いちゃりばちょーでー-2

 二日後、七月二十三日午前三時半。

 俺はあらかじめ設定していた振動のみのアラームで目を覚ますと、前日に準備していたスポーツバッグの中身をもう一度確認した。

 二人分の航空券、着替え、衛生用品など、そして霧島の壊れた三線。

 家に帰るのが何日になるか分からない。いちいちあちこちから電話やメールをされても嫌だし、着信拒否をかけてもきりがないだろうと考えて、携帯はあえて置いていく。

 全てに抜かりがないことを確かめてから、俺は親を起こさないように静かに家を出た。


 始発の電車に乗って俺は品川に着き、朝靄あさもやの立ち込める待ち合わせ場所に決めた京急線の羽田空港行きが止まる一番線ホームで彼女を待っていた。

 三十分ほど経つと、人のほとんどいないホームの遠くから大荷物を運んでやってくる女の子が目に映る。

 俺は彼女のほうまで歩いて行き、その身につり合いそうにない大荷物を運ぶ肩をぽんと叩く。


「よう」

「……おはよう……」

 霧島瑠那は汗を一筋だけかいた顔を上げ、眠そうな声で挨拶した。

「出て行くの、バレなかったか?」

「うん、こっそり出た」

 俺が安堵していると、霧島は自分の荷物をその場に降ろしてから、俺の周りをぐるぐると回り始め、回りながら俺の全身をじろじろ眺めている。


「なんだ?」

「……三線は?」

「三線なら、このバッグに入れてある」

 彼女の元に置いておくと養母に完全に壊されかねないとみて、俺が預かっていた壊れた三線。

「出して」

「今か? 邪魔になるし、俺が持って……」

「出して」

 彼女は大真面目な顔で、そう繰り返し要求する。


「……分かったよ」

 壊れていても、大事な彼女の三線だ。

 俺は鞄を置いてひざまずき、ファスナーを開けて三線を引っ張り出した。霧島はそれを受け取って安心した表情になり、ほっと息をつく。

「じゃ、重くなるから私の荷物は毛利くんが持つことに決定……」

「てめえなあ……」

 いつものマイペースに、俺は呆れて肩を落とした。

 本当に自分本位で勝手なくせに、それでいてひどく脆い少女。

 そんな少女のために、一円にもならないのに、俺はこれから沖縄へと向かう。

(全ては、お前とお前の三線のために……)




 アナウンスが鳴り、俺たちのホームに電車がやってくる。

 重たい荷物を二人分引きずって入ると、車内はひどくガランとしていて、俺たちと同じように大荷物を携えた旅行客と思しき人間が二人いる程度。

「シート占領して、寝られる」

「寝られるか。これから空港に近づくたび、旅行者が乗ってくるんだから」

 そんな行動に及ぶのは酔っ払いくらいだというのに、なんという女の子だ。やはり思考回路が少し変なのかもしれない。

 霧島は顎に手を当てて小首を傾げ、可愛らしく悩む。


「じゃあ、私はどうやって眠ったら……」

「そんなに寝たいのか?」

「眠ったら早く起きれないと思って、昨日からずっと寝てない……」

 電車が動いた。

「普通に下向いて寝るか、その……お、俺にもたれて眠ってもよくないってことはないぞ……」

「じゃ、そうする」


 冗談半分でそう言ったのだが、霧島は本当に俺にもたれてしまった。

 慌てて止めさせようとしたとき、俺は気づいた。

 俺の服の裾をきゅっと握りしめている、そのかよわい手に。

「…………」

「……不安か?」

 こくん、と頷く霧島。

 それから、小さな小さな声で、そっと囁く。

「でも、毛利くんと一緒なら、なんとかなる、そんな気がする……」

(……そうか……)


 随分、頼りにされているものだ。

 俺は彼女の小さな手にそっと自分の手を重ねて、その不安げな顔をしっかりと見つめて言った。

「心配いらん。お前の三線は、必ず直る」

「……毛利くん」

「だから、今は寝てろ。体力つけとけ」

「……うん……」

 霧島は、すうっと目を閉じた。

 電車の振動、隣で眠る彼女の体温、そしてこの先での不安と一縷の希望。

 ないまぜになったそれらを一身に感じながら、俺はただ、電車が空港に着くのを待ち続けていた――。




「霧島、起きろ」

「う……もう沖縄……?」

 寝ぼけた目をこすりながら、のんきなことを言う霧島。

「電車で沖縄まで行けるか。空港に着いたんだよ」

「……那覇空港……?」

「だから、沖縄じゃないっての。羽田空港だよ」

 どうしてお前はかたくなに、もう沖縄に着いたって思おうとするんだ。

 霧島は不満を訴えるように大あくびをかました。喉まで丸見えだぞ。


(女の子なんだから、もうちょっとこう……ああ、もういいや)

「飛行機に乗ったらまた寝れる。ちょっとだけ頑張れ」

「ん……」

 寝ぼけていても、しっかり三線は持ったまま降りるところが彼女らしい。

 俺はまたしても二人分の荷物を引きずって電車から降り、どこの連絡通路を通ればいいか案内図を眺めた。




 チェックインし荷物を預け、搭乗手続きまでを問題なくこなして俺たちは機内へ乗り込んだ。

 もっとも、やったのは全部俺だが。

 霧島は飛行機に乗るのは随分久しぶりらしく、修学旅行で乗らなかったのかと聞いてみたところ、中学・高校ともに行き先が京都だったので新幹線だったとのこと。

(東京に来る際には飛行機に乗ったのだと思うけど、そんな幼いころのことを持ちだしても仕方がないよな……)

 チケットの半券に記されている座席番号を照らし合わせて自分たちの席の前に着くと、霧島はここぞとばかりに俺より早く窓際を占領しやがった。別に羨ましくなんかないぞ。


 しかし、飛行機というものは乗ってから離陸までの時間が異常に長い。

 寝不足の霧島は早々に寝てしまい、俺は彼女のその体にシートベルトが巻きついていないことに気づいた。

(なんで俺がこんなこと……)

 男の夢をたっぷり詰め込んだような体躯に存分に惑わされながら、俺は彼女を起こさないようにそっとベルトを締めてやる。

 ちなみに霧島は離陸時にも全く動じずそのまま眠り続けていた。本当にこいつはそのへんの男以上に肝が据わっている。それとも単にものすごく眠かっただけだろうか。




 そして、電車に揺られ、飛行機に乗り、期待と不安に包まれながら、俺たちは沖縄の地に降り立った。

「青い空に白い雲、そして漫画に出てくるような南国植物がたくさん。いかにも沖縄って感じ……」

 深呼吸した霧島はそう言って、沖縄の空気を全身で感じていた。

「ま、沖縄以外のなんでもないとこだからな。俺も初めて来たけど、いいとこだな、お前の故郷ふるさとは」

「うん」

 霧島は頷いたかと思うと、ふと俺のほうをまじまじと見つめてきた。なにか言いたそうだ。


「…………」

「なんだ?」

「……これで隣にいるのが、すごく背が高くて美形なハリウッドスターとかだったら、もう言うことなし……」

「俺で悪かったな、もう東京に帰るぞ!」

「……冗談……」

 帰ろうとする俺の背の裾を掴んで、反対の手で口元を押さえてくすくす笑いやがった。飛行機でたっぷり寝たせいか、霧島はすっかり元気になっている。

 それとも彼女を元気にさせたのは、何か別のものだろうか――。




 さて、二人きりでここまで来た目的は一つ、三線の店で彼女の三線を直してもらうこと。

 霧島曰く『三線の修理は買ったお店でないと駄目』とのこと。ソーチーガだけ別の店で変えてもらうと、音自体が大きく変わってしまうのだという。

 まして、三線にこだわりや思い入れのある霧島瑠那は、自分の大切な相棒に妥協を許したくない性格ということもあり、俺はそんな彼女の気持ちをくみ、一緒に沖縄まで行くことになったわけだ。

 どこの店での物か分からない以上、三線だけ送って、直してもらってからまた送ってもらえば――ということもできない。だから、自分の足と目で、この三線の店を探さなければならない。


「はあ……」

 霧島は十余年ぶりの故郷の空を見上げたまま、今度は普通にため息をついた。

 無理もない、問題は山積みなのだから。

 東京や神奈川には全然存在しないが、この沖縄であれば三線の店など数え切れないくらいある。その中から、彼女の三線を扱っていた店を足で探さなければならない。

 そもそも、今の霧島が持っている三線は彼女が買ったものではなく、彼女の父が買ったとされるものだ。もしかしたらこの三線を扱っている店自体、今はもう存在していないとも限らない。


「ま、でも行くしかないよな」

「そう、だね」

「観光がてら、ゆっくり回ってみるか」

 俺は地図を広げ、赤い点でチェックしていた三線の店の中で現在地から一番近いところを探し、そこに向かうぞと霧島に伝えて歩きだした。

 霧島は後ろからやや急ぎ足でついてくる。それを足音で察し、歩く速度を緩めて彼女に合わせた。

 俺たちは、ゆっくりと進む。

 沖縄の空の下を、沖縄の道を、彼女の故郷を。

 彼女の未来へ向けて。




 何の手がかりもなしに闇雲に進むのは無謀でしかないのだが、そのときはそうするより他なかった。

 とにかく手あたりしだい三線の店に入り、霧島の持っているコレはこの店のものではないか、と聞いてまわる作業の繰り返し。

 想定はしていたが、やはりしんどい。

 飛行機から降りて大荷物を抱えたまま炎天下を二時間も歩きまわって成果なしだと、体力も精神的な余裕もずいぶんと持っていかれる。


 ちなみに不思議だったのが、どこの店を見ても看板に書いてある文字。「三線店」ではなく「三味線店」なのだ。

 霧島の持っている楽器は三線という楽器のはずで、なおかつ店にある商品だってそれと同じ三線しかないのにこれはどうしたことなのか霧島に訊いてみると、私も分からないけれど、沖縄の三線のほうが三味線のルーツと言われているくらいだから、そのことが関係しているんじゃないか、とのこと。

 その霧島は四件目の店を出て数分歩いたところで、そこに荷物をどさりと置いて膝に手を乗せた。


「ふうっ……」

「おい、大丈夫か?」

「ん……まだ、行ける……」

 下を向いたまま小さな声で彼女はそう言うが、顔からは汗が滴り、華奢な肩は上下に揺れ、辛そうだ。

「お前、飲み物どうした?」

「もう空っぽ……」


 買ってくるから、と言って俺は霧島と自分の荷をそこに置き、来た道を戻った。通りがかったところで見つけた自動販売機まで行って二本のスポーツドリンクを買い、取って返す。

「ほら」

 俺は二本のうち一本を差し出すが、あろうことか霧島は二本とも奪い取ってしまった。

(前もこんなことあった気が……)

 瞬く間に一本目を空にし、もう一本にも口をつけてごくごく飲んでいく。


「お前、パフェもそうだがそんだけの量、体のどこに入るんだよ。んでもって、なんで太らないんだよ」

「……っぱぁ……」

 いや、満足げな吐息はいいから。俺の分まで飲みやがって、実にいい顔してるな。

「分かったぞ、その胸に全部行ってるんだな栄養が……あだっ!」

 中身入りの三線ケースで殴られた。

「痛てえな!」

「私、セクハラ嫌い……」


 ちなみにこれはもともとの彼女のケースではない。三線が壊され、俺が霧島を連れて逃げたとき、ケースを拾うことを失念していたためにそのまま紛失、それ以降彼女の三線は終始壊れた姿をむき出しにしていたのだ。

 さすがにちょっとな、と思って一件目の三線の店で安い布製のもの(ケースとは呼べないかもしれない)を買ったのだが、買って早々随分と酷使してくれるな。


「演奏の時に邪魔だから、気にしてるのに。毛利くんはやっぱり、女の子をもう少し優しく扱おう」

「悪かったよ……」

 俺にももう少し優しくしてくれればいいのに、本当に肉体的にも精神的にも容赦ない奴だ。

 澄み渡った空を仰ぐ。

(やれやれ、喉が渇いたな……)




 四件ほど回ったが、結局沖縄での初日は成果なし。無理やり挙げるとすれば、安いケースが手に入ったことくらいだ。

 あらかじめ予約していた旅館に到着し、俺と霧島は部屋で荷物を置いてくつろぐ。

「はあ……」

 彼女はため息とともに足を投げ出して、前屈をするようなポーズを取った。俺は少し離れたところで座布団を出して胡坐をかく。

(体、柔らかいな)

 あまり見つめているわけにもいかなかったので、俺は適当な言葉を投げかけた。


「ま、初日で全てが上手く行くってわけでもないし、ゆっくり休んで明日以降に備えたほうがいいよな。焦っても仕方ないし」

「うん。思い切って出て行っちゃった以上、時間はいっぱいある。のんびりしよう」

 こくりと頷いて霧島は答えた。それを見て、俺は安心する。

(思ったより前向きでよかった……)

 実を言うと、彼女の性格を垣間見た俺にとって、成果が出ないと言うことに不安を覚えていた。

 マイペースで強引な彼女は、その裏でとても傷つきやすく、ネガティブで。

 成果のなさに落ち込んだり、探す意欲を失くしてしまったりしないかと不安だった。

 俺がいくら頑張っても、結局はこの演奏者次第なのだから。


 けれど今のところは――というより、朝に品川で待ち合わせたときからずっと、意外にも彼女はいつも通りの彼女らしさを保っていた。

 その理由はどこにあるのだろうと考えて。

「沖縄に来れて、良かったか?」

「…………」

 そういうことなのではないかと思ったから訊いてみたが、彼女はすぐには答えなかった。

 ややあって、「……あの」と蚊の鳴くような声で呟く。

「なんだ?」

「…………」


 それから彼女は俺たち以外誰もいないはずの部屋をきょろきょろと見まわしてから、座っている俺のそばまで這うようにすり寄ってきて。

 もう一度、耳元で囁いた。

「……毛利くんと来れてよかったって言ったら、笑う……?」

「ハリウッドスターと来てたらどうなったんだろうな」

 空港到着時の仕返しのつもりで茶化してみたら、霧島は思い切り不満そうに『へ』の字に口を曲げた。

「む……毛利くんはやっぱり、女の子を優しく扱えない……」

「俺はそういう男なんだよ」

 けれど、それが彼女の本音であるなら。

 嘲笑わらったりはしないつもりだ。


「…………」

「…………」

 少しの沈黙の後、霧島はまた話しだした。

 今度はいつも聞いている、ごく普通の声量で。

「あのね、毛利くん」

「なんだ?」

「まだ私が、本当に沖縄にいるってことが、実感として湧かないけど」


 霧島は俺の胸に後頭部を預け、上目づかいで俺を見上げながら言う。

「沖縄は、いつか帰りたいなと思ってたところで」

「うん」

「何年も何年も思いを馳せていて、幻想を抱いてたり、頭の中で美化されていたりするかもしれないけど」

「ああ」

「それでもこの島は……私が生まれた島なんだよね」

「…………」


 なんと答えればいいのだろう。

 そんなこと、彼女が知らなくて俺が知っているはずなどないのに。

 それでも目の前の少女は、俺になにかを求め、俺の口が動くのを待っている。

 自分以外の誰かに認めてほしいと、待っている。

 だから、俺は言った。


「歩けばいいと思うんだ」

「…………?」

 何のことなのかわからない、といった顔で俺を見つめる少女。

「この島をもっと歩いて、景色でも建物でも人でも、いろいろなものを見る。そうしたら、幼いころにもそれを見た、って記憶が、ふと重なって蘇ってくるかもしれない。いわゆるデジャブってやつだ」

「…………」

「だから、明日も明後日も、この島を歩きまわればいいと思うんだ。もし本当にお前がこの島で生まれて育ったのなら、焦らなくてもきっと……」

 この少女は、沖縄に三線を直しに来ただけ、というわけではないのかもしれない。

 彼女と出会ったころに聞いたこと。


 ――記憶を取り戻したい――


 霧島瑠那はそう言った。

 幼いころの幸せだった記憶。それを取り戻すことを、彼女は願っている。

 そのためには、やっぱりその時に立ち返ることがきっと大切だから。

 この島にいれば、きっと。


「きっと、島がお前に教えてくれるさ」

「…………」

 霧島はこくんと頷いて。

「やっぱり、毛利くんと来れてよかった」

 そう言って目を閉じ、俺に体全体を預けて脱力した。

「……そうか」

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