日は枕を扇ぎ、冬の寒い日は自らの体温で布団を暖めておいてから父親を床につかせた。漢王朝は儒教を国教としていたので、孝行は官吏になるための重要な素養とされていた。

 黄香少年の篤い孝行ぶりは都にも届き、黄香は官吏に登用されて国政に参加し、和帝の恩寵おんちょうを受けた。魏郡太守となった時、郡に水害があったが、黄香は自らの俸禄を返上して、被災した人々を救済したという。

 黄香より後、江夏黄氏は代々高官を輩出し、一族繁栄の時を迎えることとなる。

 長子の黄瓊こうけいあざな世英せいえいといい、父の才知をよく受け継いで、三公(三つの最高官職)を歴任した。父を早くに失い、瓊に養育された孫の黄琬こうえんあざな子琰しえんもまた三公に昇った。

 黄瓊の在任当時は大将軍梁冀りょうきが専横を極めて世を狂わせていた時期であり、黄琬の時は董卓が政権を握って暴虐無人の限りを尽くした暗黒時代であったが、瓊は梁冀に阿諛あゆせず、その誅殺に功績があり、黄琬も董卓と対立して董卓誅殺を計画、これを成し遂げた。

 瓊も琬も共に清流派官僚の代表として毅然と正義を貫き、邪臣を討ち、さらに黄氏の評価を高めたのである。しかし、栄達するに従って、黄氏の分家も進んだ。

 各地の太守や刺史となって赴任して、そのまま赴任地に定住することもあったし、政敵から目を付けられた一族を隠し、場合によっては避難させるような処置をとらなければならないこともあったからだ。江夏黄氏は大きく繁栄して枝分かれした結果、荊州の南陽と零陵れいりょうにそれぞれ分家を生んだ。

 黄忠の黄氏は南陽の分家筋であり、黄祖は江夏黄氏本家の出自である。

 また、零陵の黄氏は孫堅に従って戦った黄蓋こうがいを輩出している。

 その黄蓋は今や孫策の配下であり、黄氏はそのような経緯から敵味方に分かれてしまっていた。乱世は様々な不幸を各家庭にもたらす。

 黄忠が寒風にひげを揺らし、顔を強張こわばらせながら呟いた。

「今の時代はこの長沙の冬のように厳しい。耐えしのばねばならんのは、どこの家も同じであろうが……」

「私も戦災に苦しむ多くの人々を見てきました」

「君たちは荊州に留まるのかね?」

「そうなると思います。姉がこちらに嫁いでいますから」

「そうか。明日はそれがしが付いて同行致す。ゆっくり休んで、明日に備えるとよいだろう」

「はい」

 孔明は黄忠にそうさとされて、松明が微かに照らす夜道を戻って行った。

 その姿が闇に消えるまで黄忠は孔明を見送った。まさか十数年後の孔明が自分を使いこなす大才を身に付けて再び現れるとは、さすがに想像できなかった。

 荊州には毎日のように各地から逃れて来た人々がやってくる。ほとんどが戦乱で一族の離散や死別を経験し、土地も財産も失った者たちだ。

 凶刃きょうじんから民と郷土を守ることこそ吾輩わがはいの務め――――黄忠は常にそれを胸に任務にあたってきた。そして、時代と運命に翻弄されてやってきた諸葛家の面々を見て、再びその決意を新たにするのだった。


 翌朝。諸葛玄は悪寒おかんを発し、ついに立てなくなった。それでも、馬車で行くと強がるので、孔明は黄忠が連れてきた兵士の助けを借りながら、叔父を馬車に乗り込ませた。一行は黄忠と兵たちの護衛を受けながら、三日後には長沙郡の臨湘へ到着した。

 しかし、諸葛玄はその時はもう動くことすらできず、意識は朦朧もうろう、脚には痙攣けいれんを起こしていた。

「直ちに太守に知らせる。お前たちは諸葛殿を越人えつじん堂へ運べ」

 黄忠が兵たちに指示して、自らは太守府へと急いだ。すぐに太守の張仲景が二名の助手たちを引き連れて、〝越人堂〟の扁額へんがくが掲げられた医療施設に駆け付けた。

 張仲景は白鬚を蓄えた初老の士大夫で、衣装の袖をまくし上げて、ひじ上あたりで結び止めていた。眉間みけんしわを寄せ、ベッドに寝かされた諸葛玄の口を開け、まぶたを開き、呼吸を確かめ、脈を取って、その表情を注意深く観察した。望診ぼうしんである。

 それから服をめくって傷口の様子を見ると、

「顔面の麻痺。刺創しそう傷痙しょうけい。傷口から邪気が入り、寒邪かんじゃとなって暴れている」

 明確に診断を出した。現代で言うところの破傷風はしょうふうと虚血による意識障害を疑ったのだ。そして、すぐにそれに対応するための薬を指定した。

芍薬しゃくやく甘草かんぞう附子湯ぶしとう当帰とうき四逆散しぎゃくさん楓果脂ふうこうし山漆やまうるし軟膏なんこうを準備するように」

 助手たちは言われたとおり、それらの薬を用意するため、隣接した薬庫やくこに走った。

 医者でもある張仲景は漢方薬の原料を多種多様に買い集め、それを備蓄していたのだ。その備えが傷寒が流行している長沙の民を救い、諸葛玄をも救おうとしていた。しかし、張仲景は諸葛玄の容体が予断を許さないのを伝えるように、

「申し訳ないが、ご家族の者たちには外で待機してもらいたい」

 厳しい表情でそう言うと、黄忠が阿参と抱き合って心配そうに様子を見守っていた玲を堂外へといざない、孔明もそれに従った。

「心配は無用。名医の太守殿が必ず良くしてくれる」

 黄忠が力強く言って、玲を頷かせた。孔明はそれには反応せず、

「芍薬甘草附子湯、当帰四逆散、楓果脂、山漆……」

 張仲景が口にした薬を忘れないように、指を折りながら、ぶつぶつと独唱していた。黄忠はそれをいぶかしんだが、孔明の薬学の知識は後年大いに役に立つことになるのである。

 それは葛玄や張仲景との出逢いとその際に見聞した知識の賜物たまものであった。


 漢の国土のほぼ中央に広がる荊州は、江水(長江)を挟んで北と南に分けられている。荊南に所属する四郡のうちの一つが長沙郡である。その郡治は湘水沿いの臨湘に置かれていた。州土が広大なため、州府は荊州のほぼ中央、荊南四郡の一つ、武陵郡の漢寿かんじゅというところに設置されていて、もともとはそこが荊州の中心であった。

 しかし、黄巾の乱と董卓の専横で政局が混迷し、荊南でも漢王朝に対する反乱や不服従が相次いだ。そのような経緯があって、七年前に州牧(州の長官)となった劉表は荊南に入ることを断念し、荊北の襄陽に州府を設立して統治にあたった。

 彼は荊州の有力豪族である南郡の蔡氏や蒯氏、江夏郡の黄氏を重用して、彼らの力を借りながら荊州の安定統治を実現させた。

 人望のあった張仲景を長沙太守に起用したのも、その対策の一環である。

 張仲景は名をという。仲景はあざなだ。南陽郡涅陽でつようの人で、下級官僚の家に生まれた。十歳で同郷の張伯祖ちょうはくそに師事して医学を学び始め、教えられたことはすぐに習得し、薬用の知識は師を上回るほどになって、若くして優秀な医師として評判を得た。

 政界に強い関心はなかったが、その名声と父の勧めもあって、孝廉こうれん(漢の官吏登用制度)に推挙され、図らずも官吏の道に進むことになった。

 ちょうど荊南地方に疫病のきざしが見め始めたこともあり、劉表は有能な医師でもある彼を長沙太守に抜擢したのである。

 医療への情熱が衰えることのない張仲景は長沙へ赴任後、あえて官僚と医師の二足のわらじを履いて、政務の一方で大衆の治療を行った。

 そのシンボルが越人堂である。この当時、庶民は役人に気軽に近づくことはできなかった。ましてや太守となれば、なおさらである。しかし、張仲景は毎月一日と十五日に太守府の門を開き、越人堂に座り、民衆の病気治療を行った。この評判を聞き、遠くから診療に訪れる人も多かった。

 どれくらい時間が過ぎただろう……。

「君の叔父殿のことだが、恐らく一命は取り留めるだろう」

 施術を終えた張仲景が越人堂から出て来て、阿参と二人でうずくまる玲にそう告げた。

「ああ、良かった!」

 その言葉に安堵して、思わず玲は阿参を抱きしめていた。孔明は越人堂の前庭にかがみ込んで薄紫色の花を結んだ植物を入念に観察していた。

 黄忠が言うには、この前庭自体が生薬植物園そのものだという。

 山野から山梔子さんしし(くちなし)や胡桃くるみなつめ石榴ざくろの樹木が移植され、艾葉がいよう(よもぎ)や魚腥ぎょせいそう(どくだみ)など数種の薬草類までそろっていた。張仲景が太守として赴任して以来、長い歳月をかけて整備してきたものだ。容易に手に入らない希少なものは交易で入手して、隣接の薬庫に常備しておくのが常であった。

 張仲景が時を忘れたかのように観察を続ける孔明に声をかけた。

「それは桔梗ききょうだ。根が薬として使える。薬学に興味があるのかな?」

「はい。私の知らない知識です。機会があれば、学びたいと思います」

「それは良い。時間さえあれば、私自ら教えてやりたいところだが」

「太守様。出立の手筈てはずが整いました」

 その時、桓階かんかいという郡吏がやってきて報告した。

「郡内の巡察ですか? 必要なら、それがしが護衛に付きますが」

「いや、そうではない。つい昨日これが届いた」

 黄忠の誤解に張仲景が帛書はくしょ(絹に書かれた書簡)を出して答えた。

 劉表から届いた辞令である。内容は張仲景の解任を伝えるものだった。

 それを見た黄忠が唸った。

「むぅ……」

 黄忠のはとこに黄承彦こうしょうげんという人物がいる。同じく黄香を祖先にし、彼の妻は荊州の有力豪族・蔡氏である。劉表の後妻も蔡氏であり、この二人の蔡氏は姉妹である。

 つまり、黄承彦と劉表は義理の兄弟だ。帛書には黄承彦の娘が流行り病にかかってずっと伏せっているので、戻ってそれを治療してほしいと書き記されてあった。

 随分私的な解任理由と言える。

「本来、郡守の任命解任は朝廷の命で行われるもの。劉荊州はそれをお忘れなのか?」

 桓階は言葉尻に立腹をにじませて言った。

伯緒はくしょよ、めったなことを言うでない。洛陽が焼かれて以来、今も朝廷は混迷の最中だ。そもそもここへの赴任も劉荊州が決めたことだったのだから、仕方あるまい」

 桓階はあざなを伯緒という。この長沙臨湘の出自で、十年前の長沙太守・孫堅に孝廉に推薦された。孫堅が劉表との戦いで戦死した時は、劉表に遺体の引き取りを直接願い出て、それを義行として許されたという過去がある。

 しかし、劉表は聖人君子を装いながら、そうではない。恩人である孫堅を葬った相手として、桓階の胸に刻まれている。

「私にとって太守の任は重すぎる。ただの医者に戻れるのなら、その方が良い。明日発つ。後任が到着するまで、太守の任は伯緒に代行してもらう。漢升はゆう県に戻って守備に努めてくれ。まだまだ予章の事態が不安だからな」

「畏まりました」

 桓階は不満をぬぐいきれないながら、黄忠は実直に張仲景の命に従った。

「叔父殿の代理は君にしてもらおう。許子将からふみをもらって、興味を持っていた」

 そう言うと、張仲景は孔明を話し相手に誘った。


 太守官邸に移って行われた二人の会談は、まず張仲景が諸葛玄の容体の真相を打ち明けることで始まった。

「医者として正直に言おう。君の叔父上だが、すでに五臓の気が衰え、閉じようとしている。一命は取り留めたと言ったが、余命は二月ふたつきに満たない」

 一転して残酷な告知だった。孔明は胸を強く弾かれたような、痛みをともなう既知感に襲われた。父の危篤きとくを知らされたあの時の、うちのめされるような衝撃。

 しかし、我を失うようなことはない。五年分の成長がそれを冷静に受け止めるだけの耐性を備えさせていた。

 人の生ははかない――――孔明は気を強く持って言った。

「それを聞いたら、何としてでも叔父と襄陽に辿り着かなければなりません。きっと叔父もそう言うでしょう」

 孔明は時に使命というものは一個の命よりも重いということを学んできた。

 それを教えてくれた叔父の思いを、使命をまっとうさせてやりたい。

「事情は理解している。病人に無理をさせるというのは医者の矜持きょうじに反するが、一郡を預かる立場でもある。協力しよう」

 孔明の強く真摯しんし眼差まなざしに張仲景も頷いた。

 長沙の治安維持のためにも、隣国の予章の安定は不可欠な要素だ。

「叔父殿は明日には意識を取り戻すだろう。まだ動かせる状態ではないが、舟を利用すれば、動かずとも移動できる。私が一緒に付いて、容体を診ながら行こう」

「ありがとうございます」

「これも医者の責務だ。礼には及ばん。それより、君は薬の知識がないと言っていたが、叔父殿の傷口に塗ってあったのは艾葉がいよう附子ぶしを混ぜたものだった。特に附子は高度な生薬の知識と技術がなければ、扱えないものなのだが?」

〝艾葉〟はよもぎの葉のことで止血剤として、〝附子〟はトリカブトの子根しこんのことをいい、鎮痛剤としてそれぞれ効果がある。しかしながら、附子は猛毒を持っているので、当然、そのまま生薬として用いることはできない。塩水に漬けてから乾燥、あるいは加熱するなどの弱毒処理をしてはじめて薬として使える。

 孔明が張仲景の疑問に答える。

「それは方士の烏有先生に頂いたものです。烏有先生は山野に入って修行を重ね、薬の知識にも詳しいお方でした。私は教えられたとおりに叔父の傷口に塗っただけです」

「そうだったか。時さえ許せば、私もその烏有先生にいろいろ知見を伺いたいものだ」

 張仲景は政務の傍ら、自身の医学についての知識、経験を著書にまとまめているところだった。彼の著作『傷寒雑病論』は後世、漢方医学界におけるバイブルとなる。

「私も烏有先生と出会って、薬の知識が大いに役に立つことを知りました。仲景先生、叔父を治療した時に言っていた薬のことを教えていただけないでしょうか?」

「もちろん、良いとも」

 張仲景は白く伸びた顎鬚あごひげでて、それに応じた。惜しみなく知識を分け与える。

芍薬しゃくやく甘草湯かんぞうとう痙攣けいれんや筋肉の緊張を弛緩するのに良い。冷えが強い場合には附子を加える。当帰とうき四逆しぎゃくとうは手足の冷え、血虚けっきょの改善を目的とする。叔父殿は出血が続いて、体内の血が足りていなかったために体が冷え、痙攣を引き起こしていた。滋養あるものをしっかり取っていなかったのだろう」

「食事はちゃんと取っていたようでしたが」

「病人というものは時々、家族を心配させぬよう嘘をつく。恐らく食欲がなく、ほとんど食べていなかったに違いない」

 孔明はそれを聞かされ、大いに反省した。まだ配慮が足りなかった。もっと注意していれば、善意の嘘も見抜けたはずだ。

楓果脂ふうこうしは楓という木の樹脂だ。止血剤として良い。それから山漆やまうるしだが、これも止血剤や鎮痛剤として良い。ただし、びょう族の土地でしか採れないたいへん希少なものだ」

 山漆は今で言う田七人参でんしちにんじんである。後年、孔明はこれを交易を通して手に入れ、戦場の兵士たちに服用させた。

「これも薬でしょうか?」

 孔明は張仲景に勧められた茶をすすって、その苦味に少し顔をしかめた。

「うむ。三生湯さんせいとうという。生姜しょうがと生米、茶葉を砕いてせんじたものだ。これはその昔、伏波ふくは将軍が武陵の民に教わったというものでな。傷寒を患わないよう養生するのに良い」

 伏波将軍とは後漢初期の名将・馬援ばえんのことである。

 百五十年ほど前、異民族の反乱鎮圧のために南征した時、武陵郡を通過中に兵士たちが伝染病に侵されてばたばたと倒れた。馬援が現地の医者に尋ねると、この三生湯の処方を教えられたという。これは幾分の原料の変成を経て、現在の擂茶らいちゃとして名残なごりを留めている。

「まだ苦いか? 少々甘くしているつもりだが」

「いえ、伏波将軍の苦難の味と思えば、感慨深いものがあります」

 孔明は三生湯をもう一口啜りながら、そう呟いた。また苦みを感じた。

 それが自身の配慮の欠如がもたらした味のように思えた。


 諸葛家の一行は長沙から湘水に乗った。諸葛玄は張仲景の見立てどおり、意識を回復させたが、まだ満足に動けない状態が続いた。水路なら、体への負担は少ない。

 諸葛玄は寝台付きの舟にし、張仲景の診療と孔明や玲の看病を受けながらの移動だった。孔明はこの移動の間も張仲景を話し相手に、その知識を貪欲に吸収しようとした。

「……私が医者を志したのは『史記・扁鵲へんじゃく伝』を読んで、感銘を受けてからのことだ」

 張仲景が口にした扁鵲とは、あらゆる医術に精通していた古代のスーパー・ドクターである。張仲景は著作の『傷寒雑病論』序文の冒頭を「越人がかくの太子を治療したことや斉侯せいこうに対する望診のことを思うたび、そのすばらしさに嘆息せずにいられない」という一文で始めている。

 扁鵲の本名はしん越人えつじんといい、越人堂の名の由来がここにある。

 ある日、扁鵲が虢という国を通りかかったところ、そこの皇太子が突然倒れて亡くなったと悲しむ人々を見かけた。扁鵲は長年にわたる医療の経験からその凶報に対して疑いを持ち、国王に謁見して皇太子が亡くなった時の状況をつぶさに聞いた。そして、聞くなり、「太子はお亡くなりになっておりません。これはきっと〝尸厥しけつ〟という病でしょう」と言い、治療で治ると伝えた。尸厥はいわゆる仮死かし状態のことだ。

 国王は感激し、皇太子の治療をさせた。扁鵲が鍼灸しんきゅうを用いて治療したところ、あっという間に皇太子は意識を取り戻した。

 この扁鵲の治療を聞いた人々はそれを〝起死回生〟と形容したという。

 また、扁鵲は斉の国王の顔色を見ただけで病気を見抜き、その病状をことごとく言い当てた。望診の天才であったのだ。伝承では、透視術で患者の体内を視ることができたという。

「扁鵲に比べたら、私の医術は遠く及ばない。私もまだまだ学ばなければならない。荊州には賢人が多い。学ぶには良いところだ。世のため人のため、自分に何ができるか。君も学びを通じて行くべき道を見つけ、それに従いたまえ」

「はい」

 孔明は自分に足りないことがはなはだ多いことを知って、明確に答えた。

 ふと川面を見つめた。どこまでも続く滔々とうとうたる水の流れ。

 それを分断するように川の中央に細く伸びる砂洲があった。

「あれが長沙という名の由来でしょうか?」

「恐らくそうだろう。普段は川の中だが、以前よりは顔を出すことが多くなった。私が長沙に赴任してきた当時よりも若干大きくなったようだ。日々荊南の土砂を集めて、成長しているのだろうな」

 孔明はそれを己にたとえてみた。自分も知識を集積して成長したなら、世の中に出ることになるのだろうか。あるいは、世の中には出ないまま、葛玄のように山に籠って修行する道士の生き方を選ぶのだろうか。

 どちらにしても、学び続ける生き方をするだろうことは間違いない。

 学びの地・襄陽――――湘水の流れがゆっくりと孔明を運んでいく

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