14 火界咒

「えっ?」


 どうしたんだ?

 焦って僕は動きを止めた。

 この呪法は魂を縛るもので、非常に危険なものだから、生きた人間――特に弱ってる人には絶対使っちゃダメといわれたけど、そのなのか。

 悪霊に憑かれていても、身体は生身の人間なんだし。


 うつ伏せに倒れた女の元へ恐る恐る近付いていくと、目の前にいきなり火柱が上がった。

 とっに後ろへ退いたが、パチッと静電気のような音を立て、僕を守ってた結界が一つ壊れる。


 ヤバい。

 彼女の向こうに何かいる。

 顔の辺りはてよく見えないが、白い帷子かたびらを着流した人形ひとがたのモノ。

 あれが『ごりょうさん』の本体?

 取り憑いてた身体を捨て、出てきたのか。

 一体いつ?

 僕は初めからアイツではなく、女子大生の魂を縛ろうとしてたのだろうか。


 不完全に終わった術が、術者の元へ返ってきたのか、それともただのショックの為か、身体が思うように動かない。

 『ごりょうさん』がスッと腕を上げると、再び激しい炎が生じ、またもや結界が壊れた。

 ダメだ、このままじゃやられる。

 反撃しないと。

 なんとか両手を組んで人差し指を立てて合わせ、火界の印を結ぶと、不動明王の大咒だいじゅ――界咒かいじゅを唱える。


南莫なうまく さら蘖帝ぎゃていびゃく さら目契ぼっけいびゃく さら せんしゃ けん ぎゃぎゃ さら覲南きんなん うん  憾含かんまん


 不動明王の浄火を『ごりょうさん』目掛けて放つが、それは向こうが放った炎とぶつかり、弾けて消えた。

 これが本物のしょう三昧ざんまいの大火炎なら、あんな不浄な火なんかに絶対負けないんだろうけど、所詮は僕が喚んだ火だ。

 同じ炎を操る敵には、効果が弱いのかも。

 でも、今さら他属性の神の力を借りようにも、上手くいくかはわからない。

 不動明王にしたって、縁日に生まれたお陰で、多少様になってるだけだし。


 やっぱり僕はまだまだ未熟だ。

 バイトに昇格出来たのだって、先生のお情けだし、一人でこんなことしようとしたのがそもそもの間違いだった。

 ああ、先輩、邪険にしてゴメンなさい。


「危ないっ!」


 不意に、女のコの透き通った声がして、眼前に迫っていた炎が、水蒸気を上げ消滅した。


「大丈夫、坊やっ」


 花のような香木のような果実のような、もいわれぬかぐわしいニオイとともに、僕の傍らにふわりと、天女が舞い降りてくる。

 ボン・キュ・ボンの豊満な裸体に、首飾りや腕輪などの装身具と薄布を纏っただけの上半身へ、ついつい目線がいきがちだけど、長い黒髪を頭上で結い上げて冠を付け、キレイに化粧したエキゾチックなその顔も、あでやかで美しい。


darlingダーリンももうすぐ来るから、あと少しの辛抱だよ」


 天女が、心をとろかすようにいうダーリンとは、先輩のこと。

 彼女はサラスヴァティー。

 日本では弁財天べんざいてんの名で知られる、インドの水の女神だ。

 サラスさんは元々、先輩のおさんの池に祀られてたけど、お祖母さんが亡くなって、家を売り払い社も取り壊されることになったとき、先輩が池も社もないけど、うちに来ないかと誘ったらしい。

 そのとき先輩は十三歳だった。

 そして、それからずっと彼女は先輩と一緒にいる。

 羨ましがった僕に、先輩はいった。

 嫉妬深いさんがる所為で、彼女の一人も作れへんと。


「それまであたしが守ったげるから、坊やはあたしにみょうすると誓いなさい」

「はいっ」


 彼女の頼もしさに涙ぐみそうになりながら、僕はへその前で、左の掌を上向きに、その上に人差し指と親指で輪を作った右手を掌を下に向けて構え、弁財天の真言を唱えた。


おん 帝曳ていえい 

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