第0話 龍は舞い降りた(後編)

 ――どうしてこんなことになったんだろう、とにっことは疾走するバスの中で考える。

 真琴の目の前には、逞しい青年が背中をこちらに向けて立っている。

「久しぶりだね、相良さがらりゅういち。懐かしい君、忘れ難い君。

 彼の名を、場違いなほど静かな声が呼ぶ。まるで古い友人に話しかけるような、穏やかで親しみのこもった声だ。

 声の主も龍一に負けない若さだった。ハンチング帽を小粋にかぶり、灰色のハーフコートを着た、背の高い青年。鼻はコンパスで描いたように丸く大きく、口も一目見たら忘れられなくなるほど大きい。美男ではないが、人の良さそうな顔だった。なんとなく、民話に出てくる朴訥で善良な農夫を思わせた。

 だがその人のよさそうな青年が、割れた窓から強風が吹き込み、鮮血が床に溜まっているバスの車内で微笑んでいる様は、どう見ても尋常ではなかった。

「そのしつこさだけは素直にすごいと思うよ、〈ヒュプノス〉。それとも、二度這いつくばりたいのか?」

 顔をしかめて肩のガラス片を払い落としながら、龍一が返す。「てっきり、飛行機ごと海に落ちたものと思っていた」

「君の期待に添えなくて申し訳ない……生憎とこの通りだよ。それに君にももうわかっているとは思うけど、たとえが死んだところで大した支障はない。個体としての死は〈ヒュプノス〉の死ではないのさ」

「全にして個、個にして全、だったか。〈ヒュプノス〉が一人の殺し屋じゃなく、ブランドネームであり組織名だって説は間違いじゃなかったんだな」

「そう、間違ってはいない。それが全てでもないけど」

「……僕たちは言わば、喋らずにはいられない墓石なんだよ」

 近くの座席から、若い女性がゆっくりと立ち上がった。身なりのいい女性だったが、手に持っているのは鈍い輝きを放つ抜き身の軍刀サーベルだった。

「死のスキルこそが僕たちの存在意義であり、そしてまた、存在意義のためにはそれを行使せざるを得ない。徹底的にが効かないのさ」

 反対側の座席から、龍一に負けず劣らずの体格を持つ壮年の男が立ち上がる。レスリングの選手か、それとも何らかの格闘技の経験者なのか、Tシャツを押し上げんばかりに胸部の筋肉が発達している。両の拳には金属製のナックルダスターが装着されている。

「老若を問わず、男女を問わず、貧富を問わず、貴賤を問わず。死は平等に、万人に降り注ぐものでなければならない」

 また別の座席から、神経質そうな会社員風の男性が立ち上がる。細長い製図ケースの中から取り出したのは、刃渡り60センチに迫りそうな肉厚の山刀マチェットだった。

「神でも物理法則でもなく――只人が人に与える死は、最大限の技量と、余人には真似のできぬ砕身によって、その恐怖と苦痛を最小限に抑えなければならない。それは〈ヒュプノス〉の名を持つ者すべての、責務だ」

 そして正面、ハンチングの青年が得物をゆっくりと掲げる。革の手袋と、釣りのリールのような器具の間に伸びる蜘蛛の糸のようなワイヤーが、微かなきらめきを反射させた。

「誰であろうと与えなければならない――

 姿かたちのばらばらな男女が、ほぼ同時に同じ口調で同じ言葉を喋る。グロテスクな悪夢か、ブラックユーモアの一場面のような情景だった。

「……今すぐ背中にしがみつけ。いいか、俺がいいというまで全力でしがみついていろ」

 顔を前方に向けたまま、龍一が小声で呟いた。緊張しているがおびえてはいない、その口調に、少しだが真琴の全身を縛っていた異様な非現実感が薄れた。

「大丈夫だ。3分だけ我慢しろ」龍一は顔を半分だけ真琴に向け、微かに笑って見せた。「それだけあれば、目の前のあいつらを

 どうしてこんなことになったんだろう、と新田真琴は疾走するバスの中で考える。

 少なくとも数時間前までは、糊の効いた清潔なシーツの感触を楽しんでいたのに。


【数時間前】 

 真琴はまどろみながら寝返りを打ち、ベッドの中で一杯に足を伸ばした。糊の効いた清潔なシーツの感触が快い。うーんと呻いているうちに眠気が少しずつ去り、頭がはっきりしてきて、代わりに違和感を覚え始めた。

 変だ。僕のベッド、こんなに広かったっけ?

 そもそも、こんな呑気に睡眠を貪っていていいものなんだろうか。昨夜あんなことがあったはずなのに。

 ――そうだ、あんなこと!

 目を見開いて仰天した。真琴が寝ていたのは自室のベッドではなく、映画の中でしかお目にかかれないような豪奢な天蓋付きベッドであり、繊細なレースのカーテン越しに見えるのは黒と金を基調にしたシックで落ち着いた調度品が並ぶホテルの一室だ。もちろん広さは自室の比ではなく、ミニバスケットボールの試合が行えるくらいのスペースはある。真琴の背丈の何倍もある大きな窓の外に広がるのは、まさに日が昇ろうとしている未真名市の中央オフィス街だ。

 思わずベッドから転がり落ちてしまったが、驚きすぎて痛みすら感じなかったほどだ。尻もちをついたまま真琴は周囲を見回した。思わず正直な気分が口から漏れた。

「ここ、どこお……⁉」

 いや、見覚えはあるのだ。ただし外側からだが。

 ショッピングの帰りに傍らを通りすぎるたびに、真琴はこんな煌びやかな建物で寝起きする人はどんな人なのだろうと訝しみ、あの建物の中からこの通りを見下ろしたらどんな眺めだろうと夢想し、そしてそのありえなさに一人で苦笑するのだった。それが今日、こんな唐突に実現するなんて!

 まるでそれに応えるように軽いノックが聞こえた。真琴は身構えたが、すぐに身を隠しても無意味だと思い直した。

「おはよう。目は覚めた? 痛いところはない?」

 入ってきたのは、相変わらず風もないのに揺れているような髪を持つ、あの若い娘だった。コーヒーやトースト、サラダやヨーグルトの乗った盆を手で持っている。確かに脇腹は痛いのだが、それ以上に腹が鳴りそうだった。

「おはようございます。……あの、食べてもいいんですか?」

「もちろん」娘はにこやかに頷く。真琴はとりあえず、彼女が犯罪者の一味であることは棚上げすることにした。時計を見るともう朝の10時を過ぎている。普段なら教室で授業を受けている時間帯だ。道理で腹が空いていると思った。

 こんなふうに他人に見守られながら食事するのは本当に久しぶりだった。真琴は空腹も手伝って盆の上の朝食を瞬く間に平らげた。簡素なメニューが、プロの手にかかるとこんなに美味だとは知らなかった。ただのグリーンサラダさえ頬がとろけそうになるのだ。

「やっぱり、お腹空いていたのね」娘は優しく真琴の口の周りを拭いてくれた。「蹴られたんだったわね? 湿布しておいたから、見てみましょう」

 ごめんね、と断ってから彼女は真琴のパジャマをめくった。湿布をどけると、あの男たちに蹴られた箇所は既に黄色い痣になっていた。

「まったくろくでもない連中ね。内臓破裂したっておかしくないのに……」

 でも黄色くなっているのは治りかけの証拠ね、よかった、と呟きながら娘は湿布を取り換え始めた。確かな手つきだ。真琴は内心首を傾げる――どう見ても暴力とは程遠いこの少女が、どうしてあの犯罪者たちとつるんでいるのだろう?

 考えられるのはガスマスクの青年やスーツの男、どちらかの情婦という立場だが、どうもそういう雰囲気ではない。あの男たちを姉か母親みたいに叱りつけていたし。

 そもそも犯罪者って、目出し帽とかスカーフとかで顔隠してなかったっけ。僕に顔を知られていて、後で面倒なことにならないんだろうか? 僕が警察に駆け込むかどうかはともかく。

「……ねえ、お姉さん」

「なーに?」

 手を休めずに娘が優しく微笑みかける。それに向かって家に帰っていい? とは言えず、真琴は言葉に詰まる。

 だが、考えをまとめる前にドアの外で足音が聞こえた。

「夏姫。あの子が目を覚ましたって?」ノックの音が響き、ドアが開いて顔を出したのはあの青年だった。ボディスーツは脱いだのか、灰色の長袖シャツにブルージーンズというずいぶんくつろいだ格好だ。

 硬直して上半身を強張らせた真琴に対し、夏姫と呼ばれた少女の動きは素早かった。

「女の子の手当の最中に……」

 枕をつかみ上げ、見事なモーションで投げた。「何考えてるのよ⁉」

 ぼふっと間の抜けた音を立てて、枕が青年の顔面に命中した。

「……女の子?」青年は呆気に取られた顔で、怒りの形相の夏姫と、必死でパジャマの胸元を掻き合わせている真琴と、そして処置なしという顔で首を振っている背後のスーツの男の顔を順番に見た。「女の子?」

「何で教えてくれなかったんだよ?」

「聞かれなかったからだよ。第一、お前が泡を食って面白いからな」

「面白いのはあんた一人だろうが。くそったれめ」

 真琴は思わず半目になってしまった。「……もしかして、僕のこと男の子だって思ってたんですか?」

 青年は重々しく頷いた。「ああ……ずいぶんと華奢だなと思っていたけど、そもそも胸が」

 真琴は黙ってテーブルの上に置いてあった重そうなガラスの灰皿を頭上に振り上げた。

「わかった。悪かった。話し合おう」

「ヘリまで飛ばして人をさらっておいて今さら何を言ってるんですか?」ようやく口が回るようになってきた。安心して腹を立てられそうだ、と思ったからでもあるが。「僕をさらうのにどんだけお金と手間をかけてるんだよ?」

 いくら報酬が出るからってあんなやり方で子供一人連れ去るくらいなら、銀行強盗でもした方が手っ取り早いと思う。

「まあ……込み入った事情があってな」スーツの男が頬を掻きながら言う。

 真琴は溜め息を吐いて灰皿を置いた。どうやらその「事情」とやらを聴かないことには話が進まないみたいだ、と思いながら。

「説明してください」


「……君か。そろそろそちらからコンタクトがあるんじゃないかと思っていたよ」

【やってくれましたね。上海における我々の拠点を潰してくれたばかりか、今まで蓄えていた〈ヒュプノス〉関連情報の7割方まで欺瞞情報に置き換えてくれるとは】

「相手が悪かったね。気の毒だとは思うけど同情はしないよ。君たちのに対するペナルティとしては、これでも甘くしたつもりだけどね」

【正直なところ、あなたがた〈ヒュプノス〉には手を焼きました……各個体間の情報共有は傍受も妨害も不可能。識別手段はおろか、繁殖の手段すら全く不明。個体を捕らえて尋問しようにも、捕らえた瞬間に認識ロックでから切り離してしまう】

「監視と逮捕拘束と拷問でこの世の何もかもが思い通りになると思っている人々には、いい薬になったんじゃないかな。僕たちの依頼は国境もイデオロギーも問わないけど、〈ヒュプノス〉総体に対する介入となれば話は別だ」

【認めます。あなたたちを敵に回せば、どの国の情報機関だろうと手を焼くことでしょう。しかし……全面戦争もあなたがたは望んでいないはずだ】

「だから交渉の余地はあるって? そちらから横面を張り飛ばしてきたにしては、ずいぶんと大きな態度じゃないか」

【では正式な依頼ではいかがでしょう? 緊急かつ、難易度の高い、まさにの案件です。それで今後の遺恨はなしという形では】

「いいとも。聞くだけ聞くよ」


「……やっぱり、父さんの仕事と何か関係があるんですか?」

 そう言った時、目の前の3人の間に漂った微妙な空気を真琴は見逃さなかった。正確には娘と青年が目を見かわし、スーツの男が余計なことを言うなよ、と目だけで命じた、という雰囲気だ。

 先ほどの部屋が一流ホテルの寝室なら、今度は応接間だった。食卓としても使えそうな光沢のある大きなテーブルに、腰が埋まりそうな上質のソファ。室内にはミニバーまで設置されている。こちらは黒と銀を基調としたモノトーンの室内なのに、まるで息苦しさを感じさせない設計は見事なものだ。

 真琴の右隣にはあの娘、対面にスーツの男が座っていて、その向かって左に青年が窮屈そうにソファへ身を沈めている。威圧感を与えないように気を遣ったのだろうか。それはそれで頭に来るなあ、と真琴は考える。もっと他のことに気を遣ってほしいもんだ。

「そうだ。確か君のお父さんは……」

「フリーのWebライター、だったわね。新田きよしさん」

「そう、元々家に寄り付かない人ではあったんだけど、最近はまた新しい記事のために半月ぐらい帰ってなくて……僕が学校から帰るのと入れ違いに出ていくくらいだったし」

 思い切ってこちらから聞いてみた。「皆さんは、父の行方を知っているんですか?」

 3人がまた目を見交わした。

「……いや。俺たちもそれは知らないんだ」青年が意図的に深みを増したような声で言った。「試しに知り合いのライターや編集部にも探りを入れてみたが、そちらにも連絡は行っていないようなんだ。だから君が知っているんじゃないかと思ったんだが……」

「僕は……皆さんが期待するほどには何も知りません」

 言って、口の中に苦味が湧いた。それが自分が命の危険にさらされる原因を作った父への憤りなのか、それともこの期に及んでも父を心配できない自分の薄情さへの呆れなのか、それは真琴自身にもわからない。

「そもそも、皆さんは父とどういう……」

 言おうとした時、軽いノックの音が響いた。

 ドアを開けたのはあのヘリのパイロットだった。歳は目の前の青年とそう変わらない若さだが、目の鋭さや全身から漂う何とも言えない凄みは桁違いだった。モデルか俳優と呼ばれてもおかしくない容貌肢体の持ち主だけに、余計に迫力がある。

 その後に続いてきたほっそりした女性を見て、真琴は呆然としてしまった。

「初めまして、新田真琴さん。高塔百合子と申します」

 声を張り上げたわけでもないのに、よく響く。聞く者の方が自然と耳を傾けてしまう、そういう声だ。

 高価な生地が問題にならないほど地味な装いのスーツを着こなしたその人は、非の打ち所がない挙措で真琴に一礼してみせた。逞しい青年と目の前の娘は音が聞こえそうな勢いで背筋を伸ばし、あの不真面目そうなスーツの男さえ表情こそ変えないものの、やや居住まいを正した。

 ちょっと待って? 今、「高塔」って言った?

 真琴の暮らす未真名市に名士の類は大勢いるだろうが、中でも高塔グループの名はそれなりの畏敬を持って語られるものではあった。何しろ高塔の名を見ないことにはスーパーで買い物もできなければ、電車にも乗れないのだ。

「今回は、緊急事態とは言え真琴さんに大変恐ろしい思いをさせてしまいました。そのように命じたのは私です。心より、お詫び申し上げます」

 深々と頭を下げる百合子に、かえって真琴の方が「あの、お顔を上げてください」と口走ってしまった。これでは仁侠映画だ。

「自己紹介がまだだったな。俺は崇。そっちの仏頂面がテシクだ」

 スーツの男の自己紹介にパイロットの男は「何て言い草だ」と憮然としながら真琴に向き直った。

「俺は龍一」

「私はなつ。よろしくね」

 はあどうも、と会釈を返しながら真琴は訝しんだ。そんなにあっさりと名前――本名かはわからないが――を明かしていいんだろうか。僕、一般市民なんだけど。

「真琴さんのお父様……清氏には仕事の関係上、幾度かご協力をいただいておりました。大仰な言い方をすれば『同志』というところでしょうか」

「同志、ですか?」つい問い返してしまった。父は真琴の知るかぎり、特定の主義信条に肩入れしているようには見えなかったからだ。

「お父様は、自分がかつて属していた会社で何か大きな不正が行われているのではないか、と疑っていました。それが私たちの関心事と極めて近いからこそ、調査をお願いしていたのですが……」

 百合子の表情がやや曇った。憂い顔まで絵になる人だ。「どうやら、お父様はご自分が思っていた以上に深入りしていたようです」

「何か大きな不正、というのは何でしょう?」真琴にも誘拐や殺人がいかにリスクが大きい行為か、ぐらいはわかる。そこまでする必要があるほどの不正というと何だろう。まるで思いつかない。

「〈神託オラクル〉というアプリケーションソフトを聞いたことはあるかい?」

 先ほどよりはずいぶんと改まった調子で崇が切り出した。

「? ……いいえ」

 記憶を総動員してみても、聞いたことのない名前だ。

「知らないのも同然だ。一般には出回っていない……アンダーグラウンドでしか使えない、犯罪者御用達のアプリだからな」

「そんなものを作っている会社があるんですか?」

 警察も黙ってはいないだろうし、発覚したが最後、会社そのものが社会的制裁を受けるのではないか。

「『客』の評判は悪くないらしい。軍の作戦立案に使われるような戦術戦略AIには比べ物にならないが……しょぼい低品質のスマホでも問題なく低燃費で動く上に、PCの巡回経路を推測したり、警備員のスケジュールを割り出したり、まあ使い道は無限大って奴だ。なかなかのユーザーフレンドリーらしいやね」

「新田氏は、その〈オラクル〉がかつて自分の属していた会社で開発されたのではないかと疑っていたようです。私たちの注目する案件と、彼の目的の双方が合致したと言えばいいでしょうか」

「ただ『現物』を手に入れるのにえらく骨が折れる代物だった。持ち主以外が使おうとするとプログラムが即座に自壊する『自爆機能』付きだったからな」

「調査の結果、ある名前が浮かび上がりました」

「……デルポイ・コグニティヴ。AアルゴスRリスクMマネージメントの子会社だ」

「ARMって、確か今ニュースになっている会社ですよね? 警察に犯罪予測システムを納品するっていう……」

 真琴の頭の中で、何かがカチリと音を立てて嵌まった気がした。わけがわからないことだらけの半日の間で初めて覚えた感触だった。「……父さんのいた会社が犯罪者の依頼で、犯罪のためだけに使うAIを作っていた? 父さんはそれを追っていたの?」

「……もう一つ言っておいた方がいいだろうな」龍一は歯の痛みを堪えるような顔になった。つくづく嘘の吐けない人だ。「それについて調べていた、お父さんと親しいジャーナリストが2人、調査を依頼していたアナリストが1人、変死体で見つかっている。彼はたぶん、義憤だけでこの件を追っていたんじゃない」

「……義憤だけじゃないけど、仕事のためだけでもなかったんだ」真琴は呟いた。

「今は自動車の運転どころか、金融取引までAIがほぼ人間を代行している――人間には不可能な複雑さと超高速度でもってね。で、〈オラクル〉の開発者たちはどうもそれを資金洗浄マネーロンダリングに応用したらしいのよ」と夏姫。

 テシクが肩を揺すりながら後を引き継ぐ。「上手くいけば日本国警察どころか、国際刑事警察機構インターポールすら手出しできない一大資金洗浄システムが誕生する――技術はあってもそれに見合う給料をもらえず食い詰めているエンジニアはいくらでもいるし、警察は世間一般のテクノロジーから十歩ばかり引き離されているのが現状だからな」

「でも、父さんが何かを突き止めたんだったら、仕事場のメモやPCを探すものじゃないんですか?」

 龍一が頬を掻く。「その通りだ。だが彼らは、それをすっ飛ばしてピンポイントで君を狙ってきた。つまりお父さんの行方は、君にしか知りようのないことと関係があるんじゃないか、というのが俺たちの読みでな」

「……それで、僕に何をしろと?」


「そうだ、これ返しておくよ」龍一に何かを手渡されて、真琴は目を見開いた。自分のスマートフォンだ。

「いいの?」

「いいも何も、君のだろう」かえって不思議そうな顔で問い返されると、真琴の方が困ってしまう。よっぽど信用されたのだろうか、それとも。

 こちらが恐ろしくなるほどの丁寧な礼に見送られて〈ホテル・エスタンシア〉の玄関から出ると、既に太陽は高く昇っていた(真琴はさっきまで自分が寝ていたホテルの豪華さに、改めて気が遠くなりかけた)。目を細めて野球帽のつばをいじりながら、面倒なことになったなあ、と真琴はこれで今日何回目になるかわからない溜め息を吐いた。

 さすがにパジャマでは外出できないので、黒Tシャツとキュロットスカート、それに黒のストッキングという格好だ(いまいましいことに、用意された衣服はサイズまでぴったりだった)。

「悪いことしたなあ」龍一は申し訳なさそうに眉を下げた。「何しろ依頼が入ったのが急ってこともあって、君の救出を最優先しないといけなかった。結果的に学校まで休ませることになって」

「……それはもういいです」真琴は肩を落とした。今さらそんなことで謝らないでほしいし、やむを得ない事情があるのも理解はしているが、どうも心の底から信用しきれない人たちだ。――自分で思った以上に「男の子」呼ばわりされたのを根に持っているらしい。

 変な気分だ。下手すると男子以上に髪を短くして、女の子っぽいひらひらした服だって着ないようにしているのに。

「……でも期待させて悪いけど、どこに手掛かりがあるかなんて僕にもわからないですよ。最近では父さん、滅多に家へ寄り付かなかったからなおさらだし」

 説明するうちに、愉快でない思い出が蘇ってきた――小学校の父兄参観日で父も母も仕事の空きが作れず、結局両方とも来られなかったこと。母が出て行った後のキッチンの凍えるような冷たさと空虚。

「龍一さんのお母さんは、亡くなったんですか?」

「……いや、生きてるよ」そうそうドラマがあってたまるか、という顔だ。「俺が今の君よりずっと小さい頃に家を出て行ったよ。子育てよりも仕事の方が楽しいとか抜かしてな」

 地雷踏んだかな、という思いが顔に出たらしい。崇は真琴の顔をちらりと見て、肩を揺らしてみせた。「気にしないでくれ。俺が話したくなったから、話したんだ」

 不意にその肩が――真琴にすらはっきりわかるほど――強張りを見せ、真琴を驚かせた。

「どうしたんですか?」

「いや。……たぶん気のせいだろう」

 そう言われては追及のしようもない。だから真琴は、龍一がぽつりと漏らした小声を聞き逃した。

「……まさかな」


 望月もちづきたかしは日の光に目を細めながら、運河沿いの砂利道を散歩していた。空気にはうっすらと油の臭いが漂い、河面にはゴミ袋と発泡スチロールの破片が漂っている。油膜の照り返しが黄金色に輝き、ゆっくりと通過するタグボートに割られて日の光を乱反射させる光景は美しいと言えなくもなかった。崇はただ歩くことを楽しむように歩いた。

 後方から、スモークグラス仕様のRV車がゆっくりと近づいてきた。崇は車の後部座席に向けてひらひらと手を振ってみせた。

 パワーウィンドウが開き、後部座席に座っていた崇と同年代の男が鋭い目を覗かせた。髪を後ろへ丁寧に撫でつけた身なりのいい男だが、目つきには一種の凄味がある。見る者が見ればそれとわかる、明らかな暴力の臭いだ。

「お疲れ。悪いね、忙しいところを」

 男は低く唸った。「悪いと思っているんならふざけた挨拶をするな。人を子飼いの情報屋扱いしやがって」

 崇は感極まったように天を見上げた。「言われるまでもありませんってくぼさん。そんなこと言ったら、俺にだってあんたらの身内の不始末に関わる義理なんて1ビットたりともないんですぜ」

 窪田と呼ばれた男は痛いところを突かれたように嫌な顔をした。「とっくに破門されたと言っても元組員が犯罪に走ったとあっちゃ、下手すると本家まで痛くもない腹を探られる。手を出すのが堅気相手となればなおさらだ」

「あるいはを」

「話の腰を折るな」舌打ち。「あの3人を痛めつけて吐かせたが、わかったのは犯罪に走るしかないくらいに食い詰めていたことだけだ。依頼を受けたのは〈のらくらの国〉の代理人経由で、そいつだって本当の依頼主は誰か知らないと抜かしやがる」

「いきなり手詰まりなんて、焼きの入れ方が足りないんじゃないんですか若頭補佐殿?」

 窪田はより凶悪な視線で崇を睨みつけた。「だったらお前もついでに性根を叩き直してやろうか? ……スタンガンやピッキングツールはともかく、ロシア軍払い下げの電子妨害装置なんておいそれとは手に入らない。素人相手の人さらいとしては至れり尽くせりだろう」

「強盗志願のずぶの素人に供給する、そういうサービスがあるとは聞いたことがあるが」

「〈のらくらの国〉経由ならできなくはないだろう。問題は依頼人だ。あいつらが幾ら人間の屑でも、堅気相手の誘拐なんてどれだけ大事かってのはわかっているはずだ。よほどの見返りがないかぎり引き受けやしない。崇、てめえ今度は何に首を突っ込んだ?」

 話の切り上げ時だ、と判断し、崇は懐からメモリースティックを取り出した。黙って手を差し出した窪田の掌にそれを落とす。

「それを聞かないのがうちんとこのスポンサーとの取り決めでしょうが?」

「……何もかも気に食わねえ。てめえも、黒幕気取りのてめえの『スポンサー』とやらもだ」

 唾を吐きかねない顔で窪田はパワーウィンドウを閉じた。車が走り出す。

「リーマン極道の世界もずいぶんとしょっぱいもんだ……」

 あの仏頂面じゃなおさら辛いだろうな、と呟きながら走り去る車を見送る崇の懐で、スマートフォンが震えた。

「……はい。今渡し終えたところです。大した成果はありません……連中もそれほど多くは知らないってことがわかったぐらいですね。〈のらくらの国〉を介されるとあらゆることが面倒になる。アプローチを変える必要があるでしょう。……へえ?」

 崇は足を止めた。「それは……早いところあいつらに伝えた方がよさそうですね。野良犬駆除で済むと思ってたら、人喰い虎が這い出てきやがった」


 瀬川夏姫が〈みまなモール〉の一画に位置するフィットネスクラブをいつもの弾むような足取りで訪れた時は、既に昼前だった。平日にも関わらずクラブは盛況で、インストラクターの掛け声や行き交う女性たちの華やかな笑い声で室内は活気に満ちている。

 にこやかに出迎えた受付の女性に、夏姫も微笑みながら言った。「〈七人姉妹セブン・シスターズ〉に呼ばれて来たわ。高塔からの遣いだと言えばわかるはずよ」

「……少々お待ちください」

 彼女の表情に若干の緊張が覗いたのを、夏姫は見逃さなかった。

 一般会員用の入口ではなく従業員専用の通路を通され、いくつかの非常用扉をくぐると、そこはモールの中では使われていないはずの、通常なら倉庫などに使用される空きスペースだった。そして何もないはずの空間に、人と物が行き来していた。

 オフィスのようにスチールデスクとノートPCが置かれたスペースと、ミラーボールや目に毒々しいほど赤い革製のソファといった調度品がどうにもそぐわなかった。

 作業を行っているのはいずれも少女といっていい年齢の若い娘たちだけで、男の姿はない。

 少女たちに指示を出していた、上背のある肌の浅黒い娘が鋭い眼差しを向けてきた。黒のタンクトップ、白っぽい作業用ズボンという服装が黒豹に似た精悍な印象をより深めている。

 彼女の傍らから、プラチナブロンドの小柄な少女が欠けた前歯を剥き出しにして笑いかけてきた。

「カチュア、リュドミラ、お待たせ。なかなか素敵なアジトじゃない」

 カチュアと呼ばれた背の高い娘は肩をすくめた。「できれば〈ブラックサイト〉と呼んだ方がいいかもね。実際そういうところだし」

「拷問もするの?」

「それはまた別のところだよ」リュドミラと呼ばれた眼帯の娘が大して面白くもなさそうに笑ってみせる。「ここは情報収集と分析に特化してるんだ。火器や弾薬はどうしてもかさばるし、保管も面倒だからね。それに、最近皮下脂肪が気になる暇なセレブと鉢合わせしても困るし」

「……でも、ここももう安全とは言えない」

「情報漏洩、だったわね」夏姫は頷く。「話して」

「2週間前〈ヴィヴィアン・ガールズ〉の保有する全てのサイトの詳細な位置がネット上に流出した」カチュアが淡々と話し始める。「幸い、うちのサイバー対策部門が気づいて即座に消去したけど、同様の違反は数度立て続けに発生した。その情報を元に5つのサイトが相次いで敵対団体の襲撃を受け、死人こそ出なかったけど、施設はいずれも使用不可になった。金額に換算すると億単位近い損害」

 リュドミラが天を仰いだ。「うちみたいな零細ゲリラ組織には死活問題だよ。焼きそばパッタイやドネルケバブの屋台とはわけが違うし」

「そう、資金や人員にも限りがある以上、際限なく潰されたサイトを別の場所で立ち上げることはできない。この状況が続けば、いずれ私たちは襲撃を受ける前に破産する」

「ところが一方で、情報漏洩がどこから発生したのかはわからないと来ている」リュドミラが後を受ける。「今も関係者全員に聞き込みを行っているけど、成果はさっぱりだ。そもそも情報漏洩を防ぐために、個々のサイト同士のつながりは極力断っているんだし」

「……情報『漏洩』があった、という前提自体が誤っているのかも」

 カチュアが視線をより鋭くする。「と言うと?」

「これはあくまで現時点での推測、と断っておくけど……」


 湾岸区域に立ち並ぶ倉庫街の一画へ、キム・テシクは横腹に〈ミマナクリーンサービス〉と書かれたバンを滑り込ませた。昼下がりの陽光に照らされる街区は、まるで核戦争後の世界を描いた映画のセットのように白々として、人影がなかった。

 指定された倉庫の扉は、彼を待つかのように開け放たれていた。テシクがバンを直接乗り入れると、重々しい音がして扉は自動的に閉まった。

 外界の光が完全に断ち切られると同時に車が大きく揺さぶられ、十数メートル四方はある倉庫の床そのものが沈下し始めた。いつもながらご大層な演出だ、とテシクは口中で呟く。

 数分ほどして沈下が止まると、先刻の倉庫の何倍もある広大な空間が見えてきた。天井も、床も、金属にもプラスチックにも見える滑らかなパネルで構成されている。材質自体が淡い光を放っているように周囲を照らしているので、物を見るのに不自由はない。

 調度品らしきものは、広大な空間の中心にぽつりと置かれた深紅のテーブルと、その上に置かれた何の変哲もないノートPC、そして深紅の革張りのソファのみ。

 テシクはソファに座りノートPCの電源を入れた。市販のものと同じOSによる起動画面が表示されるが、他のアプリケーションはすべて取り除かれ、メールソフトのみが常駐している。テシクは手慣れた手つきでメールソフトを起動した。

【道具を】

 すぐに返信が来た。【代金は?】

 テシクは立ち上がって車のトランクを開け、積まれたジュラルミンケースを示した。どこからかはわからないが、見られているという気配はある。

 ジュラルミンケースを床に置くと、継ぎ目一つない床が音もなく沈下し、ケースを飲み込んだ。

【確認した】

 PC画面にそう表示されると今度は壁が動いた。内側に収納されていた棺桶ほどのコンテナが露わになる。内蔵されていたロボットアームが伸び、開放されたバンのトランクルームに危なげない手つきでコンテナを収めた。軋む音一つ立てない、実に丁寧な作業だった。

「毎度あり」思わず呟く。

 作業が済むとロボットアームは折り畳まれ、壁も元に戻った。近くへ寄ってみたが、指先でなぞろうとしても、継ぎ目どころかわずかな凹凸すら探り当てられなかった。ナイフの切っ先すら差し込めないほど、周囲の壁と見分けがつかないのだ。

 一体何なんだろうなここは、とテシクはつくづく思う。高塔百合子の指示でこの倉庫を訪れるのはもう数度目だが、訪れるたびにSF映画のセットに迷い込んだような気分になる。代金――現金の場合もあれば、プラチナを含む貴金属の場合もある――と引き換えに「商品」が渡され、出迎えどころか人の気配は一切ない。そして渡されるのは、誰がこんなものを欲しがるんだと思うような奇妙な、ただし極めて高度な技術で作られた物品ばかり。金持ちや好事家の道楽や冗談にしては少しばかり、手が込みすぎている。

 百合子からもこの倉庫の素性を探る試みは固く禁じられていたが、もしかすると、彼女もそれほど深くは知らないのかも知れない。

 そのまま去ってもよかったが、テシクはふと思いついて打ち込んでみた。【俺たちがあれをどう使うのか、知りたくないか?】

 答えなど期待していなかったが、意外にも少しの沈黙の後、返信が来た。

【興味はない。君たちが必要とする道具を設計し、引き渡すまでが私たちの役目だ】

 ノートPCの電源は操作するまでもなく勝手に落ちた。案外、本当に倉庫そのものが喋っていたのかも知れない、とテシクは思った。


「……AIを使っての未来予測で、あたしたちのサイトを割り出しているって?」

 リュドミラの顔は、どこまで信じていいんだと言いたげだった。「そんなもん、どうやって防げばいいんだよ?」

が言っていた。米軍ではそういうのをつかって軍の作戦立案を行っているって。まさかそれが私たちに向けられるなんて、思わなかったけど」

「はっきり言って、あなたたちのスパイ対策に抜かりはないと思う。それなのに襲撃を避けられていないんでしょう?」

「確かに……それはまた別の対策を考えないと。弓と槍が主体の戦場に、いきなり狙撃銃が持ち込まれたようなものだわ」

「問題は、誰がそれをおっ始めたのかってことだな。ちんけなヤクザ者の発想じゃないぜ」

「軍が作戦立案に使うような戦略AIは最低でも企業クラスの設備と人員を必要とする。それなりの資金力を持つ組織がバックにいると見た方がいいでしょうね」

 しばらく3人は黙り、周囲の談笑と足音だけが響いた。

「そもそも、AIだって無から有を産み出せるわけじゃない。優秀な情報収集ツールと、それを処理する大規模な施設が必要となる。それを突き止めないと」

 リュドミラも頭痛を抱えたような顔で考え込んでいる。「『AK持った小娘ども』を突っ込ませるにも、相手の居所がわからないことにはどうにもならないな」

 カチュアは夏姫の目を覗き込むようにして聞いた。「……炙り出せる?」

「時間はかかるけどね。それにもしかしたら、私たちの抱えている案件はそれとつながるかも知れない」

 カチュアは頷く。「わかった。こちらはできるだけ細かく資産リソースの分散と移動を繰り返して時間を稼ぐ。ただし、それも対症療法には過ぎない」

「ええ。大元を潰さないと安心できないってことでしょう」

 リュドミラが眼差しをさらに凶悪にして凄んだ。「に伝えときな。一度や二度、恩を売ったぐらいであたしたちの一味になったつもりなら大間違いだって」

「ええ、伝えておくわ。だからあなたたちも覚えておいて。

「てめえ……」

 欠けた歯を剥きだして凄むリュドミラを、カチュアは片手で制した。「覚えておくわ」

 夏姫は微笑む。「そうして」


「……ここでいいはずなんだけど」

 自律タクシーロボタクを降りた真琴は、目の前の煤けたビルを見て首を捻った。

「君もここに来るのは初めてなのかい?」

「うん。父さん、めったに家にいないし、仕事の邪魔しちゃ悪いし。……それにしても、ここの『屋上』ってのがよくわからないな」

「ペントハウスみたいなもんかな? なかなかお洒落な親父さんだね」

「そんなご大層なものじゃないと思うけど……」

 そこで真琴はもっと大切なことに気づいた。「え? このビル、エレベーターないの?」

 小さな雑居ビルとはいえ6階建ての階段を昇っていくのはなかなか骨の折れる体験だった。ふうふうとすっかり息を切らして屋上へ到着した真琴は、またしても目を瞬くことになった。

「あ……れ?」

 屋上に立ち並ぶ室外機や給水塔の間に、工事現場にあるような粗末なプレハブ小屋が建っていた。住宅というのも馬鹿馬鹿しくなるような、薄っぺらいドアと小さな窓の小屋だ。

「へえ……ペントハウスじゃないけど、これはこれでなかなか面白そうだな」

「そ、そうかな……」

 合鍵を取り出そうとしてはたと気づいた。何しろパジャマのままで連れ出されたのだから持っているはずがない。

 真琴の顔を見て察したのか、龍一は「失礼」とだけ断って取り出した針金で鍵を開けてしまった。呆れるような手際の良さだった。

 中に入ると、8畳ほどのささやかな仕事場が真琴を出迎えた。1人分のデスクと椅子一式があり、書棚があり、小さいながらも冷蔵庫がある。壮年男性の部屋にしては片付いているなあ、という印象だった。

「お父さんは、確かIT関係の仕事からライターに転職したんだっけ?」

「うん……元はエンジニアだったらしいんだけど、人間関係でちょっと嫌なことがあって辞めたって言ってました。当時からの付き合いがある人は何人かいて、そのつながりでライターを始めたって」

「なるほど。……確かに書棚の本、どれもネットワークや人工知能関連の研究書だな」龍一は興味深そうに室内を眺め回している。

「龍一さんも、そういうのに詳しいんですか?」

「いや、さっぱりだ。ただ無関心でもいられない。俺たちの仕事に関わってくるんじゃな」

「……あっそ」犯罪絡みかよ、と真琴は内心呆れた。わからなくはない――下手をすると死活問題ではあるし。

 何となく、真琴は椅子を引いて座ってみた。無骨な見かけによらずクッションは心地よく真琴の背を受け止めてくれた。ふと、そこで真琴は気づいた。

「あ……」

 室外機とフェンスの向こうに、例の〈ARS〉日本支社の流麗なオフィスビルが見えたのだ。

「どうしたんだい?」

「うん……父さん、この景色を見ながら仕事してたのかなって思って。前の会社にあまりいい思い出がないって言ってたから、意外なんだ。嫌な会社からは、少しでも遠くで仕事したいもんじゃないかなって」

「確かにそうだな……」

 それとも、嫌な思い出があるからなおさら、だろうか。

 自分を追い出した会社が肉眼で確認できる部屋で原稿を書き、企画を練り、人と話し――それを十年以上。それには愛しさや憎しみとはまた違う、何か暗い情念のようなものを感じて真琴は妙に背筋が寒くなったのだった。

「……一つ、気になったんだが」

 龍一がやや硬い声を出した。「これもジャーナリストに必要な仕事道具なのか?」

 彼が示したのは、書棚の引き出しから出てきた何かの金属ケースだった。薬剤やスポイト、何かの検査具などがセットになった、警察が鑑識に使うような道具類だ。

「これは何?」

「……生体認証を偽装するツールだ。登録済みの誰かの掌紋を型に取って、自分の掌に張り付ければそれで掌紋認識を騙せる。こちらは虹彩スキャナー。網膜認証装置にアクセスするための装置だ」

 龍一は首を振った。「PC一台あれば、これで遠隔地から生体認証式のサーバーにアクセスできる」

「……それって、犯罪にも使えるってことだよね……?」

「それどころか、許可なしで所持しただけでも間違いなくお縄だよ」

 しばし沈黙が降りた。真琴がその言葉を咀嚼できるまでだいぶ時間がかかった。確かに――父はただ単に、不幸な事件へ巻き込まれたというわけでもなさそうだ。

 不意に龍一が身を強張らせた。「しっ」

 窓の外に目をやる。「……誰かいる」

 手振りでデスクの影に伏せるよう指示されて真琴は従ったが、正直なところ半信半疑だった。今は昼、しかも繁華街のビルの屋上だ。幾ら何でもそうそうアクション映画のような出来事には、

 大音響とともに壁に大穴が開き、外に面した窓がすべて砕け散った。

「……本当に殴り込んできやがった」

「いつからこの世はこんな銃に物を言わせる世の中になったのさ!?」轟音に耳を塞ぎながら真琴は大声で叫んでいた。

「君や俺が生まれるずっと前からだよ」龍一は長身を折り曲げてデスクの影に隠れている。「隣の窓から屋上伝いに来たな」

 半壊したドアを蹴破って誰かが踏み込んできた。逆光と覆面のおかげで顔は見えなかったが、手に握られた散弾銃の剣呑な光は真琴を震え上がらせるのに充分だった。

 その顔面に、龍一の投げた椅子が直撃した。

「ダーティハリー気取りか。次は気をつけるんだな」

 仰向けに倒れた男が戸口から転がり落ちるのを合図に、豆の爆ぜるような音が連続して鳴った。壁に無数の穴が開き辛うじて原型を保っていた調度品が今度こそ粉々に砕け散る。

「ソファに乗れ!」龍一は押し殺した声で叫ぶ。「君だけでも逃がす。早く!」

 ここから逃げられるなら何だっていいや、という気分でソファに乗った真琴は、ふと我に返った。いや、何だか既視感があるぞこの光景。

「しっかりと掴まれ。掴まったな? 行くぞ!」

「行くってどこへ? ……わあああああああ!」

 真琴の身体がソファごと加速し、半壊したドアを吹き飛ばして外へ飛び出した。短機関銃を構えて踏み込もうとしていた男が軽自動車に跳ね飛ばされたように吹っ飛んだ。

「ぎゃあああああああ!」というとても自分の声とは思えない悲鳴が真琴の喉から迸り出た。内臓が浮かび上がるような違和感。真琴を乗せたソファは数メートルを一息に落ちた。

 衝撃はそれほどでもなかったが、目の前の光景に焦点を合わせるのに少し時間がかかった――気を取り直すと道路工事の作業員たちが、度肝を抜かれたような顔で真琴を見つめているのに気づいた。空からソファが降ってきて、しかもそれに人が乗っていればそんな顔になるのも無理はないだろう。

 衝撃で耳ががんがんしていたが、とにかく生きていた。屋上を振り仰いだ瞬間、

 真琴の頭上でプレハブ小屋が大音響とともに爆発した。

「龍一さん!?」

 周囲の建物からわらわらと人々が飛び出てくる。流れに逆らって真琴はふらふらと歩きだした。

 逃げなきゃ。とにかくここから逃げなきゃ……でも、どこへ?

 真琴自身にも、さっぱりわからなかった。


 盾にしていたドアの下で龍一は目を覚ました。プレハブ住宅は半壊し、壁と天井がほとんどなくなっている。床とドアの隙間からうかがってみると――頑丈そうなブーツが室内を物色している。さてこの体勢からどう反撃するか、と考えていると、助は予想もつかないところから来た。

 くぐもった音が立て続けに響き、銃を向ける傭兵たちの足から血と肉片が散った。苦痛よりも呆気に取られた顔で傭兵たちが倒れ込む。

 消音器付きの拳銃を構えたテシクが、ゆっくりと物陰から姿を現した。「お前といいあの男といい、俺がいなかったら5分でこの有様か? 這い這いする赤ちゃんよりも目が離せないな」

「……ありがとう。おかげで助かった」

「お前、こういう時だけは素直だな」テシクは肩をすくめた。「車に乗れ」

 閃くものがあった。「……あの子を囮に使ったんだな? 百合子さんの指示なのか?」

「聞いてどうする? そうだと言えば、お前は納得するのか? 答えがどちらでも、お前は苦しむだけじゃないのか?」

 ぐうの音も出ない、といった龍一の顔に、テシクもまた口元を曲げた。「追跡は夏姫がしている。お前は、問題の解決に専念しろ」


 どれくらい歩いたのだろう。真琴はふらふらした足取りで、気がつけば初めて来る公園に迷い込んでいた。近所の子供ですら滅多に遊びに来ないような、小さな砂場とベンチがあるだけの本当に小さな公園だ。

 ベンチを見るなり真琴はへなへなと腰を下ろしてしまった。「爆発物で襲われる」なんて、昨日までの真琴の暮らしとは縁のなかったイベントだ。できることなら、全てが終わるまでここに座っていたかった。

 急に懐のスマートフォンが振動し、真琴は飛び上がった。母の鈴子からだった。

「……もしもし?」

【ああ、やっとつながった! ……真琴! あなた一体、今どこにいるの⁉】

 父と別れて家を出た後、母は結婚前から続けていた不動産関連会社に就いたという。相当に辣腕をふるっているらしく、真琴のところには年末年始を除きほとんど電話してこない。真琴は母のここまで動転した声を聞くのは初めてだった。

【昨日からあの家で何が起こっているの⁉ お父さんは行方不明だし、家に強盗が入ったとかで警察から電話がかかってくるし、おまけにあなたと来たらどこをほっつき歩いているかもわからないなんて!】

「……ごめん……僕にもよくわからないんだ……」

 真琴は思わずしゃくり上げてしまった。何しろ父が家を空けて以来、本当に久しぶりに聞く肉親の声なのだ。

 真琴の泣き声を聞き、母もさすがに頭が冷えたらしい。【……とにかく、迎えに行くから場所を教えなさい。詳しい話はその時でいいから】

「ええっと、ここは……」

 周りを見回して住所を伝え――ようとして、真琴は思い出した。

 この件には警察そのものが絡んでいるのだ。第一、何が何だかわからないものに母は巻き込めない。

「……ごめん、お母さん。全部終わったら話すから」

【ちょっと、真琴!?】

 スマートフォンを耳からもぎ放すようにして、真琴は通話を切った。

「失礼。新田真琴さんですね?」

 穏やかで優しい声に振り替えると、作業服を着た青年が配達用の電動自転車を近くに停めたところだった。最近よく見かける、個人契約の配達サービスだ。

 真琴の位置は、GPSで突き止めたのだろうか。

「お父様からのお届け物です。電子署名をお願いできますか?」

 反射的に表情を硬くした真琴を見て青年は怪訝そうな顔をしたが、すぐ嫌味のない笑みを浮かべた。象を思わせる柔和な眼差しは真琴の警戒を幾分か和らげたが、なぜ自分に、という不信感は解けなかった。「あの……すいません。父さんからですって?」

「はい。新田真琴様宛てとなっております。お聞きではありませんか?」

「ええ……何も聞いてないです」

 首を傾げながらも真琴は差し出されたタブレットと電子ペンを受け取り、署名した。拒絶すると話が進まなくなるゲームのキャラクターになった気分だ。

「ありがとうございます。お荷物はこちらになります」

 電動自転車の後部に取り付けられたケースから出されたのは「お荷物」という表現が不似合いに思える、小さな無記名の紙袋だった。逆さにして振ると、出てきたのは、

「……鍵?」

 鈍い光を放つ金属製の鍵は重く、数桁のナンバーが鍵本体に刻まれているだけでホルダーやネームプレートの類はついていない。これでは何の鍵なのかもわからない。

「ご利用ありがとうございました」

 青年は再び自転車にまたがったが、真琴は鍵を捻り回しながら、ついでに自分の首も捻っていた。意味ありげな代物ではあるのだが、こんな風にして鍵だけ渡されても困る。そもそも、何故今になって?

 ――自分に何かがあった時、真琴の手にこれが渡るようにしておいた、ということか。

「あの、もしかして」走り去ろうとしていた青年がまた戻ってきたので真琴は驚いた。「その鍵、貸金庫の鍵じゃありませんか?」

「貸金庫?」

「ええ。ホルダーを使わず鍵本体にナンバーを埋め込むのが最近の流行りみたいなので」

 改めて真琴はしげしげと鍵を見る。なるほど……確かに車やコインロッカーの鍵ではなさそうだった。

 ありがとう、と真琴は礼を言って歩き出した。馬鹿馬鹿しい話だが、付き合わないといつまでたっても話が進みそうにない。父に会ったら何と言ってやろうか、今から考えておいた方がいいかも知れない、と真琴は思った。

 ただしそれも、降りかかってくる火の粉を払ってから、の話だ。


 果たして未成年の自分が貸金庫を使えるんだろうか――内心ひやひやしたが、対応した女性職員はこちらが拍子抜けするほどにこやかに貸金庫室へ入らせてくれた。しかもこちらが呼ばないかぎり立ち会う必要もないという。悪いことをしているわけでもないのに、かえって真琴は気が咎めてきたくらいだった。

 鍵に刻まれたナンバーと同じ金庫の鍵を開ける。

「……何だろう、これ」

 思わず声が出た。中に入っていたのは銀色のブレスレットと、やけに厚みのある茶封筒だった。手に取るとずっしりと重い。

 背筋が凍った。封筒の中に入っていたのは、数えるのが恐ろしくなるほどの量の一万円札だった。

 思わず真琴はへたへたとその場に座り込んだ。床の冷たさで、少しだけ冷静さを取り戻した。だが冷静になったからと言って、手の中の札束は消えてくれない。

 数を数えてみたが、手が震えて数度ほど取り落としそうになった。数はかっきり百枚。当然、真琴が今までの人生で目にした一番の大金だ。どれも手の切れそうな新札で、見たところ、おそらく本物だ。偽物ならそれはそれで厄介だが。

 真琴は眉をひそめた。札以外にも、封筒の中に何かが入っている。見るとそれは、三つ折りにされた手紙だった。見覚えのある父の筆跡だ。

 真琴は座り直し、文章に目を走らせた。

【真琴へ

 この手紙を読む時、お前は相当厄介なことになっているはずだ。それについては弁解のしようがない。幾ら親子だからといって、父親のしでかしたことを子がすべて背負う必要はないはずだ。初めに謝っておく。】

「……ええ、おかげさまでね」

 思わずぽつりと呟いてしまった。昨夜、自室でくつろいでいた時から今まで起こったことを思い出していたら、数えるのも馬鹿らしくなるほどだ。本当に何だって父はこんなことに自分を巻き込んだんだろう。

【あまり時間はないが、どうしてこうなったのか説明する最低限の義務はあるだろう。お前に何の過ちもない部分で命に関わる災いが降りかかるのならなおさらだ。

 私が以前、AIを開発する会社にいたことは知っているね。何やら大仰だが、要は半自動または全自動的な、各ユーザー向けにカスタマイズされた広範なサービス業務とでも言えばいいだろうか。今では電卓のことを誰もコンピューターなどと呼ばないように、私たちの研究分野も将来的には『人工知能A I』とすら呼ばなくなるのかも知れない。

 その時の会社がデルポイ・コグニティブ。そう、今何かと話題になっている――それもあまりよくない意味で――あの会社だ。さらに言えば、デルポイ・コグニティブの現最高経営責任者、大迫おおさこつかさは、当時の僕の同僚だった。

 私と大迫の関係は、決して良好とは言えなかった。私は大迫の傍若無人な、誰かを批判する権利は自分にはあっても自分以外にはないといった態度を控えめに言っても人の上に立つ人間ではないと思っていたが、彼は彼の方で私のことを「言葉尻を捕らえてすぐ揚げ足を取る場の雰囲気を乱す男」と思っていたようだった。しかしそれでも「自分たちの研究こそが未来への礎となる」という思いは一致していたように思う。

 結論から言ってしまえば、社内での勢力争いに勝利したのは大迫の方だった。これは私の生まれながらのどうしようもない習性だが、そういった地道な根回しや政治ゲームへの関与などを疎ましいと思ってしまう私と、それに努力を惜しまなかった大迫との差が明暗を分けたのだろう。私は社内での研究成果へのアクセスを禁じられることと引き換えに、多めの退職金を貰って社を辞した。

 それで終わったと思っていたが、そう思っていたのは私だけだったらしい。

 半年前に私の先輩格にあたるジャーナリストが変死した。専門職の経験が長かったばかりに、ライターとしてはまるで素人だった私に何かと目をかけてくれた人だ。酔って川に落ちたという話だったが、私の知るかぎりでは彼は完全に下戸だったはずだ。しかも死の直前に調べていたのは、私の古巣、デルポイ・コグニティブに関する何らかの不正だという。無論、私は躊躇わなかった――捨てたはずの過去が今になって追ってきたような気さえした。

 事態は私が予想していたより遥かに悪かった――私は以前からこの研究が犯罪者に悪用されかねないことを幾度も警告してはいた。大迫はまるで取り合わなかったが。しかし、警察そのものがAIを不正利用しようとしているとは予想外だった。

 お前も聞いたことはあるかも知れない。警視庁が全国的な犯罪予測システムを立ち上げようとしているのに対し、未真名市警は政令指定を盾に、独自の犯罪予測システム設立を目論んでいると。そしてデルポイ・コグニティブの経営は伝え聞く以上に悪く、追い詰められた大迫は、とうとうAIの不正利用に手を出そうとしていると。きつい言い方になるが、末期癌の患者同士がまともな臓器を互いに移植し合っている、とも言えるだろうか。

 それに、経営悪化に陥らなくとも結果は同じだったのかも知れない。私も一時期その世界に身を置いたからわかることだが、技術者という人種は何か魅力的な研究テーマを見つけた時、その倫理を問うより先に如何にそれを効率よく実現するかを優先してしまうものなのだ。そこに山があるから登る、に近い。

 私は悩んだ――幾ら一線から退いたとは言え、自分の研究の成果がかつての古巣を、そして警察を汚すことだけは防ぎたかった。多くの人々が警察に不満を抱きながらも(そしてそれは、残念ながら故ないことではない)それに従っているのは、少なくとも警察は善なるものに奉仕しているという幻想があればこそだ。それが完全に崩れた時、それは大きな災いとなってお前に降りかかるだろう。

 それとも私はこのような事態を予測していたのかも知れない――当時仕込んでおいた社内サーバーのバックドアにアクセスし、一番肝心なデータをコピーすることには成功した。その後で、バックアップも含めて全てにウィルスを感染させた。

 悲しいことに、ほぼ全てが当時のままだった。大迫や他の技術者がアップデートしてさえいれば、私の目論見はそこで破綻していただろうに。】

「………………何してくれるんだよ父さん!」

 真琴は手紙を握りしめたまま、悲鳴に近い声で叫んでいた。もちろん父も悩んだ末での行動なのだろうが、悩んだからといって犯罪に走っていいものでもない。第一、犯罪者に対抗してこちらも犯罪者になったのでは本末転倒じゃないか。

 同時に――龍一や夏姫たちが、妙に自分にたやすく名を明かしてくれたのかも何となくわかってきた。警察の一部が今回の犯罪に加担していて、しかもそれが真琴の父親に関わりがあるとあっては、そう単純に警察に駆け込むことはできないと踏んだのだろう。

 要するに僕を一味と見なしているってことか。犯罪者どもめ。

 真琴は前にも増して注意深く、目を皿のようにして手紙の続きを読み始めた。何しろ父親の目論見次第では、自分の後半生が真っ黒に塗り潰されかねないからである。

【その後のことは、もしかするとお前の方が詳しいかも知れないね。正直なところ、私は追い詰められている。肝心要の部分は私が持ち去ったというのに、大迫はどうにかしてシステムの『穴』を塞ぐ方法を見つけたらしい。それで時間稼ぎをしつつ、大迫は地の果てまで私を追いかけ回すだろう――でなければ、彼の方がおしまいだからだ。複数の犯罪組織どころか、警察を含む司法機関の一部にまで食い込んだ資金洗浄システムが停止すれば、その管理者が責任を問われるだろう。問題は、その幕引きを誰に頼むか、だ。

 何とも無責任な話だが、私は思い切って、お前に託してみようと思う。

 お前が取る方法は三つある。一つは警察に逃げ込むこと――これは言うまでもなく、下の下だ。個々の警察官は善良で誠実かも知れないが、警察という組織はそれ自体が犯罪性を帯びた瞬間に躊躇いなく誰かを殺すのだ。よほどうまく立ち回らないと、私も母さんも、そしてお前もただでは済まない。

 二つ目は高塔百合子の庇護下に入ること。だが、さんざん世話になっておきながら何とも恩知らずな話だが、私はこちらも勧めることができない。確かに彼女は慎み深く慈悲深く、子供に手を上げることを好まない人物だ(それはお前も会ってわかっただろう?)。悪徳警官の懐に飛び込むよりは遥かにましな選択肢だ。だが私は確信している――彼女もまた、かつての私や今の大迫とさほど変わらない、一種の狂信者なのだ、と。そして彼女の選ぶ未来が、お前にとって素晴らしいものだとは、どうしても私には断言できないのだ。彼女の配下たちも、その人柄とは別に、同様の懸念を抱かざるをえない――

 そこで三つ目の方法だ――ということだ。おかしな話だが、私はそれに関しては、お前がそんなに間違うとは思っていないのだ。

 手紙と当座の金と同時に(不正な金か、という心配は無用だ――お前のために積み立てた、誰恥じる必要ない金だ)、インターフェイスとしてのブレスレットを渡しておく。説明書は必要ないだろう。真に優れたインターフェイスは、分厚い説明書どころかチュートリアルさえ不要なものだ。

 他に幾らでも書きたいことはあるが、きりがないからやめておく。お前を信じているよ。

 父より】

「……勝手な父親だなあ……」

 手紙を読み終えて、真琴は深々と溜め息を吐いた。滅多に家に帰りもしないくせに。こんな時だけ「お前を信じている」と言われても感情の持っていき場に困る。

 馬鹿親父め。

「……他に、頼めなかったんだね」

 もし真琴が父親の立場だったら、こんな厄介事は百合子とその一味に押しつけて家へ帰って布団をかぶって寝ているだろう。善良とは言い難くとも、問題の解決能力だけなら山ほどありそうな人たちだし。

 ――薄情と言えば薄情なのに、確かにこれは父の文章だ、と思えるのはなぜだろう?

 ブレスレットを右腕に通す。装飾具とはまるで縁がなかったが、シンプルなデザインと冷たい金属の感触はむしろ真琴の好みに合った。

「わ」

 ぱちんと音を立てて装着すると同時に、淡い光で空中に直接、半透明の映像が描き出された。どこかの海岸線らしい地形の中央で、赤い光が点滅している。

「ここへ行けってこと?」

 いいよ、と真琴は頷いた。馬鹿げたゲームのシナリオにだって、何らかのエンディングはあるだろう。

「一発ひっぱたかれるくらいは覚悟してよね、父さん」


 突然、ポケットのスマートフォンが振動し真琴は驚いた。番号は非通知。無視しようかと思ったが、振動は止まらない。仕方なく出る。「……どちらさま?」

【ああ、やっと通じた! 真琴ちゃんだね?】

 遠慮のない大声に真琴は思わず顔をしかめる。お前は僕を「ちゃん」付きで呼ぶ気安さをどこで手に入れた、という気分である。「どちらさまですか?」

【そうだ、話をするのは初めてだったね……私は大迫という者だ。昔、君のお父さんの同僚だったんだよ。君、何か厄介事に巻き込まれているんじゃないのかね?】

 真琴の頭の中で激しく警報が鳴り出した。父の手紙の内容が正しければ、大迫はまさにこの事件の中心人物だ。父の言い分を差し引いて考えても、何かあった時に真っ先に駆けつけてくれるという人物像ではない。

 百合子や龍一、それに夏姫の接し方は、事件の被害者に対する態度としてはまだまともな方だったんだな、と思えてくる。やり方がぶっ飛んでいるのが問題なわけだが。

「……どうしてこの番号を知っているんですか?」

 父の知人というだけで直接面識もない相手から命を狙われたばかりのタイミングで電話がかかってきたら、安心するよりも先に警戒するのではないだろうか。それとも、こちらが子供だと思ってたかをくくっているのだろうか? どっちにしても馬鹿にしてくれるよ、と真琴は幾分か冷ややかな気分になった。

 だが油断はできない。何しろ真琴を捕らえるためなら、誘拐や殺人も辞さない相手なのだから。

 電話の向こうの声は明らかに動揺したようだった。反論されることに慣れていないのだろう。【お父上から聞いていたんだよ、何かあったら君に連絡できるようにとね。それで聞きたいんだが……お父さんから何か預かっていないかね?】

 そら来た、と思った。これは黄信号どころか赤信号だ。「ええ、実は何だか……のようなものが」

【そうそう、それだよ!】またも大声が響き、真琴はスマートフォンを耳から遠ざけねばならなかった。【私たちにはそれが必要なんだ。どこに行けば渡してくれる?】

 もちろん「円盤」と言ったのははったりである。つまり彼らにも真琴が持っている者は何か、を知らないのだ。それさえ手に入れば僕に用はないって声だね――真琴は自分の顔が相手に見えないのをいいことに、思わず半目になった。

「わかりました。でも場所はこちらで指定させてもらいますね」

【指定って、君】声が強張った。【自分の身がどれだけ危ないか理解していないのかね?】

「昨日までに僕が何回狙われたと思っているんですか?」もう少しで、それってギャグですか、と吹き出すところだった。「無条件に誰かを信頼するには、今までいろんなことがありすぎたんですよ。僕の言うことが飲めないようでしたら、もっと話の通じそうな相手を頼ります」

【……わかった】大迫の声は噴きこぼれる寸前のトマトソースを連想させた。【どこへ行けばいい?】

「午後1時、未真名駅のロータリーで。あなた一人で来てください。他の人を連れてきたら、僕は逃げます」

 返事を待たずに真琴は通話を切った。


 思い切って食事をすることにした。腹が減っては何とやら、だ。手近な喫茶店で定食のハヤシライスを頼み、サラダとついでに食後のコーヒーまで頼むと、何の根拠があるわけでもないが万事うまくいくような気になってきた。錯覚には違いないが、今の真琴には必要な錯覚だった。

 約束の時間が近づいてきたので、ロータリーへまっすぐ向かう――はずがない。そこまでお人好しにはなれなかったので、駅近くのモールのテラスからスマートフォンの望遠機能を最大にしてロータリーを見てみた。

 明らかに浮いている40がらみの恰幅のいい男が、ベンチに座って苛立たし気に汗を拭いていた。あれが大迫か。

 用心深く周囲を見回してみる――いた。特に凶悪な顔でも品のない服装をしているわけでもないのに、これまた周囲から浮いた風情の男たちが数人、周囲を巡回している。

(やっぱりね……)

 馬鹿正直に会っていたらどうなっていたことやら。真琴は騙された憤りよりも、あんな見え透いた嘘で自分を騙せると思われたことの方が腹立たしかった。とにかく、あんな連中からは距離を取るに限る。

(……そうだ、この服装も替えた方がいいかな)

 あの男たちの中に龍一と自分を襲った者がいるかはわからないが、服装を覚えている者がいるかも知れない。

 そして幸い、金ならある。


 ブティックから出た真琴はほっとした。あの男たちがこちらへ向かってきた時は顔から血の気が引いたが――回れ右して逃げださないよう、真琴は気力を総動員しなければならなかった――ロングヘアのウィッグと白いワンピースが効いたのか、苛立たしげに一瞥しただけで通り過ぎて行った。手近な店の窓ガラスに映った自分の姿を見て思う――店の人に手伝ってもらったとは言え、まるで別人みたい。

 皮肉なもんだなあ、とつくづく思う。こんなひらひらした格好、今日まではしてみようとも思わなかった。

 あの曲がり角を曲がればバス停だ……無闇に駆け出したくなる自分を辛うじて抑える。

 ふと、視界の端で男たちの動きが見えた。スマートフォンで何かを検索しているようだ……何を?

 彼らの視線がこちらに向いていた。真琴はぞっとして全身を震わせた。

 顔紋照合――髪型や服を変えていようと、顔立ちまでは誤魔化せない。

 もう限界だと悟った。ほとんどスカートの裾をからげるようにして走ったが、履き慣れないスカートはひどく走りにくい。こうなるとワンピースに着替えたのが完全に裏目だ。

(誰だよ、スカートなんて発明した奴は!)

 八つ当たり気味に内心で呻く。こんなに必死で走ったのは幼稚園の頃、近所の犬に吠えられた時以来かも知れない。

(……どうにでもなれ!)

 血相変えて走り寄ってくる男たちに、真琴はバッグから掴み出した一万円札の束を思いきり投げつけた。

【お前のために積み立てた、誰恥じる必要ない金だ】

 馬鹿親父め。

 眩しい陽光の下、紙吹雪のように新札が舞った。期待したように人々が我先にと拾い始めはしなかったが、それでもロータリーは騒然となった。自転車の倒れる音、人と人がぶつかり合う悲鳴と罵声。

(ごめんなさい!)

 男たちは真琴を追いかけるどころではなく、突然目の前で現出した人々のパニックに目を白黒させている。貴重な数メートルは確かに稼げた。真琴はほとんど唸るようにして最後の数ステップを駆け上がった。ほとんど同時に、バスが走り出した。

 危なかった……あの剣幕では、少しでも遅れたらバスから引きずり降ろされていたかも知れない。

 ステップで息を荒げている真琴に、周囲から訝しげな視線が注がれていた。さすがにばつが悪くなって少し頭を下げ、手近な席に腰を下ろした。

 まだ頭の中でどくどくと脈を打っているような錯覚を覚える。少しでも休みたくて頭を背もたれに乗せて目を閉じた。

 行き先はわかった。


 崇のスマートフォンに着信があった。相手は非通知。

「もしもしどちらさん?」

【ご無沙汰しております、望月

 セールスマンのように滑らかで張りのある声を聞いて、崇は無意識に嫌な顔をした。彼をわざわざ「先生」などと呼ぶ相手は一人しか思いつかない。

「……何の用だい、リムさん。こっちも忙しいんだ」

【存じております。まさにそうだからこそ、そちらに必要不可欠な情報を差し上げようと思いまして】

 林永成エンセン、というその名が本名なのか彼は知らず、興味もない。

【私どもの監視下に置いている業者にオーダーがありました。数日以内に密出国を希望するとのことで】

「ホント、あんたらの一味ってどこにでもいるよな。一人見つけたら三十人いると思えって奴か?」

【それは油虫チャンランの話でしょう】声は気を悪くした様子もない。【日本人の技術者数名。半島経由で。思い当たるふしはありませんか?】

「……嫌になるほど、あるね。だが何だってそれを今俺たちに伝える? 本当は何を企んでやがる?」

【意図があるかと問われれば、ありますよ。それがあなた方にとって旨味のある話だと思えばこそ伝えたまででね。それに、情報を活かすかどうかの決定権はあなたにあります】

「……恩には着ねえからな」

【ご随意に】


「ん……」

 少しうとうととしていたらしい。真琴が目を覚ますと、バスは市の中心部を離れ湾岸地域へと差しかかっていた。普段の真琴の移動範囲と比べてもずいぶんと遠く離れた地域だ。

 昼よりもやや雲が多い。傾き始めた日の下、ところどころに『建設予定地』の看板が立ち並ぶ埋立地がどこまでも広がっている。明らかに不法投棄されたらしき鋭く尖った廃材や朽ちたコンテナが半ば砂に埋まり、核戦争後の荒廃を思わせる奇妙なランドスケープを作り出している。市政の失敗が産み出した寒々しい光景だが、真琴はむしろそれに目を奪われた。雲が割れ、海と道路に挟まれた荒れ地を一時照らした。真琴はそれに目を凝らし、少しの間だけ自分が逃亡者であることを忘れた。

 ――どれだけ彼らが荒っぽくても、まさか市内で騒ぎを起こしはしないだろうと思った。

 甘かった。

 後方からあまりにも聞き覚えのある――聞き覚えはあるが、あまり嬉しくないサイレンの音が近づいてきた。パトカーが数台、『前方のバス、路肩へ寄せて停まりなさい!』とスピーカーで怒鳴りながら走り寄ってくる。

 慌てて身を低くした真琴はすぐその不穏さと不審さに気づいた――あの警官たち、パトロールの警官にしては異様に重武装じゃないか? 銀行強盗相手でもないのに短機関銃や散弾銃まで構えていて、

「……出して! バスを出して!」

 遅かった。訝しげに運転席から乗り出そうとした運転手の頭を、車内に乗り込んできた警官が無造作に拳銃で撃ち抜いた。


「……ああ、シッパル」警察無線を傍受していたテシクが短く罵った。「奴ら、街中でバスジャックを始めたぞ」

「とうとうとち狂ったか……」龍一も口元を引き締める。

「後ろへ行け。用意はできている」テシクは後部トランクルームに鎮座しているコンテナに向けて顎をしゃくった。「奴らが機関銃を持ち出してきたんだったら、こちらは戦車を使うまでだ」

「……なあ、今さらかも知れないけど、俺の仕事はいつからスパイダーマンになったんだ?」

「バットマンの方が好きだったか? くだらないこと言ってないでさっさと行け」


 騒然とし、棒立ちになる乗客たちの悲鳴が、重々しい散弾銃の一発でかき消された。

「全員動くな! 動いたら殺すぞ!」

 甘かった。彼らを甘く見すぎていた――真琴を確保できなければ自分たちがになるという、彼らの煮詰まり具合を甘く見すぎていた。

 警官たちがこちらを見ている。手元の携帯端末で乗客たちの顔を照合している。もう逃げ場がない。バスの乗車口も降車口も偽警官が一人ずつ見張っている。これじゃ自分から退路を断ったようなものだ。

 歯の根が合わない。口元を押えていないと叫び出しそうだった。

「……手間をかけさせやがって」

 警官の一人がぼそりと言った。その苛立たしげな、粘ついた怒りに満ちた声一つだけで全身から力が抜けそうだった。

 これじゃあの時と同じじゃないか。髪をつかまれてテーブルの下から引きずり出された時と。自分の汗に含まれる恐怖と苦痛の臭いで鼻が曲がりそうだった。

 皆、凍りついたように動きを止めている。男も女も、老いも若きも誰も静止さえしない。警官の格好をした彼らの暴力を見て、誰も真琴を助けようとはしないのだ。

 ――仕方がない。それほど人は暴力に弱いのだ。だからこそ暴力に屈しない者を称えるのと同じぐらい、暴力に屈する者を責めてはいけないのだ――誰の言葉だったのだろう。

 僕が何をした? 僕や父さんがこの人たちに何をしたって言うんだ?

「なあ……いい加減にしてくれないと怒るぞ? おじさんにもな、お嬢ちゃんぐらいの子供がいるんだよ」

 猛然と怒りが湧いた。感情の揺らぐままに現れたり消えたりする儚げなものではない、生まれて初めて感じるような本物の怒りだった。

「知らない! 僕は何も知らない!」

 頭頂部にものすごい衝撃が来た。どこかを切ったのか生暖かい感触が額を伝った。

「このガキ……いい加減にしやがれ!」

 頭に来ている。真琴の意外な抵抗に驚き、自分たちの思い通りにならないのが信じられないでいる。

 髪をつかまれた瞬間、真琴は思い切って頭を振った。ウィッグがずるりと剥がれ、頭部が自由になる。男が驚いて棒立ちになる隙を逃さず、非常口へ向けて走ろうとした。

 視界が反転し、つんのめった拍子に膝頭を嫌というほど打った。足を引っかけられたのだ。

「手間ぁかけさせやがって!」

「行かない! 僕はどこにも行かない! お前らこそあっちへ行け!」

 今度は頬を張られた。脳自体が揺さぶられたような衝撃で目が眩んだ。きーんという耳鳴りがひどくて何も考えられない。それでも真琴は唸り声を上げ、引き剥がされまいと座席にしがみついた。

「……おい、何だありゃ?」

 やけに気の抜けたような声。警官たちも、真琴も、後部座席のさらに背後――バスの後方へ目を向けた瞬間、窓ガラスを突き破って突入してきた相良龍一の渾身の蹴りが、手近な警官の顔面に直撃した。

 粉々に砕けたガラスの破片を全身から雨のようにこぼしながら、龍一が立ち上がる。まるで真琴の前に初めて現れた、あの日のように。

「やあ」

 装着していたゴーグルを額に跳ね上げると、龍一は真琴の顔を見てちらりと笑った。身にまとっているのはウェットスーツに似た密着型の戦闘服だが、ニーパッドやプロテクターに加えて背嚢に似た電子機器のようなものまで背負っているため、以前よりいかつく見える。

「龍一さん……!」

 名前を呼ぼうとして、ちょっと泣きべそをかいていたことは否めない。

「撃て!」裏返った叫び声が車内の空気を割いた瞬間、真琴の身体がひょいと抱えられた。視界がまたも回転し、胃の中がひっくり返りそうになる。無数の銃弾に引き裂かれる自分と龍一を想像してしまい、真琴は硬く目を閉じてしまった。

「……よーし、作動しているな。結構よくできてるようなもんだ」

 恐る恐る目を開けると――警官たちが、UFOでも観るような顔で、龍一と真琴とを

「じゃ、悪いけどあんたたち、の材料になってくれ」

 慌てて拳銃を向けた警官は、掴まれた手首を関節と逆の方向に曲げられて悲鳴を上げた。散弾銃を構えようとした別の男は、頭頂部をとんでもない方向から襲った蹴りで打ち抜かれて棒のように倒れた。頭部を片手で鷲づかみにされた男が棒切れか何かのように振り回され、仲間を巻き込んで床に横転した。

「き、貴様、公務執行妨害……!?」

「今のはちょっと本物の警官っぽかったよ。合法マフィアの皆さん」

 真琴が目を瞬いている間に、数人の警官が顔面を砕かれ、ボディアーマーで吸収しきれない打撃を腹に食らって悶絶した。

「すまん。遅くなった」

 元通り床へ降り立った龍一は真琴へ明らかに慣れていないウィンクをした。ちょっと怖かった。

「もうちょっと穏便な助け方をしてよ……!」突っ込みを入れようとして、真琴はしゃくり上げてしまった。例によって安心して怒れるようになったからだ。

「注文が厳しいな。……それに、礼を言うのはまだ早いかもな」

 龍一の言葉の意味を聞き返そうとした時、含み笑いが車内に響いた。

「特殊作戦用の磁界発生装置か。まさか実在するとは思わなかった。高塔百合子は、本当に戦うために手段を選ばないね」

「……人間の目は左右への動きに対応するのは得意だけど、上下の動きには対応しにくいからな」

 龍一の言葉を聞くと、声は朗らかに笑った。「理屈は正しくても、それを使いこなせるのは君ぐらいさ」

「嫌な予感がしてたんだよな……女の子一人助けるのにこんな鎧が必要なのかと思ったけど、確かにお前相手なら、必要になるかもな」

 一番前の席に座っていた人影がこちらを向いた。見覚えのある顔だった――父からの配達物を届けに来たあの配達の青年だ。

「あなたは……あの時の?」

 真琴は気づいた――バスの異様な静けさに。その全員が、龍一と真琴を何も言わず、ただ見つめていることに。

「この人たち……みんな……どうしたの?」

「別におかしくなってはいないよ。ただ

 龍一はやれやれという調子で溜め息を吐いた――が、その首筋にびっしりと汗が浮き上がっているのを真琴は見た。「できれば二度と会いたくはなかったよ、〈ヒュプノス〉」

 青年が音もなく立ち上がる。まるで人間大の昆虫を思わせる、滑らかだが奇怪な立ち上がり方だった。

「俺の仲間を殺して回っていたのは……お前らだったのか……」

 龍一の蹴りで顔面を腫れ上がらせたリーダーがよろよろと立ち上がる。「何なんだ……畜生……お前ら一体何なんだ……」

 いい質問だね、と青年は優しく微笑んだ。「

 わななく首筋に青年の両手が伸びるのに、真琴は目が離せなかった。

「見るな!」

 龍一が怒鳴ったが、遅かった。次の瞬間、異様な音とともにリーダーの首が異様な方向へ折れ曲がった。

「欲の皮が張った汚職警官たちを一網打尽にするには、もうおしまいというところまで追い詰める必要があった。後は君だ、龍一。今度こそ君に、眠るがごとき死を」


 夏姫のスマートフォンが通知を知らせる振動を発した。〈ヴィヴィアン・ガールズ〉のカチュアからだった。

【Webニュースを見た?】

「……ええ。たった今ね」

 夏姫のタブレットには【みまなモール内のフィットネスクラブ『シャングリラ』で不審火】とのニュース速報が映し出されていた。言うまでもなく先刻訪れたばかりの彼女たちの〈サイト〉だ。

【情報収集・分析のための拠点として使っていたのが幸いして、持ち出す物資は最小限で済んだ。幸運な点はそれしか思いつかないけど。警察が現場検証に入れば、本当は何に使われていたのか一発でバレるでしょうね。事実上、再建は不可能よ】

「いよいよ首が締まってきたわね」

【ええ。間違いなく追い込みにかかっている。急かしたくはないんだけど、特定はまだ?】

 カチュアの声に動揺はなかったが、余裕もまたなかった。夏姫は唇を噛むのを堪えた。「まだよ。わかったらすぐに知らせる」

【狙い撃ちにされている状態で〈姉妹たちシスターズ〉への攻撃指令は出せない。私たちはまず自分の身を守らなくてはいけないから】

「わかっているわ。もう少しだけ耐えて」

 通話を切ると、夏姫は車外に目をやった。傾き始めた日に照らされる、表面上は平穏に見える街並みを見つめる彼女の唇から、無意識のうちに呟きが漏れた。

「……頼んだわよ、龍一」


「……今すぐ背中にしがみつけ。いいか、俺がいいというまで全力でしがみついていろ」

 顔を前方に向けたまま、龍一が小声で呟いた。緊張しているがおびえてはいない、その口調に、少しだが真琴の全身を縛っていた異様な非現実感が薄れた。どう見ても目の前の青年たち2人は、心温まる関係とは言い難そうだった。因縁の相手、という奴か。アクション映画を観に来たのならともかく、自分がアクション映画に巻き込まれるのはごめんだった。

「大丈夫だ。3分だけ我慢しろ」龍一は顔を半分だけ真琴に向け、微かに笑って見せた。「それだけあれば、目の前のあいつらを

 むしろあなたと一緒にいると危険な気がするんですが、とは一瞬思ったが、とりあえず言われた通り龍一の背によじ登った。幸いバックパックの表面にはあちこちに凹凸があり、つかむのに苦労はない。それに、血がひたひたと押し寄せてくる床に立っているのもそれはそれで恐ろしかった。

〈ヒュプノス〉の端末たる青年は満足そうに頷いた。「準備はできたようだね」

「よく言うぜ。俺の背中にくっついているが見えないのか?」

 青年は薄く笑う。「優れた格闘家が戦いに臨めばそれは常にベスト・コンディションだと言うじゃないか。それに――君はむしろ、ハンデがあった方がんだろう?」

 勝手言いやがってと龍一は呟き、真琴は内心で「言えてる」と思った。

 周囲の怒号や悲鳴をよそにバスは加速を続けている。この様子では時速80キロを越えているのではないか。


 海からの湿った風を肌に感じながら、崇はツァイス社製のデジタル双眼鏡を覗き込んだ。夜間や濃霧、砂塵の補正機能はもとより録画機能までボタン一つでこなせるプロユース製品だ。

 拡大された視界には、子供の積み木を巨大化させたような四角いブロックを幾つも連ねたような建築物が映し出される。最近よく見かける、空コンテナを積み重ねて作った簡易建築だった。

 建物の下半分は海から水を引き込んで作った人造湖に浸かっており、建物への出入りは簡易な桟橋を使って行うようだ。

 傍らに微かな気配を感じた崇は、それを一瞥して警戒を解いた。四本足で移動する掌サイズの、子蜘蛛そっくりな愛玩用ドローンだった。PL法を意識してか、全体的に丸っこいシルエットだ。目の部分が瞬くように数度シャッターを開閉し、瀬川夏姫の声で喋った。

【あれ、半水中型のデータセンターでしょ。従来のものより安価に建てられるってコンセプトの】

「ああ。見るか?」

【見せて】

 崇のかざした双眼鏡に、ドローンはちょこちょこと這い寄って覗き込んだ。

【……どう見ても得物を懐に飲んでるって風情のお兄さんたちが見張ってるわ。物騒ねえ】

「しかし、場所は絶妙だ……ここからは〈のらくらの国〉も近い。警察のパトロールもどうしてもおざなりになる位置だ。万が一手入れがあっても機材を爆破し〈のらくらの国〉に逃げ込むにも難しくねえ」

【限りなく黒に近い灰色ってところね】

「ついでに言うと、あのデータセンターの名義人、デルポイ・コグニティヴ代表取締役社長の愛人だってよ」

【うわ、生臭さ全開】

「しかしさすがにあれを俺一人でどうにかしろってのは手に余るぞ。どうしても頭数がいる。〈ヴィヴィアン・ガールズ〉はまだ動かせないのか?」

【まだね。殴り込みには準備がいるから。……あ、待って。少なくとも頭数だけだったらもうすぐ増えそうよ。そっちに向けて移動中みたい】

「……何だって?」


 メリケンサックが鈍く輝く。龍一に劣らない体格の大男が正面に立つだけで吹き飛ばされそうな正拳突きを放った。シンプルだが、その分早く隙の無い一撃。

 一瞬遅れて右側からマチェットが振り下ろされた。隙を潰しにかかる連続攻撃。

 龍一は軽く身体を開いてメリケンサックの正拳突きをかわし、首をわずかに傾けてマチェットの斬撃を防ぐ。背中にしがみつく真琴は振り落とされないだけでも必死だ。

 冷やりとするものを感じて振り返った真琴は、かすれた悲鳴を上げそうになった。あの女がサーベルを高々と振りかざしていたのだ。

 だがそれが振り下ろされる一瞬前に、前方を向いたままの龍一の掌が背後に突き出された。

 目を疑った。開いた掌の10センチ先、目に見えない壁に阻まれたようにサーベルの切っ先が食い止められている。

「……言い忘れていたけど、この磁界、手からも発生させられるんだよな。出力限界で身体全体を覆うのは無理だけど」

 緊張に冷や汗を額へ浮かべながら、龍一がにやりと笑う。「だからこんな芸当もできるんだ。――真剣白刃取りスクリュードライバー

 言うが早いが、白刃を文字通り鷲づかみにした。身体全体で巻き込むようにして刃をねじりながら、女の喉に容赦ない手刀を入れる。

 女が崩れ落ちた瞬間、マチェットが横薙ぎに振り払われた。身体を沈めて交わしたが、頭髪が数本切り裂かれる。力任せに揉み合う隙を見逃さずメリケンサックの男が背後から殴りかかる。

 龍一は軽く背後へのけぞった。真琴が悲鳴を上げる間すらなくマチェットの男に全体重を乗せた頭突きを食らわす。これには耐えられずマチェットの男が鼻血を撒き散らして背後へ倒れた。背後からつかみかかるメリケンサックの腕を払いのけ、肩越しに太い首を渾身の力でつかんだ。

「そうれ!」

 肩越しに投げた。龍一と大差ない巨体が轟音を立てて床へ叩きつけられる。間髪入れずにマチェットの男が鼻血をぬぐいもせず飛びかかってくる。刃ではなく、逆手に握った柄を鈍器代わりにして殴ってきた。かわし切れず、龍一が横面に一撃食らってしまう。みしり、という嫌な音が真琴の耳まで伝わってきた。

「……まだまだ」

 強烈な前蹴りがその返答だった。男の身体がボールのように数メートル跳ね上がり、バスの天井へ叩きつけられた。轟音。今度こそ完全に気絶した男が一瞬遅れて床へ倒れ伏し、真上からパネルと樹脂の破片がばらばらと降ってきた。

 真琴はだんだん自分の目が信じられなくなってきた。アニメやゲームのキャラではないのだから、人間の身体はそう簡単に数メートル吹き飛んだりボールのように転がったりしない。ましてや真琴より遥かに重い成人男性の肉体を天井まで蹴上げるなんて、どれほどの脚力を必要とするのだろうか。あまりリアルに想像したくないが。

「これ、壁走り以外にも使えて結構便利だな。足の裏さえ着けていれば踏ん張りが利くし」

 ほら、と龍一は片足で立ってみせる。

「やはり容赦ないな……彼らの苦痛がこちらまで伝わってくるよ」

 あの青年だけが穏やかな表情を崩さず、ひっそりと立っていた。さほど両足を踏ん張っているようにも見えないのに、揺れ続けるバスの中で微動だにしていない。

「人格共有とやらも案外不便なものだな。自分は傷一つ追わなくても同類の苦痛を感じるなんて」

「……ああ……痛いとも。痛いけど、この苦痛を君たちにも理解できるとも、ついでに言えばさせたいとも思わない。むしろ、逆だ」

 まるで夢見るように青年はささやく。

「このような苦痛を君たちに味わわせるわけにはいかない。苦痛も、それに伴う恐怖も。

 青年が指揮者のようにゆっくりと両手を上げた。数メートルを隔てた空間に、髪より細いワイヤーのきらめきが幾十、幾百にも連なって踊る。

「苦痛なき、眠るがごとき死を」


 急に双眼鏡の視界内で、見張りらしき男たちに動きが現れた。妙に慌てた調子で、ばらばらとコンテナ群の周囲に散りつつある。

 まさかこっちの位置がばれたのか。いや落ち着け、と見守る崇の眼前で、たった今コンテナの中から躍り出てきた男の一人が、脳天を撃ち抜かれて声もなく人工湖に落ちた。

 慌てて懐から拳銃や短機関銃を取り出し警戒する男たちに向けても、軽機関銃らしき火器の一斉射撃が浴びせられる。

「……〈ヴィヴィアン・ガールズ〉か!」

【騎兵隊の到着ってところね】無線から聞こえる夏姫の声はどこか誇らしげだった。【今のうちに侵入して。躊躇っていると巻き添えを食うわよ】

 どっちかというとあいつらの方が包囲される騎兵隊だがな、と崇は呟きながら走り出そうとして、ふと自分の服装を見下ろした。

「……クリーニング代、ご当主は出してくれんのかな?」

 ままよ、と崇は思い切って人工湖に足を踏み入れた。野生の沼や池より多少清潔、という程度の水は、表面に油や包装ごみなどが浮いていてかなり気持ちが悪い。

(あそこらへんが出入り口だな……)

 見当を付けたコンテナの頂上で、傭兵らしき男が対岸に向けて狙撃銃を構えたところだった。崇は躊躇わずその足首をつかみ、放り投げた。

 バランスを崩した男の間抜けな悲鳴が尾を引いて落下していくのも確かめず、崇はコンテナによじ登り、開いたハッチに身を滑り込ませた。


 千枚通しを手に飛びかかる学生の顔面を掌底で突き上げ、バスが大きく揺れる勢いを利用して特殊警棒を振りかざすサラリーマンの頭部を反対側の座席へ叩きつける。「告訴してみやがれ!」と日露ハングルの三か国語で描かれたTシャツの青年が突き出すコンバットナイフを掌で受け止めてから顔面を蹴上げ、小太刀を手にした主婦に肘を入れる。放たれた鉄礫を磁気で反らし、壁を蹴って跳躍し、突き出される短槍を真上から蹴落とした。

「龍一さん、目、目、目が回る!」

「ふむ。生きてるならいいや」

「人の話聞いてる!?」

 真琴は振り落とされないようしがみついているのが精一杯だった――その背筋が、急に寒くなった。

「龍一さん!?」

 声を上げたのは絶叫の代わりだったが、それは真琴本人が思っていた以上に現実的だった。大きく跳躍した龍一の傍らで、バスの座席の背もたれが滑らかな断面を見せて切断された。

「さすがだね。彼ら彼女らは君との戦闘を想定して調整チューニングされた特別製なのに」

「褒められても嬉しくはないな……」

「つれないな。君に敗れたあの日から、僕は君のことを一日も忘れることはなかったよ。まるで恋焦がれるように」

 龍一と真琴を囲んでいた乗客たちが、無傷の者も顔面から血を滴らせた者も、まったく同じタイミングで背後へ下がった。

「……何しろ、僕は君にんだからね」

 微笑みを絶やさない青年が、音もなく数メートルを詰めた。

 龍一が後退する――真琴が今まで見たことのないような必死の形相で。

 気絶から覚めて立ち上がりかけた警官の胴体ごと、数個分の座席が目に見えないワイヤーで両断された。

 横ざまに飛んだ龍一が床に転がる背もたれをボールのように蹴飛ばした。それもまた果実か何かのようにたやすく両断される。

 投げつけたサバイバルナイフが壁で跳ね返り、思わぬ角度から襲いかかって龍一の腕を浅く切り裂いた。

?」

 いつの間にかワイヤー射出機を振り捨てていた青年の手に、他の乗客が放って投げたマチェットが握られている。

「共有できるものは痛覚だけじゃない。当然、聴覚も、視覚もだ」

 マチェットの柄がハンマーの勢いで龍一の腹に叩き込まれた。

「がっ……⁉」

「自分の武器に執着するな――君との戦いで得た教訓さ」

 とっさに後方へ退けはしたが、衝撃を殺しきれなかったらしい、真琴を背負ったまま膝を着く。

「動くと痛いよ……なんて言わない。君が自分から首を差し出してくれるなんて、もう思わない」

 青年がマチェットを一振りすると、鞭のように鋭く空気が鳴った。


「ここは……」

 コンテナへの侵入に成功した崇は、薄暗い室内に目を凝らした。機械油と人の体臭が入り混じる悪臭。狭いコンテナの中には、信じられないほど大勢の人が蠢いていた。

 左右の壁際に薄型の液晶モニタとマウスがずらりと並べられ、それに腰掛代わりのバー(よく見ると、それはただの錆びた鉄骨だった)が付属している。大企業のオフィスをさらに狭くし、さらに不快にしたような環境だ。暗すぎて年齢どころか、男女の別すらも定かではない。

 人々は手元のモニターで何かの株式相場らしきグラフを見ながら、手元のマウスを忙しく操作している。集中しすぎて、近くにいる崇にすら気づいていない様子だ。

「……麻薬漬けにされた不法移民たちか。文字通り、AIの『穴』を人海戦術で埋めているのか」

 実際、新田清にデータを破壊され、真琴の確保すら上手くいっていない現状ではそうするしかなかったのだろう。荒っぽいが有効な手だ、と崇は頷く。

「……そう、時間稼ぎとしては有効な手だ。永遠には使えないとしてもね。しかし自分の関わったものが、こんなディストピアじみた光景を産み出すとは思わなかったよ」

 返事など期待していなかった崇はぎょっとして振り向いた。驚いたのはその声に、確かに聞き覚えがあったからである。「あんたは……?」


 土塵を蹴立てて時速100キロ近い速度でデータセンターに突っ込んでいく路線バスを見て、後方を走っていたテシクは呆気に取られた。「あいつらは何やっているんだ? あそこが終点だからって、何でバスごと突っ込む必要があるんだ?」

【私に聞かないでよ。まったく、あの結果論の鬼たちと来たら】


 青年が龍一に向けてハンチング帽を投げつける――それを濡れた紙のように貫き、何かが高速で飛ぶ。決死の形相で首をひねる龍一のこめかみを、礫が雀蜂のような唸りを上げて掠めた。磁気に反応しないプラスチック製。

 磁気で引きつけた特殊警棒が死角から射出された〈糸〉を絡め取り、引き換えに野菜のように幾つもの破片へと寸断される。

 意識を失った乗客の肉体が雪崩のように落ち、飛びのいた足元に短槍が深々と突き立った。

 床を蹴り、壁を蹴ってなおも後退する龍一の足元へ、座席の背もたれを突き破って細く、鋭く、鋼鉄よりも強靭な〈糸〉が殺到する。

「……ああ、そうだ、そいつは切断だけじゃなくこともできるんだったな!」

「よかったよ。忘れられていたらどうしようかと思った」

 一段と激しい衝撃がバス全体を襲った。窓の外に目をやった真琴は、とんでもない光景に度肝を抜かれた。時速百キロ近いスピードで突進していたバスがとうとうカーブを曲がり損ね、ガードレールを突き破ったのだ。

 龍一のバックパックをつかんでいた手が汗で滑った。あ、と思った時には、身体が宙に舞っていた。

「ひゃああああああ!?」

「真琴!」

 宇宙空間に放り出されたような浮遊感。人も物も、全てが床や天井から離れて回転している。

 龍一がワイヤーアンカーを放ち、先端が真琴の腰の辺りを絡め取った。ワイヤーを巻き戻して引き寄せようとする、その背後から、

「…………!」

 投擲されたマチェットには反応できたが、そこまでだった。かざした龍一の右腕にマチェットが深々と矢のように突き刺さった。

 高々と宙に舞ったバスがバンパーを下にして落ち――コンテナを幾十も連ねたような建物へ向けてゆっくりと落下する。

 激しい衝撃に、何もわからなくなった。

 ――実際の時間は、ほんの数分かも知れない。

 自分の身体が横倒しになっていることに気づいて目を開けると、すぐ傍らに膝を着いている龍一の姿があった。ほっとして呼びかけようとして、真琴はその姿に妙な違和感を覚えた。

 愕然とした。龍一の右腕から生えているように見えたのは、柄の根本近くまで突き刺さったマチェットだった。

「龍一さん……!」

「気にしなさんな。ただの重傷だ」

「いやそれは気になるよ!」

「ハンデがあるのに、よく頑張ったね」

 今や真横になった座席の背もたれに腰かけ、青年が微笑む。宗教画の天使を思わせる笑み。倒立したバスの窓から差し込む光が、穏やかな横顔に降り注いでいた。

「一つ提案があるんだ。その子を置いて君だけ外に出るというのはどうだろう? 僕はの仕事を片付けにきただけだし、その子は依頼の対象外だ」

「聞けないね」

「そう言うと思ったよ。君には飲めない提案とわかって出したまででね」

「納得したところでそこから降りてきてもらおうか」

 龍一の腰から放たれたワイヤーアンカーが座席を根元から吹き飛ばす。まるで宙に舞う羽毛のごとき軽やかさで青年はそれを避け、別の座席に立つ。

 転がっていたサーベルを左手で拾おうとした龍一の手甲に、すかさず礫が命中した。声にならない悲鳴を上げて龍一がのけぞる。

「君は強く、速く、何よりも頑丈だが、それで全てが解決できると思っているがあるね。それがこうして命取りになったわけだけど……正直、君のそういうところ、嫌いではなかったよ」

 青年の腕が優雅にもたげられる――必殺の構え。

 考える前に、口から言葉が迸っていた。

「彼の命乞いなら聞けないよ。だいたい察したろうけど、僕と彼の間には並々ならぬ因縁があるんだ」

「それは知ってるよ。でも僕は、

 龍一が何か言おうとするのを、。一度だけチャンスは作ってやる――あんたがそれを潰す馬鹿ならそれまでだ。相良龍一という男が馬鹿ではないことに、真琴は賭けたのだ。

 背後から組み付こうとした龍一の胸板に、強烈な肘打ちが見舞われた。とっさにブロックこそしたものの、今までのダメージが蓄積された影響かその場に膝を着いてしまう。

 聞き分けのない弟を諫めるように青年は溜め息を吐いた。「少しばかり僕の気を逸らしたくらいで何かできると思ったのかい? 君の獣じみた反射神経ほどではないけれど、僕にだって似たようなことはできるんだ。あの子に気を配りながら君の逆襲に対応するくらい……」

 優雅でさえある青年の立ち姿が大きくバランスを崩す。初めて、青年は絶句した――その顔に初めて浮かぶ愕然とした表情。

「そんなに驚くことはないだろう。それとも、?」

 いつのまにか青年のその右腕に、ワイヤーアンカーが絡みついている。

「『負うた子に助けられ』とはこのことだな」まだ完全に立ち直れてはいない顔で、それでも龍一は不敵に笑ってみせた。「いや、それとも『必要は発明の母』かな? ここまで追い詰められなきゃ、ワイヤーで〈ヒュプノス〉に勝とうなんて思わなかったよ」

「……やっぱり君は、強いなあ」

 青年が笑った瞬間、凄まじい勢いでワイヤーが巻き戻された。龍一の膝蹴りが青年の腹に炸裂し、その身体がボールのように跳ね飛んでバスの窓を突き破った。


「大丈夫か? 歩けるかい?」

「まだ身体が揺れてるけど大丈夫……龍一さんこそ腕は平気?」

「スーツ自体に止血効果があるからな。見た目ほどひどくはないよ」

 ずたずたになった戦闘服姿の龍一と、ぼろぼろになったワンピース姿の龍一は、割れたガラスに注意しながらどうにか自分の足でバスの外に這い出た。

「お前ら……これ以上は無理なくらい派手な方法で来たな」

 コンテナの影からテシクと、AKを構えた2人の少女が姿を現した。「もうちょっと穏便に来られなかったのか。何だこのシュールな絵面」

「……あれ? 何だか静かになってるけど、終わったのか?」

「終わった……というか、お前らがどうでもよくしたというか」

 真琴はコンテナの山の頂上から生えているバスの車体を目にし、龍一と顔を見合わせた。

「キミさ、駅前でお札ばら撒いた子だろ?」右目に眼帯をした少女が、欠けた歯を剥き出しにして笑いかけてきた。「思ったよりいい面構えしてんじゃん。あたしたちと一緒に暴れる気はない? 今ならAKと弾倉1マガジン分サービスするよ」

「何よ、その今ならって」傍らに立つ褐色の肌の少女が窘める。「あまりリュドミラの言うことを真に受けないでね。私たちに人員が払底しているのは確かだけど」

「性根の据わったメンバーはいつでも歓迎するって、カチュアはいつも言ってるじゃないか」

「口を尖らせないで。だからって足りている人に全部棒に振れとは言えないわ」

「あの……本当に〈ヴィヴィアン・ガールズ〉の人たちなんですか? ごめんなさい、てっきり都市伝説かと」

「そっかーあたしたち都市伝説かーまあ無理もないけど」

 眼下の人工湖のほとりでは、真琴と同年代の、しかしスカーフや目出し帽で顔を隠した少女たちが、武装解除した傭兵たちを銃口の先でこづいたり尻を蹴飛ばしたりして連行していた。実に殺伐とした光景だった。

「あの人たち……殺されないよね?」

「身代金ぐらいは取るけどね」カチュアが答える。「今さら悪名なんて気にしても始まらないと言いたいところだけど、必要以上のイメージダウンは避けたいし」

「てか、あんな潰しても潰しても湧いてくる羽虫みたいな連中殺しても仕方ないからね。ああいう奴らを産み出しているシステムそのものを叩かないと。で、話は戻るけど、うちに来ない?」

「……その話続いてたの? もしかして僕、一目置かれてる?」

「そりゃそうだよ。あんなイカレた真似、一番ぶっ飛んでた頃のあたしでもそうそうはやらないよ」

 真琴は思わず頭を抱えてしゃがみ込んでしまった。「あーそうだよ! 僕の顔、絶対監視カメラとかに映ってるよ! あんな騒ぎ起こして怪我した人でもいたらなおさらただじゃ済まないよ!」

 カチュアが興味深そうに真琴を見下ろした。「少し混乱しているみたいね」

「難しい年頃なんだよ」

 真琴はつい上目遣い気味に龍一を見てしまう。「……他人事みたいに言ってるけど、龍一さんにも関係があるからね?」

「それにしても龍一、何でこんなところに素人の女の子を連れてきたの? 誘拐?」

「……そうだった。君たち、この建物の中枢がどこか知らないか?」

「あれじゃなかったら、知らないね」

 リュドミラが顎でしゃくった先には、バスの前部にドア部分を潰されて大きく穴が開いたコンテナがあった。ひっくり返ったコンソールやサーバー群に混じって、一際大きく、真新しい棺のような純白の機械が中央部に備えられている。

「……何だこりゃ? 周りはずいぶん使い古されているのに、真ん中の機械だけやけに新しいな。それに、こんな金属見たことがないぞ」

【デルポイ・コグニティブは、人工知能の研究開発どころか、このオーパーツの解析機関に過ぎなかったみたいね】

「よくそんな訳の分からないものに全部を賭ける気になったもんだね……」

「詳しい原理なんて、連中にはどうでもよかったんだろうし、実際どうでもよかったんだろうな。金の卵を産む鶏の腹を裂く奴はいないってこった」

「そもそも、デルポイ・コグニティブはこれをどこから持ってきたんだ?」

「さあな……案外、本当に天から落ちてきたか地面から湧いて出たかしたのかも知れないぜ」

 あまり冗談など言いそうにないテシクが大真面目な顔で言い出したので、真琴は少し驚いた。何か思い当たる節でもあるのだろうか?

 装置の側面に、ちょうど真琴のブレスレットと同じ大きさの窪みがあった。試しに腕からそれを外してあてがってみると、最初からそうなっていたかのようにぴたりと収まった。

 低い作動音を上げていた装置が、少しずつ停止していく気配があった。まるで人間が眠りに落ちるさまを見ているようだった。

「……終わったのかな?」

「らしいね」龍一が頷く。

「かくして〈オラクル〉は無に帰る――陳腐な言い方をすれば、悪党どもの運の尽きといったところだね」

 聞き覚えのある声に、全員がぎょっとして振り向いた。部屋の入口に、全身ずぶ濡れになったあの青年が、どうにかといった様子で立ち尽くしていた。

「そりゃ死んではいないだろうとは思ったけど、それにしても復帰が早くないか?」

 テシクが瞬時に拳銃を構える。「お前の仕事はもう終わったんじゃないのか、殺し屋? 汚職警官たちの首を刈ったらもうここに用はないんだろう?」

「つれないねえ。彼に会いに来たんじゃないか」 

 カチュアとリュドミラが「うへえ」と言わんばかりの顔をする。

「お前は是が非でも俺を殺したいんだろうが、俺はそうじゃない。その執念だけは認めてやるから、今日はもう帰ってくれ。さすがにだ」

「乗り気にならざるを得ないことを、一つ教えてあげよう」青年の口の両端が、紙に描いた仮面のように吊り上がった。「君がひたすらに追い求めてやまない〈HW〉と、僕たち〈ヒュプノス〉は、


「…………へえ」


 龍一の呟きは低く小さかったが、ひどく不穏なものを感じさせた。真琴だけではない――傍らのカチュアやリュドミラ、テシクでさえ、その呟きに薄ら寒いものを感じたようだった。

「それはぜひとも詳しく聞かせてもらわないとな……お前らと〈HW〉が『同じ』ってどういうことなんだ。安心しろ、

「こいつに用があるのはあんただけじゃないよ、龍一」リュドミラは蛇が鎌首をもたげるような速度でAKを構えた。「お前が使っている〈糸〉だけどな、どこの国の殺し屋だって特殊部隊だって、そんなトンチキ兵器で殺して回ってる奴なんて聞いたことないんだ……あたしたちのママを殺した〈うつろな男たち〉とか名乗ってた連中以外はね。するってえとこいつは、ママの仇の片割れってことになるじゃないか」

「嬉しくって踊り出しそうよ」カチュアがゆっくりと首を振る。「まさか母さんの死の原因が、自分から喉を差し出してくるなんてね」

 青年はやれやれと言わんばかりに首を振る。まるで聞かん気の弟や妹を諫める兄のように。「なるほど、君たちなら僕に相当の苦痛を味わわせることはできるだろう……でも殺すのは諦めたまえ。少なくともそれは、君たちの役割じゃない」

「『死』というものは、意識もしないところから来るものだと思うけど? 自分だけはそれとは無縁と思っているの、〈ヒュプノス〉?」カチュアが鎌のように湾曲した刃を持つ特徴的なナイフを油断なく構える。

「幾らお前でも、この距離から散弾を浴びせられたらひとたまりもないんじゃないのか?」テシクが向ける銃口はびくともしない。

 くすくすと青年は幼女のような笑い方をした。「こういう時、確かぴったりの台詞があったねえ――ああ、そうそう、思い出した。『死にたい奴からかかってこい』って言えばいいんだっけ?」

 真琴は青年の指先が細かく震えているのに気づいた。恐怖によるものではない――あの〈糸〉を細かく操作しているのだ。この場にいる全員を一瞬で屠るために。

「どうせなら皆で一斉に撃ちなよ――その方が、僕は

 呑気でさえあった龍一たちがなぜこうまで殺気立つのか、彼らをそこまで気色ばませる〈HW〉とは何なのか――真琴にはわからなかった。

 わかるのはこのままだと、確実に誰かが死ぬということだ。

「はいはいはい皆さん注目ー!」

 なぜそんなことをしたのか、自分でもわからなかった――あれ、僕とてつもなく馬鹿なことしてないか? そう自覚した時には、真琴は暗殺者とゲリラの少女たちと犯罪者たちに向かって大声を上げながら手を振ってみせた。

 一同の関心が向いた隙に、真琴はすかさずブレスレットを頭上に差し上げた。

「これ! これ! 皆さんこれのために集まったんですよね?」

 返答を待たず、真琴は渾身の力で手の中の塊を投げた。

 宙に舞ったブレスレットが傾きかけた陽の光を鋭く反射し、真琴の目を射た。ほれぼれするような美しい放物線を描いて、数秒後、人工湖に物の落ちる音がした。

「見ましたね? 皆さんが殺し合いする理由なくなりましたね?」

 周囲が表情の選択に苦労しているような顔をする中、真琴は力強く頷いた。「帰りましょう!」

「えー……」と龍一は開いた口が塞がらない。

【いや……いやいやいやいや】夏姫の操るドローンまで首を振っている。

「ひどいごり押しを見た」とリュドミラ。

「自分の靴を『これ食うから借金チャラにしてください』とほざいて本当に食い始めた奴がいたな。久しぶりにあいつを思い出した」とテシク。

「何もかもが間違っているけど指摘する気にもなれないわね……」とカチュア。

 青年が再びくすくすと笑った。「皆その子に救われたね……いや、それともお互いに救われたのかな?」

「そっちこそほっとしてるくせに」という龍一の声も、先ほどに比べるとずいぶん怒りを欠いている。

「えーと殺し屋さん、あなたも今日のところは帰ってください。殺し損ねたんですし」

 カチュアとリュドミラがまたも顔を見合わせた。夏姫のドローンまで「ぷ」と妙な音を発している。

「それを言われると返す言葉もないね。わかったよ、勇敢なお嬢さんの言葉に従うよ。もうすぐそれどころではなくなるしね」

「一つだけ聞かせてくれ。一体この街に〈ヒュプノス〉は何人侵入したんだ?」

 あ、と龍一が間の抜けた声を上げた時には、既に青年の姿はなかった。


「やけに静かになったと思ったが、ケリは着いたみたいだな」

 コンテナの中から、ずぶ濡れのスーツ姿の崇が這い出てきた。もう誰が出てきても驚かないぞ、と思いながらそちらに目を向けた真琴だったが、崇の肩を借りて出てきた人影にはさすがに目を見張らずにいられなかった。

「父さん?」

 皺だらけになったギンガムチェックのシャツと垢じみたジーンズに身を包んだ、ぼさぼさの髪の男は真琴の顔を見て呆然と呟いた。「……真琴?」

 背後では龍一と、夏姫のドローンが顔(と顔らしき部分)を見合わせていた。「こいつはひでえや。俺たち、あの親父さんに一杯食わされたんだな」

【謝るどころか土下座した方がいい案件ね】

 リュドミラは顔が直角になりそうなほど首をひねっている。「何これ? 感動の家族の再会って奴? ずいぶんと締まらない感じだけど」

 カチュアはただ深々と溜め息を吐いている。「よくわからないけど、何かいろいろなものがぶち壊しになったのは察したわ」

「敵を欺くにはまず敵の懐っていうじゃないか。もっとも、ここには労基法なんて薬にしたくもないからね……本当に死体になるかと思ったよ」

 へらっと気の抜けた父親の顔を見て、真琴は軽く息を吸い込んだ。そして一歩踏み出し、横頬を平手打ちした。

 ぺちん、と締まりのない音がした。

「まこ」まで言いかけた父親はぽろぽろと涙をこぼし始めた真琴の顔を見てさすがに気まずそうな顔で口を閉じた。真琴としても、ようやく安心して泣ける気分になったのである。

「すまなかったね。あなたたちを心の底から信用できなかったんだよ。僕一人ならともかく、真琴のことも含めるとね」

「実の娘さんに、それも平手打ちの一発で済ませてもらえるんなら安いものでしょう」崇はかなり棘のある口調で言った。「ご当主が本気で腹を立てたら、あんた逆さ吊りにされて挽肉機にぶち込まれてるはずですぜ。ほら、『ファーゴ』って映画あったでしょ? あんな感じで」

 龍一が嫌な顔をする。「言うなよ。思い出しちゃったじゃないか」

「個人的にはご当主が許しても、俺がそうしてやりたい気分ですよ。娘さんの目の前でなけりゃね」

「わかっているよ。あなたたちには大きな借りができてしまった」

 まるでそれを見計らったように、遠くからサイレンの連なりが聞こえてきた。

「……今になって官憲のお出ましか。大したタイミングの良さだな」

「あの野郎、妙に引き際がいいと思ったら真っ先に逃げたのか」

「で、どうする?」

「突破するっきゃないでしょ」リュドミラは既にライフルを構え直している。

「できるだけ殺しはな。警官殺すと後が面倒だからな」

ね。了解」

【包囲の薄いところをナビするから、そこを突破して。真正面から警官隊とぶつかり合うよりはましなはず】

「助かる」

【真琴ちゃん、どこか怪我してない?】

「え、えーと、特にないです」

【よかった。龍一、もう一踏ん張りお願いね】

「やれやれ。……まあ、嫌も応もないな」

 何て元気な人たちなんだ、と真琴はつくづく思った。


【数週間後】

「……真琴、荷物の整理終わった?」

 真琴がまだ惨憺たる有様の自室で持っていくものを選んでいると、階下から母が声をかけてきた。

「終わったー。今行くよ」

 階段を降りると真琴の手に持った鞄を見て、鈴子が意外そうな顔をした。「ずいぶん少ないけど、そんなのでいいの?」

「いいよ。大きなものは全部送っちゃったし。……この家はどうなるの?」

「たぶん、売りに出すと思う。強盗の入った家なんて買い手も付きにくいでしょ。家自体古いし」

「……そうだね」

 家具が運び出されて空虚になってしまったキッチンを見回すと、何とも言えない気分になってきた。物心ついた頃から見慣れたものだけに、これが最後になると思うと何も感じないわけにはいかなかった。

 その心情を察したように、鈴子が肩をそっとさすってきた。「新しい部屋にもすぐ慣れるわよ。……行きましょ」

 あれから数週間、真琴の周囲にはひとまず平穏が訪れたものの、何もかもが以前と全く同じというわけには行かなくなってしまった。IT事業関係者と汚職警官の癒着、そしてそれにまつわる一連の事件は、血生臭いことには慣れっこの未真名市民たちにも相当なインパクトがあったらしい。

 そしてその中心人物である真琴のみが――間違いなく高塔百合子が動いたのだろう――その騒動から逃れることができたというのも皮肉な話ではある。

 母親は自分が知らないうちに真琴が生命の危機にさらされていたことが相当こたえたようだった。何しろ、父の顔を見るなり周囲が動揺するほどの激しさでもって、思い切り顔を張り飛ばしたのだ。

『あなたが何と言おうと真琴の養育は任せられません。今後は私が育てます!』

 現金と言えば確かに現金である。とは言え、母の反応はまさに少し前の真琴そのものであって、叱られた子供のようにうなだれた父を見ると、まあ、かなり留飲が下がったのも事実だった。自分も母さんと同じぐらい現金だなあ、と思う。

 実際、今さら追及しても始まらない話ではある。たぶん、真琴が一人前の大人でないのと同じくらい、父や母も完全ではなかったのだ。

 同時に、この人たちが僕の両親なんだよなあ、という妙な納得が生じたのも事実ではある。真琴は両親が恋愛結婚だったことを思い出していた。まったく、似た者夫婦め。

「……あ」

 表に止めてあったファミリーサイズの自律車に乗り込もうとして、真琴は声を上げそうになった。有名な引っ越しサービスのロゴが描かれたトラックに乗り込もうとしたのは、作業服こそ着ていたが、確かにあの龍一と名乗った青年だった。

 その眼差しがちらりとこちらを向いたような気がしたのは、真琴の気のせいだったのかも知れない。

「どうかしたの?」

「ううん……知っている人がいたような気がして。でもたぶん、気のせいだよ」

 。彼らも間違いなく、真琴が住む同じ街の住人なのだ。そのことを特に抵抗なく受け入れている自分に気づいた。

「昼もだいぶ過ぎちゃったわね。お寿司でも取ろうか」

「うん」

 家へ行って、と鈴子は音声入力で命じた。自律車が走り出した。

「……ねえ、お母さん」

「何?」

「運転うまくなった?」

「そんなはずないでしょ? 自動運転よ?」笑ってから母は首を傾げる。「でもそうねえ、何だか前よりも運転が滑らかになったような……プログラムがアップデートされたんじゃない?」

「ああ、それでか……」納得しかけた真琴だが、ふと思いついてスマートフォンを取り出した。「車の中で見ると目が悪くなるわよ」という母の言葉を聞き流して、幾つかのアプリを起動してみた。気味が悪いほど滑らかに動く。

「……まさかね」

 真琴の呟きに応えるように、手の中で一瞬だが確かに、スマートフォンが振動した。


 数日後、真琴宛てに小包が届いた。差出人の名前がない小包に震え上がり、すぐ警察に届けましょうと言う母をどうにか説得し(その母の怯えようで、真琴はあの事件が母にもたらしたものを改めて思い知らされた)自室のドアを閉めて真琴は封を解いた。

 果たして――入っていたのは、買ってすぐ台無しになってしまったものと同じ新品のワンピースと、一揃いの靴だった。

 真琴はワンピースを目の前で広げ、しばらく口をへの字にして考えた後「よろしい、とりあえず自分を男の子扱いしたことはこれで帳消しにしてやろう」と決めた。

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