諜報員(見習い)明智湖太郎の窮地

十五 静香

序章 昭和16年初春

薫香の記憶

「梅か……」



 鼻腔をくすぐった仄かな芳香に、諜報員明智湖太郎は呟いた。

 御用先からの帰り道、気まぐれに入った路地での出来事だった。

 道なりに建つ民家の生垣から、薄紅色の可憐な小花を携えた枝が、伸び上がるように往来にはみ出ていた。


 2月末、体感では未だ帝都は冬の盛りであったが、春はひそやかに、しかし確実に訪れつつあるようだ。

 立ち止まり、すんすんと鼻を鳴らして、瑞々しく典雅な香りを堪能していると、不意に一人の男の顔が脳裏に浮かんだ。

 同時に、苦々しい気分になる。

 折角、美しく香り高い春の花に導かれるままに、殺伐とした日常から暫しの逃避をしていたのに、どうして奴を思い出す。


 台無しではないか。


 勝手に思い出しておいて、理不尽なのは百も承知だが、それでも不快とまでは言えないが、魚の骨が喉に刺さってしまい取れない時のような心地になってしまう。


 要は、自分はあの男が苦手なのだ。


 女に対する苦手意識とは違い、明確な言葉で表現するのは難しかったが、何となく好かない。

 不意に彼から気まぐれに話しかけられた時は、ぎこちない反応をしそうになり、必死に動じてない風を装っていた。

 そんな自分を、切れ長の涼しげな一重まぶたが見下していると感じていたのは、些か被害妄想に過ぎるだろうか。


 しかし、何故今更、もう2年も顔を合わせていない、いけ好かない男のことを思い出すのか。

 切っ掛けは皮肉にも、春の訪れを告げてくれたたおやかな香りにあった。

 もう一度、梅の香りをたっぷりと吸い込む。



「似ているけど、違うな」



 あの男、無番地一期生の同期、櫻井貴仁さくらいたかひとが愛用していた香水は、もっと熟れた果実の如き甘さと初夏のそよ風を彷彿させる清涼さを含んでいた。


 結局、出会いから別れまで、あの香りが何をモチーフにしているのか、知らずじまいだった。

 苦手な同期の使っている香水なんてどうでもいいと思っているのに、櫻井とすれ違った瞬間、特徴的な香りに嗅覚を刺激される度、何の匂いだろうと不思議と気になってしまっていたのだ。



 厭だと感じているくせに、明智の脳髄は、映写機のように、櫻井との記憶を再生し始めた。

 昭和13年の春、大日本帝国陸軍傘下の諜報機関、無番地の訓練生になったばかりの頃の想い出だ。

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