其之五 別離の日

 徐州の危機は去り、年が明けた。一九四年は〝興平こうへい〟と改元され、興平元年である。徐州を救った最大の功労者の劉備りゅうび陶謙とうけん麋竺びじく懇願こんがんを断り切れず、しばらく徐州に残ることにして、はい県に駐屯することになった。

 沛県は予州沛国の都で、〝小沛しょうはい〟という通称で知られていた。徐州に近いため陶謙の影響下にあり、徐州の出城でじろのような役割を果たしていた。

 劉備軍がその小沛に移動するのと時を同じくして徐州を離れようとする者たちがあった。諸葛しょかつ一家と葛玄かつげんである。

「――――の度は運良く救われたが、再び曹操が攻めてくることは十分に考えられる。軍と同行できるのなら、今のうちに離れたほうがよいかもしれない。いざという時には、袁術に仕官を願い出よう」

 それが一家の長である諸葛玄しょかつげんの決定であった。

 城内には、諸葛家と同じような事情で北から移ってきた家族がいくつかあった。

 皆、此度の戦乱で逗留を余儀なくされた者たちである。主なところは瑯琊きょ県の徐氏、青州北海国の名族・とう氏などだ。この逗留の間、諸葛玄は彼らのことを知って情報交換をした。

 莒県の徐氏は地元の県長を務めたことがある君子・広陵太守の趙昱ちょういくのもとに身を寄せるつもりだったようだが、先日その趙昱が殺されてしまい、途方に暮れた様子だった。滕氏の方は、同州出身の揚州牧・劉繇りゅうようを頼っての南行であったらしく、徐氏はひとまず滕氏と行動を共にして江南へ赴くことに決めたようだ。

 諸葛家も彼らと一団となって、城門の前に隊列を作った。

「出発」

 号令したのは南下する劉備軍に同行して徐州入りをした太史慈たいしじである。

 劉備の命で太史慈が集めた敗残兵は皆、丹陽たんよう兵であった。陶謙が揚州丹陽郡出身なので、軍備増強の際に地元から兵をかき集めたのだ。しかし、その陶謙がもう落日寸前の様相をていし、曹操軍の再来を恐れて、彼らの間に地元に帰ろうとする動きが広がっていた。太史慈は劉岱りゅうたいの没後、その弟で揚州ぼくとなったばかりの劉繇のまねきに応じることにした。太史慈が丹陽兵をまとめて揚州に向かおうとしているのは陶謙の意図でもある。陶謙陣営としても、今後のためにも南接する揚州牧の劉繇と協力関係を深めておいたほうがよい。太史慈は陶謙から劉繇にてた書簡も託されていた。

 太史慈を中心とした千ほどの軍民一行はたん県を離れ、ほどなくして淮水わいすいの渡し場に辿たどり着いた。淮水は予州と徐州を貫く大河であると同時に水運の大動脈だ。渡し場には、船上生活をしながら、水運業をいとなむ〝運漕うんそう〟たちの船団があった。

 ところが、そこには馬車を運搬できる大型船はなく、諸葛玄は仕方なく馬車をあきらめ、いくらかの食糧となけなしの金に替えた。

 一行がいくつかの船に分乗する際、孔明は一家の乗った船には同船せず、

「ご一緒してもよろしいですか?」

「構わないが」

 気になるその人物の許しをもらい、葛玄と一緒に船に乗り込んだ。

 船が岸を離れ、ゆっくりと川面かわもぎ出る。孔明は船が川幅の広い淮水の中央に達したところで、思い切って尋ねてみた。ここなら、盗聴とうちょうの心配がない。

「私はもとの泰山じょう諸葛珪しょかつけいの息子で諸葛亮しょかつりょうと申します。昨年、泰山でお会いしました」

 男はそれを聞いて怪訝けげんな表情を浮かべ、記憶を辿った。

 そういえば、自分が逃げ出す直前、黄巾賊に捕まった少年がいた。はっきりと顔を覚えているわけではないが。

「……ああ、あの時の子供か。君も助かったのだな。良かった」

「差しつかえなければ、お名前をうかがってもよろしいでしょうか?」

「ああ、申し訳なかった。袁秘えんひあざな永寧えいねいと申す」

「袁」と聞いて真っ先に思いつくのは、官僚のトップ〝三公さんこう〟を四代に渡り、輩出はいしゅつした四世三公しせいさんこうの名族・袁氏だ。人質となっていたということは、それだけ価値がある存在ということに他ならない。

「失礼ですが、後将軍こうしょうぐんのお身内の方でしょうか?」

「身内は身内なのだが、私はとうの昔に出奔しゅっぽんした身だ。公路こうろの世話になるつもりはない」

 公路というのは、袁術えんじゅつあざなである。袁術は漢朝から〝後将軍〟の官職を授けられていた。

「もし、君たちが公路のもとに向かうつもりなら、考え直した方がよい」

「いえ、私たちは江南に避難するつもりです」

「そうか。それが賢明だ」

 袁秘の態度は静平で落ち着いており、その声も穏やかで、清らかな感じがした。

 間違いなく悪い人物ではない。彼が何故なにゆえに泰山で人質となっていたのか、何から逃れようとしているのか。それを理解した孔明はそれ以上、何も尋ねなかった。

 船が対岸へと辿り着く。孔明は袁秘に一礼をし、船を下りて先に渡っていた叔父たちのもとへ向かった。それを見送った袁秘は船を下りると、じっと淮水の流れを振り返った。水の流れは気の流れを表わしている。視線を上流部へと向ける。

 そして、河岸にかがみ込んで、ふところから取り出した銅爵どうしゃくで淮水の水をすくった。

「徐州にいた時から何やら大きな霊気を感じておりました。それはきっと名のある霊宝れいほうでしょうか」

 袁秘のその様子を見ていた葛玄がつぶやくように言った。葛玄は孔明とは違い、袁秘の逃避行の真の理由を言い当てていた。はっとした袁秘が咄嗟とっさにそれを背後に隠すようにした。

「いや、ご心配なく。私は黄老こうろうの道を歩む者。世俗せぞくの欲事には興味がございません。ただ、我が師が仙術を心得ておりまして、私もいくらか霊気を感じることができるのです」

 葛玄が警戒感を示す袁秘にそう言ってみたものの、にわかには信じられず、袁秘は背後にそれを隠したまま、葛玄に対峙たいじした。

 烏有うゆうこと葛玄の師というのは、左慈さじあざな元放げんぽうという仙人であった。

 左慈は〝烏角うかく〟と号しており、葛玄は修行の末、左慈の下から独り立ちする際に一羽の烏を譲り受けたのだった。

「霊宝は良き事に用いれば世にさいわいをもたらし、しき事に用いればわざわいを招きまする。何とぞ、悪人の手には渡されませんよう」

 葛玄はそれだけを伝えると、孔明の後を追うようにゆっくりとを進めていった。

 袁秘はそれを見届けると、ようやく警戒心を解いて、両手に包んだ青龍爵せいりゅうしゃくを確認した。仙界で生まれた霊宝。四方の大地に安定をもたらすという四神器よんじんぎ一つ。

 その言い伝えから〝地宝ちほう〟ともいう。銅爵の縁にはうず巻き模様の雲雷紋うんらいもんと龍の紋様である龍文りゅうもんが散りばめられ、うつわめぐるように龍の彫刻が長い体を巻きつけていて、頭部は雲を求めて昇ろうとするかのように頭を天にもたげている。青龍の名の通り、そのうろこ一枚一枚が碧玉ジャスパーでできており、両眼には鮮やかに輝く青の宝石ラピスラズリがはめ込まれている。

 気のせいかもしれない。だが、袁秘には淮水の水を得た龍の瞳がほのかにきらめいているように思えた。


 下邳かひ国は徐州の要地である。しかし、陶謙の支配力がおとろえ、東には笮融さくゆう、西には袁術の勢力が伸長し、山賊による被害も増えて、特に淮水南岸地域は不穏この上なかった。淮水を越えた一行が長い道中、山賊や群盗の被害にさらされなかったのは、ひとえに太史慈の軍隊が一緒だったからだろう。しかし、下邳国の最南端である東城とうじょう県を目前にして、後方から襲撃を受けることになった。

 山賊ではない。笮融か袁術か、あるいは、反旗をひるがえした下邳の軍か。

 とにかく、どこぞの軍隊だ。大軍というわけではない。

「袁秘様は民とともに先をお急ぎください。我等われらが食い止めます。長緒ちょうしょ殿、民は任せた」

 劉備から袁秘護衛の任務も託されていた太史慈は民と袁秘を守るため軍を率いて反転し、迎撃に向かった。

「東城まであと少しだ。さぁ、急げ!」

 馬上の孫邵そんしょうが民を誘導するように手を振り、叫ぶ。

 孫邵はあざなを長緒という。青州北海国の人で、初め孔融こうゆうに仕え、宰相の器と認められた人物で、後に呉の初代丞相じょうしょうとなる。が、今の彼は同郷の劉繇の下へ向かうため、太史慈と行動を共にしている最中だった。孫邵の指示に避難民が先を争うようにして逃げる。

「我等も急ぐぞ」

 新たに御者ぎょしゃとなった諸葛玄がかちで続く甥たちに向かって告げ、他の同行者たちもその流れに従った。しかし、ただ単に急ぐこともできない。諸葛玄が兄嫁のために途中で調達した馬車は以前のものと比べると酷く粗悪で、それ以上少しでも速度を上げたなら、ばらばらに崩壊してしまいそうだった。孔明は駆け足で馬車を追いながら、後ろを振り返った。人の動きが豆粒くらいに映る距離。すでに後方では戦端が開かれていた。旗印はたじるしは〝袁〟。淮南に進出した袁術の兵だろう。

 だが、相手が誰であろうと関係ない。太史慈は軍を指揮する敵の大将らしき武将に狙いを定めると、猛然と騎馬を突入させて、あっと言う間にそれを突き殺した。

 大将が討たれれば、指揮系統が乱れ、兵にも動揺が走るものだ。これで敵兵は崩れて逃げ出すかと思いきや、そうはならなかった。

「私に続け!」

 一騎、無謀にも太史慈に向かってくる騎馬武者があった。

「そこをどけっ!」

 太史慈は向かってきたその敵の鋭鋒えいほうをかわして、槍を相手の胸目がけて突き出した。しかし、それは軽やかに馬上で身を翻した若武者にかわされた。

「なにっ?」

 次の瞬間には自分の首元を槍の穂先がかすめ、さらに、もう一撃が鎧の一部をぎ取り、痛みが走った。穂先が微かに肉をえぐったようだ。その痛みは太史慈から油断を消し去った。

めるなよ、この若造わかぞうめ!」

 不敵な笑みを浮かべて馬首を返したその若武者に今度は太史慈が仕掛けた。

 筋骨隆々りゅうりゅうとしたその体から発せられた力が槍へと伝わって、反撃を許さぬ豪槍ごうそうと化す。武芸にひいでた若武者は何度かそれを打ち払ってかわすことができたが、槍の方が耐えられなかった。何度目かの一撃に若武者の槍がへし折られ、穂先がくるくると回転しながら、地面に倒れた〝袁〟の旗の上に突き刺さった。無防備になった若武者に太史慈が渾身こんしんの一撃を見舞う。若武者は身をかがめてかわそうとしたが、間に合わず、かぶとを弾き飛ばされた。

「うぐ……!」

 激しい衝撃が頭部を揺らし、強烈な耳鳴りが襲って、凛々りりしくも精悍せいかんな素顔をあらわにした若武者がうめき声を上げて、思わず顔をしかめた。それでも、闘志はえることなく、すぐさま形相ぎょうそうを戻し、腰に帯びていた剣を抜いてまだ戦おうという覇気を示す。だが、周りを見れば、すでに勝敗は決していた。

 丹陽兵は勇猛なことで知られている。それが袁術軍をことごとく蹴散らしていて、軍は潰走かいそうを始めていた。

「ちっ、情けない奴らめ」

 若武者は自軍の弱兵ぶりをののしると、騎馬を返した。太史慈もそれを追わなかった。

「袁術の下にあんな者がいるのか……」

 ただ驚きとなって、そんな感想が口から漏れただけだった。


 後漢の郡国制度でいうならば、東城は下邳国の最南端である。そのすぐ南は揚州の管轄かんかつ区だ。しかし、天下が乱れて以来、この地は幾度いくどか黄巾賊や群盗らの襲撃にってきた。そして、今度は袁術の侵攻に晒され、徐州中心部から離れ過ぎているため、孤立無援の状態にある。ただそんな状況ではあっても、孔明らは無事に東城に逃げ込むことができて安堵あんどの溜め息をついた。

「天の兄上が我等にご加護を与えてくださっているのかもな」

 諸葛玄が胸の前で手を組んで、それに感謝するように言った。

 同行する袁秘が抱える霊宝・青龍爵がかつて甥を救い、徐州を危機から守り、今も何らかの加護を与えていることは諸葛玄は知らない。もちろん、孔明もだ。

「はい」

 孔明は叔父の言葉を信じて、うなづいた。

 そして、これも青龍爵の加護の一端なのか定かではないが、東城には疲れた避難民に援助の手を差し伸べる有徳の者があった。

「皆様方、ささやかではございますが、温かな食べ物を用意してございます。召し上がって、長旅の疲れをおいやしあれ」 

 楼閣ろうかくの上から集まった避難民にそう言ったのは、この東城の最有力豪族・魯家のあるじで、魯粛ろしゅくあざな子敬しけいという人物であった。

 魯粛は召使いたちに指示して、難民たちを自らの広大な屋敷内に招き入れ、倉を開いて食糧を配給した。

「若いのに立派な振る舞いだな」

 諸葛玄が頭上の魯粛を見て、率直にそれを褒めた。

 魯粛は諸葛瑾しょかつきんより二つ年上の二十三歳である。豊かな財力で貧民たちを救済して人望を集める一方で、多くの私兵を雇い、彼らを軍事調練して自家の防衛力とした。

 昔から魯家を知る人たちは家業をおざなりにして、軍事に明け暮れる魯粛を変人扱いしたものだったが、後に東城が群盗ぐんとうに襲われ、その先見の明に感服することになる。戦乱の混乱により、東城県長がいつまでっても赴任して来ない日が続いたある日、群盗が東城に押し寄せた。魯家の財産を狙ってのことであったが、彼はそれを見越していて、彼らを指揮して撃退に成功したのだ。以来、魯粛は東城における実質的リーダーであった。

 魯粛は太史慈ら兵たちにも酒宴を用意してやり、その労をねぎらった後で、孔明たちの方へと歩み寄ってきて聞いた。

「こちらに袁永寧様はいらっしゃいますか?」

 諸葛一家のすぐ脇に袁秘が座っていたが、警戒して返事をせずにいた。

 しかし、孔明がかすかに袁秘に視線をやったために、それは露見ろけんしてしまった。

「あなた様が袁永寧様でしょうか?」

「いかにも」

 袁秘が溜め息交じり、観念するように答えた。

「袁術様からあなた様を見つけ次第、ただちに報告するようおおせつかっております」

 魯粛はそう言って、うやうやしく拱手きょうしゅの礼を取った。

「では、その通りにするがよい」

 袁秘はあっさりとそれを承諾しょうだくした。自分が務めを果たせないだろうことを袁秘はどこか諦観ていかんしていた。袁術が淮南に盤拠ばんきょしたことでその念は益々強くなっていたし、覇権と霊宝を巡る一族の争いに辟易へきえきしてもいた。

 泰山から救出された後、唯一信頼できる一族の袁遺えんいが揚州刺史となったと聞いてそれを頼ろうと思い立った。が、間もなく袁術によってその座を追われ、死んだと聞く。それは袁秘を大いに失望させた。

 隠匿いんとく、逃避、流浪るろう……。背負い続けてきた重責に疲れていたというのもある。

「はい。誠に申し訳ございません」

 魯粛は頭を下げて、そうすることをびた。すでに東城には袁術の手が伸びていたのだ。理由は分からないものの、東城令の戚奇せききから袁秘の件を命じられたのはつい先日のことだ。どうやら戚奇はすでに袁術になびいているらしい。東城を守るために袁術に屈しなければならないことを魯粛は心苦しく思ったが、数多あまたの民衆を守るために見知らぬ一人を見逃すわけにはいかない。

「構わぬ。公路からおどされているのだろう。察しはつく。無関係の者をこれ以上、一族のごたごたに巻き込むわけにはいかない」

 魯粛の礼節と仁愛の心を察して、袁秘の口から恨みぶしが漏れることはなかった。

 それどころかわんに盛られたかゆを持ち上げて、

「流浪の身にこのもてなしは感じるものがあった。そなたの心の表れと思う。礼を言わせてもらう」

 袁秘はその温かさをてのひらに感じながら、礼を述べた。

「そう言って頂けると幸いでございます……」

 後ろめたさを押し殺すように再び一礼すると、魯粛はその場から静かに引き下がった。


 魯粛の報告があって、二千の袁術軍が来襲したのは二日後のことであった。

 揚州九江きゅうこう郡の郡治ぐんち陰陵いんりょうはすでに袁術の支配下にあり、東城からさほど離れているわけではない。軍を率いてきたのは先日一行を襲撃してきた若武者であった。

「我は後将軍麾下きか懐義校尉かいぎこうい孫伯符そんはくふである。袁秘殿の引き渡しを求める!」

「あの若造か!」

 魯粛と共に城閣上にあった太史慈は馬上の若武者を見て、わき腹の痛みを思い出したかのようにうなった。

「あの程度の軍勢、追い返して見せる!」

 太史慈は憤慨ふんがいして出撃しようと勇んだが、それを魯粛に制止された。

「お待ちあれ。仮にあの軍勢を退しりぞけたとしても、必ず袁術があれ以上の大軍を率いてやってきます。そうなっては、この東城は間違いなく潰滅、罪もない多くの民が犠牲になってしまいます」

「しかしだな……!」

 袁秘の護衛を任された身としては、黙って護衛対象を引き渡すなど容認できかねる。魯粛が昨夜の決定をもう一度繰り返してさとした。

「昨晩のことをお忘れですか。これは袁秘殿ご自身の判断でございます。我々が余計なことをしては、事態を悪くしてしまうだけですぞ」

「その通りだ、子義しぎ。袁氏の事情に無関係な我等がこれ以上首を突っ込むべきではない。民を守って、江南の劉君の下に辿り着くことが優先事項だ」

 孫邵にもそうたしなめられて、太史慈も振り上げたこぶしを下ろすしかなかった。孫邵の言うとおり、陶謙の書状を劉繇に届けなければならないという任務も負っている。

「心配は無用。あれでも、一応身内であるから、無碍むげな扱いはしまい。子義殿、これまでの護衛に感謝いたす」

 袁秘はそう言ってやることで、やるせなさに打ち震える太史慈をなだめた。

 そして、

「少年」

 袁秘は同じく申し訳なくこちらを見つめる孔明に声をかけた。孔明のもとに歩み寄ってかがむと、小声で大事を伝えた。

「泰山で会ったのも、今ここに共にいるのも何かの運命だ。我が頼みを聞いてもらいたい」

 孔明は袁秘の唐突とうとつな申し出に驚いたものの、すぐに思い直して聞いた。

 魯粛という人物に視線を読まれて、このような事態を招いてしまったのは自分のせいだと自覚していたからだ。

「いったい、何でしょうか?」

「これを廬江ろこう太守の陸君りくくんに届けてもらいたい」

 袁秘はずっと守り続けてきた霊宝を取り出して、おもむろに孔明のふところへと押し込んだ。霊宝の魔力に袁氏は狂い惑い、滅亡の道を進んでいるようである。これはもう滅びゆく袁氏の手から離した方がよい。

かしこまりました」

 国の命運を託すかのような重厚な眼差まなざしを受け、孔明は思わずそれを了承していた。それが何かは分からない。ただ、袁秘がこれを袁術の手に渡したくないのだということはすぐに察することができた。

「重いが、頼むぞ」

 孔明は差し出された霊宝を丁寧に受け取った。両手に感じた重量感は大したものではない。しかし、それに込められた意味を感じた時、それはにわかに重くなる。

「必ずお届け致します」

 孔明の実直で決意に満ちた返答を聞いた袁秘は穏やかな笑みを浮かべ、頷いた。

 長年の重責から解放された実に晴れやかな笑顔だった。肩の軽くなった袁秘は、

「では、公路の世話になるとするか。どうもてなしてくれるかな?」

 どこか吹っ切れたような言葉を残すと一人、奸雄かんゆうのもとへ旅立って行った。


 袁術の軍勢が引き揚げ、東城の民衆の心に落ち着きと平穏が戻った。

 唯一ざわつく心を抱えているのは、突如大事を託された孔明少年である。

「先程は何を話していたのだ?」

 二人の様子を近くで見ていた諸葛玄が懐に目を落としている孔明に聞いた。

「はい。これを廬江の太守様に渡すように頼まれました」

 孔明は袁秘に託されたものを懐から出して見せた。霊宝・青龍爵。

 その真の価値を知らない諸葛玄ではあったが、細緻さいちな彫刻と優雅な装飾を見れば、それが相当な金銭価値を有すであろう芸術品であることは一目瞭然いちもくりょうぜんだった。

「なぜ、お前にこのようなものを?」

 諸葛玄が疑念を持つのも当然だった。諸葛玄は甥と袁秘は同じ避難民の境遇とはいえ、淮水を渡る際に同船しただけの関係であるとしか思っていない。

「実は以前、泰山でお会いしたことがあります。共に命長らえ、またこのように出会った命運を重んじられたようでございます」

「命運? ただの偶然でないということか?」

「本当にこれを命運というのか、それは分かりません。ですが、私はあの方の頼みを聞き届けたいと思います」

「……」

 諸葛玄はすぐには返答できず、視線を兄嫁らの馬車に向けた。

 太史慈の軍が明日にも東城を出て、南下を開始する。魯粛から食糧のほどこしを受け、避難民の大半は太史慈軍と行動を共にする。諸葛家も無論、それに従って出発するつもりであった。一家の安全のためには、一日でも早く江東へ難を避けた方がよい。廬江へ向かうということは太史慈の軍隊と行動を共にしないことを意味する。

 軍の護衛がなくなるのだから、群盗に遭遇そうぐうすれば、今度こそ一巻いっかんの終わりだろう。

「あれは天下の情勢を左右する霊宝。盧江に届けた方がよいと思います」

 諸葛玄の心が迷っているところに、烏有こと葛玄がふらりとやってきて、なかば身を置く仙境から一言、そうアドバイスした。

「霊宝……」

 その言葉の重みがいまいちピンと来なかった諸葛玄は、再び孔明に視線を向けた。

 賢明実直な甥はその重責をしっかりと理解している風である。自らに大任を課し、その霊宝を大事そうに抱えてこちらを見据みすえ、自分の決断を待っている。

 一家の長である諸葛玄がそんなものは放っておけと孔明に命じることは簡単だった。しかし、孔明の眼差まなざしはそれを許さないほどぐである。

 まだ子供ながらに信義を貫こうとするこの甥の心を、正しさを教えるべき大人の自分がじ曲げてよいわけがない。

子瑜しゆ

 心を決めた諸葛玄が諸葛瑾を呼んだ。

「何でしょう、叔父上」

「急用ができて廬江へ下らねばならなくなった。私は亮たちを連れて廬江へ行く。お前は母を連れて先に江東へ渡れ」

「えっ?」

「心配するな。用を済ませたら、我等もすぐに江東へ向かう」

「……わかりました」

 諸葛瑾は叔父の決定に異論を挟まなかった。母親の安全を第一に考える孝行者としては、共に盧江行きを勧めない叔父の考えがすぐに理解できたのだ。


 またしても加護があったと言えなくもない。それも目に見える形での加護である。

 諸葛瑾が魯粛に相談して、魯粛が孔明らに百名の私兵をつけてくれるというのだ。

 太史慈軍と比べれば心もとないが、それでも、護衛があるとないとでは大違いである。

がたい。叔父と弟に代わって礼を言います」

「いや、理由はどうあれ、賢人の行く手をはばみ、礼節を欠くような行為をしてしまったのは他ならぬ私ですから、せめて、の方の思いだけでもんで差し上げたい。これは私のせめてものつぐないでございます」

 魯粛は大局を見通すを持つだけでなく、節義をわきまえた人物でもあった。

 諸葛瑾が魯粛と一夜のうちに打ち解けたのは、ひとえに魯粛のそんな性格による。

 魯粛の私兵が得られたことで、諸葛玄は孔明の姉弟を預かることにした。

 乱世の避難行である。どちらも無事が保障されるわけではないし、目的地に辿り着いた後のことや、予定が狂った場合のことも算段しておかなければならない。

 諸葛瑾は学問をおさめたとはいえ、まだ若く、どこかに出仕したとしても、いきなり一家全員をやしなうのは難しい。一方、諸葛玄はその気になれば、袁術に仕官する道がある。かつての交際がそれなりの地位に就くことをやすくするだろう。四人の子供たちを養うにしても、事足りるはずだ。もちろん、これらが杞憂きゆうに終わり、江東で一家再会できれば、それに越したことはない。

 太史慈の軍が出立するのに合わせ、諸葛瑾が継母ままははを乗せた馬車の手綱たづなを取った。

 諸葛玄と孔明もそれと同時に出発した。兄と弟、叔父と甥はしばらく共に同じ道を進み、一番下の弟のきんは継母の馬車に同乗して、母と子の時間を過ごした。

 そして、別れの時が来る。街道の分岐点は一家が別々の道を歩む運命の分岐点となった。

阿参あさんがこんなにぐずるとは珍しいな」

 諸葛玄はいつもはおとなしい均が母にしがみ付いて泣きじゃくるのを単に寂しいからだと決めつけた。〝阿参〟は三男の諸葛均の幼名だ。それは長兄の諸葛瑾も同じで、

「大丈夫だよ、阿参。またすぐに会えるから」

 そう声をかけて末弟まっていなぐさめ、母も同じ台詞せりふ幼子おさなごを安心させた。

「では、叔父上。先に行って待っております」

「うむ。こちらのことは心配するな」

 諸葛玄は阿参を引き取りながら、諸葛瑾に言った。

「亮、しばらく妹と弟のことを頼むぞ」

 諸葛瑾は孔明に向かって言い、

「はい、兄上。母上をよろしくお願いします」

 孔明は毅然きぜんとして兄に言った。今、孔明の中を孝行心以上に満たしているのは、自らに課せた使命感である。もちろん、これが母との永遠の別れになろうとは考えてもいない。同様に諸葛瑾もまた、これが叔父との最期になるとは思ってもいなかった。

 孔明の姉のれいも長兄と継母に別れのあいさつをしたものの、涙はなく、この時は諸葛家の誰もがまた再会できると信じていた。

 ただ、そうではないことを、一番の幼子である阿参の直感が一番正しかったのだということを悟るのは、さらに後年になってからである。


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