06:守護天使(2)

 エルリックに連れられて再び足を踏み入れた広間には、先程覗いたときよりも人が増えていた。中央には人だかりが出来、時折和やかな笑い声が上がっている。

 その中心にいる者こそ、シェプリーをこのパーティーに招待した人物、ジェレミーだった。つい今しがた別れたばかりのライト夫人とマクファーレンの他、数人が取り囲むように群がり、彼との話に夢中になっている。

 周囲でカメラのストロボが焚かれているところをみると、どうやら取材中のようだ。もしや、内輪だけというのは嘘だったのではとシェプリーが訝っていると、ジェレミーの隣に立つ背の高い男が、ちらりと目を向けた。

 灰色の髪と同じ色をた口髭をたくわえ、曇天の空をそのまま写し取ったような瞳は陰気で、生気溢れるジェレミーとは何もかもが対照的だ。

 視線が合ったのはほんの一瞬の出来事だったが、目を逸らしてもまだ彼が意識しているような気がして、その粘るような気配にシェプリーは妙な胸騒ぎをおぼえた。

 ルイスではないが、嫌な予感がすると言って拒もうかなどと考えている間にもエルリックの歩は止まらない。結局、言い出す機会もないまま輪の中心へと引き出されてしまった。

「叔父さん、連れてきましたよ」

 途端、その場にいる全員の視線が集中する。その圧力にシェプリーは怯んだが、今更だと思い直し、半ばやけくそになりながらエルリックに続いて輪の中へと進んだ。

「お会いできて光栄です。今夜はこのような会にお招きいただきましてありがとうございます、ジェレミー卿」

「君がウーブル君だね? よく来てくれた。待っていたよ」

 自分を招待した紳士は、エルリックが年を重ねればきっとこういう姿になるだろうと予測できるほど似通った姿をしていた。その知的な光に満ちた空色の瞳は少しも揺るがず、ひたとシェプリーの姿を捕らえ、吟味している。柔和な笑みを浮かべてはいるものの、その実、一筋縄ではいかない相手なのは明白だった。

「ジェレミー卿、彼は?」

 ペンとメモを手にした記者とおぼしき男が声をかけると、その横にいるカメラマンがフラッシュを焚く。

「甥の友人だ。一度、直接会って話をしたくてね。私が招待したんだよ」

 無神経に光るストロボが煩わしく、シェプリーは今すぐにでも逃げ出したかった。が、ジェレミーにがっちりと手を掴まれ、また人垣も閉じてしまい、完全に退路を断たれた形となる。

 どうも雲行きが怪しい。シェプリーがそう思ったときだった。握手をしたまま放つジェレミーの言葉が、その場を凍らせた。

「君の噂はいろいろと聞いている。君は、能力者だそうだね?」

 シェプリーは硬直した。ジェレミーはそんなシェプリーの目を真正面から捉えながら、更に続ける。

「以前から気になっていた。このロンドンに、SPRが匙を投げた事件を人知れず解決している者がいる、と聞いてね」

「……叔父さん?」

 エルリックが狼狽した声をあげる。まさかこんな状況になるなどと、夢にも思ってもいなかったのだろう。周囲も水を打ったように静まりかえっていた。

「ちょっと待って、叔父さん。いきなり何を――」

「聞き捨てなりませんな」

 エルリックを遮り、声を上げる男がいた。

 短く整えた金髪と、ジャケットの上からでもわかる体格の良さ。鋭い眼差しは、ジェレミーとシェプリーへと向けられている。

「本物の、とわざわざ強調されるということは、そうではない者がいると、卿はそう仰りたいわけで?」

「そういうことになるな、フレミング君」

 気の弱い者ならば震え上がりそうな眼光を、ジェレミーは真向から受け止めた。フレミングと呼ばれた男の顔色が変わる。

「待って――、待ってください叔父さん!」

 エルリックが慌てて間に割って入り、がっちりと掴んだままだったジェレミーの手をシェプリーから引き剥がした。

「いきなり何を言い出すんですか!?」

「エリック。私はかねてから懸念していたことがあってね。丁度良い機会だから、今日、ここではっきりさせておこうかと」

「だからって、僕は友達を見世物にするために連れて来たんじゃありませんよ!?」

 シェプリーは珍しく取り乱しているエルリックの横顔を呆然と見つめていた。

「シェプリー、誤解しないでくれ。僕は、こんなつもりは」

 おろおろとするエリックに、シェプリーは何も答えなかった。

 エルリックもまた自分と同じく被害者なのは、狼狽しきった態度を見ればわかることだ。彼は、自分という獲物をこの舞台に誘き寄せるために利用されたのだろう。

 最初のショックを抜け出した脳が、徐々に状況を理解しはじめる。腹の底に冷たいものが沈んでゆくと同時に、形容しがたい苦さがこみあげ、シェプリーは奥歯を噛み締めた。

 招待に気が乗らなかったのは、漠然とした嫌な予感がしていたからではなかったのか。そうとわかっていたのに、何故はっきりと断らなかったのか。

 図書室の鍵という交渉を持ちかけたつもりが、逆に足許を見られ、このような面倒ごとに巻き込まれてしまった。シェプリーは、己の直感を信じなかった自分自身に対して腹を立てていた。そして、怒りをあらわにしているフレミングという男の存在が、それ以上に気に障った。

 直接名指しされたわけでもないのに自らこうして出てきたということは、すでに疑惑の目が向けられているのを感じ取っていたのだろう。だとすると。

「皆さんは私の交霊術セアンスをご存知でしょう?」

 大げさともいえる身振り手振りを交えて周囲へと訴えかけると、予想に違わず、彼を信奉する者が進み出た。ガブリエラだ。

「そうですわ。この方の交霊術セアンスの素晴らしさは、私が保証いたします」

 顔の上半分はレースで隠れて窺うことはできないものの、その声からは明らかな怒りが溢れていた。

「私、この方のおかげで神の存在を実感できましたのよ? だって、死んでしまったリチャードが――いえ、私以外にも息子を失った多くの母親達が、こちらの世界で今も私たちの側にいてくれる彼らのことを教えてくださったんですから」

 ガブリエラという援軍を得たフレミングは満足そうに頷いたが、ジェレミーが向ける視線は変わらなかった。

「そうですね。仰る通り、多くの者が彼のを見て救われたことは認めましょう。ですが、私は神の存在と手品まがいの行為の間に関連を見出せといわれても、納得しかねます」

 ジェレミーの挑発ともいえるこの発言に、ガブリエラが絶句する。

 突然の出来事に、周囲は息を詰めて成り行きを見守っている。煩くフラッシュを焚きまくっていたカメラマンすら、フィルムの交換を忘れていた。ただ、記者の男だけは、この出来事を寸分も書き漏らすまいと、必死になって手帳にペンを走らせ続けている。

 ジェレミーはガブリエラとフレミング、そして、彼らの後ろに控えるマクファーレンに向き直った。

「ライト夫人。よもや貴女は、我々SPR心霊現象研究協会の目的をお忘れではないでしょうな? 心霊現象や超常現象の真相を究明し、科学的研究を促進することが、本来の我々の理念であったはず」

 ガブリエラは毅然と顔を上げる。

「ええ、存じておりますわ。そして、科学的に検討し、証明できなかったものこそ本物の心霊現象であるとお認めになっているのも」

「しかし、テーブルタップや、手を触れずに黒板に字を書くのも、フーディーニが種を明かしてくれた」

 稀代の魔術師と呼ばれるハリー・フーディーニの名を挙げられ、ガブリエラの頬がひくりと動いた。

 手品師である彼が自称霊媒師達のトリックを次々と暴いていったおかげで、神智学協会の評判は一時期底辺にまで落ちた。その影響は決して少なくはない。なにしろ、SPR自体からもかなりの反発者や脱退者が出る騒動にまで発展したのだから。

「ジェレミー卿」

 嵐の前の静けさを思わせる声でガブリエラは言った。

「私、失望しましたわ。貴方は神秘について熟知していると思っておりましたのに」

「それは買いかぶりすぎです。私の知っていることなど、この世の仕組みの複雑さに比べればまだほんの一握りでしかない。それに、私は神秘と科学のどちらにも偏らず、常に中立の立場に居たいのですよ。その目を曇らせることなく、ね。ライト夫人、貴女こそ、物事の本質を見失っておられるのではないですかな?」

 会場を包んでいた和やかな雰囲気はすっかり消え失せていた。次に何が起こるのか、誰もが不安に思った時だった。

「ならば、証明すれば良いだけの話だ」

 霧に沈む沼地から漂うような細く湿った声を発したのは、ジェレミーの隣にいた灰色の男だった。奇妙な粘性をもった低い声は、その姿から受ける印象通りのものだった。

「何の仕込みもないとフレミングが言うのなら、今この観衆の前で、それを証明すれば良い。それから――」

 男の色の無い瞳が横に滑り、シェプリーに向けられる。

「この青年がであるということも、ついでに」

「確かに。スミス氏の言う通りだ」

 ジェレミーが大きく頷き、シェプリーとフレミングとを交互に見やる。

 スミスと呼ばれた灰色の男は再び沈黙した。ただし、その視線は、二人の挙動を一つも漏らさぬという意思が込められたものだった。

「シェプリー……!」

 エルリックが掠れた悲鳴のような声をあげ、周囲のざわめきが大きくなる。

 ――否、実際には誰も何も言葉を発していなかった。シェプリーが聞いていたのは、自身の頭の中に直接響く、声なき声だった。

 やはり、〈力〉の制御がうまくいかなくなっている。しかも、よりによってこのような場で来るとは。

 シェプリーは正体を持たぬ声に流されないよう、深く息を吸い、ささくれ立つ気持ちを落ち着けようとしたが、あらゆる思念と感情とが体中を駆け巡り、爆発してしまいそうだった。

 またおかしな暴走をしてしまわないように自制しなければと思うものの、熱い溶岩のようなものが肚の底で渦を巻き、シェプリーを駆り立てる。

 何もかもが不快だった。慣れないアルコールに観衆の興味と怖れとが入り混じる視線、そして内なる声。早まる鼓動と上昇する体温は、先に飲み干したシャンパンのせいだけではないだろう。

 ウィディコムの一件の当事者であるエルリックはともかく、この場にいる誰もがシェプリーを疑っていた。それらが寄越す疑念と期待に満ちた視線の中に、一際強く己を意識したものが混じっている。

 シェプリーはゆっくりと顔を上げて、その視線の持ち主を順に見た。

 まずはフレミングとガブリエラ、そして、その後ろに控えるように立つマクファーレン――特に、彼の口は強く引き結ばれたままだったが、その双眸はシェプリーにじっと注がれている。周囲の声があまりにうるさく、彼が何を考えているのかまでは読み取れなかったが。

 それとは対照的に、フレミングの思考はわかりやすかった。

 彼は焦っていた。ジェレミーによって自分が使う手口を封じられてしまった以上、ここではもう何もできそうにない。これまで築き上げてきたものを一瞬で失う可能性に怯え、どうやってこの場を切り抜けようか必死になって考えを巡らせていた。

 ガブリエラもまた疑念にとらわれていた。彼女は気丈に振舞ってはいるものの、自分が信じているものに大きな罅割れが生じたことに動揺し、そしてこのような観衆の前で辱められたことにも強い憤りを感じていた。

 彼女がフレミングによる詐欺の被害者なのは明白だったが、シェプリーはとても同情できそうになかった。無知なくせに妄執から生れ出たものを信じ込み、それを周囲へと広めて新たな被害者を生み出してきたのだろうから、彼女も全くの無罪とは言い難い。

 このような者達がいるからこんな厄介事に巻き込まれるのだと思うと、シェプリーの内からはふつふつとしたものが沸き上がり、止まらなくなる。

 それに、彼らのせいでエンジェルの失踪は有耶無耶にされ、世間的に抹殺された。そのことをシェプリーは忘れていないし、許してもいない――そう思い至った途端、肌身離さず身に着けていた指輪が疼いた。

「いいでしょう」

 とても己が発したとは思えない声色に、シェプリーは自分自身で驚く。しかしその一方で、どこか他人ごとのような感覚でこの現状を眺めつつある自分がいるのにも気づいた。

「折角の機会ですから、皆さんには面白いものをお見せしましょう。まだ誰も見たことのないような、画期的なものを」

 普段であれば決して言わないような台詞がすらすらと口から出てくる。口端が上がり、頬が笑みの形をとりはじめる。

 シャツの下では、エンジェルの形見である指輪が薄い皮膚を通して囁き続けていた。そんなに見たいと言うのなら見せてやれ。つい先日、バーミンガムで懐疑に囚われた若い夫婦へと示した以上のものを――。

 ウィディコムの忌まわしき地下室で暴走したときのような強さはなくとも、それはとても蠱惑的な色艶を放つだった。

 促されるままに、シェプリーはゆるりと片手を上げた。会場にいる者の視線がそこに集中するのを全身で感じ取る。得も言われぬ感触に、背筋が震えた。

 周囲が霞がかったように白くなったのは、ほんの一瞬。そして、それが晴れたとき、その場にいる誰もが眼前に広がる光景に息を呑んだ。

 影のようなものが自分たちの周囲を囲み、くるくると動き回っていたからだ。

 霧のような影は徐々にはっきりとした像を結び、誰かが感嘆の声をあげた。

 それらはいずれも古めかしい衣装を身に着けていた。この邸宅が建てられた当時の住人と招待客とが輪をつくり、踊っているのだった。

 男達は皆一様に白い鬘をかぶり、膝丈までのパンツに白いソックスを履いていた。女達もまたコルセットで折れそうなほどに腰を締め上げ、対照的なまでに膨らんだスカートを長くひきずっている。

 これは素晴らしいと、誰かが呟いたその時だった。

「貴様――!」

 突如、フレミングが激高した様子でシェプリーに掴みかかる。

「どういう手を使った! こんな幻覚、俺は信じないぞ!!」

 その剣幕に周囲も驚き、夢から覚めたような顔をシェプリーへと向ける。しかし、

「幻覚かどうか、ご自身で確認してみたらどうです?」

 シェプリーが言い放つと同時に、像はまた姿を変えた。煌びやかな衣装を纏った者は消え、代わりに現れるのは色鮮やかな甲冑を身に着けた集団だ。いつの間にか屋敷の形は消え、周囲は何もない野原となっている。

 武装した男達の手には鈍く輝く武器が握られ、彼らは雄たけびをあげて戦っていた。目の前に迫る剣戟に、フレミングが悲鳴をあげて飛び退る。鼻先をかすめる切っ先が、決して気のせいではなかったからだ。

 もっとも、驚いたのは彼だけではなかった。二人を取り囲むように輪をつくっていた者達が、一斉に後ずさりをする。

「シェプリー!?」

 エルリックは、信じられないといった顔で輪の中心にいる友を見た。力を使うことに慎重であったはずの彼が、こんなにも大胆に、そして得体の知れない表情を浮かべているなど、にわかには信じがたい状況だ。

 よくない状況だと頭ではわかっていても、しかしエルリックはどうすることもできなかった。何が起こるのか、不安を抱えたまま立ち竦むしかない。

 そうこうしているうちにもシェプリーの目に宿る光は一層輝きを増し、周囲の光景も目まぐるしく変化し続ける。

 次に現れたのは、薄汚れた毛皮を着こんだ集団だった。彼らは今まさに仕留めたとおぼしき獲物を担ぎ、岐路を急いでいるようだった。

 血に塗れるその姿に、女性客の誰が悲鳴をあげて倒れた。だが、誰も動けずにいた。

 一足飛びに歴史をさかのぼっているのだと気づいた頃には、周囲は鬱蒼と茂る密林と化していた。現れる影たちも人の姿はなくなり、博物館でしかお目にかかることのできぬ巨大な獣や爬虫類ばかりとなる。

 これは何なのだと誰もが疑問に思っていた。フレミングが言うように、どこかに仕掛けがあるのだろうか。あるいは、集団催眠術の類いか。

 では、これは何なのだ。肌で感じるこの湿度は。全身を揺さぶる地響きは。そして、鼓膜を刺激するあの音は。


 ――あ、いあ! いあ! いあ!


 ジャングルも巨大な生物もいつの間にか姿を消していた。

 岩がむき出しとなった荒野では、人とも獣ともつかぬ影が意味不明な言葉めいたものを叫びながら飛び回っていた。

 どこからか聞こえてくる太鼓の音が鼓膜を震わす。

 吹きつける風が己の頬を、髪を、体全体を撫でまわし、過ぎて行く。

 これは一体何なのだ。再び、誰もがそう思った。

 赤く輝く巨大な月の下、蝙蝠のような翼をはためかせて空を飛び回るあの黒い影は。蛇にも似た長い尾をしならせ、一対の長い角を額に生やした、ひどく人に似た、それでいて決して人ではありえない体つきをしたあれは、一体。

 そのつるりとした無貌の頭が、ふと下を向く。

 目を持たぬはずのそれが、はっきりとこちらを認識したのだとわかった途端、ざわりと空気が揺れる。そして。

 次の瞬間、は猛禽のごとく急降下した。

 風を切る翼がうなりをあげてこちらに接近し、禍々しい爪か眼前に迫る。

 あと少しで触れる――まさにその瞬間、耐え切れなくなった誰かがすさまじい悲鳴を上げた。

 場を縛り付けていた呪いは消え失せ、荒野であった景色もまた一瞬にして元の広間へと戻っていた。

 誰もが呆然としていた。だが、続く足音が、一同を一斉に我に返らせる。

 フレミングだ。立ち尽くす人々を突き飛ばし、広間から逃げ出したのだ。

 だが、他の者達は金縛りにかかったように動けずにいた。悪夢から覚めたはずなのに、誰もがまだ悪夢の続きを見ているような心地でいた。そして、この恐ろしい出来事を引き起こした元凶へと、視線を移す。

 マクファーレンは自分ににしがみつき震えてるガブリエラの肩を支えながら、悪魔でも見るような目でシェプリーをじっと見つめていた。

 ジェレミーは唖然としてはいたが、理性を失ってまではいなかった。何が起こったのかを理解しようと懸命に務めているようだったが、解釈が追い付かないらしい。そして、そのすぐ側に立つエルリックの視線に気付いたとき、シェプリーはようやく自分がしでかしたことの重大さを悟った。

 先まで感じていた高揚感は完全に引いていた。代わりにやってきたのは、耐え難い後悔と羞恥心と、恐怖。

 あれほどしきりに囁きかけていた指輪までもが沈黙し、その静けさにシェプリーの足が震えはじめる。

「素晴らしい」

 恐ろしいほどの静寂を破ったのは、スミスだった。

「実に素晴らしい」

 称賛の言葉が乾いた拍手と共に空々しく響き渡る。

 それが呼び水となったのか、広間の来客たちは堰を切ったように逃げ出した。

 誰もがこの恐ろしい悪夢から逃れようと必死だった。着飾った衣服が乱れ、汚れるのも構わずに、彼らは一斉に戸口に殺到し、広間は混乱の極みに達する。

 シェプリーはがくがくと震えながら、踵を返した。そして、皆が殺到するのとは反対側の扉に向かって駆け出した。

「シェプリー!」

 逃げるシェプリーを追ったのはエルリックだけだった。

 エルリックは続く隣の客間でシェプリーに追い付き、その腕を掴んで引き留めるた。

「離せ――離してくれ! 放っておいてくれ!!」

 シェプリーは叫んだつもりだったが、実際に出たのは弱弱しい呻き声でしかなかった。それどころか激しい眩暈と頭痛に襲われ、その場に蹲ってしまう。

 普段でさえあれほどの時代を一気に遡るなど無茶な行為なのに、加えてあれだけの人数の意識に像を同調させたのだ。いくら指輪によって増幅されていたとはいえ、いちどきに行使した力の反動は、計り知れないものとなってシェプリーに襲い掛かる。

「オリバー! オリバー!!」

 エルリックが叫ぶと同時に、給仕の制服を身に着けた男が大慌てで駆け付ける。

 シェプリーは彼らから逃れようと必死に身を捩ったが、無駄な抵抗だった。二人がかりで両側から抱えあげられ、引き摺られてゆく。

「エルリック様、これは一体」

「説明は後でする。とにかく、今はどこかに隠れなくちゃ」

「では、こちらへ」

 オリバーが手近な所にあった扉を開ける。エルリックはシェプリーをそこへと運び入れ、片隅にあった長椅子へと座らせた。

「オリバー、冷たい水を持って来てくれ。それから、ここには誰も入れるなよ。もちろん、叔父さんもだ。いいな?」

「かしこまりました」

 エルリックの剣幕に戸惑いながらも、オリバーは命令に従い、廊下を駆けて行った。

 エルリックは急いで扉を閉めると、内側から鍵を下した。

 そして、室内を振り返り、頭を抱えて縮こまるシェプリーの姿に改めてショックを受けた。

 シェプリーの顔色は紙のように白くなり、脂汗を垂らしながら瘧のように震えていた。外から聞こえる喧噪が嫌なのか、強く耳を塞ぎ、小声で何かを呟き続けている。

 ウィディコムの地下でのことを思い出したエルリックは、これ以上の刺激をシェプリーに与えないよう、そっと近づいた。

「シェプリー、落ち着いて。大丈夫――大丈夫だから」

 極力優しい声色でシェプリーに呼び掛け、縮こまる体を抱き起こす。そしてその前に跪くと、両手でその顔を包み込んだ。

 しかしシェプリーは、きつく目を閉じたまま震えるばかりで、目の前のエルリックの存在にすら気付いていないようだ。

「シェプリー、息を吐いて。ゆっくり……そう、ゆっくりでいいから深呼吸をしよう」

 エルリックは祈るような気持ちで声をかけ続ける。

 そして、彼の耳が捉えているのが、現実の音ではないことにようやく思い至った。

 それは鋭いナイフのようなものだった。先を争って逃げてゆく者達が発する恐怖と怨嗟の声なき声が、建物の壁を突き抜けて弓矢のようにシェプリーに襲い掛かっているのだ。

 だが、理解したところで何ができるわけでもない。

 エルリックは歯噛みしながらシェプリーが落ち着くのをじっと待ち続けた。時間にしてみればわずか数分の出来事だったのだろうが、エルリックにはとてつもなく長く感じられた。

 やがて、屋敷は完全に静かになり、聞こえるのはシェプリーが発する荒い息遣いだけとなる。

「……シェプリー?」

 恐る恐る声をかけると、わずかに反応があった。もう一度、呼びかけようと息を吸い込んだとき、不意にガタリ大きな音がしてすぐ近くの壁が動いた。

 咄嗟に身構えたエルリックだったが、すぐに隠し扉の存在を思い出す。ジェレミーが買ったこの邸宅はかつて、迫害をうけた清教徒の神父を匿い逃がしたという逸話が残るものだったのだ。

「エルリック様、水をお持ちしました」

 ガラスの器を携えたオリバーの姿に安堵の溜息をつきかけたエルリックは、しかし続いて現れたジェレミーを見て顔を強張らせた。

「申し訳ございません。ここへ来る途中で旦那様に見つかってしまいましたものですから」

 そう言うものの、オリバーは少しも悪びれた様子はない。

 ジェレミーは非難の視線を向ける甥とその後ろで蹲るシェプリーに歩み寄った。

「診せなさい」

 エルリックは躊躇したものの、ジェレミーの有無を言わせぬ物言いに、道を明け渡すしかなかった。それに信用できずとも、このような状態にあるシェプリーを落ち着かせるにには、れっきとした医師である彼に任せた方がいいとも判断したからだ。

「オリバー、手伝ってくれ。エリック、お前もだ」

「かしこましました、旦那様」

 ジェレミーの指示のもと、エルリックとオリバーはシェプリーを抱えあげ、長椅子へと寝かせた。眼鏡とタイを外して襟元を寛げると、患者を診察するときと同じように脈を図り、状態を観察する。

「オリバー、鎮静剤バルビツールは必要ない」

「左様でございますか」

 慣れた手つきでアンプルに針を刺そうとしていたオリバーに、エルリックはぎょっとした。

「エリック、ハンカチを水で濡らして、固く絞りなさい。彼の汗を拭いてあげてくれ」

「……わかったよ、叔父さん」

 てきぱきと指示を出すジェレミーに、エルリックは大人しく従った。

 ジェレミーはシェプリーのこめかみに両手を添えると、落ち着いた低い声で囁きはじめた。

「ウーブル君、私の声が聞こえるか? 大丈夫だ、もう何もしない。君を脅かす者はここには居ない。安心したまえ」

 繰り返し言い聞かせるうちに、シェプリーの発作は次第に収まってゆく。震えは小さくなり、やがて、強張っていた全身から力が抜ける。強すぎる刺激に耐えられなくなった脳が、意識を手放すことで肉体の負荷を軽減させたのだ。

 気絶したとはいえ、ようやく容体の落ち着いた友を見て、エルリックは胸を撫でおろしたが、不安がすべて消え去ったわけではなかった。

「ジェレミー叔父さん……」

 複雑な思いをこめた眼差しを向けるエルリックに、ジェレミーは小さくかぶりを振る。

「済まない、エリック。今夜の件で、お前からの信頼を失ったのは疑いようもないことだ。それに関して言い訳をするつもりはないが……、だが、一つだけ言わせて欲しい」

 今更何を言うのかと訝しむエルリックに向かって、ジェレミーは言った。

「私はね、頼まれていたんだよ。今夜、ここで、あのように振舞えと」

「え――?」

 思いも寄らぬ告白に、エルリックは困惑し、眉を寄せる。

「頼まれた、って……誰に?」

 ジェレミーは再び小さくかぶりを振る。その名を口にすることを躊躇したものの、良心の呵責には耐えらなかった。

 瞼を痙攣させるシェプリーの横顔を見つめながら、彼はその人物を明かした。

「エンジェル・フォスター……私の二十年来の友人であり、彼の失踪したという師からだよ」


     †


 家に帰り着くなり、ガブリエラはそれまで必死にこらえていた怒りを爆発させた。

「邪魔よ! お退き!!」

 いつものように出迎えた老執事は、女主人から投げつけられたハンドバッグを額で受け止め、血を流しながら昏倒する。

「邪魔だって言ってるでしょう! お前も――お前もよ! さっさとそこを退きなさい!!」

 大理石の床に踵を打ち付けながら、ガブリエラは美しい顔を怒りに歪め、右往左往する使用人達を叱りとばす。

 そして玄関ホール正面にある階段を一気に駆け上ると、二階の自室に飛び込んだ。

 主人のヒステリーには慣れている使用人たちだったが、今夜の発作はあまりに激しかった。誰もが顔を見合わせ、恐る恐る様子を窺うしかない。いつもであれば、放っておいてもしばらくすれば落ち着くはずなのに、今夜はそうならなかったのだ。

 一際大きな金切り声と友に、何かが割れるような音が何度も続く。

 ガブリエラに遅れて屋敷へと入ったジョシュアは、階段の手すりに肘を乗せて呟いた。

「始まったか」

 断続して響く破壊音に若いメイドが我に返り、慌てて主人を止めに走った。しかし、後に続く者はいない。

 怒り狂うガブリエラは嵐のようなものだった。ひとしきり暴れて疲れ果てて眠るまで、息を顰めてやり過ごすしかないのは、この屋敷に仕える者ならば誰でも身を以て知っている。そんな最中に飛び込んで行くなど、それこそ正気の沙汰ではない。高価な美術品がいくら壊れようが、己の身体が傷つくよりは遙かにましだった。

 第一、ガブリエラ自身もそれらにはこれっぽっちの愛着も未練も持っていない。特に、亡き夫が熱心に集めたそれら至っては尚更だ。

 そんな具合で相変わらず誰も動こうとしないのを見て、ジョシュアは芝居がかった仕草で溜息をついた。

「やれやれ、困ったものだな」

 そうして彼らを残し、ゆっくりと階段を昇りはじめる。

「いけません、奥様! やめてください!」

「お黙り! お前ごときが私に指図すると言うの!?」

 室内での攻防戦の激しさは廊下にも筒抜けだった。調度品が倒れる音。布が破れるような音。ガラスや陶器の類いが立て続けに割れる音――あらゆるものに対する破壊行為を続けるガブリエラを、若いメイドは懸命に制止しようとしていた。

「奥様、落ち着いてください! お体に障ります!」

「うるさい!!」

 ガブリエラの怒声とメイドの悲鳴とが重なったのは、ジョシュアが扉の前に立ったまさにその時だった。

 扉が勢いよく開き、顔を抑えたメイドが廊下へと転がり出てくる。ジョシュアはその身体を胸で受け止めた。

「あ――」

 衝撃で眩んではいたが、彼女は自分を支える者が誰なのかを悟った。目を見開いてその顔を見上げたものの、瞳にはみるみる涙が溜まってゆく。

 メイドは慌てて顔を伏せると、よろめきながらそこから逃げ出す。ジョシュアは追わず、開いた扉から中を窺った。

 短時間のうちにあらゆる破壊行為で蹂躙し尽くしたそこは、足の踏み場もないほどに荒れていた。

「奥様」

 ジョシュアが呼びかけると、暖炉の火搔き棒を手にしたガブリエラの動きが止まった。だが、振り向き、戸口に立つジョシュアを睨めつけるその様子は、気の立っている猫のようだった。青灰色の瞳には、ぎらぎらとした光が宿っている。

「お前も――!」両手で握りしめり火搔き棒でジョシュアを差し、ガブリエラは叫んだ。「お前もそうなんでしょう! 私を騙して、馬鹿な女だと嗤っているんだわ!!」

「そんなことは」

「近寄らないで!」

 ガブリエラは悲鳴のような声で叫んで火搔き棒を振り上げると、室内に踏み込もうとするジョシュアを牽制した。

 ジョシュアは立ち止まって両手を上げたが、ガブリエラは尚も叫び続けた。

「そうに決まってる! フレミングも! 皆私を騙して、嘲笑って愉しんでいるんだわ! そうよ、あの人もそうだった――!」

 彼女は唐突に火搔き棒を放り出すと、両手で頭をかきむしった。かつての夫の所行を思いだし、狂気が最高潮に達したのだ。

「そうよ! 最初から嫌だったのよ! 私、あんな男と結婚なんてしたくなかった!!」

 ガブリエラにはもともと他に想いを寄せる男がいた。しかし上流階級の箱入り娘である彼女が、親の決めた縁談に逆らえるはずもない。駆け落ちも考えたが、相手は自分の家が世間にどれほどの影響力を持つのかを考慮し、自ら彼女のもとを去っていった。

 望んだ結果ではなかったものの、ガブリエラは与えられた範囲のもので幸せになろうと努力した。

 豊かな財力と資産を持ち、困窮とは全く無縁の彼女の暮らしぶりは、傍から見れば相当に恵まれたものとして映っていたであろうし、実際彼女もそう思い込んでいた――最初の数年間だけは。

 夫となった男に愛人がいることが判明したのは、子供を授かってすぐの頃だった。

 爵位を持ちながらも軍部に籍を置く彼は、ガブリエラと結婚する前から自分の側で常に控えている若い女秘書と仲良くしていた。彼が選んだのは、無知で退屈な貴族の娘ではなく、彼女が握っている財産の方だったのだ。

 ガブリエラはショックを受けたものの、すぐに思い直した。何を悲しむことがあるのだろう。あんな男、元々好きでも何もでなかったではないか、と。

 それよりも大切なのは、これから産まれる子供の方だった。

 この子だけは絶対に幸せにしてやろう。自分の持てるものをすべて捧げて愛してやろう――そう決意した彼女の行動は素早かった。

 ガブリエラはほとんど家に寄りつかぬ夫のことは極力頭から追いやり、子供のことだけを考えて生きることにした。

 リチャードと名付けた子は、彼女の生き甲斐そのものだった。少し気弱なところもあったが、優しく賢い息子は、常に彼女の誇りであった。

 自分譲りの金髪と瞳の色、そしてよく似た顔つきと成績優秀さを褒められる度、ガブリエラは満ち足りた気分を味わったものだ。しかし、それも戦争が始まるまでの短い間の出来事でしかなかった。

「リチャード、リチャード!」

 ガブリエラは泣きながら室内のあらゆる方向に向けて呼びかけた。いつものように何らかのサインが返ってくるのを期待して、割れた破片を踏みしめながら、両手を広げて夢遊病者のように歩き回る。

 しかし、望むようなものは何も来なかった。

 どこからともなく聞こえるコツコツという音も、カーテンが揺れるようなサインは、いくら待っても現れない。

 ガブリエラは失意にまみれながら、ぼんやりと考えた。


 ――どうしてあの子は何も知らせてくれないのだろう。どうしてこんなことになってしまったのだろう。一体、どうして――?


 頭の中で渦を巻く疑問は、再び燃え上がった怒りによって瞬く間に押しやられる。

 

 ――あの男のせいだ。


 ガブリエラは憎しみのこもった視線で目の前の瓦礫を睨み付ける。

 夫が安全だと言ったから。上層部も大丈夫だと言ったから、彼女は渋々ながらも息子を軍隊に入れ、戦地に送り出したのだった。

 正義という言葉に踊らされた何千何万もの若者は海を渡り、そして多くの者がそうであったように、リチャードも帰っては来なかった。


 ――それなのに、あの男ときたら!


 抑えられない怒りのせいで、ガブリエラの身体がぶるぶると震え始める。夫の名を呼ぶのも汚らわしいと思うほどだった。噛みしめた唇は切れ、顎を伝い落ちた血が足下を汚す。

 息子の戦死報告にうちひしがれて泣き暮らす彼女を完全に放置し、夫は愛人の家に入り浸った。

 彼は息子を戦地へと送り出しながら、自分は安全な場所でのうのうと遊んで暮らしていたのだ。

 挙げ句、そこで突然の発作に襲われて死んでしまった。腹上死などというあまりにも恥ずかしいスキャンダルは、社交界で繰り広げられる心ない噂話となってガブリエラのプライドをずたずたに引き裂いた。

 ガブリエラは泣いて泣いて泣き続けて、体中の水分が干上がってしまうのではないかと思うほど泣き暮らした。

 そんな絶望の日々を送っていたときだった。完全に生きる気力を失っていた彼女のもとを、若い将校が部下を伴って訪れたのは。

 彼らはジョシュア・マクファーレンとダニエル・フレミングと名乗り、リチャードに託されたというペンダントを携えていた。それはかつてガブリエラが戦地へ赴く息子へと贈ったものだった。

「ご子息は、指揮官として立派に戦っておられました」

 リチャードと同じ部隊にいたというジョシュアは、負傷した右の肩を押さえながら言った。

「彼が身を挺して庇ってくれなければ、私はこの程度の傷では済まなかったことでしょう。彼も同じです。こちらのフレミング軍曹も、私と一緒に、中尉によって救われました」

 けれど、いくら美談を聞かされようともガブリエラの心は少しも動かなかった。冷たいペンダントを指先で弄くりながら、遠い視線を中空に投げ出すばかり。

 遺品を前にして、もうこの世のどこにも息子はいないのだと認識した途端、あまりの悲しさに胸が潰れてしまいそうで、ふと浮かんだ疑問が、つい口をついて出でしまった。

「あの子は今、どこにいるのかしら?」

 そうして、言ってしまってから後悔した。

 何を馬鹿なことを言っているのだろう。フランスに決まっているではないか。冷たく湿った土の中で、あの子は鼠の声を子守歌に眠っている。そう考えた途端、涙が滲む。

 しかし彼らは笑わなかった。それどころか、至極真面目な顔で、こう答えたのだ。

「お側におりますよ」

「え……?」

 一瞬、ガブリエラは耳を疑った。

 呆然とする彼女に向かって、ジョシュアが続ける。

「ご子息は、貴方のお側におります。そう……すぐ隣に」

 彼の指す方向へと目を向けるガブリエラに、ダニエルが言った。

「奥様、残念ながら姿は見えません。ですが、確かにライト中尉はそこにおられます。魂だけの存在となってね」

 にわかには信じられなかった。だが、ガブリエラは交霊術というものの存在を思い出した。

 自身が参加したことはなかったが、上流階級のサロンでも夢中になっている者がいて、かなり頻繁に行われているのは知っていたのだ。

「あなた達は死者の声が聞けるの?」

「ある意味ではそうでしょうね。ですが、我々は死者とだけ交信できるのではありません」

「……と言うと?」

 困惑するガブリエラに、ダニエルが答えた。

「天使です」

「天使?」

「そうです。ご子息の魂は今、貴女愛によって浄化され、天使と共に貴女を見守っておいでなのです。ほら、聞こえませんか? 彼らの送るサインが」

 言い終わるや否や、部屋のどこからかコツコツという音が鳴る。ガブリエラは驚いた。

「……リチャード? 本当にリチャードなの?」

 音は再び鳴った。まるで彼女の問いかけに答えるように。

 そうして、彼女はもうひとつ思い出す。

 フランスへの派兵に渋っていたとき、夫やその上層部から何度も聞かされた言葉を。


 ――強運を持つ男がいる。何でも、天使が常に護ってくれているらしい。

 ――その男をご子息の下につくように手配しておきました。ですから、絶対に大丈夫です。安心して我々に任せていただきたい。


 ガブリエラはテーブルを挟んで対面している二人をまじまじと見詰めた。そして、彼らが伝えることを理解したのだった。


 天からの御使いメッセンジャーの存在を知った彼女は、彼らの薦めで神智学を学び、その教義に大いなる慰めと喜びを見出した。

 曰く、神の霊性は人にも宿っており、その魂は肉体を捨て、死と輪廻という通過儀礼を経ることで、より高度な存在へと近づくことができるのだと。

 それは、死んだ息子が天使と共に自分の側にいるのだと伝えてくれたジョシュア達が言った通りのことだった。

 協会で知り合った多くの霊媒たちの助けも借り、ガブリエラはすっか生気を取り戻した。

 ずっと泣き暮らしていたせいで老け込んでしまった肉体も、徐々に回復をみせはじめ、白髪まみれだった髪は自慢の色艶を取り戻し、げっそりと落ち窪み、赤く泣きはらしていた目元も瞬く間に美しい色へと変わった。

 ガブリエラは、自分は生きながら生まれ変わったのだと思った。それほどまでに新鮮で素晴らしく満ち足りた日々だった。

 世間では神智学会のことを蔑み、悪く言う者も少なくなかったが、信じるものを得たガブリエラが怖れるものはなかった。

 それからの彼女は精力的に動いた。神秘の世界を広めようと、そして同じように我が子を失った多くの母親達の悲しみを慰めようと、私財を投じて協会をサポートし、自らも交霊術の会を開くなどもした。

 交霊は主にダニエルが行った。軍人らしいはっきりとした物言いと堂々とした振る舞いは、彼の行いが疑いようもなく真実であることのあらわれに思えたし、ジョシュアの語る体験談は戦場での恐ろしさと、それ故に実感した奇跡とを母親達に伝えた。

 二人とも、公私共々ガブリエラのために動いてくれた。特にジョシュアはリチャードとも年が近いということもあって、何かと彼女が気にかける存在となり――そしてあまりにも美しい青年を、彼女は深く愛するようになったのだった。

 快く思わぬ者に口さがないことを言われたこもあるが、ガブリエラは気にするどころか、一層教義にのめり込んでいった。投資の金額は倍に膨らんだが、俗世の煩わしさから逃れて生き甲斐を得る為だったら何でも良かった。

 充実した日々だった。奉仕と慈愛に満ちた日々だった。失ったもの以上の愛を実感できた日々だった。

 そのはずだったのに。

 友人だと思っていたジェレミーから、まさかあのような仕打ちを受けるとは思ってもいなかった。

 なにより、自分を突き飛ばして一目散に逃げて行くダニエルの後ろ姿にガブリエラはショックを受けた。そして。


 ――天使。


 震える肩に指を食い込ませながら呟いたジョシュアの一言。

 あの悪魔めいた異形を前に、彼は確かにそう呟いたのだ。

 その瞬間、彼女を支えていた世界が音を立てて崩れ落ちた。

 あのような恐ろしいものがこの世に存在するのか。あのような禍々しい気配と悪意に満ちたものが、息子と共にいるというのか。ならば、今まで自分が信じていた神智学会の教義と霊媒たちの言う美しい世界は一体何だったのか。

「リチャード、お願いよ! 出てきてちょうだい! いつもみたいに私を慰めて! 私を許すと言って!!」

 ガブリエラは空に向かって叫んだ。だが、やはり息子からのサインは一向に顕れない。

 猛烈な息苦しさに襲われ、彼女は真っ青な顔をしてその場に蹲った。息子を亡くした直後から、あまりの悲しみのせいで胸を悪くしていたのだ。

 肩で荒い息をつきながら、ガブリエラは思った。

 世間が言うように自分がやってきたことは詐欺行為だったのだろうか。他の霊媒たちも、ダニエルのようなペテン師だったのだろうか。自分はいいように騙され、担がれただけなのだろうか。

 資産のほとんどを協会の支援に使ってしまった今、彼女の手元に残っているのはこの屋敷と、あとは田舎に残る先祖伝来のわずかばかりの土地と、修繕のしようがないほどに荒れ果てた小さな古城だけだった。

 考えれば考えるほど惨めになってゆく。ガブリエラは両手で顔を覆い、嗚咽を漏らした。

 しゃがみ込む膝には自分が壊し尽くした破片がいくつも刺さったが、心の痛みに比べれば大したことではなかった。

 ジョシュアはガブリエラが大人しくなったのを見て、その側に歩み寄った。器用に破片を避けて膝をつき、彼女を抱き寄せる。

「嫌よ! やめて、触らないで!!」

 尚もヒステリックに叫びながらガブリエラは暴れたが、若い男の力敵うはずもない。易々と組み伏せられ、彼女はまた泣いた。

「リチャード、リチャード――」

 ぜいぜいと喘ぎながらも譫言のように息子の名を呼び続ける様子は、完全に痴れ狂ってしまったかのようだ。

「奥様、落ち着いて。ご子息はいつも貴女のお側におります」

 ジョシュアの囁きに、ガブリエラの動きが止まる。深く浸透する声は、かつて自分を苦しみから救ったのと同じ言葉だ。

 ガブリエラは呆けたような表情でジョシュアを見上げた。

「私が信じられませんか?」

「いいえ――! いいえ、そんなことはないわ!」

 心外だと言わんばかりの視線を寄越す男の首に手を回し、ガブリエラは必死の形相でしがみ付いた。これ以上何も失いたくはなかった。

「信じてる、信じてるわ、ジョシュア。貴方は、貴方だけは私を裏切ったりしない――そうよね!?」

「勿論ですとも、奥様」

「嫌! 奥様なんて呼ばないで!」

 ガブリエラは大きくかぶりを振って泣きじゃくった。

 夜会用に結い上げた髪はすっかりと乱れてしまっていた。汗と涙とで化粧も崩れ、高価なドレスも所々が破れ、酷い有様だ。

 開いた扉の影から使用人達が息をつめて室内を覗いているのも見えていなかった。

 もはや彼女には女主人としての体面も矜持も無かった。そこにいるのは、愛に飢えてヒステリックに泣きわめく我が儘な少女だった。

 ジョシュアはガブリエラを抱いたまま身を起こした。そして、そのすっかり乱れた髪を手で撫で梳きながら、彼女のこめかみに口付けを落とす。

「ガブリエラ」

 低い声で囁かれ、ガブリエラはうっとりとした表情を見せた。青灰色の瞳からは狂気と共に光が徐々に消えてゆく。

「今日はいろいろあって疲れたでしょう」

「ええ……ええ、そうね、疲れたわ……」

 とろんとした酔った視線で、ガブリエラは目の前の端正な顔を眺めた

 この方は誰だったかしら。こんな美しい天使のようなお顔をした、立派な殿方は、一体。

「一晩眠れば気分もすっかり良くなりますよ。今夜はもうお休みなさい」

「そうね……そうするわ……」

 いつもと変わらぬジョシュアの声に、ガブリエラは人形のように何度もと頷いた。心はすでにここにはなく、夢の世界へと向かっている。

 そうこうしているうち、きつく握りしめていた指からも徐々に力が抜けてゆく。やがてぶつぶつと不明瞭な言葉を呟きながら、彼女は完全に眠りに落ちた。

 ジョシュアはそんな彼女を抱きしめながら、部屋の一角をじっと見つめ続けていた。常人には見通しもきかぬ、何もあるはずのない空間を。


    †


 やっと大人しくなったガブリエラを使用人達に任せ、ジョシュアは部屋を後にした。

 階下へ降りると、こちらはこちらで大騒ぎの真っ最中で、玄関先で昏倒したままの老執事の手当をするメイド達が忙しなく走り回っている。

 誰かが呼んだ医者が慌てた様子で駆け込んできたが、ジョシュアはそれには構わず、屋敷の奥にあるキッチンに向かった。

 背後の騒々しさとは対照的に、キッチンは静まりかえっていた。晩餐の時間はとうに過ぎているのだし、普段ここを根城にしている料理婦も、今は女主人介抱や部屋の後片付けやらに駆り出されているのだから当然といえば当然のことなのだが、だからといって全くの無人というわけでもなかった。

「レイチェル」

 薄暗い室内に向かって呼びかけると、片隅で蹲っていた少女がびくりと肩を振るわせた。

 濃紺の制服は闇に溶け、エプロンとキャップ、そして彼女の肌と砂色の髪がぼんやりと浮かび上がっている。狂乱状態のガブリエラを制止しようとして返り討ちにあったメイドだ。

「レイチェル。済まないが、水をくれないか」

「あ――はい、ただいま」

 レイチェルと呼ばれた少女は慌てて立ち上がり、料理台へと駆け寄った。

 水差しに残っていた水をコップに注ぎながら、小さく洟を啜る。気づかれないようそっと涙を拭うその後ろ姿を、ジョシュアは黙って眺めた。

「どうぞ」

 レイチェルが顔を伏せたままコップを差し出す。その腕を、ジョシュアは掴んだ。

 レイチェルは驚き、反射的に手を引いて逃れようとしたが、ジョシュアはそれを許さなかった。素早く間合いを詰めると、もう片方の手を彼女の背に回す。

「可哀想に」

 ジョシュアは呟いた。そして、掴んだ腕を軽く引く。

 たったそれだけで、少女は自らジョシュアの胸へと自ら飛び込んだ。

 声を殺して泣くレイチェルの手から、ジョシュアはコップを取り上げ、傍らのテーブルに置いた。それからレイチェルが落ち着く頃合いをみて、そのか細い顎に手をかけた。

 指先が触れた瞬間、レイチェルは体を強張らせたが、今度は逃げなかった。

「見せてごらん」

 廊下から差し込むわずかな明かりでも、彼女の右頬は酷く腫れ上がっているのがはっきりとわかる。骨折まではしていないようだったが、醜く変色した中心は、うっすらと血が滲んでいるのが見えた。

 レイチェルは口元を強く引き結び、震えていた。目元には新たな涙が溢れ、いまにもこぼれ落ちそうになっている。

「これくらいの傷ならすぐに治るし、痕も残らない。大丈夫だ、心配ない」

 そう言うと、ジョシュアは傍らの棚から綺麗なナプキンを一枚取った。たった今レイチェルが酌んだ水を含ませて湿らせると、彼女の腫れた頬にそっと押し当てた。

「暫く冷やしておくといい」

「ありがとうございます、マクファーレン様」

 レイチェルは泣きながらジョシュアの顔をうっとりと見上げた。

 とても信じられなかった。ずっと憧れてい人の胸で、こんなふうに優しくされているなんて。

 レイチェルは涙を拭うと、ぎこちなく頭を傾け、ジョシュアの胸にそっともたれかけさせた。

 腫れていない方の左の頬で、呼吸のたびにゆっくり上下する胸と、意外としっかりついている筋肉と、心臓の鼓動を感じ取る。それは同年代の友人もおらず、独りぼっちで毎日女主人からの理不尽ないじめに耐えていた彼女が、寂しさを紛らわすために密かに夢想していたことだった。

 夢じゃないかしらと、レイチェルはぼうっとした頭で思った。右の頬を冷やしていてくれる手に、おずおずと伸ばした指先で触れてみる。

 触れる温もりは紛れもなく本物で、それを意識した途端、レイチェルの体はかっと熱くなった。

 しかし、そんな想いを余所に、男の手はするりとそこから逃げてしまう。

「そうだ、思い出した」

 ジョシュアはそう言うと、上着のポケットをまさぐった。そうして名残惜しそうな表情を見せるレイチェルに、取り出した小さな薬瓶を見せる。

「それは?」

「奥様の胸の薬だ。先の騒動で、渡すのをすっかり忘れていた」

 色ガラスの中で揺れている液体を目の当たりにし、夢見心地でいたレイチェルが、はっと目を覚ます。

「また忘れないうちに、君に預けおこう。後で奥様に渡しておいてくれないか?」

「……私がですか?」

 レイチェルが出した小さな声は、微かに震えていた。

「明日の朝にはすっかり機嫌を直しているだろうから、そのときにさりげなく渡すなり、バッグに入れるなりすればいい。どうしても無理なら、ブライスに頼んでおけば――」

「いいえ、大丈夫です! 私が預かります!」

 レイチェルは慌ててジョシュアの手に縋り付いた。高慢で我が儘なガブリエラはもとより、彼女の影のように付き従う陰気な顔をした老執事はもっと苦手だったからだ。

「そうかい? じゃぁ、頼んだよ」

 ジョシュアはレイチェルの手に薬瓶を握らせると、身を寄せて小声で付け加えた。

「扱いには気をつけて。何せ、貴重な薬だからね」

「はい……」

 ゆっくりと頷くレイチェルの瞳が通路から差し込む明かりに反射し、猫のような輝きを放つ。

「よし、いい子だ」

 ジョシュアはそう言うと、レイチェルの額に軽く唇を落とした。

 驚いたレイチェルが跳び退ると同時に、ジョシュアはくるりと背を向ける。

「今夜は自分の部屋に帰らせてもらう。こんな状況では落ち着いて眠れそうにないし、それに、ずっと締め切ったままでは、部屋中が埃臭くなってかなわないんでね」

「あの、では、お車を――」

「いや、その必要はない。少し夜風に当たってほとぼりを冷ましたい。大通りでタクシーでも捕まえるさ」

「そうですか……かしこまりました」

「それじゃぁ、おやすみ、レイチェル。良い夢を」

「おやすみなさいませ、マクファーレン様」

「ヒューだ」

「え?」

 深々とお辞儀をしようとした中途半端な姿勢のまま、レイチェルは顔を上げる。

「私の名前だよ。ジョシュア・ヒュー・マクファーレン」

 片目を瞑った男は、あっという間に戸口から姿を消す。

 レイチェルは暫くぼうっとしたまま立ち竦んでいた。

 夜闇に溶け込む漆黒の髪と、薄明かりに一層白く生える膚。その中にあって一際強い輝きを放つ星のような双眸が、彼女の心を捉えて放さない。

「ヒュー……様……」

 小さな声で確かめるように呟くと同時に、裏庭に通じる扉が閉まる音がした。

 見送りさえまともに出来なかったことに気づき、レイチェルは項垂れた。しかし、それほど気落ちはしなかった。先の出来事を思い出すだけで彼女の胸は高鳴り、体中が熱くなる。気づけば頬の痛みも随分と引いている。この分なら、ジョシュアの言うようにすぐに治ってくれるだろう。

 レイチェルは窓へと駆け寄ると、小窓から裏庭を覗く。

 手渡された薬瓶を握りしめながら、彼女は闇の向こうに姿を消した男を思い浮かべ、いつまでも外を眺めていた。

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