紫陽花の毒








 雲間に溢れる射光を、窓の向こうに見ていた。

 頬杖をついた片手にはシャープペンシル、左手はかろうじて教科書に触れていて、役目を終えるのを待っている。授業は六限目、誰もが面倒がる数学だけれど、美恵は同じ思いを共有できたことがない。

 単元毎に必要な定義定理の説明と、簡単な演習問題。それが終われば宿題が出て、次の単元へ。これだけ簡潔な繰り返しを持つ授業は他になく、立ち止まることさえなければすぐ終わる数学が、一番楽だった。

 チャイムが鳴る。さっき見た時は五を指していたのに、いつの間にか長針は十一を指していた。

「あ〜終わった終わった。つっかれたー」

 後ろに座る鼓実の声に、ふっと口元が緩む。

「貴方はいつも、そればっかりね」

 背凭れに寄りかかるように振り返ると、ちょうど、腕を伸ばしていた鼓実の手が当たった。

「だって。数学はほんっとーに!ちんぷんかんぷんなんだもん」

「また、教えてあげる」

「ありがと……」

 朝練をしてから八時間と考えれば、彼女が疲れるのも仕方なく感じる。とはいえ、彼女は進んで入部し、自らそうしようと思って練習を続けている。運動に関しては努力することを諦めた美恵ができることといえば、こうして声をかけて頭を撫でて疲れを労わるくらいしかない。

 少しだけ湿り気を含んだ風が、窓から流れてくる。教室の騒めきが遠退いて、担任の声に引き戻された。

「始めるぞ」

「あ、雨だ」

 号令を掛ける日直の声に紛れて、窓際の男子がぽつりと、呟いた。




 帰る頃に振り出した雨は、もしかすると、何か意図があってそうしたのかもしれない。

 硝子越しに花弁を開き始めた紫陽花を見つめて、一秒後にはふっと失笑する。そんな空想を抱く程度に美恵は女子高生で、馬鹿ねと流してしまうくらいには大人になりかけていた。

「田原さん、これ、科学の棚にお願い」

 人の声に、手元から本へと視線を戻す。

 背表紙を見て番号を照らし合わせ、指定箇所の空白へ本を導く。もう何冊と繰り返したせいか、指先は乾き始めて、ひりひりと痛みすらする。

 蔵書管理期間。図書委員が唯一、全員揃って仕事をする期間は、そう呼ばれている。

 図書館全体を一週間ほど締め切り、学生から申請された希望図書を含めて並び直す。毎年梅雨入り前に行われる学校行事の一つであり、本好きの学生には楽しみにされていて、自習をする学生や図書館で密会をするカップルには嫌われている。

 蔵書数は2万点ながら、各クラスから二人と選出された図書委員の数は少なく、そこに司書二人が追加されるだけなので、一人一人に根気と体力が求められた。

 だから、数ある委員会の中でも図書委員会だけは倦厭けんえんされる。

 体力のある学生は、得てして細かい作業を嫌いやすい。

 美恵のクラスも例に漏れず、しんとした教室の空気が面倒で、立候補をしたのが運の尽き。元々読書自体を好んでいたので、苦痛でこそないけれど、やはり肉体労働は肌に合わないなと感じた。

 明日は筋肉痛かもしれない。張ってきた前腕をさすって、美恵は溜息を吐いた。

「たーはらん、そっちどう?」

「……まだ」

 ペアを組んだ一人が台車を届けに行ったところで、幾瀬いくせ葉音はのんがひょっこりと顔を出した。彼女も快活な、ポニーテールの似合う明るい女子高生だ。

「何か用?」

 驚いた素振りを見せない美恵に苦笑して、葉音は片手を腰に添える。

「冷たいね。言い方がさ」

「そうでもないわ、普通よ」

 茶化すこともない。取りつく島もない美恵に彼女は肩を竦めて、瞬きを一つする。

「そういやさ、今朝。災難だったね」

「……? そうね」

 話の飛躍に一瞬思考が止まり、動き出す。憐れまれることなど何一つもないが、思い当たるとすれば、柏木萌子とのことだろう。

 美恵をじっと見つめていた葉音は、変わらない表情に飽きたのか、大きく背伸びをした。

「そんだけだよ。──じゃ、また終わったら」

 互いのペアが並んで次の本が積まれた台車を引いてくる。交代で台車を押すから、どうせまた顔を合わせるのに、葉音は自らそう言って、作業が完了する時まで美恵と目も合わせなかった。

 図書館からの帰り道、それぞれの学年で別れていく流れに乗って心持ち足を早め、美恵は葉音の隣に並んだ。

「なんなの?」

「え?」

 二人して立ち止まる。膝に、揺れるスカートの裾が引っかかった。

「私、これから生徒会だよ」

 美恵を一瞥して、葉音は素っ気なく言う。曖昧な質問に答えないのは、彼女の悪い癖だった。

 自分から布石を打っておいて、それに関連した反応を示さない限りは煙に巻く。卑怯で、ずる賢くて、けれど、関わる限りは見捨てない素直さが彼女の良いところだ。

「知ってる。だから、何か言いたいことがあるのでしょう?」

「はは。そう思ってくれたんだ」

 口元を歪めて、葉音は僅かに美恵の方へ鼻先を向ける。刺すような、どことなく試すようにも見える焦げ茶の瞳に、美恵はぎくりと立ち止まった。

 横を、別クラスの生徒が通り過ぎていった。

 談笑の声が教室の中に吸い込まれていく。静まり返った廊下の踊り場で、葉音の視線から、美恵は逃れることができなかった。

「柏木さん」

 美恵の耳に残るように、彼女はゆったりとその名を呼んだ。

「放課後、教室で彼氏と戯れる癖があるから。ご注意」

「……、そう」

 内容の軽さに拍子抜けして、肩が落ちる。

「なんだ、って顔してる。はは、じゃーね」

 指先を蛇腹のように動かし、流し目に手振りを合わせて葉音は別れを告げた。

 二階の生徒会室へとひらりと向かう背中を見送って、美恵も教室へと足を向けた。

 グラウンドの方から、部活生の掛け声が響く。図書館での作業は、一週間続く代わりに1日1時間程しかかからない。運動部は下校時刻手前まで続くから、部活が終わるまで三十分は時間があった。

(鼓実を待ってもいいかもしれない)

 宿題をしていればすぐ終わる時間であるし、と気分が少しだけ良くなったところで、自教室に辿り着く。他の教室とは違って窓が締め切られたその部屋に、美恵は違和感を抱くこともなく扉に手をかけた。

 微かな音が聞こえた気がしたけれど、手を止めるほど逡巡することもなく、何食わぬ顔で中に入る。

「……っあ、……」

 葉音の言葉は、ただ忠告をしたものだと思っていた。

 まとわりつくような悲鳴に、ゾッと、肌が粟立った。

「ちょっと、こっち来て」

 萌子が先輩らしき男子生徒の腕を引く。

 視線を合わせないように、二人の態勢に気付いてないように、美恵は顔を動かすことなく自席へ向かう。

 身体を密着させていた二人は身体を離して、何事かを打ち合わせている。密やかさも知らない声が耳障りで、少し強い力で机上に鞄を置いた。さっきからざわざわと、鳥肌が立って仕方ない。

「あっ、ちょっと!」

 男子高生の方が素早く身を引いた。小さな手を振りほどいて、舌打ちをし教室を出て行く。

 余韻の残る室内に、どちらとも知れない吐息の音が響いた。

「なんなの」

 その声は、萌子の方から絞り出された。

 ずかずかと机の合間を抜けて、彼女は美恵の目の前に立ちはだかる。

「なんで空気読んでくれないわけ?」

「……は?」

 感情の籠った瞳、表情。分かりやすい反応に美恵の方が驚いて、それからようやく、彼女の放った言葉を聞き入れた。鳥肌が引いていく。

 冷静になっていく美恵に対し、萌子は激昂する。

「なによ。扉を開ける前から、この教室だけおかしいってなんで気付かないのよ!」

呆れて、声も出したくなかった。先ほどまでの嫌悪はどこやら、諦めに脱力すらしてしまいそう。

「……知らないし、気付いていたとしても気にしないわ」

「はあ?あんたバカ?」

 思い通りに他人が動くと信じ、そうでなければ貶して汚す。あまりに素直で強い思い込みに、吐き気がする。同じ素直さでも、葉音の方がまだマシだ。

 無視をしようと視線を逸らして、鞄の取っ手を持つ指先の震えに気付く。

 怯えてなどいない。怖くはない。これは、少し、そう、少し驚いただけ。

(──彼女が、思う通りの反応をしなかったから?)

 思考が泥沼に片足を浸したところで、襟を強く引かれる。無理矢理に、視線を奪われた。

「あんたのその態度、ほんっと気に食わない!嫌いなら無視してくれる?」

 化粧独特の派手な匂いが、鼻先を掠める。

「……嫌い?」

「わかった?」

 制服が皺になることへ意識が向く。手を振りほどこうと己の手を重ねて、温かさにまた、思考が途切れた。

 笑いが込み上げる。

 あまりにも馬鹿馬鹿しい考えに、一途さに、嗜虐しぎゃく心が目覚める。

「馬鹿じゃないの?」

 手首から、萌子の手を叩き払った。

 美恵がこれまで聞いたことのない小気味良い音が響いて、この部屋の静けさが、萌子の驚いた視線が、一層美恵の気分を昂める。

「あなたなんて、好きも嫌いも伴う以前の存在だわ」

 今度は萌子の方が呆然として、美恵の気に圧される。溜まっていた感情が、形を得て音に変わる。

 美恵は、ああいう、馬鹿げた接触が大嫌いだ。身体の一部を触れ合わせて、安心した気になって、互いが別個だと信じなくなるほどに境界線を曖昧にする。一方的で、暴力的な快楽にただ身を委ねる姿は動物と同じで、高等動物と自称する人間の妙とは別のおかしさがそこに在ると考えすらしていた。

「そもそも、あなたはどうして、誰かとあんな風にしていられるの?」

「は、はあ? あんな風にって、なにが」

「身体を重ねること、接触すること。よくしているわよね」

 問い詰められて一瞬たじろいだ彼女だったが、顎を引いて気を取り直したように肩を怒らせた。

「好きだからだけど?」

自信満々に言う姿が愚鈍で、あまりに純粋で、滑稽だった。

「……好きだから?」

「っだから!好きだから、くっついていたいって思うの。普通でしょ。なに言ってんの」

 美恵の纏う空気を払うように片腕を振る。萌子の短い、綺麗に巻かれた毛先が動きの後を追って、頬にかかる。

 丸みのある肌に、化粧の少し取れたピンク色の唇。何も知らない無垢な色とは、きっと、彼女の持つような色なのだろうと美恵は思う。

陶酔じみた昂りと、あまりに苦くて聞き入れたくもない感情が、美恵の指先を動かす。

(ああ、その思い込みを、どう踏みにじってあげよう)

 萌子がそうしたように、美恵も彼女の襟を掴んで、引き寄せた。

「……キスができれば、愛なんだ?」

 微笑み、僅かに離した唇から真実を吹き込む。

美恵が萌子を嫌いだと、そう判断し叫んだ口は、しばし開閉をして呼吸を忘れてしまったようだった。驚き、羞恥、怒り。そのどれもを美恵は予想し、推測し、現実がそうならないことを踏んで、瞬きを一つする。

 鞄を手に持ったところで、もう一度、今度は肩を掴まれた。

「くれるの?」

 離れた柔らかな薄い唇が、紡いだ。

 見開かれた目は茶色。花を閉じ込めたような暗い瞳に美恵を移して、先程までの雰囲気とも態度とも異なる様子で、萌子は肩を掴む手に力を込める。

 酸素の足りない深海で、やっと空気を見つけたような逼迫ひっぱく感を伴わせ、萌子はもう一度、美恵にキスをする。

 なにを、とは言わせない。

 脳裏を過るいくつもの過去と、一人の笑顔を振り払うほどに強く、美恵の心を突き動かすのは、解放感。

「……いいわ。私は、いらないから」

 戦慄するほどの真っ直ぐな瞳を見返して、口端を釣り上げた。

 さっきとは異なる震えが指先まで駆け抜ける。背中を這いのぼるその感覚に目眩がしそうで、手を伸ばさなくても触れる制服をぎこちなく掴んだ。

「いらないなら、ちょうだい」

 絶望の淵へと堕ちる、愚鈍な様を嘲笑う。微笑む美恵に、萌子は嫌悪するでもなく引き寄せて、もう一度唇に噛み付いた。

 下校のチャイムが鳴り響く中、彩る紅が消えるほどに乱暴なキスをして、別れる。

 紫陽花の写る水溜りに、晴れた空が見えていた。








                紫陽花の毒


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