3 留年生九十九永介

 溝口の案内で訪れた喫茶店の入り口で、明智は店奥のボックス席で悠然とたばこをふかしている男の姿を認めた瞬間、息を呑み、立ち尽くした。

 後ろを歩いていた松田が背中に衝突し、危ないと文句を言ってきたが、その声もまるで鼓膜に薄皮が貼られてしまったかのように遠くに聞こえた。


 溝口がどもりながらやたらと貫禄のあるその男を紹介する。



「つ、つ九十九永介つくもえいすけさんです。帝大文学部の主みたいな人です」



 紹介されるまでもなく、知っている。

 九十九永介は、本来は明智より2学年か3学年上の先輩なのだが、学内をうろうろしているくせに、講義に出席したり、レポートを提出する等の学生の本分は果たさず、毎年大学に学費という名目の寄付金を払い、学籍を置き続ける留年生なのだ。

 彼は頭が悪くて授業についていけないとか、勉強が嫌いな訳ではない。

 むしろ、天才、秀才ぞろいの帝大生の中でも、彼ほど博覧強記という熟語がしっくり当てはまる者はそうそういない。

 彼が大学に居座り続けている理由は、本人以外誰も知らない。

 ミステリアスな長老として、現役学生たちから敬われている自由人、それが九十九永介であり、そして明智が大学1年の頃に書き殴った、『吸血鬼探偵の事件簿』の元原稿を盗み見し、猛烈に気に入り、『本郷青年探偵団』の同人誌に掲載させるよう勧めたのも、他ではない、彼なのだ。



「待ってたぜ。あんたらかい? 綾小路冬彦について知りたいってのは。一介の同人作家探すなんて、酔狂な奴もいたもんだね」



 九十九は、革張りのソファに体を深く沈めたまま、懐かしいぞんざいな口調で言った。明智の姿も目に入っているはずだが、知らんふりをしていた。

 佐々木だ。

 佐々木が先回りし、九十九さんをこちらに引き込んでくれたのだ。

 長年大学に在学している有名人に聴取相手として白羽の矢が当たることを見越し、また『吸血鬼探偵の事件簿』が同人誌に投稿された経緯を覚えていた親友は、きっといの一番に九十九の口止めを行なったのだろう。


 ありがとう、佐々木。


 九十九さんもご協力ありがとうございます。



 心の中で手を合わせながら、明智は無精髭を生やし、似合わない学生服をだらしなく着崩した元先輩の前に腰掛けた。



「溝口久しぶり。ちゃんと学校通ってる?」



「は、はいっ! 無遅刻無欠席です!」



「立派、立派。まあ、その調子で巻き返さないと、俺みたいな長老になっちまうから頑張れや」



 後輩の兵隊のような受け答えに苦笑し、九十九は、ゆったりとたばこの煙で輪っかを作り、吐き出した。

 明智と松田を前にしても、自分のペースを崩すつもりはないらしい。



「えっと、初めまして、帝大文学部6年? 7年?の九十九です。お兄さん方は?」



 テーブルに肘をついたままの姿勢で留年生は自己紹介した。

 作り笑顔の松田が慇懃無礼な態度で応じる。



「僕は慶應義塾大学法学部卒のお金持ちで育ちの良い松田です。で、こちらの眼鏡が帝大法学部卒の明智です。九十九さんは頭が悪いから卒業できないのですか? それとも、年下の学生相手に酸いも甘いも嗅ぎ分けた人生経験豊かな先輩を気取りたいから、敢えて大学に居座っているのでしょうか? 所詮学生がちゃんちゃらおかしいと思いますがね」



 のっけからの暴言連発に溝口も明智も青ざめたが、言われた本人はあっけらかんと笑って答えた。



「どっちでもない。単に俺が極度の怠け者ってだけだ。授業に出るのも、試験を受けるのも、論文を書くのも億劫でな。気づけば同期はみんな卒業したし、後輩にも追い抜かれていた。けど、こうして新しい後輩ができるから、寂しくはないぞ」



 隣に座る溝口の肩に腕を回し、ぐいっと引いたので、首が絞まったひ弱な後輩はグエッと潰れたカエルのような声を上げた。



「ふーん」



 一段上手の相手に、松田は口を尖らせた。

 挑発に乗って貰えず、面白くないのだろう。



「ところで、あんたら本郷青年探偵団の綾小路冬彦を探しているそうだな」



 無駄話は早急に切り上げ、九十九は本題に入った。

 明智は緊張で背筋に嫌な汗が流れる感触がし、不快だった。



「はい。『吸血鬼探偵の事件簿』という世にもおぞましい駄作を書いた同人作家です。九十九さんは何かご存知なのですよね?」



 松田の問いには答えず、留年生は右手に持ったたばこを大きく吸い込み、天井に向かって煙突のように煙を吐き出してから、前傾気味に座り直してから口を開いた。



「知ってるっちゃあ、知ってるが、あんたに教えなきゃいけないいわれはない。俺は、これでも綾小路先生の作品のファンなんでね。先生の小説を駄作だなんて言う奴に、先生の正体を教えたくはない。まずはあんたから、綾小路先生を探している理由と、先生の小説を何故駄作だと思うのか。あんたの思う面白い小説とは何かを教えてくれるのが筋なんじゃないか? 松田さんよ」



 悪戯好きの子犬を彷彿させる双眼が、上目遣いで松田を見上げた。

 口元が意地の悪い含み笑いをしている。

 見慣れた表情だった。

 九十九先輩は、よくこんな顔で後輩たちに議論を挑み、誘いに乗ってしまった哀れな獲物を持ち前の知識と弁説で散々翻弄し、こてんぱんにして、飄々とたばこを吹かすのが趣味だった。


 彼に討論で勝てた者を明智は見たことがなかった。



「綾小路先生のサインを貰いたいからです。先生の作品や文学論については、言わなきゃいけない理由がないので言いません」



 訓練生一の暴君は満面の笑顔で応酬した。ややこしい論争になりそうな話題は意図的に避けたのだろう。

 さすがに、普段おちょくっている後輩たちとは格が違うと感じたのか、帝大の長老はにやりと無精髭に囲まれた口の端を歪めた。



「そうかい。有名人でもない下手くそな同人作家のサインが欲しいなんて、おかしな話だ。けど、訳のわからないお坊ちゃんの道楽に付き合っているほど、綾小路先生は暇ではない。君があくまでそういう姿勢を貫くなら、先生の居場所は教えられないよ」



「僕は綾小路先生の作品は使い古しのちり紙以下だと思っていますが、実は編集者の友人がああいう安易な欲望丸出しの話がこれから流行ると力説するのです。だから、有名になる前にサインを貰いたいです。綾小路先生が流行作家になったら、無名時代から目をつけていたと言いふらして自慢したい」



 人は吐く嘘にも腐った性根が滲み出るのであろうかと思わざるを得ない最低な言い分に、明智は開いた口が塞がらなかった。



 九十九もほとほと呆れかえっているようだった。



「君、最低だね」



「そうでしょうか?」



「ああ、清々しいまでにクズだ」



「いい年こいて心身の不調がある訳でもないのに、兵隊としてお国の役に立つどころか、何の生産活動もせず、消費するだけの怠惰な生活を続けるあなたよりはマシです」



 言うねえ、と笑い、留年生九十九永介はコーヒーを啜った。


 そして、固唾を飲んで見守る明智にちらりと視線を寄越した。

 今日、初めて目が合ったが、九十九の瞳は「任せろ」と力強く語っていた。



「しゃあない、教えてやるよ。綾小路先生の居場所」



 指に産毛が茂った手が、テーブルの端に置いてある紙ナプキンを一枚つまみ出し、白紙に万年筆を走らせる。


 手元を覗き込むと、どこかの住所のようだった。明智には覚えのない地名に番地だ。



「ほい、ここに行けば綾小路先生に会えるよ。気が済んだら帰れ、クズ」



「最初から素直に教えてくれれば良いのですよ、社会のゴミ」




 メモを受け取った松田の悪態を受け流し、長く生きているだけあって、抜群に頼れる先輩が、こっそりこちらを見て、ほくそ笑んだのを明智は見逃さなかった。



先輩、今度何か奢ります。



そう心中で呟いた。

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