第5話(前編)

 如月きさらぎ花葉かよが彼女を見つけたのは、夕暮れ時の、電車のホームだった。

 婚約まで逃すまいと意気込んでいた相手だっただけに、浮気からの破滅というまさかのオチに笑うことも泣くこともできず、呆然と電車に乗って帰ろうとした、そんな時。

 電車から降りてきた大勢の乗客の中に、他とは違う、きらきらとした何かをまとって降りてきたのが、彼女━━田原美恵だった。

 当時彼女は中学生だったのだろう、白と茶色の制服を着て、まさに思春期を駆け抜けている真っ最中の、大人でも子供でもない独特の空気を纏っていた。下ろした髪は真っ直ぐ伸び、夕日を浴びても染まることのない黒髪は艶やかに、影になった白い顔は能面のように無表情で、彫ったような独特な陰影が一層彼女の魅力を引き立てる。

(きれい)

 そう、認めてしまったことが、問題だった。

 化粧品には気を使い、肌の手入れから化粧キープの手順を数年かけて編み出し、年不相応に若い肌で教師たちの目を引く。それが、花葉の日常であり、矜持だったからだ。

 それが、ただ年が若いだけの、一人の少女の肌に負けたのだ。見惚れるとはこういうことだと、実感させられたのだ。

 花葉の中に、美恵の存在が残らないわけがなかった。

 しかし、以降、花葉は美恵と顔を合わせることもなく、名前を知ることなく次の春を迎える。一瞬、たった数秒の一目惚れ。そう言っていいのかも怪しい感情しか胸には残らなかったが、あの時から、花葉の頭から美恵の姿が離れることはなかった。会いたい、話がしたい、なんて狂おしい感情を、まさか少女に抱くなど花葉自身も驚く経験だったが、そうなってしまったのだから仕方ない。

 毎日が飢えて飢えて、かといって以前のように男性と付き合う気にもなれず、きりきりと胃が痛むような日々が続いた。

 そして、春が訪れる。

 花葉は赴任した先の高校で、呆気なく、彼女と再会した。

 これを運命と言わぬのなら、おとぎ話の王子様など焼け死んでしまえばいい。年の差、教員と生徒。問題は多々あれど、認めたくはないけれど、それでも目で追ってしまい、彼女の名前を名簿で見つめるだけで心が軽くなる以上、自分に嘘はつけない。

 保健師として花葉ができるのは、田原美恵がせめて健やかに、健全に、誰とも付き合うことなく高校三年を過ごす手伝いをすること。そして、あわよくばその三年で仲良くなって、せめて彼女が大学生になるのを機に連絡先をゲットするのだ。

 こうして、花葉の新しい春が始まったのである。



初夏の萌芽



 田原美恵は、自分が言ったことに、言葉には責任があると自覚している。どんな会話にも、発言者である以上、多かれ少なかれ一定の信頼を維持しなければ、相手に言葉が届かないからだ。

 萌子に告げた言葉にも、意図と、意味はあった。狙いがあった。実行するつもりもあった。

 しかし、現実にある大きな壁を、完全に失念していた。

「どうして? お母さんのご飯、美味しくない?」

 来週から自分で弁当を作ると言うと、眉根を下げて、母親は見るからに悲しそうな顔をした。

「そうじゃない。……友達と、料理の練習、しようって言って、それで」

 らしくなく、言葉に詰まる。益々母親の不信感を煽ると分かっていて、けれどそれ以外の表現方法を、美恵は知らなかった。

「でも、勉強だってあるでしょう? 大丈夫なの?」

「中間テストは六月からだから」

「そう言ってもねえ。……数日は晩ご飯のおかずでも詰める?」

「そうする。卵焼きの作り方だけ、教えて」

 後半はもう投げやりにも近い気持ちで応えて、一先ずの許可を得る。本当の狙いは、二人分の弁当を作るところにあるのだから、中身に至ってはこの際どうでもいい。

 ただ、萌子が褒めた卵焼きだけは、絶対に、美恵が作らねばならないと考えていた。

 美恵の母親が美恵に、つまり母が娘に作るものの中で最も母の癖が現れる食べ物として萌子に認識されたのなら、彼女にとっての母である美恵が、それを実行しなければ効果はない。血のつながりではなく、愛というものを与える存在として、美恵は萌子の母親のような立ち位置にならねばならないのだ。

「へえ!珍し。彼氏でもできた?」

「違う」

「否定するの早。怪しー」

 予測された通り、弁当の話は夕飯の席に話題として持ち出され、今日に限ってバイトのない姉が無粋な発言をして母親を揺さぶった。

「え、そうなの?そうなの?」

 ばっさりと否定した美恵に構うことなく、分かりやすく色めき立つ母親には嫌な顔だけを見せてそれ以上を封じる。姉を睨めば、わざとらしく大口を開けて彼女は豚の生姜焼きを頬張る。

 テレビの上の時計を見るように視線が逸らされ、美恵と似た顔が横を向く。膨らんだ頬は少し日に焼けて、落とし損ねた化粧が残っていた。

 美恵は、姉が苦手だ。小学生の頃はそこまで嫌いではなかったが、嫌いになるきっかけがあって、それがどういうものかを自覚できるようになって、さらに苦手になった。

 脂のついた唇を、舌が舐めとる。その動きを睨んでから、美恵は自分の食事を再開した。



 翌朝、普段より一時間も早く起床した。

 眠気はなく、頭は冴えていた。

 初夏らしく、日中は暑い外も朝は涼しい。窓を開けると晴れた空にコントラストの強い深緑が映えて、自然と口元に笑みが浮かぶ。この一瞬だけ、心安らぐ暇が許されている気さえする。

(……なんて、疲れてるのかしらね)

 自嘲気味な笑いにすり替えて、部屋を出る。

 足音を控えてリビングに入ると、まだ誰も起きていなかった。父親の背中もないので、先ずはとポストに新聞を取りに行く。自分が見るわけではないのに、そう動いてしまう自分の発想力の貧困さに、溜息が出た。

 新聞紙をテーブルに置き、台所に向かう。炊飯器は保温状態になっていて、昨晩母親がセットしていたのだと容易に想像がつく。宿題をする前にこれもチェックしておけばよかったと思いながら、冷蔵庫を開く。タッパや皿にラップがされたおかずの面々と目が合い、アルミケースに既にセッティングされているものもある。

 母親が、寝る前に用意したのだ。美恵が早く起きるかもしれないと思って、そうしたのだろう。今まではこんなことはなかったから。

 溜息を吐きたくなるのをこらえて、お茶を取った。グラスに注ぎ、渇いた喉を潤す。

 フライパンに油を敷き、ガスのコンロに火をつけた。見様見真似で、記憶の中の母の手順を辿って卵を用意する。二個を割り、出汁を入れてかき混ぜる。油が温まったのを確認して、卵を流し込む。

 少量を残して表面を焼き、ふつふつと浮き上がり始めたら弱火にする。フライ返しと箸で端を持ち上げようとして、失敗した。空いた穴を塞ぐように重ねて、なんとか巻いていく。すかさず残りの卵液を入れて、まとめていく。

 手際よく、形を整えて焼き上げる母の姿を思い返す。美恵が生まれる前から、父が働き始めた頃から弁当を作っていると言っていた。二十年の差は、大きい。

(まあ、いいでしょう)

 同じ出汁を使っているから、味は変わらないはずだ。焦げることもなく、けれど隙間の目立つ卵焼きが完成して、適当な皿に乗せる。包丁を使うのが面倒で、フライ返しでそのまま切れ込みを入れた。

「おはよう」

「おはよう」

 がたりと引き戸が開いて、父が顔を出す。台所にいる美恵をちらりと見てから、そのまま、リビングへ向かう。

「お茶は?」

「もらう」

 長年の癖が染み付いているのは、こちらも同じだ。人がいれば台所に入らない父。自然と何が要るかを聞いてしまって、聞こえないように舌打ちをした。

 お茶を用意して、持っていく。美恵もテーブルについて、父親がつけたテレビを見る気もないのに眺める。

「今日の朝ごはんは、美恵が作るのか?」

「違う。弁当のおかず」

「ああ、そうか。お母さんが言ってたなあ……」

 新聞紙に目を向けたままそんなことを言う父の姿に、辟易とした。無言で立ち上がり、支度をする。母親が起きてこないことには、朝ごはんも何を用意していいのかわからない。父に聞く気も起きない。たとえ聞いていたとしても。

 美恵は、家族に対しての行動を、半分以上諦めている。

 姉から始まり、母に向かって、それから父へ。思春期だの反抗期だのと言われて、見逃されても構わない。

 美恵が家族としての役割を果たすのは、大学生になるまでだ。それまでは娘として、この家に住み、家族の一員として、それらしく過ごしてやる。その決意は美恵のための防衛手段であり、家族への免罪符でもある。

 たった一時間早く起きただけなのに、今日の出だしが最悪に思われた。



 月曜日になった。萌子が一週間で最も楽しみに、最も気分を良くしやすい平日の始まりだ。

 しかし、今日は、今日だけは、その意味が違う。

 今日は、机の上に置かれたお小遣いを手に取っても、胸は踊らない。制服に着替え、念入りに化粧をする。日焼け止めを塗りながら廊下を通り過ぎ、薄っぺらい鞄を肩にかけた。革靴に爪先を入れて、家を後にする。

「うわ、五分も早いじゃん」

 駅に着けばすぐ来るはずの電車が、今日に限って少し遅い。単純に早く家を出過ぎただけなのに、その数分がもどかしい。

「おはよう」

 革靴の爪先でリズムを刻んでいると、隣に見知った気配が並んだ。視線を上向けると、見覚えのある眼鏡が建物の陰から出てきた朝日をきらりと反射して、萌子の目を焼く。

「偀くんじゃん。おはようおはよう」

 普段ならたったそれだけでもいじる理由にするが、今日は気分がいいので瞬き二つで言葉を堪える。

「……テンション高いなあ。気持ち悪い」

「ハア〜?そういうあんたはテンション低いね〜」

「…………なに、なんかあんの?」

 一・二歩萌子から上体を遠ざけながら、偀が萌子の楽しみを突く。心地よい詮索に、萌子も自然と頬が緩む。

「それはね……いや、やっぱ言わない」

得意げになって楽しみを教えようとして、口を閉ざす。

「なんだよそれ……」

「私が期待してるだけかもしんないから。違ったら超恥ずかしい」

「意味わからん。楽しみならそれでいいだろ」

「偀くんは優しいなあ、全く。なんで女子にもてないんだろう」

「おい」

「痛っ」

 こめかみを的確に突いた人差し指を、今回だけは捕まえずに逃してやる。大袈裟にため息をつく偀の向こうに、電車の陰を見つける。隠そうとしていた不安と期待が足底から急に這い上がって、巻いた髪の毛が改めて巻き直される感じがする。落ち着かない。緊張する。こんな感覚は久しぶりだ。

「……やっぱり、今日なんか変だよ。お前」

「はいはいっ。そーですねー」

 プシューと電車の音に緊張を乗せたため息を隠す。両開きのドアに、足を乗せる。運命を動かす時、人はきっとこんな風な気持ちになるのだろう。昨日よりは眩しく見える車内の隅に落ち着いて、偀との他愛ない話に花を咲かせた。

 萌子が、電車で田原美恵を見かけることはない。

 当然だ。美恵の最寄駅は萌子の最寄駅の反対方向にあり、数で言えば五倍近くの駅を通り越した先にある。たった数駅で、十分も経たずに学校の最寄に着く萌子とは違う。起床時間だって、帰宅時間だって、彼女と萌子ではかかる時間が全く異なる。

 だからこそ、彼女が萌子のために弁当を作ると言ったことが、作ってくるという話が、とてつもなく嬉しい。期待が高揚感となって、不安と緊張を程よく抑えて、愛に飢えた心が微調整を繰り返す。

「へー、この時間にも人来てるんだ」

「当たり前だろ。むしろこれが常識的な登校時間だよ」

 校舎前までたどり着くと、萌子の想像以上の人が玄関にいる。皆、この時間にぞろぞろと登校してくるようで、声以上に靴の音が煩い。

「おはよう」

「おう、はよう」

 偀もその中の一人らしく、さっさと靴を履き替えクラスメイトの男子と合流している。萌子に話しかける生徒は居ないが、見たことのある顔が次々靴を履き替えて廊下に入っていく。

 人が減ったタイミングで靴を脱ぎ、拾い上げる。自分の靴箱に入れようとしたところで、ふらりと視界が傾いた。

「っと、危な」

 右足で踏ん張り、倒れることだけは回避する。勢いよく立ち上がりすぎたのかもしれない。見られていないことを確認して、ナースシューズに履き替える。ついでに美恵の靴箱を覗いて、まだ来ていないことに少しがっかりした。

(……いやいや、がっかりて何よ。遠いんだから仕方ないじゃん)

「おはよう」

(いや、そもそもなんで私早く来ちゃったかなあ)

「ちょっと」

「なによ!」

 肩を叩かれたことに苛立って、鬱陶しげに振り返る。

「……靴を入れたいのだけど」

 無表情の━━むしろ蔑んでいるようにも見える顔つきで美恵が立っていて、萌子は心臓を口から出してしまいそうなほどに驚いた。

「っお、おは、おはよう」

「それはさっき言ったわ」

「今日は早いのね!」

「いつも通りの時間だけど」

 期待して来た分声が上擦って、平然と答える美恵の横顔への憎らしさが増していく。暗闇に溶けそうなほど真っ黒な黒髪を下ろしたまま、彼女はつまらなさそうにシューズに爪先を通す。同じ制服を着ているのに、どうして緊張してしまうのだろう。

「……今日は静かね」

「そ、そんなことないし」

「そう。……それじゃ、また昼休みに」

 くすりと笑うこともなく、すれ違い様に言い置いて、美恵が萌子の隣を過ぎていく。香りが過ぎ去って、黒髪が視界の端に吸い込まれていく。

「…………うわ」

 慌てて、萌子も廊下に上がる。心持ち早足で、けれど美恵を追い抜かない速度で、教室へ向かう。

 顔が熱くなって、今すぐトイレにこもりたくなった。












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