第41話 序章6の8 近衛侍 "True Confidant"

「して、議会の様子はどうであったか。」


「ええ、実に素晴らしくて輝かしいものでしたよ。

 眩し過ぎて、お先が全く見えなってしまうような有り様でしたけどね。」


 天音は、先の予算委員会で己が見聞きした事の顛末てんまつを語って聞かせた。


「議会政治の初志がどれだけ高尚なモノだったかは知りませんけど、ソレを使う人間があの様じゃあどうしようもない。

 昨今の政党政治の腐敗ぶりは、見ていて目に余ります。」


 東京駅での襲撃事件で重傷を負った濱口はまぐち首相は、かの日以降、登院とういん出来ない状態が続いた。

 そこで臨時の首相代理を、幣原しではら外相が務めていた。

 だが彼は、外交官としては優秀であっても、議員としては素人も同然であった。

 それを倒閣の好機と見た政友会は、更に勢い付くこととなった。

 そんな中で起きたのが、今日の幣原の失言であった。


 今期の帝国議会の予算案審議期限は、2月11日だった。

 その期限までに与党は昭和七年度の予算案を審議し、成立させなければならない。

 もし予算案が不成立となれば、内閣は総辞職しなければならかった。

 故に野党は、この失言を利用して議会の進行を阻止し、倒閣とうかく目論もくろんだのだった。


「統帥権干犯問題のときもそうでしたが、政友会の連中は相手の首を取ることに妄執するあまり、自らの首も絞めてしまっているのに気付いてないんですよ。」


 もともと海軍には、統帥権に関する憲法論の研究も無ければ、そもそも興味すらもなかった。

 だが、この問題を倒閣のための踏み台になると、目を付けた者達が現れてしまった。

 そして、これが世に広く認識される問題となると、海軍が・・・、そして陸軍までもが、統帥権を盾にして議会の干渉を撥ね退けるようになっていった。

 議会による制御が、徐々に効かなくなってしまった。


 そして国民の心情も同様であった。


「帝都を歩いていれば、嫌でも聞こえてきます。

 『こんな馬鹿共を、俺達は、俺達の捻出ねんしゅつした血税でまかなっているんだ思うと、全くもって嫌になる。』

 『国民の代表を決める、ていうのは、一体何時から馬鹿の代表を決めることにすり替わっちまったのかねえ。』

 と言った感じで・・・。

 そりゃそうですよ。あんな醜態しゅうたいを堂々を曝すような奴等に、呆れ返らない訳が無い。憤慨ふんがいしない筈が無い。」


 議会で起こっていたのは、統帥権の問題や、失言問題だけではない。

 民政党も、政友会も、互いの汚職や収賄しゅうわい、腐敗政治ぶりを次々と取り沙汰ざたし、互いに互いをおとしれることに執心しゅうしんして、幾つもの疑獄ぎごく事件が摘発された。


「何とも浅ましい限りですが、相手をおとしめれば、勝手に政権がふところに転がり込んでくる、とでも思っていたんでしょうね。」


 だがそうはならなかった。

 人を呪わば穴二つ。

 これらの醜悪しゅうあくな政争は、政党政治そのものの信頼を失墜させる結果となった。


 国民が度重なる恐慌に苦しめられ、絶望の喘ぎ声を上げる最中、本来頼みの綱となる筈の議会は堕落だらくし、政党は汚職にまみれ、政治は腐敗が極まっていた。


 故に人心が、議会に見切りをつけ、政党政治から離れていくのは至極当然の結果だった。

 そして国民は、政党に頼らない新たな政治に期待を懐くのだった。


 こうして自縄自縛に囚われた政党政治は、次第にその影響力を失っていくのだった。


    ※


 天音からの報告を聞き終えた後も、貫太郎はしばらくの間、目をつむり、黙していた。

 そして、


「昨今の議会政治の飽和ぶりには私も・・・、そして陛下も心を痛めておられる。」


 心苦し気に貫太郎は語った。


「知っての通り、侍従長という私の立場上、陛下と最も多く言葉を交わすのが私だ。

 陛下は、私に色々とその御心内みこころうちをお話しなさるよ。

 あの統帥権問題の時もそうだった。御自おんみずからを取り巻く問題で、議会や世間を混乱させてしまっていると嘆いておられた。

 ”輔弼ほひつしん上奏じょうそうに対して天皇陛下の御裁可ごさいかが下れば、そこに統帥が実現し、干犯は存在しない”、とする国体こくたいの思想の創造者たる伊藤いとう博文ひろぶみ公の記した『憲法義解けんぽうぎげ』に、陛下御自身も賛同しておられた。」


「であれば、なぜ陛下は御自おんみずから、そのように御声明ごせいめいあそばされないのでしょうか。」


 天音の問いに対し、貫太郎は少し考え込み、


「天音は、奉天事件ほうてんじけん知っているか。」


 再び問い返した。


「3年前の6月に満州で起こった列車の爆発事故でしたね。」


 昭和3年の6月に、満州連長線まんしゅうれんちょうせんの列車が、線路上に仕組まれた爆薬によって爆発、脱線。

 その時に列車に乗り合わせていた張作霖ちょうさくりんが謀殺されるという事件だった。

 彼は当時の満州の統治者であり、関東軍とも深い繋がりがあった。

 実行犯については、いまだに定かではなかったが、日本政府の見解としては関東軍が怪しいと睨んでいた。


「それで当時の首相だった田中義一たなかぎいちさんが、下手人げしゅにんを厳罰に処すべく軍法会議に掛けるべきだと主張をしたが、上手くはいかなかった。」


 田中の主張に対して、陸軍から猛烈な反発があった。

 それでも何とか容疑者の調査をするべく進めたが、陸軍や自らの所属政党である立憲政友会の妨害を受けて、捜査は遅々として進展しなかった。


「それで、その責任を取って総辞職した。

 そしてその後、陸軍は、陸軍大佐の河本大作こうもとだいさくを一応の下手人として立てて処分を下した、というのが事の顛末でしたね。

 まあ、結局その処分も曖昧になってしまってしまったらしいですが。」


 天音は掻い摘んで説明した。


「ふむ、まあ大方の流れはそうだ。

 そして問題は、田中首相が総辞職した経緯にあるのだ。」


「ええと・・・、確か、田中首相は陛下に事件の処分を報告した時に、陛下の逆鱗に触れてしまい、それを責任に感じた彼は・・・。

 ああ、そういうことですか。」


 天音は、何となく貫太郎が言わんとしていることに察しがついた。

 田中儀一は事件発生当初、


『陸相から必ず容疑者を探し出し、厳重な処罰を致す。』


 という旨の上奏じょうそうを陛下に行った。

 しかし各所からの反対や妨害を受けた末、彼は当初と打って代わって、


『陸相の上奏通り、関東軍は爆殺には無関係であるが、警備上の手落ちにより責任者を処分を致す。』


 という真逆の旨の上奏を行った。

 この豹変に対して陛下は激怒し、


『お前が最初に言っていたことと、はなはだ食い違っているではないか。

 この程度の行政上の処分で終わらせてしまって、帝国陸軍の綱紀こうきを維持ができるのか。言っていることにまるで筋が通っていない。

 辞表を出してはどうか。』


 と、声を荒げて叱責しっせきしてしまった。


「まあ、陛下の御怒りも御尤ごもっともであります。

 ただ、陛下御自らが首相を叱責し、”その結果、総辞職に至った”、というのが問題なのですね。」


「ああ、その通りだ。」


 天皇陛下が、総理の進退に直接的に影響するような行為は、憲法に反する、決して侵してはならない行いだった。

 何故ならば、天皇の不信を事由じゆうに内閣が総辞職することになってしまっては、天皇陛下御自身が倒閣の政治的責任をこうむることになってしまうからだ。

 そうなると天皇御自らの手で、皇室の威光のみならず、日本の憲法体制そのものを侵害しんがいし、これを否定しまうことになる。


 大日本帝国憲法の体制は、立憲君主制であって専制君主制ではない。

 故に、国権の意思決定は、臣民しんみんが憲法の手順に従って手続を成し、政府や軍の各機関の意見の合一ごういつって上奏したことに対して、天皇陛下はこれに裁可さいかを与えなければならないのだ。


 ”君臨すれども、統治せず。”


 これが立憲君主制の基本であり、近代憲政国家の基本であり、そして大日本帝国の国政の基本だった。


 したがって天皇陛下自身が、上奏された意思にいくら不満や疑問を抱いたとしても、最早それを御自おんみずから一人の意思で、それを否定することは許されなかった。

 それが例え、どれほど誤っていたモノであったとしても、臣民の意思の合致として上奏される限りは。

 

「陛下は、大変御聡明な御方だ。

 かつての田中に対する行いを反省なさり、誰よりも憲政を順守なさろうとしておられる。」


「成る程ねえ。ですが、それでは・・・、」


 それでは、最後の歯止めとなるものが・・・。


「それでもだ。

 憲法の原則という城壁に、例え針の一刺し程度のものだとしても、例外と言う名の一穴を穿ってはいけないのだ。そこから穴は次第に大きくなり、やがては城壁が決壊してしまうだろう。

 そうすると最早例外が、例外でなくなってしまうのだ。」


 その口調は諭すような優し気なものであったが、言葉の一つ一つに力強さと熱が込められていた。


「陛下は、国内外を取り巻く様々な事情を存じておられ、うれいれもおられる。

 それでも鶴の一声を発することは許されぬし、御自身がそのことをよく御理解なさっている。

 だからこそ陛下御自身が一番、歯痒はがゆい思いをしておられるのであろう。」


 なんたる皮肉なことか。

 誰よりも憲法に忠実であろうとするが故に、誰よりもその憲法に拘束されてしまっている。


 陛下に誰よりも近い位置から接している貫太郎だからこそ痛い程、その御心を察せてしまった。

 そして己の無力感も痛切に思い知らされてしまっていた。

 だからこそ、彼は、


「なあ、天音よ。

 これからも私に、君の力を貸してはくれないだろうか。」


 天音にそんな言葉を掛けたのだ。


「侍従は、陛下の側近としてその御心に従い、御身の上の世話をするのが役目だ。

 そして私達は直接国政に介入する権限を持たない以上、陛下の御意志を組み、それを周りの者へ伝えていくことでしか現状を変えていく術はない。

 そのために・・・、」


「僕の力が借りたいと。」


 貫太郎が信頼を寄せる者に。


「そうだ。

 あらゆる場所の、あらゆる者達の情報を集め、我々の置かれている現状を正しく把握する必要があるのだが、身軽に動き回るこには、私の侍従長という立場は大きすぎる。

 そこで今日の様に、君が代わりの目となり、耳となってほしいのだ。

 だからどうか、私の頼みを聞いてはくれないだろうか。」


 そして貫太郎は、深々と頭を下げた。


「ちょっと、貫太郎さんッ!?」


 天音は、慌ててそれを制した。

 己よりも遙かに目上の者が。

 そして何より、親に等しい者が、こうして深くかしまる姿を見るのは、ひどく心を締め付けるものがあった。


「そこまでしなくても、僕が貫太郎さんの頼みを断る訳がないじゃないですか。」


 それだけの恩が、天音にはあった。


「かつてのロスの港町で僕を救ってくださったこと。

 その後に、こうして日本へ連れて戴き、私を学校へ通わせてくれたこと。

 感謝しても、し切れないぐらい貫太郎さんには音を戴きました。

 だから、僅かばかりでもその恩を返すことが出来るならば、喜んでその御依頼を引き受けいたしますよ。

 だからどうか、頭を上げてください。」


 天音の必死の説得に、ようやく貫太郎は頭を上げた。


「そうか・・・、では。」


「ええ、任せておいて下さいよ。」


 そう言って天音は、彼の手を取った。


 正直なところ天音には、”陛下や国に報いるために”、という大層な思いが有る訳ではなかった。

 只単純に、”自らを救ってくれた貫太郎の御恩に報いたい”、というささやかな思いからだった。

 

 だが何もおかしなことは無い。

 貫太郎にとっての忠誠を誓い、その期待に応えたいと願う対象が、天皇陛下であるように。

 天音にとっての忠義を尽くし、その大恩に報いたいと思う相手が貫太郎である、というだけの違いでしかない。


 だからこそ天音は一切の迷いも無く、彼の切なる願いにうなずいたのだ。

 それだけで、天音にとっては十分過ぎる理由だった。

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