04-3.1990年代のこと(中学卒業まで)

1993年9月上旬。私が中学生になり、二学期に入った頃。祖母が風呂場で喀血。一度や二度ではない。全てを見た訳ではないが、おそらく連日だったのだろう。だが、とにかく病院嫌いだった祖母は、頑として病院にかかろうとはしなかった。

だが、日に日に続く喀血と目眩、ふらつき、倦怠感、内臓の痛み。全てに耐えられなくなった祖母はあれだけ嫌っていた実母に自分から連絡し、当時最も大きい市立病院へと足を運んだ。

余程の苦痛だったのだろうか。

あれほど悪口を吐いていた人間に最後は縋る。その愚かさを、私は冷たい目で傍観していた。


診断結果は膀胱ガン。末期どころではない、あと三ヶ月、生きていられれば奇跡、という程だった。


僅かな望みを賭け、開腹手術。だが、手術できるような状態ではなかったようだ。

ガンは膀胱どころか全身に転移し、内臓の半分以上が腫瘍で埋まっていたらしい。

本人には膀胱を切除し、ガンを取り除いたと説明したようだが、実際は開腹して、また縫っただけ。そして、医療の限界を、本人以外の大人達に説明しただけ。

当時はまだガンの告知やQOLが確立されているわけではない。


最期に、延命のためだけの、抗ガン剤治療が始まった。


髪はみるみる抜け、体重は20kg近く落ちていった。絶え間ない吐き気に食事は取れず、栄養剤を点滴する。身体はむくみ、黄ばみ、みるみる面影が痩せ細り、1ヶ月半程度で骨と皮だけのような姿になっていた。排泄はできず、全身がチューブで繋がれるまで、そう時間はかからなかった。


そんな祖母の姿を見て、当時の私は・・・何も思わなかった。

むしろ、あえて誤解を招くような書き方をするならば、ただ、この2文字だけが、頭の中に巡り、穏やかですらいた。


解放。


そう、私は解放されたのだ。

祖母の執着と呪いから。怨嗟と狂気から。監禁と理不尽から。

そして、心の奥底に、本当の奥底に、人として最低の感情が渦巻き、それを切実に願っていた。


このまま、死んでくれ。


幼稚園の頃、理解できない怒りををぶつけられ、家から裸足のまま放り出された。

「私はばっちゃの子だ」と言わなければ、ドアを大きな音を立てて閉められ、無視され、叫ばれ、蹴り上げられ、読んでいた本を破かれた。

スカートを履くことは許されず、髪はおかっぱでなければ許されず、髪型でいじめに合っても取り合ってもらえず、学校に行くのが苦痛で何度も何度も吐き気と便秘に悩まされた。

中学に入って制服が支給されてプリーツスカートを履かなければならない時は、苦々しく、悔しく、歪んだ表情で私を睨みつけていた。

「虐待の根源」が死に近づいたところで、何の感情もわかない。それほどまでに、私の心は祖母に対する憎しみと、怒りと、怨嗟であふれかえっていたのだ。


臨終前。

親族全員が呼ばれた。血圧が下がり、いよいよもう今夜は越えられないという医師の判断で、両親、祖父、妹、叔母、従兄弟、祖母の妹(大叔母)が集まっている。

私は臨終直前に呼ばれた。

「手を握ってあげて」

大叔母の言葉に、私は無表情のまま、手を握った。目の前には大叔母と看護師だけ。

こちらを見て、手を握る祖母に、私は無表情な顔を向け、口だけでニッと笑う。

念を込めた。


「これで終わってね」


祖母の上下する黒目。私はその目を見据えて、軽く握り、もう一度、念を込めた。


「これで死んでね」


祖母が目を背けたタイミングで、私は手を離し、病室を出た。

ここからは、血圧が下がり、命を失うだけだ。

集中治療室の廊下で、私は時計を見た。


23時35分。眠かった。


およそ1時間後。死亡が伝えられた。


終わった。

終わった!

終わった!!

長い虐待が、13年で、終わったんだ・・・!


あふれる解放感と共に、叔母と従兄弟と、自宅に戻り眠った。


あんなに安堵して眠れたのは、13年間で、生まれて初めてだった。

11月14日は祖母の永眠。そして、私がやっと、人として生まれた日。

虐待の人形から、人間へと、生まれ変われた日。

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