第9話 眠れない小猿

 翔の件もようやくカタがついた5月最初の週末。

 ついに『龍起杯』予選が始まる。

 一発勝負のトーナメントは負けた時点で全ておしまい、貴文のボーナスは天に還る。それを知らない部員達も、今年1年を無意味なものにしないよう、リーグ戦の時よりはるかに緊張していた。

 それがいい方に向けばいい。

 だが、中にはそれが悪い方にしか向かない人間もいて……。


「・・・・・・」

 トーナメント初戦、貴文はベンチで難しい顔をしていた。

 相手チームはリーグ戦初戦で負けたあの大学である。

 レギュラーが本来の力を発揮すれば、決して負けない相手だ。

 そう、本来の力が発揮できれば……。

「しかしまさか土壇場で風邪とは……」

 貴文はこの日何度目かのため息を吐く。

 隣に座っている広子は、曖昧な笑顔で返事をすることしかできなかった。

「これが三上ならまあ分かる」

「ははは……」

 そう言われた隆は、特に体調を崩した様子も無くベンチに座っている。今まで病気も怪我も全くしておらず、身体的には健康そのものだ。

「小野ダウンは予想外過ぎるだろ……」


 そう、風邪を引いたのは春樹だった。


 いつも何かと勝負をふっかけ、部員の中で最も頭を使ってなさそうな春樹が試合に出られなかったのである。秋雄に話を聞いたところ「よく遠足前とかも風邪引いてました。プレッシャーではないと思うんですけど」という答えが返ってきた。

 その秋雄は現在全く問題なくプレーしている。

 また春樹が出られない変わりに、今日は秋雄が普段とは違うポジションをこなし、全体のフォーメーションも変えていた。兄弟左右でセットと捉えられがちだが、秋雄の方は器用で、他のポジションもそつなくこなすことが出来た。インターハイでレギュラーだったのも、「空いたポジションに滑り込むことが出来たから」という理由だったらしい。グリーンと並んで貴重なユーティリティープレーヤーだ。

 試合は以前とは全く違い、地力の差がそのまま点差に結びつく内容だった。相手監督も「まさか1ヶ月もしないのにここまで変わるとは……」と脱帽した。

 ただ、トーナメント戦のため相手がギブアップすることもなく、聡美の出番も、ついでに他のポジションで試した隆の出番もあり、春樹の欠場以外は概ね予定通りに進んだ。

 そして試合は大差で振興大学が勝利し、部員達もベンチに戻ってくる。

「今日はいつもと違う布陣でよく頑張った……と言いたいところだが、お前らのプレーの節々に調子に乗っているのが見て取れた。後で部室に集合な」

『・・・・・・』

 部員ほほぼ全員が思いきり嫌そうな顔をする。

 これも指導者の特権だ。

 貴文は内心そう思った。

 

 そして時間は跳びザバル部部室――。

 計11人しかいない部活だが、学長の肝いりで創設された部のため、他の部と比べてかなり優遇され、部室も広かった。中には一部屋に仕切りを作って、2つの部が押し込められる場合もある。

 ただ、まだ11人しかいないザバル部には少し広すぎる部室でもあった。特に春樹のような騒がしい人間がいないと、余計広く感じられた。

「……というわけだ」

 試合は昼過ぎにあったので、全員分の説教が終わった頃にはもう陽はとっぷり暮れていた。

 聞かされた部員達は、松之助を除いてぐったりしている。松之助にとっては説教も指導も講演会もあまり変わらないらしい。

「それじゃあ今日はこれで解散――」

「おはようっす!」

 ――しようとした矢先に、場違いな挨拶が部室に響く。

 全員がそちらを向くと、そこにはどてら姿の春樹が。

 うん十年前からの温暖化で、5月は半袖が基本だ。長袖を着ているだけでも珍しがられるのに、その上どてらではファッションの範疇を超えていた。

「……何しに来た」

「っごほ! っごほ! 試合が、っごほ! どうなったか気になって」

「お前は風邪を治すことだけ考えろ。他の奴に感染ったらそれだけでうちの部は終わりなんだぞ!」

 入ってそうそう春樹を回れ右させ、貴文は強制的に退場させた。

「あ……」

 だがなけなしの体力出来たのか、春樹はその場で卒倒する。

「……予想以上だな」

「どうしますこれ?」

 秋雄が兄弟を物扱いしながら聞いた。

「隔離するしかないだろ。ていうか今朝の段階でそうすべきだったんだが」

 スポーツ特待生は競技を問わず、全員ビルの寮で生活している。歩いて数分の場所に住んでいる隆も、元体操部の聡美も例外ではない。寮でないのは陽介とグリーンと広子だけだ。狼々軒はなくなったが2階の実家は残っており、小森母子は今までのようにそこで生活していた。グリーンはアパートに一人暮らし、広子は実家で生活していた。

 そして、全員が男女別れているとはいえ、同じ場所に寝泊まりしているため、風邪は一気に蔓延する。そのため風邪を引いた人間を隔離するのは、あらゆるスポーツで当然の行為だった。

 しかし。

「ところでこの大学隔離部屋ってありましたっけ?」

「あー、どうだっけか……」

 貴文も今は大学が用意したビルの一室で生活しているが、このビルについて何でも知っているわけではない。

 電話ですぐに確認を取ってみると、事務員からの答えは、


「そんなものない」


 だった。

「どうやらこの大学は自腹で部屋を借りて、そこで寝てろっていうスタンスらしいな」

「厳しいですね」

「まあ俺もプロのとき、そういうスタンスのチームにいたことがあったけどな。それぐらいのがないと、風邪を引くことの重大さが分からないって意味もあるし」

「まあ自己責任の面もありますから。特にハルの場合は」

「……つまり風邪を引いたのには理由があるってことか」

「はい」

 秋雄はため息混じりに頷く。

「言うまでもありませんが、ハルは子供です。身体だけの子供です。どうしようもないほどの子供です。昨晩も『龍起杯』の初戦が楽しみで全然眠れませんでした。そこでハルは無茶な運動をし、さらに眠くなるからと風呂まで入り、そのまま本当に寝てしまいました」

「……大学生のすることじゃないな」

「身内として言い訳はできません。実はインターハイでレギュラーになれなかったのも、この風邪が原因なんです。プレッシャーを一切感じない分、興奮しすぎて……。リーグ開幕戦は色々ごたごたがあってそこまで楽しみでもなかったようですが、今回は……」

「馬鹿だな」

 貴文は断定する。

 しかし、倒れている本人も含め、それを否定できる部員は誰もいなかった。

「まあこいつの馬鹿は良いとして、部屋をどうするか。隔離部屋がないと分かってたらもっと前に準備ぐらいはしてたんだが……」

「だったら拙者の部屋を使うといいでござるよ!」

 唐突にグリーンが提案する。

「拙者一人暮らし故、部屋を使われても問題無いでござる。これならお金もかからないでござる」

「まあ隔離部屋について言わなかった手前、お前らにいきなり金出せというのも気が引けるか……。わかった、ここは小見川の提案を受け入れて、小見川に変わりに寮に入って貰うか。男同士なら枕が変わろうがどうでもいいだろ」

「そうしていただけると身内としても助かります」

 秋雄もグリーンの提案を素直に受け入れる。

 こうして春樹の風邪が治るまで、グリーンの居候生活は始まった。


 翌日の早朝練習――。

 まだ春樹は風邪が治っていないので参加していない。

 ただ、参加している兄弟の方もあまり体調が良さそうには見えなかった。

「どうした本宮? 小見川のいびきがうるさかったか?」

「いえ、いびきはむしろハルの方がひどいんですが……」

 秋雄はなんともしゃべりづらそうだった。

 一方のグリーンはいつも通り笑顔で、体調の悪さは全く見られない。

 貴文は不思議に思いながら、その場では何も言わず練習を始める。

 普段は可も無く不可も無く無難に練習をこなす秋雄が、この日ばかりはどうも動きが重かった。

 練習後、貴文は秋雄を呼ぶ。

「とりあえず理由を教えてくれ」

「……はい」


 それから昨日何があったのか、秋雄は話し始めた。

 スポーツ特待生用の寮は男女両方あるが、男女で階が違う。そして基本的に異性を部屋に連れ込むのは御法度だった。

 ここでまず躓いた。

 グリーンに慣れてきた部員達はすっかり忘れていたが、グリーンは芸能人として充分通用するほどの金髪白人美少年で、しかも女顔だ。

 受付にいる寮の管理人に、秋雄は女の子を連れ込んだと誤解された。

 口開けばひどいしゃがれ声なので、二人とも話せばすぐに誤解は解けるものと思っていたが、何故か管理人は喉を酒焼けた女子大生と決めつけた。その騒ぎを聞きつけ、他の寮生達も集まり、事態はより混乱。結局誤解を解くまで1時間はその場にいる羽目になった。これが

 他、風呂での話や食事中の話やホモ疑惑など。柳のように生きてきた秋雄は、この日一生分の厄介ごとを背負わされた気がした。


「知ってますか監督、悪魔って元は天使なんですよ」

「いやそんなこと言われても……。あまり辛いなら変えるが」

「うーん……、まあハルもあの状態ですから、しばらく俺が辛抱します」

「お前がそう言うなら……」

 結局現状維持で落ち着いた。

 ただ、その日の秋雄の動きは過去最悪に重かった……。


 空けて翌日の朝練――。

「おはようございます!」

 春樹が元気な顔で『ワールド』に現れる。

 風邪はすぐに治ったらしい。秋雄の話では一昨日の時点で39度以上あったと聞いたが、随分早く回復したようだ。頭の中身同様身体も単純な作りらしい。

 ただ……。

「変わりに本宮が風邪でダウンか……」

「珍しいこともあるっすねー」

 入れ替わるように、秋雄は今グリーンの家で寝込んでいた。

「うちの両親が離婚したときも、苗字が変わったときも、偶然同じ高校になったときも平然としてたんすけど、昨日はマジできつそうでした」

「さらっと複雑な家庭関係について説明されると反応に困るが、とにかく俺が想像していた以上にストレスが溜まったらしい」

「うーん、不思議でござるなあ。一緒にいてそんなもの全くなかった気がするでござるが」

 その元凶が、悪意を全く感じさせない天使の笑顔で言った。

「あ、そういえばグリーン、お前に言いたいことがあった!」

「なんでござるか?」

「おまえんちなんか寝返り打つと超痛かったんだけど! 何アレ!?」

「ああ、おそらくまきびしをしまい忘れていたのでござろう。申し訳ないでござる」

「そんなものまで持ってたのか……」

 貴文は呆れた。

「そういやこいつんち、他にも掛け軸とか刀とか忍者の服とかあったな。初めて入ったとき忍者屋敷かと思ったぜ」

「できれば回転扉とかもつけたかったでござるが、賃貸では無理でござった」

「大屋も大変だな」

 貴文は心底同情した。

「あ、あとエロ本の趣味あんま良くなかったぞ。正直使えなかった」

「それはしたり。わざわざ拙者のオススメを、分かりやすいところに置いておいたでござるが……」

「わりぃ。俺巨乳派なんだわ」

「それならば致し方ないでござるな」

「・・・・・・」

 この顔で他の男子同様エロ本を読むのかと貴文は少し驚いた。たとえ外人だろうが忍者かぶれだろうが、中身は同じ男子大学生らしい。

「それにしても……」

 今回の風邪騒動は理由だけ見れば馬鹿馬鹿しい話だが、現状笑えない問題でもあった。春樹はプレッシャーはないが、興奮しすぎて大事な試合の前に風邪を引く。そして秋雄はそのあおりを受けて体調を崩す。グリーンはいつでも元気だ。

 やはり誰かが風邪を引いたときは、グリーンの部屋を使うのでなく隔離部屋に泊まらせるべきだった。特例的にグリーンが寮に泊まっているが、本来女性以外にも部外者は禁止されているし、寮の風紀も乱れそうな気がする。

(風紀というか寮生の性的嗜好?)

 自分で考え、思わず身震いした。

 とにかく当面は春樹だ。春樹が原因でドミノ式に問題が起こってしまう。

 そして現状、秋雄は次の試合に使えそうにない。

 これでもし春樹までまた倒られては絶望的だ。

 練習終了後、貴文は春樹だけを呼んだ。最近問題ある選手が練習後残されるパターンが定着しつつある。そのため、呼ばれた春樹を他の部員達は気の毒そうな目で見ていた。

「さて小野、俺が言いたいことは分かるか?」

「わかりません!」

「だろうな、そういう顔してるし。俺が言いたいのはお前の体質についてだ。その、大事な試合の前に風をひく癖どうにかならんか? やる気があるのはいいが、ありすぎてチームに迷惑をかけるのは論外だぞ」

「う……。自分でもどうにかしたいと思ってるんすけど……」

 春樹にしては珍しく、ガックリ肩を落としてうなだれる。

「ある程度本宮から聞いてるが、具体的に何をして風邪を引いたんだ?」

「えっと……」春樹は腕を組んでその時の状況を思い出す。

「確か外でランニングしたっす、夜の南千住を10キロほど。で、汗かいたから風呂入って、でも眠くないんで、そのあと腹筋、腕立て、スクワットを20回×10セットして、そしたら眠くなったんすけど、暑いんで裸で寝てたっす!」

「うん、前々から分かってたけどお前掛け値なしの馬鹿だわ」

「アキにも良く言われるっス!」

 今一人部屋で寝込んでいる秋雄の苦労が忍ばれた。

 だが、呆れている場合でも笑っている場合でもない。生まれ持っての性質という点で、翔の時よりも深刻だ。貴文もこんな理由でボーナスを失うのは、どうしても納得出来なかった。

「とにかくこれからお前は、前日に興奮しない身体になる必要がある」

「俺も前からそう思ってたっす。インターハイのときも完全に身体が戻ったときは学校が敗退してたんで」

「・・・・・・」

 貴文の予想以上に致命的な欠点だった。


 それから春樹を帰したあと、貴文は書店やかつて世話になったメンタルトレーナーに相談し、解決策を探るのだった。


 そして数日後の、関東リーグ戦。

 『龍起杯』の予選はリーグ戦の合間にあり、ずっと予選を戦っているわけでもリーグ戦を戦っているわけでもなかい。もし秋雄を欠いた状態で一発勝負の予選を戦えばかなりまずかったが、リーグ戦はいくらかの負けが許される総当たり戦で、不幸中の幸いと言えた。

 ただし貴文の不幸はまだ続いていたが。

「……監督?」

「ん、ああ、すまん、別のこと考えてた」

 広子の問いかけで、貴文は我に返る。

 試合はもう後半にさしかかっていた。

 今日は病み上がりの秋雄の変わりに、グリーンが秋雄のポジションを務めていた。秋雄と違い不器用な春樹は、『右レフト』しかできない。そして『右レフト』は『左ライト』がいないと、チーム全体のバランスが崩れてしまうポジションでもある。だからといって春樹を下げるとまた面倒なことになり、結局器用なグリーンが秋雄の代わりを務めることになった。

「やっぱり小野君のことですよね」

「まあな」

 あれから貴文は色々な人間に相談し、また色々な本も読んだ。だが、そのどれもがすでに秋雄が試したことであり、全く効果がなかった。さらにあまり興奮していない現状では、新しい方法があったとしても、効くかどうか分からない。今は元気に『ワールド』をかけずり回っているが、それも大事な試合で出来なければ意味が無い。

「私も何か知ってれば良かったんですけど、興奮するよりプレッシャーを感じるタイプなんで……」

 というのは広子の言葉。広子や隆といった良識派の人間には貴文も進んで相談した。翔の場合と違い、知られても本人のプライドが傷つくほどの問題でも無い。……というより、本人がそれを秘密にする気がなさそうだった。

 しかし、誰もが通り一遍な答えを言うだけで問題解決にはつながらなかった。

「それにしても、やっぱり小野だけだとバランスが悪いな」

 グリーンの動きは悪くは無い。スタミナを活かして縦横無尽に走り回る春樹を、懸命にカバーしている。だが更に先を読んで、より効果的な動きが出来る秋雄と比較するとだいぶ劣っていた。まさに双子ならではの阿吽の呼吸だ。

 それ以上に問題なのは、グリーンがもといたポジションだ。こちらは変わりの選手がおらず、必然的に全員でカバーすることになり、チームの習熟度がだいぶ下がった。こういう状況だと、サポートが下手な聡美はずっとベンチを温めることになり、出番はなくなる。

 事実試合が始まった瞬間から聡美は隣でイライラしていた。


 そして結局聡美の出番は無いまま、試合は辛くも振興大学の勝利で終わった……。


 その日の試合は日曜日の午前中に行われたため、その場で解散ということにはならず、全員で大学に戻り、昼食後、そのまま練習が行われる予定だった。

 その帰り道、グリーンがある提案をする。

「せっかくなんで、みんなで本宮殿のお見舞いに行くのはどうでござるか?」

『・・・・・・』

 グリーンの家は帰り道の途中にあり、行くのはそこまで大変ではない。

 ただ、根本的に勘違いしていることがあった。

「全員に感染うつらないように隔離したのに、なんで見舞いに行かにゃあならんのだ」

 スポーツ特待生にとっては常識であるため、貴文の言葉に部員達は心の中で頷いた。一般生のグリーンにはそれが分からなかったのだ。

 その一方でグリーンにしか分からないこともあった。

「そう言われると困るでござる。ただ拙者はンパンパにいた頃、一人で防空壕に籠もって爆撃を耐えていたときは、とても不安でこのまま死ぬんじゃないかと思ったでござるよ。本宮殿も一人では不安で寂しいのではないかと」

『・・・・・・』

 そんな重い話をされると、誰も何も言えなくなる。

 ンパンパは未だ政情不安で、あの大統領死後から内戦が絶えなかった。貴文でさえもンパンパリーグにいた頃は、突然銃声が聞こえて来たことがままあった。それゆえに、その場にいた誰よりもグリーンの話の重さが分かった。

 だからといって、監督として全員行かせるわけにもいかない。

 結局――。


「よう!」

「おじゃま……ただいまでござるな」

『・・・・・・』

 まさか来るとは思っておらず、またまさか行くとは思っていなかった貴文は無言で気まずそうな顔をする。

 一方グリーンと春樹は空気を一切読まずご機嫌だ。

 貴文は所在なげに室内を見回す。

 1kの部屋で、秋雄は中央の布団に寝ており、貴文が見た限りではだいぶ状態はよさそうだった。おそらく明日には練習に参加できるだろう。

 それはそれとして、この部屋は明らかに異常だった。平均的な日本人男子大学生の部屋にはあり得ない純日本的なものが、所狭しと置かれていたのだ。

 床は当然畳で、春樹から聞いた以外にも、掛け軸、壺、無理矢理作ったような床の間など。しかもそれらは未だな方で、壁には何か野巻物のような物が張られ、その隣に鎖がまがかけられている。

「痛っ!」

 どうやら春樹は再びまきびしを踏んだらしい。

 忍者屋敷のように見えるが、その一方で新渡戸稲造の武士道や葉隠の一節なども飾られ、あらゆる意味で致命的に間違っていた。

「……落ち着かないな」

「ですよね」

 秋雄がため息を吐きながら頷く。

「アキ、具合はどうだ?」

「あー、もう明日の練習には参加できると思う。今日は大事を取って休んだだけだし」

「そっか、でも珍しいな、お前が風邪ひくなんて」

「まあ……」

 その元凶が目の前にいるので、秋雄も言葉を濁すことしかできない。

「ところでハルの興奮癖はどうなった?」

「あー、変わんねえ。どうしようもねえわ」

 春樹はあまり深刻には見えない表情で言った。貴文はその気楽さを試合前日に出せない理不尽さに、思わず春樹を殴りたくなった。

「いてぇ!」

「あ、すまん」

 知らない間に手が出てしまっていた。

「興奮とはどういうことでござるか?」

 グリーンが不思議そうな顔をする。

 貴文はグリーンには春樹の話はしていなかった。間違った日本かぶれのグリーンのこと、話せば謎の丸薬などを飲まされそうで、役に立つどころか話がより複雑になるように思えたからだ。

 秋雄はそれをすぐに察したのだろう。

 「まあいろいろあって……」と言葉を濁し、話題を強引に変えようとした。

 しかしそれを彼の実の兄弟が台無しにする。

「俺大事な試合の前になると、興奮して眠れなくなるんだよ。そいでいっつも無茶して当日風邪引く」

「なるほど」

 本人が包み隠さず事情を説明した。

 貴文と秋雄は思わず額に手を当てる。

「ならばいい考えがあるでござる!」

 そう言うとグリーンは家の中をごそごそと漁り始めた。そこはにはサムライや忍者に関するものが山と置かれ、とても役に立つようなものがあるようには見えない。

 貴文と秋雄は目配せし、何を出されてもすぐに対処できるよう準備をする。

「あったでござる!」

「あー小見川、気持ちは嬉しいが、ここは……?」

 貴文はグリーンが探し出した物を見て、目が点になった。

 は怪しい丸薬でも、なにやら胡散臭げな民間療法が書かれている巻物でもなかった。なによりには貴文も学生時代だいぶ世話になった。もっとも、興奮を抑えるどころか更に興奮されられたが。

「……エロ本?」

 秋雄も狐につままれたような顔した。本人が狐のような顔をしているのにもかかわらず。

「そうでござる! 以前はなかったでござるが、春樹殿のために巨乳ものも仕入れたでござる。どんなに興奮して眠れない夜も、たいてい抜けば一発でござるよ!」

 そう言いながらグリーンは、その天使のような顔に似合わない上下運動を右手でした。

「いや、さすがにそれは――」


「それだ!!!」


 春樹は感動してグリーンの両手を掴む。

 見ようによっては告白しているようにも見えるが、実際は中学校の教室でよく見かけられるゴミのような光景である。

「なんで今まで気付かなかったんだ……そうだ、抜けばいんだよ! 俺自慢じゃないけど結構速いし淡泊だから、すぐに満足して寝ると思う!」

「確かに自慢じゃないね……」

 秋雄は兄弟の聞きたくもなかった性癖を聞かされ、心底うんざりした。

「これで次からは大丈夫でござるな!」

「おうさ!」

『・・・・・・』

 年相応の精神年齢を持つ貴文と秋雄は、無言で、彫像のようにただじっとしていた。

 あまりに馬鹿馬鹿しすぎて、かける言葉も無かった……。


 そして次の『龍起杯』予選の日――。

 そこには妙にテカっている笑顔の春樹がいた……。

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