1月10日

「来てくれてありがとう、雨宮くん」


 あれから僕は退院し、いつも通りの労働の毎日を過ごしていた。

 病み上がりでいつもに比べてトロい僕に対して、何度も日雇いで顔を合わしている上司たちは優しかった。僕の境遇を初めて知って、男泣きしながらなけなしの2万をくれた人もいた。

 ……1人では不安なはずの日岡さんに、少しでも多く会いたかったのに、あの日から僕は何度も、病院の前まで来て引き返してを繰り返した。

 時刻は午後2時を少し回ったぐらい。そんな気まずい思いをしながらノックしてドアを開けたのだが、日岡さんは変わらずいてくれて、僕は一安心した。


「病院の前を行ったり来たりしている不審な男がいると聞いて、ああ雨宮くんのことだなと2秒で分かったわ」

「…………」

「ヘタレ。意気地無し。もやし。優柔不断。カス。ゴミ。道端に落ちてる犬の糞。ダンプカーに轢かれたスカンクの死骸。ドブに1週間浸けたネズミのミイラ」

「そこまで言われなきゃいけないかな」

「いけないわね」

「そうだね。ごめん」


 まぁどうでもいいのだけど、と日岡さんは可動式ベッドを操作して上半身を起こし、ベッドの手すりに肘をついた。

 見舞い品やCDケースの置かれた台には、かなり食べ残した昼食が置いてある。僕はどうしようもなく胸が痛んだけれど、それをどうにか心の内側でせき止めた。


「雨宮くん。近い未来の話をしましょう」


 日岡さんは僕の目を見て言った。

 僕の目よりも、僕の眼に映る景色よりも、その先を越えた何かに焦点を当てて。


「一週間後までの未来の話。それ以上先を想像することは、私には荷が重いから」

「…………」

「そんな顔をしないで。……いつものブラックジョークよ。一週間後、私はポックリ死んでるかもしれないわね。そうじゃないかもしれないわね。

 そういうレベルの話なの。深刻にならないで」

「わかってるさ。……あとこの際だから言うけれど、君のジョークは言うほど面白くないんだぜ」

「まぁ雨宮くん。人に言っていいことと悪いことがあるわ。私に対して死ねでも殺すでもなんでも言っていいけれど、私のセンスを否定することだけは、私許さないわよ」


 ジョークが面白くないというだけで、センスが悪いとは言ってないんだけど。まぁ同義っちゃ同義か?

 僕は、日岡さんの手を握った。


「近い未来の話。1ヶ月後、君のジョークのセンスはもっとひどくなってるだろうね」

「…………」

「これからもずっとひどくなっていくんだ。そうしてセンスないジョークで、これからも毎回僕を困らせるんだ。ずっとな」

「……あなたには口説き文句のセンスがないわね」


 そんな上擦った声で言われても、説得力ないけどな。

 日岡さんは布団で顔を隠す。そんな仕草は日岡さんらしくもなく、子供っぽくて、僕はニヤニヤと気持ち悪く笑った。


「ねぇ雨宮くん、明日ね、ミスドのセールがあるらしいのだけど……」


 どふっ、と、日岡さんが顔の前に持ち上げている布団が揺れた。

 笑っているのだろうか?

 しかし、日岡さんはそれっきり黙り込んで、全く動かない。布団から徐々に指が離れていって……


「日岡さん!!」


 布団が落ちたときに僕が見たのは、片手で真っ赤な口を押さえる真っ青な日岡さんと、布団に大きく地図を描いた、今まで見たこともない多量の血だった。

 目の前が真っ赤で真っ青で。僕はパニックに陥って、大声を出しながら、ナースコールの仕組みもよくわからないままに……。


「………………」


「………………あはは」


「私には、未来の話をする権利なんか、ないってことかしら…………」


「雨宮くん…………」


「………………」


 気がつくと僕は、集中治療室という部屋の前で立ち尽くしていた。

 永遠に頭の中でリフレインする、

 お医者さんと看護師さんが病室に辿り着くまでに、ほとんど息だけの声で日岡さんが話した、僕の前での初めての弱音が。


「…………死にたくないよ…………」


 声にならなかった、痛く、脆い叫びが。

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